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グレーバー流の〈自由〉な人類史の視座

小茄子川歩・関雄二編著の『考古学の黎明』(光文社新書、1300円+税、2025年)は、デヴィット・グレーバー(1961-2020)とデヴィット・ウェングロウ(1972-)の共著『万物の黎明』の視座に刺激を得た、日本国内の気鋭の考古学者たちが、自らの研究分野を捉え直して語っている本で、たいへん面白く読みました。考古学というと発掘されたモノを通じて研究する学問というイメージがありますが、その時代、その地域からモノが発見される裏には、人類の自由な移動や交流があったワケで、海外の大学がそうなのですが、考古学と人類学はクロスオーバーする学問なんだなと、認識を新たにしました。そうすると、モノの発掘の手柄話ばかりして、人の移動や交流の歴史についての知見がない自称「考古学者」については、さてどうなんだかという見極め方ができるかもしれません。
ちょうど今月(2025年10月)から『考古学の黎明』の編著者がナビゲーターを務めて「3か月でマスターする古代文明」の放映がNHK「Eテレ」であっています。こちらのテキスト読書と番組視聴もあわせてしてみましたが、古代文明といってもその社会構造はさまざまだった(例:国土なき国家、王なき帝国…)ということを理解するには、こちらもおススメです。
1970年の大阪万博のシンボル「太陽の塔」を制作した岡本太郎は、戦前、パリ大学の民族学科で人類学を学びました。そのときに師事したのが贈与論で著名なマルセル・モースで、「移動することが人類の本来の姿」と語っていたようです。『万物の黎明』の著者である2人のデヴィットも、「人類は本来、自由に移動して交流していた」として、「移動の自由」は「交流の自由」と結びつくと捉えていました。人々は自由に、いわば遊びのように移動し合い、その結果モノが長距離移動したと書いています(『考古学の黎明』p.342)。
モノについてはその生産と消費だけを考えるのではなくその交換について考えることが重要です。その交換も贈与なのか負債を伴うかでも社会のありようが異なってきます。『考古学の黎明』p.380-381では、柄谷行人の交換様式論を手際よく紹介していました。
交換様式A 互酬交換(贈与と返礼)
交換様式B 略取と再分配(支配と保護)
交換様式C 商品交換(貨幣と商品)
人類史は当初から、この3様式の併存のもとに推移したが、社会構造の変化は、どの交換様式が前面に押し出されるかによって区分されるという歴史理論。人類が定住生活を選択した時点から3種類の交換が同時発生したと考える。
グレーバーと柄谷行人には相通じるものがあり、じっさい交流もあったことが、2025年6月18日の朝日新聞掲載の「柄谷行人回顧録」で明かされていました。
グレーバーの著書では『ブルシット・ジョブ』しか読んだことがありません。なんせ『万物の黎明』は大書なので、その点でも『考古学の黎明』や「3か月でマスターする古代文明」は便利でした。
人類史をモノの発達だけで見ると発展一辺倒ですが、人とモノの移動という視点で見ると、さまざまな社会構造が浮き彫りになります。「都市や国家がなくても自由と平等がある」と「都市や国家があっても自由と平等がない」が露呈した例をp.320より引用紹介します。
新大陸に進出したヨーロッパ人は、そこで出会ったアメリカ先住民から、絶対王政下にあったヨーロッパには「自由と平等がない」と痛烈に批判をされる。これがきっかけとなり、ヨーロッパ人は自由と平等に目覚めることになるのだが、同時に、このような批判は、ヨーロッパの社会を根底から覆しかねない脅威であった。そこで、ヨーロッパ人は自らの優越感を守るために、「社会が進歩すると、必然的に自由や平等が失われる」「一部の人間の貧困は、社会全体が繫栄するための必要条件である」という、ストーリーが考案されたというのである。

