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『朝鮮の王朝外交』読書メモ

森平雅彦編著の『朝鮮の王朝外交 ”ややこしさ”からの気づき』(集英社新書、1060円+税、2026年)は、朝鮮王朝が隣りの大国とだけでなく周辺諸国といかにしなやかに賢く渡り合ってきてたかを知ることができる、好著だと思いました。片や今日の日本は、ともすれば米国という大国の冊封体制に組み込まれた外交マインドでしか動いていない面が多いのではと感じます。本書でも触れてありますが、かつての日本には対馬の宗氏のお家芸である文書改ざんという知恵もありました。歴史の中に埋もれている知恵に学んでみると、米国と並ぶもう一つの大国である中国との付き合い方を含めて、もっと国際関係は良くなるのではと思います。
編者の森平雅彦氏は、本書のむすびで以下のように書いています。「他者に内在する論理が見えてくるとき、またはこれを見ようと努めるとき、それは、自分のなかの論理では見えていなかった物事に気づき、自分の論理が絶対ではないこと、あるいは、それが不十分な部分を省みるきっかけになる。他者の論理に向き合うことは、それまで自分になかった目線を手に入れ、自分の近く世界を広げ、豊かにする作業だ。それはもはや、他者を理解するためというより、自分のためにほかならない」(p.318-319)。
上記のモノの見方を考える具体的例として森平氏は、本書の序文でなんと草食動物のヌーを取り上げていました。ヌーという動物を肉食動物に捕食されるモノとして見るだけでなく、視力が良くないので視力に優れたシマウマと行動を共にして警戒を補う生存戦略などを示して誘ってくれました。
以下に興味深く感じた事例を列記してみます。一部は朝鮮王朝ではなく、対馬の宗氏の事例。
・モンゴル(元)の支配下でも高麗が独自の王国として存続できたのは、元の対日戦略を担う征東行省の名義利用があった。名目上は地方統治機関だが、実質的には高麗王が統治する高麗政府であり、元の直轄統治とはならなかった。
・小国が大国に事(つか)える、事大主義の冊封体制下で宗主国に無断で隣国に交わること(交隣)は、「私交」とされ、問罪の対象となった。しかし、朝鮮の第4代国王世宗は、宗主国の明に対して室町幕府の日本との私交を、「礼」には「礼」をもってする「交隣の礼」だと正当化して対処した。なお、世宗は第3代国王太宗の三男だが、長男や次男と異なり「天性が聡敏で大変に学を好む」と評価されていたので、「賢を択(えら)ぶべし」の方針にもとづき王世子となった経緯がある。
・1443年に結ばれた癸亥約条では、対馬の宗氏の年間渡航船数は50隻と定められた。宗氏はその制限を突破させるべく、博多商人とも協力して偽名義の使者を仕立てた。見かけのうえでは、上は室町将軍から下は瀬戸内の小島の領主までこぞって通交したかの観を呈した。
・16世紀末、日本国内の統一を果たした豊臣秀吉は、朝鮮を服属させて大陸に出兵し、明を征服することを目論んだ。その交渉を命じられて苦慮した宗氏らのはたらきかけで、朝鮮からは天下統一祝賀の名目で通信使が訪日した。これを朝鮮の服属表明と勘違いした秀吉は、明出兵の手引きを要求する。宗氏はこれを仮道(朝鮮国内の通過許可)にすりかえて朝鮮と交渉したが、朝鮮側は拒絶した。(p.237-238)
・朝鮮貿易を死活問題とする対馬は、壬辰戦争後ほどなく、その復活のために国交回復を朝鮮側に求めてきた。朝鮮もまた北方における女真の台頭をうけ、日本との和解に合意し、1607年、朝鮮使節が正式に江戸幕府を訪問した。当初朝鮮と幕府の間では国交再開の条件がおりあわず、交渉は難航した。そこでこのとき対馬が、お家芸である偽使のノウハウを駆使して双方の国書を偽造・改竄して修交を実現させるアクロバットを演じたことは有名である。(p.239)
・前述のように、当初は対馬が国書の偽造によって通交をスタートさせたため、それをとりつくろうべく、最初の3回までは引き続き対馬が国書を偽造・改竄していた。しかし1631年、対馬のお家騒動からこの事実が幕府に露見した。幕府ではこれを穏便に処理し、引き続き対馬に朝鮮外交の窓口役を任せたが、対馬現地で外交文書を担当する僧侶(以酊庵僧)を幕府が任命し、対馬がひそかに文書の偽造・改竄をおこなえないようにした。(p.243)

関連メモ
九州国立博物館開館20周年記念特集展示「豊臣秀吉とアジアの外交」では、宮内庁書陵部所蔵の「朝鮮国王李昖(宣祖)国書・別幅」(豊臣秀吉宛各1通)が出品されていました。面白いことに、この国書と進物目録は、対馬の宗義智(そう よしとし)が改ざんしたものです。本来は日本国書への返信(奉復)であるところを、先に偽の国書を送ったことが露見しないよう「奉復」の字を「奉書」と変えてあります。国王印も偽造印となっていて、まさに宗氏の諜報外交能力は職人技です。
同展では、5点の国宝指定された品が展示されていましたが、いかに歴史的・学術的価値が高くとも偽造品である限り国宝指定とはならないのでしょうか。「”正真正銘”の国宝級の偽造品」だけに、なんとも複雑な感じです。なお、宗氏偽作の朝鮮国王印(九州国立博物館所蔵)は、偽造品ながら重要文化財指定となっています。

「古代エジプト」観覧メモ

九州国立博物館の観覧ついでに足を延ばして福岡市美術館で開催中の米NY市のブルックリン博物館所蔵特別展「古代エジプト」も観てきました。この日は平日の午後、雨天ということもあって美術館近くの大濠公園は人もまばらでした。代わりに公園内の池では鳥たちがのんびり羽を休めて漂っていましたが、なかには池の周囲のランニング(あるいはウォーキング?)コースを散歩するカモもいて、人なれしているのか近づいてくる変わったのもいました。
さて、その「古代エジプト」ですが、王そのものよりもその周辺の人の暮らしにまつわる情報や出土品の展示が新鮮でした。会場に入ってすぐにあったのが、古代エジプトにおける人気No.1の仕事「書記」についての解説や関連の展示物でした。古代エジプトの「書記」とは、神の言葉である文字を操る役職であり、神官であり官僚でもあるということでした。筆記に際しては葦ペンを使います。読み書きの知識の力があるということは、かなり高い評価を受けていたそうです。書記は婚姻や不動産取引の契約書も書いていたそうですから、現代の日本に当てはめると、行政書士みたいなものだったと、強引に一人合点していました。
海外の収蔵品を日本へ運び込んでの展示となるので、数量は150点近くありましたが全般的に小粒感は否めません。それなら現地へ行けよという話になりますが、特別展観覧料2000円で館内別会場の常設展や企画展まで含めて見て回ると、相応もしくはお得な価格とも言えるなと思いました。特に同館1階の古美術企画展示室内で開催されていた「魅惑のインドネシア染織」は、島ごとに異なる模様や色合いが興味深く、一国におけるファッションにこれほどの多様性があることが驚きでした。ジャワ島だけかつて一度訪問した経験があるせいか、やはりそこの染織品が気に入りました。