行政の相場観を正すツール

10月9日の朝日新聞熊本地域面に、胎児性水俣病患者が水俣市に対して行った行政不服審査請求で、市の却下処分を取り消す裁決が出たと載っていました(翌10日の熊本日日新聞でも報道)。認容裁決が出たとはいえ、申請人に対する却下理由の説明が不十分だったとし、市の行政手続条例に違反したという手続きの不備が、その根拠とされました。そのため、今後改めて申請をしても却下理由を書き直した上で再び市が却下するような形式的対応をとられる恐れもないわけではありません。
このように申請人からすればまだ手放しで喜べる状況にはありませんが、行政の相場観を正すためにも行政不服審査請求を行った意義は大きいと思います。市に限らず行政機関はさまざま行政処分を行いますが、ほとんどの住民はその処分結果を受け入れますので、ついつい行政側はこれぐらいで仕事を進めればいいだろうと、あぐらをかきがちです。行政機関といっても仕事は一人ひとりの職員の判断で進められるわけですから、誤った法令理解・運用による仕事ぶりがないともいえません。今回の審査請求には弁護士が保佐人に就いたということですが、認容裁決により得られる経済的利益やサービス受益が大きければ、専門家の支援を受けて請求に踏み切る価値はあります。
それと今回の請求とは直接関係はありませんが、まだ前世紀仕様の地方自治気分でいる地方公共団体があるかもしれない点に目を向けるべきです。ジャーナリストの中村一成氏が、『世界』2025年11月号掲載の寄稿(p.72)で、次の通り記していました。「1995年に地方分権推進法が、2000年には地方分権一括推進法が施行された。国と地方は上下ではない対等・協力関係となり、従来の通知通達行政は過去となった。片山善博総務大臣(当時)は2011年3月、同法施行により、それ以前の通知や通達は失効し、場合によっては違法となったと答弁している」。この視点で地方自治の現場を点検してみることもありだと考えます。

やれやれだぜ

移民政策に詳しい小井土彰宏氏が、インターネット時代に起こりがちな不毛な「論争」状況について『世界』2025年11月号掲載の寄稿(p.31)で触れていました。長くなりますが、引用してみます。「インターネットをはじめとする新しい情報ツール・情報環境は、情報の効率的な拡散・共有ではなく、全く基礎的な知識を持たない人々による、唐突な意見表明を可能にし、「議論」に参入する条件をつくり出してきた。ネット上へのにわか「論客」、疑似「専門家」のご登場である。基礎的用語や関連法制のリテラシーにも欠け、身近な事象と自分の実感こそがリアリティと信じ、海外の断片的なルポもどきとリンクすることでフォロワーを獲得する新たな発信者の出現とかれらの起こす「論争」は、事実の検証と政策論理の構築・精緻化をさまたげ、もともと脆弱な論争空間を破砕しかねない」。
たとえば、先々家族帯同の定住も可能な「特定技能」という新概念を導入することで、ブルーカラー労働者を日本に入国させ就労させることが初めて法的に承認されたのは、安倍晋三政権下の2018年12月の入管法改正でした。これは、少子高齢化とその帰結としての持続的な人口減と労働力不足という構造的な問題を乗り越えるためにとられた、国際的にも見ても真っ当な「移民」政策判断だったと言えます。
このおかげで、予想では毎年35万人以上外国人が増え続け、2040年に国内人口の10%が外国ルーツになるといいます。介護や建設、製造、物流などさまざまな分野(当然税金や保険料納付を含む)で日本を支えてもらっているのが現実で、この流れは続きます。
ただし、面白いことに立役者の安倍さんは、「移民」という言葉をタブー視し、公式用語としては頑なにつかいませんでした。安倍さんは「自分の内閣では移民政策は、これをとらない」と国会で答弁を繰り返していました。なお、この「移民政策をとらない」という芸風は、以後の首相も、先の自民党総裁選に立候補した5人も全員が踏襲しています。
このように、表向きの言葉と現実の政策とが乖離している事象を見破れないようでは、不毛な「論争」に陥ることが必定になります。それでも、冒頭に登場の、にわか「論客」や疑似「専門家」のたぐいを支持層に引き込める能力があってこその政治家であり、それが政治の世界なのかと思うと、やれやれだぜという気持ちにもなります。

意見書反対議員名を全員報じよ

熊本への長射程ミサイル配備に慎重判断を求める意見書の採択が、昨日の熊本県議会で否決されたと、本日の地元紙で報じられていました。記事によると、「(意見書には)立憲民主連合と新社会党の計4人が賛成し、最大会派の自民党県議団など42人が反対した」とありました。
現在防衛省が配備を予定している長射程ミサイルという武器は、専守防衛を逸脱し他国領土への攻撃が可能となる能力を有するものです。事態を見誤って他国領土へ向けた攻撃の動きをすれば、それこそ反撃される口実を相手国に与えてしまいます。長射程ミサイルの配備は抑止力になりえないどころか、攻撃されるリスクが高まるからこそ、自衛隊基地をせっせと地下基地化したり、より堅牢な弾薬庫をあちこちに造ろうとしたりしているのではないでしょうか。余計な軍拡予算が膨らむばかりです。
一方で、このたび自身の傀儡総裁誕生に成功したマンガオタクの老人なんかにすれば、家業のセメントがバカ売れしますから、ずいぶんと喜んでいるとは思います。意見書反対議員は自身の行動が県民の生命と財産を本当に守る方向に寄与しているのか冷静に省みてほしいと思います。
意見書反対議員の数があまりにも多くて報道記事には個別の氏名が載っていませんでしたが、このような場合は、反対理由とともにすべて報じてほしいものです。しょうがないので、県議会議員名簿を画像で示します。もしも意見書反対議員の地元にミサイルが運ばれて何かあったらそのときは、コイツらがだらしなかったからだったんだと、思い出してください。
8月に田川を訪ねたときの写真も付けておきます。

人を牛馬扱いするのが今もいるんだ

自民党の新総裁に選出された方が、選出直後のあいさつで「馬車馬のように働いていただく」「私自身もワーク・ライフ・バランスという言葉を捨てる。働いて、働いて、働いて、働いて、働いていく」と述べていました。目の前の仲間内の国会議員に向けた発言でしたが、報道で伝わるわけですから霞が関の官僚はもちろんのこと、広く国民がこの言葉をどう受け止めるか思いを寄せる器量はないのだなと思いました。
総裁の座を渡すことになった方もさすがに気になったみたいで、「あそこまではっきり『ワーク・ライフ・バランスをやめた』と言われると大丈夫かという気がしないではない」と指摘していましたが、水俣病を引き起こしたチッソの創業者の野口遵が「労働者は牛馬と思え」と言っていた有名な逸話を私はつい連想しました。
野口遵は、1944年1月15日に死没していますが、公害病を引き起した企業体質はその組織のトップの考えに起因していると思います。水俣病研究会著『〈増補・新装版〉水俣病にたいする企業の責任−チッソの不法行為−』(石風社、2025年)によれば、チッソ水俣工場における労働災害は非常に多く、最多を記録した1951年ではほぼ2人に1人が被災するほど社内の安全性を無視して操業していたといいます。生産第一、利益第一で稼働させて安全教育も蔑ろにされていたことが同書では明らかにされています。社員を危険にさらしてもなんとも思わない幹部で占められていた企業だったからこそ、自社工場から海へ排水するメチル水銀が水俣病の原因と社内で気づいてからも秘密を通して危険を回避する対策をとりませんでした。漁民に限らず魚介類を食べる生活をした社員とその家族も水俣病の被害を受けました。社員を守れない企業は結果として企業自身へも不利益をもたらすことになったことは歴史が示しているところです。
人を牛馬扱いするのを厭わないトップが今もいるのが驚きでもあり、そういう組織が向かう先は…という気がします。