「平戸モノ語り」観覧メモ

平日の午前でしかも雨天なら人がいくらか少ないだろうという読みで、太宰府市にある九州国立博物館で開催中の特別展「平戸モノ語り 松浦静山と熈の情熱」を観覧してきました。予想通り館内は割と空いていてじっくり見ることができましたが、梅が開花中の太宰府天満宮および参道は海外からの観光客や修学旅行生の団体がそれなりにいて賑わっていました。
ところで、特別展の主役は、江戸時代の平戸藩主であった九代の清(号は静山)と十代の熈(ひろむ)の親子(なお、氏の「松浦」は、「まつうら」ではなくて「まつら」と読みます)。父の清は肖像に描かれるのが嫌いなのですが、息子の熈は肖像画に描かれるのが好きで自分が気に入るまで何度も描き直しをさせるなど、性格は異なる面がありましたが、共に今でいう「学芸員」の資質・気質に恵まれた人物のように受け止めました。父の清は無類のコレクターであり、日記大好きの記録魔であるのに対し、息子の熈は史料の保存・修復に重きを置いた分類整理魔といったところでしょうか。藩主であったがためにそれなりに資力があり、江戸など都市の空気を吸い、各地の文化人との交流もあり、国元である平戸という根っこもありました。こういう稀有な環境にあった親子のおかげで貴重な品々が遺され、昨年10月に開館70周年を迎えた松浦史料博物館のお宝となっているわけです。
それと、常設展示室の一角で組まれていた、開館20周年記念特集展示「豊臣秀吉とアジアの外交」も特別展と並ぶかそれ以上の見ごたえある品々がそろっていて豪華でした。秀吉治世時代の外交における文書改ざん事件や諜報戦の一端がうかがえるものもあり、ゾクゾクさせられました。

『ナショナリズムとは何か』読書メモ

1月23日から動画がネット公開されている「先端研クロストーク」(2025年11月7日実施)の中で、登壇者の一人である中井遼氏(東大先端研教授)の存在を知り、同氏近著の『ナショナリズムとは何か 帰属、愛国、排外主義の正体』(中公新書、1100円+税、2025年)に興味を覚えて読んでみました。
https://www.youtube.com/watch?v=_3swK2zGynA
これだけ大きなテーマを新書1冊で解き明かせるものなのかという疑いをもって最初は手に取りました。ですが、読み進める中で、国内外の膨大な先行研究を狩猟し咀嚼したうえで論述した労作というのが伝わり、疑念はきれいに晴れました。著者も「科学とは人類によるチーム戦である」(p.229)と書いています。何がわかっていて、何がわかっていないのかを、知っていないと、社会は貧困になり、さまざまな争い(最悪は戦争)が生まれるということを、本書で感じました。そのためにも本書で紹介されている実証研究の成果が社会一般に共有されることが重要です。
時に帰属意識や愛国心、排外主義をくすぐるナショナリズムは、政府や政治家にとって都合にいい武器になります。これはファシズムだけでなくてリベラリズムや環境保護運動との相性の良さもあり、多面的です。皮肉なことにナショナリズムは、学校や軍隊、鉄道、出版印刷文化が発達した時代から登場した面もあります。
本書で紹介されていた実証研究やデータの中で知っていて損はないトリビア的なものをピックアップしてみます。
・デンマークやアメリカでは、国への帰属意識が強い人ほど、同時に排外意識が強いが、カナダやイタリアでは逆の相関関係で帰属意識が弱い人ほど、同時に排外意識が強い。
・サッカーW杯の予選をギリギリ勝ち抜いた国とギリギリ敗退した国では、前者のほうが2~3年後に戦争を開始する確率が有意に高い。
・イギリスのサッカーのクラブチームの地元回答者を対象にした分析では、中東にルーツを持つ選手の入団後、体系的にイスラム教徒への偏見が減ずる現象が確認されている。
・バルト三国の「歌う革命」。「歌うことは抵抗すること」であり、1990-91年にソ連からの独立を回復した。エストニアで1988年に行われたイレギュラーな祭典では全人口の役5分の1が1か所に結集した。「太陽・雷・ダウガワ川」が歌われた。
・アメリカにおいてはアイルランド系移民やイタリア系移民が歴史的にはしばしば非白人グループに属するとみなされてきた。
・日本では、高学歴層のあいだで、表立って回答する際には一定の反中反韓的な態度を表明することが規範的なふるまいになっている傾向にある。
・19世紀、プロイセンに敗北したフランスが下士官の指揮と意思疎通能力を高めるために急速に言語統一を推し進めた。日本も黒船襲来やアヘン戦争による国際危機認識のもとでの近代化(明治維新)の中で学校教育と共通言語教育を普及させた。
・インドのヒンドゥー教徒を対象にした実験で、ヒンドゥー教徒の多い地域の災害情報とイスラム教徒の多い地域の災害情報を見せてそれぞれの寄付額を聞くと前者が多くなるが、インドの国土と国旗の情報を先に見せてから両方の地域の災害情報を見せると寄付額が同じ程度になった。
・第二次大戦終結後から1999年までに発生した国家間戦争の死者数は約330万人である一方、同じ期間に発生した内戦の死者数は約1620万人であり、およそ5倍である。
・かつてリトアニアの最大都市のビリニュスは北のエルサレムと呼ばれ19世紀頃まで同地最大の民族集団はユダヤ人であったが、現在は同地にユダヤ人はいない。第二次世界大戦の際に、約20万人前後のほとんどのユダヤ人がナチスドイツの侵攻前後に現地協力者とナチスの手によって殺された。当時のリトアニア住民は、ユダヤ系住民をリトアニアの独立を奪ったソ連の味方だと観念し、敵に通じていると想定していたからである。現在、リトアニアではこの経緯が高度な歴史認識問題となっている。
・国民の祝日の30日後に国家間紛争に至るリスクはそれ以外の時期より2~3割高くなっている。
・国外に同民族問題を抱える国において、比例代表制をとる国が失地回復戦争を起こす確率は1.2%であるのに対し、小選挙区制をとる国では5.8%となる。軍事独裁国家のある国がある年に同様の紛争を起こす確率4.5%よりも高い。

『無敵化する若者たち』読書メモ

日本総合研究所会長・多摩大学学長の寺島実郎氏が配信している動画「寺島実郎の世界を知る力#65」(2026年2月15日放送)を、先日たまたまネット視聴しました。その中で、紹介していた金間大介著『無敵化する若者たち』(東洋経済新報社、1600円+税、2026年)の内容に興味を覚えてさっそく読んでみました。
著者の金間大介氏は、イノベーション論を専門とする大学教員。1995年以降生まれのいわゆるZ世代の若者と接する機会が多い環境にあり、若者の価値観の特徴を詳しく紹介しています。彼ら若者との接し方に困っている上司世代に対しては、その価値観を変えるのではなく行動支援をすることを勧めています。また、おそらくこの本を手に取らないであろう若者たちに対しても、チャンスへ飛び込んでみる勇気を呼びかけています。
ところで、Z世代の価値観を一口で言えば、とにかくいい子症候群の安定志向。タイパ優先で、常に先に正解を求め、失敗することを恐れます。結婚したくない子どもを持ちたくない若者の率が多いのも失敗を恐れてなのかと思います。彼らの親世代が社会人となった時代が経済的にも不景気で将来の生活不安が大きく感じられることもあって、我が子が失敗の人生を送らないよう正解を教え続けてきた結果でもあります。職場でも優しく何でも教えてくれる、まるで塾講師のような上司が歓迎されているそうです。
昔からいい大学に入って安定した大企業に就職するのが勝ち組というので、安定志向の若者が一定数いたとは感じますが、現在は若者人口も減り、浪人してまで進学する大学は一部に限られています。あんまり努力する必要もありません。就職もずいぶん売り手市場になってきました。
読んでみて私がこれまで感じていた若者の価値観の大勢と違和感がなく、納得する点が多かったです。役に立ったのは、本書で紹介していた「大学生に通じないネタ・トップ5」。第1位:テレビコマーシャルネタ、第2位:ドラマネタ、第3位:サッカーネタ、第4位:相撲ネタ、第5位:野球ネタ、となっています。要するに若者は、テレビ見ないし、新聞・雑誌読まないし、努力嫌いだし、ということなのでしょうか。

つなぎ美術館での贅沢時間

昨日(2月14日)、水俣での用件を済ませた帰り道に、つなぎ美術館へ立ち寄り、台湾・高雄出身のアーティストの陳漢聲(チェン・ハンシェン)さんと劉星佑(リュウ・シンヨゥ)さんの作品展を観覧してきました。これらの作品は、昨年8月から11月にかけて津奈木町や近隣地域に2人が滞在する中で制作されたものです。展示は、2人のユニット「走路草農藝團」としての作品展とそれぞれの個展の3部構成となっていました。
入館したときの客は私1人だけでしたので、貸切状態で贅沢な観覧時間を過ごすことができました。陳さんの「田の神」といい、劉さんのご両親が出演協力した写真といい、ほのぼのとした優しさを覚える作品で、自然が身近に感じられた郷愁のようなものも得られた思いがしました。
同館所蔵の常設展示のブロンズ作品であり、浜田知明氏作の「無聊」(1988年)もあわせて観覧しました。