テルアキ妄想録

「気持ちでどうにかなる甘い世界じゃない」と佐藤輝。昨オフに自らを客観視して「打撃フォームを理解する」ことに努めて課題に向き合ったからこそ、今季の目覚ましい活躍につながったと、けさの朝日記事で触れてありました。
同期入団の「レン」の退団により来季からのスコアボード表示名がどうなるのかわかりませんが、個人的には現在の表記を続けてほしいものです。それか別の佐藤姓の選手を招聘するのか。
それと、もしも将来メジャーへ渡ったらどういう表示でいくのかも気になります。もともとセ界一のチームにいるんだから、わざわざ行かなくてもいいんじゃねぇという気持ちもあります。

信用ならない手合い

2年後の夏の完成を目指し、熊本県護国神社内に東京の靖国神社遊就館の熊本版資料館建設の動きが進んでいます。9月25日の地元紙には、その建設費の寄付を募る広告が掲載されていました。その広告には60名弱の発起人の名前が載っていて興味深く見ました。顔ぶれから察するに、第一は当人がその信念から80年前の戦争を侵略戦争とは考えていない方々と、第二は県内の主要企業団体等のトップとかで付き合いで名前を出している方々と思われました。
前者は日頃から日本会議や元統一教会の活動歴でその名に覚えがある方々です。相も変わらずだなあと、思うだけです。始末に悪いのは、後者の方々です。日頃立派なことを言っていても、80年前の戦争で多大な苦痛を強いられた国・地域の記憶を逆なでする歴史観に立つと見なされることに思いが至らないのかなと、不思議でなりません。当人が思慮に欠けるのか、当人の取り巻きがそうなのか分かりませんが、これは信用ならない手合いだなと感じます。
9月30日の全国紙熊本版に県内の私大の理事長が、水俣病の教訓を講義したと好意的に書いてありました。しかし、この人物は、一方で戦争における兵士の行動を賛美し、国策の誤りを直視せずにひたすら愛国・国威発揚に邁進する資料館建設の音頭取りに名を連ねています。この両立がなぜ可能なのか、ちょっと理解するのが困難でした。

人新世は条件という認識はあるか

元環境大臣の経歴をもつ政治家が、今回の自民党総裁選挙の有力候補者として注目されているようですが、選挙中の発言を追ってみると目先の話ばかりで、たとえば気候変動対策についてどのような外交を展開していくのかという大きな政策ビジョンが聞こえてきません。その人物が現在所管する食料の安定生産についても実際のところは気候変動が大いに関係しています。現在米国大統領を務める老人の場合は、任期が残り3年もないので、地球に暮らす将来世代に禍根が残ろうとも関係ないのかもしれませんが、まだ数十年くらいは政治家を続ける可能性のある40歳代なら少しは頭を使えよと言いたくもなります。
アドリアン・エステーヴ著『環境地政学』(白水社文庫クセジュ、1400円+税、2025年)を最近読んでみました。経済成長至上主義、資源の収奪、植民地支配、自然の支配、男性中心の社会といった近現代の人間の活動が、気候変動をもたらした流れを理解できます。これはグローバルノースの国家に限らずグローバルサウスの国家にも共通する課題ですし、人新世そのものなのだと思います。本書では、さまざまな人物が警鐘を鳴らしてきた歴史、国際的に対応している動きについての情報も紹介しています。コンパクトな著作ながら、人新世の見取り図・現在地を掴むには適した本だと思いました。
これからの地球人にとって必要なことは、領土的枠組みにとらわれず人類共通という考えで、歴史と科学を学び、人新世は条件であるという認識に立つことが重要だと思います。その認識で国際的にリードできる人物の活躍を期待したいと考えます。