ファシズム・メーター

科学史が専門の隠岐さや香氏が、フランスの社会運動家兼デザイナーのジェフリー・ドルヌ氏が作成している「ファシズム・メーター」を朝日新聞コメントプラスで紹介していました。社会の危険な兆候をランキングした表となっていて、下に行くほど深刻度が上がっていきます。国政に限らず企業や学校などさまざまな組織の病気の重さを計測する指標にも応用できそうですね。

自由と参加(=ファシズムから遠い、安全な状態)
1.多元主義(複数の違う立場が見える状態)と権力抑制の尊重
2.自由で独立した報道がある
3.集会・デモの権利の保障がある
4.文化と教育への公平なアクセスがある
5.独立した司法がある

警戒すべき段階
6.治安・安全保障言説が恒常化する
7.「あなたの安全のため」という名目の大規模監視
8.偽情報の流布と穏健なプロパガンダ
9.労働組合・市民団体の権利縮小
10.文化的・学問的検閲が起きる

露骨な権威主義段階
11.内なる敵を指定する言説がある
12.国民史の書き換えが試みられる
13.少数者・ジャーナリストに抑圧がある
14.警察が暴力を奮っても処罰されない
15.日常的な排外的アイデンティティ・ナショナリズムの主張
16.権力の個人化が起きる

能動的ファシズム段階
17.民兵組織、政治的な暴力、指導者崇拝の横行
18.批判的組織の禁止が起きる
19.司法とメディアの統制が起きる
20.反対派の逮捕が起きる
21.「純化」や「道徳的立て直し」への呼びかけ
22.反対派の国外追放・排除

https://hckr.fr/fascismometre/

それはミュージアムかを判別する

ミュージアムといっても分類すると、総合系、歴史系、美術系、自然科学系とさまざまです。展示に力を入れているところもあれば、資料の保存や研究に重点を置いているところもあります。一般の人はその展示を通じて何かを感じるなり学ぶなり刺激を求めに訪ねていくのでしょうし、実際私もあちこちへ伺う機会があります。ですが、ミュージアムと名乗っていてもそのレベルはまちまちです。中にはこういうものを収集したので、陳列しましたと言っているだけの、勝手に眺めて楽しんでくださいという、ギャラリーショップ的なところもあります。でも、それでミュージアムと称していいのだろうかと思います。
高木徳郎編著『文化財を未来につなぐ 博物館と学芸員の仕事――学芸員をめざす人へ』(勉誠社、2800円+税、2025年)を読んでみると、ホンモノのミュージアムにはホンモノのキュレーターがいて、その判別に役立つ書籍だなと思いました。逆に日本における「博物館」とか「学芸員」とかいうのが、その呼称だけではレベルを保証するものではなく、国際基準からもかけ離れていることが理解できました。
まず、2021年に国が行った「社会教育調査」によれば、日本国内には、5771の「博物館」があり、次の3種類に分かれます。①登録博物館(911館、約16%)、②指定施設(旧・博物館相当施設、394館、約7%)、③博物館類似施設(4466館、約77%)。①・②は博物館法に規定され、その適用を受ける社会教育施設となりますが、③は博物館法の適用を受けない施設です。①は都道府県や政令指定都市の教育委員会による審査を受けて登録された「博物館」であり、学芸員がおり、年間150日以上開館し、公立施設では博物館協議会設置が定められ、原則入館無料となっています。②は国または都道府県・政令指定都市の教育委員会が登録博物館に類する事業を行う施設で、意外にも東京・京都・奈良・九州の国立博物館や国立科学博物館もこれに位置付けられている。学芸員に相当する職員を置くことが定められているに過ぎず、年間100日以上開館でいいそうです。③では学芸員の配置は義務でないこともあり、86%の施設で専任の学芸員がいないとされます。利潤の追求や観光施設のとしての集客、経営母体の情報発信が目的とするものもあります。
ところで、博物館法で規定されている「学芸員」の資格取得者のほとんどは四年制大学の所定の単位取得となっています。2007年度の数字では、全国で322の四年制大学が学芸員資格取得講座を設置し、8588人が学芸員の資格を取得して卒業していて、今もそれくらいの規模のようです。しかし、私もその資格を有しているので、わかるのですが、保存科学や修理にかかわる技術、展示や資料梱包にかかわる技法まで学ぶ機会はありませんでした。あくまでも準備教育ないしは基礎教育を受けたに過ぎません。それでも、博物館等に就職できる人が年間200人ほどあるようです。
この日本の学芸員制度は海外と比較すると特異です。たとえば米国の場合、学芸員の業務は、専門分野の調査・研究を行うcurator、資料の保存にかかわる技術者conservator、資料の修復にあたる技術者をrestorer、展示技術や演出を担当するexhibition designer、教育普及活動を行うeducator、資料の登録と管理を行うregistrarなど、専門分野に分化しているとのことです。欧米のcuratorは、大学で言えば教授に匹敵する研究実績と実務経験があり、博士号をもつのが一般的で、curatorの職に就くまでには、assistant curator、associate curatorなど、業績審査の過程を経て徐々に昇任することから、もしも図録や名刺でcuratorと肩書を英文表記している日本の学芸員がいたら、その経歴をよく確認してみる必要がありそうです。

6回目の戒厳令(修正更新)

秋政久裕様からのご教示により当初の記述から2点を修正更新します。
1.「4度目」ではなく「6度目」。大日本帝国時代の戒厳は、日清戦争時、日露戦争時に「臨戦地境戒厳」が出ており、「行政戒厳」と合わせて5回出ている。
2.戒厳司令官は「畑俊六」で「佐伯文郎」ではない。戒厳司令官となった第二総軍司令官の畑俊六元帥は、船舶司令部司令官の佐伯文郎中将を、警備担任司令官に任命した。戒厳司令官はあくまで畑俊六で、佐伯は畑から区処された警備担任司令官である。

(以下は修正前の記述)
AIくんが教えてくれるところでは、大日本帝国時代に「戒厳令」が発令されたのは、日比谷焼打事件(1905年)、関東大震災(1923年)、二・二六事件(1936年)の3回となっています。戒厳令の根拠法は太政官布告第36号(明治15年)であり、天皇が大日本帝国憲法第14条に基づき「戒厳の宣告」を行う仕組みでした。
しかし、アジア・太平洋戦争末期の1945年8月6日に原子爆弾で焦土と化した広島において、歴史的にはないとされている4回目の戒厳令が天皇の許しを得ず宣告されたと考えている研究者がいます。昨夜(1月17日)行われた「空襲・戦災を記録する会」が主催する「第45回空襲オンライン学習会」において、その研究を行っている広島城の元学芸員・秋政久裕さんの報告を受講する機会を得ましたが、その考察内容は十分納得できるものでした。
根拠として以下の点を秋政さんは指摘していました。
1.戒厳令宣告を決定した事情を知る4人の参謀の証言が確認できること。
・広島県『広島県史 近代2』(1981年刊)…岡崎清三郎元第二総軍参謀長の話を基に記述。
・篠原優『暁部隊始末記』(1964年刊)…篠原氏は陸軍船舶司令部の元高級参謀。
・読売新聞社『昭和史の天皇4』(1968年刊)…井本熊男高級参謀と橋本正勝作戦主任参謀の話を基に記述。
2.第二総軍司令官の畑元帥が、隷下にない佐伯船舶司令官へ命令できたのは、戒厳令が出ていたからこそ。
・被爆直後は広島-東京間との連絡は不通。畑俊六が戒厳令を決定し、戒厳司令官には佐伯文郎中将を任じた。
3.畑や佐伯が戒厳令について証言を残さなかったのは、天皇大権を越権した悔いがあったから。
・畑は侍従武官の経験があり、自決前の阿南陸相へ終身制の元帥返上を申し出たのも、越権に対する責任感から。
・太政官布告第36号の第7条では、戒厳宣告時の上申先は太政官(=陸軍大臣)となっていた。
・戒厳令解止も本来であれば天皇が行うが、それは敗戦の混乱でうやむやとなった。
ところで、この戒厳令宣告を決定した場所は、原爆で倒壊した第二総軍司令部建物の背後の二葉山に構築中の地下壕内でした。現在、入口の穴が数か所確認されていますが、いずれも戦争遺跡としての保存整備は手つかずのままとなっています。地権者は国ということですが、行政の動きはたいへん鈍いと聞きました。今回の報告を聞いてなんとか保存整備そして公開へ進まないかと思いました。
それと、この戒厳令により、「本土決戦」に備えて広島県呉の山中で地雷を抱えて戦車に突き進む訓練をしていた海軍の「陸戦隊」や水上特攻艇マルレの訓練をしていた陸軍の船舶部隊「暁部隊」の若者たちが、原爆投下直後の焦土の広島へ救援部隊として送り込まれ、いわゆる「入市被爆」をします。しかし、いずれも特攻要員の秘匿部隊所属であったため、軍歴記録に空白があるなどして被爆を裏付ける証明が難しく被爆者手帳を取得するまで相当な期間を要しました。中には手帳を申請できることを知らないまま亡くなった方も数多くいます。その史実については、昨年12月に集英社新書から刊行された中國新聞客員編集委員の佐田尾信作氏による『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』が参考になります。
なお、地下壕について取り上げたニュース動画が下記より視聴できます。
https://www.youtube.com/watch?v=7JIUqS6hgnE