人権なき世界の体験記

今月12~15日に鶴屋百貨店で「古書籍販売会」が開かれているということで、13日に会場を訪ねてみて、写真の4点(出展していたのはいずれも「古書汽水社」)を購入しました。どちらも日中戦争当時、大陸打通作戦に参戦した熊本編成の第五十八師団所属の従軍兵士の記録です。
『零の進軍』(2015年刊)の著者である吉岡義一氏は、1943年、国民学校の代用教員であった21歳の時に徴兵され、文字通り一兵卒(二等兵)から軍隊経験を積みます。終戦時の階級は伍長ですが、末端の下級兵士の体験は苛酷な戦闘にとどまらず、行軍の辛さや軍隊内における古兵による陰湿ないじめ、中国の民家への食料調達を目的とした盗賊行為などが強烈な記憶としてあり、これは繰り返し描かれています。一方において朝ドラ「あんぱん」に登場する八木上等兵のようないつも初年兵を気遣ってくれる人物(本書では谷口兵長。共に復員)の存在や終戦後の捕虜生活で出合った中国の民衆との交流体験についても触れられていて、救われる部分もあります。
『生と死の狭間をゆく』(第一部2004年刊、第二部2006年刊)の著者のである城武信氏の場合は、1941年の大晦日に九州帝大を繰り上げ卒業となり、翌年予備士官学校を経由して24歳にして第一線の小隊長として部下の指揮をとる立場になります。食事の調達や重い装備を着装しての行軍といった兵卒ならではの負担はないにしても、戦闘以前に体力・気力消耗を強いる上級幹部の能力のなさ、軍隊組織そのものが抱える欠陥といった点に批判的な目を向けています。ですが、こちらも直属の上司にあたる中隊長(本書では東大在学中に野球部で活躍した山脇中隊長。1945年7月23日戦死。著者はそれ以前に重傷を負い戦場を離れていたため終戦後に知る)が、部下からの信頼を集める優秀な人格者であったため、その点は恵まれていたとたびたび記述していました。
階級が異なるために体験に差がある点もありますが、共通するのは自分が置かれた戦場以外の情報とは隔絶されていたため、国策の方向に疑問を薄々感じていても全体がまったく見えていなかったことが挙げられます。それに抗して声を上げるとか考えが及ばないくらい、自分の人権は護られるべきであるという教育を、当時は一切受けられずにいたのだなと改めて感じさせられました。

ハリボテかどうかを見極める

弁護士による遺言書をめぐる講演を含む「認知症フォーラム」が、本日午前に地元市役所で開かれたので受講してみました。例年だと市の担当課による高齢者支援の福祉施策の説明や今回のフォーラムでもあった介護事業所による現場の話が中心でしたが、今年は法律の専門家を招いての催しとあって受講者も少し多いようでした。
それで、弁護士の講演内容についてですが、資料や説明で正確さを欠く点がありました。質問時間は設けられず、また受講者の前で公然と指摘するのも野暮だと考え、アンケートで指摘記入しておきました。
たとえば、資料には「小説『塩狩峠』 著者 三浦綾子、昭和41(1968)年に発表された小説」とありました。まずここで昭和41年なら西暦で1966年なので、おやおやと思いました。事実に即して表記するならば、「昭和41(1966)年から昭和43(1968)年にかけて雑誌『信徒の友』に連載発表され、昭和43(1968)年に単行本出版された小説」とあるべきでした。要件事実の「いつ」をここまでいい加減に表記しておかしいと気付けないとは驚きでした。
自筆証書遺言書保管制度の説明では、保管できる法務局は本局だけで支局ではできないというものもありましたが、これは誤りです。遺言者の住所地、本籍地、所有不動産のいずれかを担当(管轄)する法務局が保管所となりますから、支局でも保管してくれます。実際、私は地元支局の保管第1号の遺言者です。ほかにも資料や説明で正確さを欠いた点がありましたが、改めて資格称号だけで話を信用してはならないなと思いました。ファクトチェックされていない情報に接するときはなおさらです。
書籍の場合は、著者の専門性に加えて出版社側の目も入りますから、信頼度は高くなります。法律分野とは異なりますが、最近読んだ本では、藤井一至著『土と生命の46億年史』(講談社ブルーバックス、1200円+税、2024年)や高田貫太著『渡来人とは誰か』(ちくま新書、1200+税、2025年)が面白かったので、紹介しておきます。こうした本に親しんでおくと、ヘンな宗教やら政党に目覚めた連中の主張に騙されないどころか、容易に綻び=知の欠如を衝けるのでニヤニヤできて楽しいと思います。
そういえば、市役所入口にはハリボテ作品が飾ってありました。目の前の専門家が「つくりモン」かどうか見極めてみるべきです。