イスラムの世界史

イスラム地域研究の専門家である宮田律氏によるの最新著『50のストーリーでつながりがわかるイスラムの世界史』(中央公論新社、1950円+税、2025年)は、ふだん馴染みがないイスラム世界の歴史を理解するのに適した教科書としてお勧めではないかと思います。馴染みが薄いとはいえ、日本におけるイスラムに関する報道は、テロや戦争に関係するものがほとんどなので、イスラムに対するイメージが、何かしら物騒な得体のしれない怖さを秘めたものになっているのが、実情だと思います。しかし、本書を読むとイスラムは本来、テロや暴力を否定し、子どもや女性、高齢者などに対する保護を強調する宗教ですし、貧困者を救済するために喜捨の義務があり平等を求めます。信仰を強制せず信仰の自由を保障することから、歴史的に見ると、ユダヤ教徒やキリスト教徒との共存ができた時代がはるかに長かったことを知ることができます。
学問の発展についてもヨーロッパ・キリスト教世界で花開いたイメージが私たちには強くあると思いますが、これも歴史的に振り返ると、その基礎がイスラムの世界発ということが、医学や数学、天文学さまざまな分野で多くあります。算用数字をアラビア数字と称することを思い出してもらうと、納得されると思います。現在のアフガニスタンのタリバンからは想像できませんが、音楽・楽器もその源がけっこうイスラムの世界にはあります。
さらには、食文化においてもイスラム発祥のものが多いと知り、これがもっとも驚きでした。私がウィーンで飲んだコーヒーも、ローマで食べたパスタ、マドリードで食べたパエリアなど、いずれもイスラム世界からヨーロッパへもたらされたものです。
本書は、イスラエルとパレスチナとの関係など、現在の不幸な側面についての解説にもページを割いていますが、平和共存は絶対に不可能なのかを歴史から学ぶべきだと思います。現在の日本国内においてもクルド人に対する不当な差別も無知や誤情報思い込みゆえに起こっていることで、みっともなく思います。

戦争の時間旅行者展

益城町交流情報センターで開催中の企画展「戦争の時間旅行者」を先日見てきました。小規模な展示でしたが、益城町に関連する戦争の記憶を、実に弥生時代から第二次世界大戦まで振り返る、時間軸が長いユニークな企画でした。たとえば、関ヶ原の戦いで東軍に組した加藤清正が、西軍の小西行長の居城・宇土を攻める際に拠点にしたのは、益城町の木山だったそうです。
それから277年後の西南戦争のおりには、熊本城包囲戦から撤退した薩軍が、本営を熊本市の二本木から木山に移したとありました。加藤清正も西郷隆盛も同地を本陣とする重要性を認めていたということでしょうか。益城町の飯野地区では、官軍と薩軍との戦闘(今でも弾丸が出土するそうです)があり、地元の有力者たち依頼でその激闘の模様が絵馬として描かれ、砥川阿蘇神社に奉納され現在も残っていることを知りました(会場では写真を展示)。西南戦争でいえば、当時の細川護久知事の娘3人が薩軍から逃れるため益城町内の有力者宅に避難していたそうで、そのときに使用された駕篭の展示もありました。
あと珍しいものとしては、一〇式艦上戦闘機(1922年=T11に英国の技術供与で日本が最初に建造した空母「鳳翔」の複葉の艦載機。試作が1921年=T10であることから一〇式。ちなみに鳳翔は戦後復員船として供用された)木製プロペラを津森神宮で所蔵しているということで、これは実物が展示されていました。
会場の近くにはワンピースの「サンジ」像があり、それ目当ての人が多い場所ではありますが、ぜひこちらへも立ち寄る人が増えてほしいと感じました。アンケートに答えるともれなくクリアファイルがもらえます。
https://kumanichi.com/articles/1940113

第二総軍地下壕と入市被爆

空襲・戦災を記録する会が主催する第45回空襲オンライン学習会が近くあるので参加予定ですが、今回のテーマは「昭和20年8月6日 第二総軍原爆記 ―空襲と戒厳令―」で報告者は秋政久裕さんということでした。
https://kushusensai.net/joz4ywci4-9/#_9
ここに出てくる「第二総軍」とは、1945年4月、本土決戦で国内が戦場となることを想定した陸軍が日本列島を二分して置いた西日本の部隊の総称です(東日本側が「第一総軍」)。「第二総軍」の司令部は、広島市の騎兵第五聯隊の兵営跡に置かれました。同年8月6日の広島原爆被爆当時は、地上三階建ての建物であり、450人余りの要員が原爆で倒壊した建物の下敷きになったといいます。2017年にICANがノーベル平和賞を受賞したときの講演で知られるサーロー節子さんは、当時広島女学院高等女学校の生徒であり、司令部暗号班に動員されていたため、やはり下敷きになりましたが、必死で這い出た数少ない生存者の一人です。
同時期、司令部は朝鮮人労務者100人ほどを使い、二葉山の山中に横穴式の地下壕を掘削する工事を進めていました。洞窟司令部としては7割方完成していたそうです。原爆被爆後は実際にその地下壕を司令部として利用したそうですが、現在その遺構は保存されていません。
報告者の秋政久裕さんは、中国軍管区司令部があった広島城の元学芸員ですが、二葉山南麓の斜面に横穴4か所、立坑1か所を確認しているそうです(2025年1月の広島の地方紙・中國新聞に記事掲載)。第二総軍の二葉山地下壕について秋政さんは、焦土と化した広島の復旧のため一時的に「軍政(戒厳状態)」を敷くと決めたことに係る重要な場所だと考えています。
実は、これら第二総軍地下壕や報告者のお名前は、先月集英社新書から出たばかりの佐田尾信作著の『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』のp.99-108に出てきます。同書は、陸戦隊の元水兵を父に持つ中國新聞記者による著作です。取材対象は、1945年夏に「本土決戦」に備えて広島県呉の山中で地雷を抱えて戦車に突き進む訓練をしていた海軍の「陸戦隊」や水上特攻艇マルレの訓練をしていた陸軍の船舶部隊「暁部隊」の若者たち。彼らは原爆投下直後の焦土の広島へ救援部隊として送り込まれ、いわゆる「入市被爆」をします。しかし、いずれも特攻要員の秘匿部隊所属であったため、軍歴記録に空白があるなどして被爆を裏付ける証明が難しく被爆者手帳を取得するまで相当な期間を要しました。中には手帳を申請できることを知らないまま亡くなった方も数多くいます。
81年前にただただ命を差し出すことを求められた若者たちがいて、生きながらえても重い傷を負い続けなければならなかったのです。これほど罪深いことを強いた人間が確実にいたということ、これからもそんな人間が出てしまいかねないということを絶対に忘れてはならないと思います。