1938年の人道飛行

家近亮子著『蔣介石 「中華の復興」を実現した男』(ちくま新書、1400円+税、2025年)のp.302-306にかけて1938年5月20日に中国空軍2機によって「熊本県水俣から日本に侵入、球磨川を遡行し、宮崎県の延岡上空で反転、再び球磨川沿いに海に出て、姿を消し」た反戦ビラ20万枚の撒布について記されていました。この前年に盧溝橋事件が起こり、日中戦争が勃発し、国民政府は首都を南京から重慶に移します。南京事件も1937年から1938年にありましたが、日本の大手新聞が南京事件の実態を初めて報道したのは、戦後の1945年12月8日の『読売報知』だったと言います(p.298)。
つまり、1938年当時の中国国内での戦争の実態を何も知らない内地の日本国民を感化し、連帯を期待する目的で蔣介石が実行したのが「人道飛行」と名付けた反戦ビラ撒布だったというわけです。しかし、当時の日本人たちはビラを拾うと直ちに警察に届けたため、翌日の『九州日日新聞』や『宮崎新聞』では号外でビラ撒布の事件を報じましたが、ビラそのものはすべて回収され現存しているものはほとんどないとされています。なお、熊本県内では「日本農民大衆に告ぐ」が集中的に撒かれたようです。
ビラの内容は、日本の兵士が中国でたくさん戦死し、悲惨な最期をとげているという現状を伝えるもので、蔣介石が1938年7月7日の抗戦一周年記念に発表した「日本国民に告げる書」と一致するところが多いため、蔣介石の関与の深いと考えられています。
この人道飛行については、「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」が2025年8月に発刊したリーフレットでも触れられています。
※家近本とくまもと戦跡ネットとの相違点
(家)人道飛行 ― (く)人道爆撃
(家)徐煥昇 ― (く)徐煥升
(家)馬丁式重轟炸機マーチンB-10重爆撃機 ― (く)馬丁式重轟炸機マーチン重爆撃機B-10、B-10マーチン重爆撃機
(家)撒布されたのは4種類のビラ(「日本農民大衆に告ぐ」「日本労働者諸君に告ぐ」「日本小商工業者諸君に告ぐ」「日本政党人士各位に告ぐ」)と1種類のパンフレット(「日本人民に告ぐ」) ― (く)「日本人民に告ぐ」「日本農民大衆に告ぐ」「日本労働者諸君に告ぐ」「日本工商業者に告ぐ」「日本各政党人士に告ぐ」の5種類のいずれも冊子形式
(家)20万枚 ― (く)10万枚

書く行為の根源

「世の中が万事円満であれば、生涯かけて誰が俳句など作ろうか」と、本日の地元紙連載に俳人の長谷川櫂さんが記していて、書く行為の根源には、誰しも熱さや執念、恨みつらみがあり、それがあるこそ他人にも作者の思いが伝わるのだなと思いました。
きょうの長谷川さんの文章では、30年以上前に当時小学2年生の長男が、同じ市内に住む大学生運転の車にはねられ、重傷を負った経験を明かされています。その加害者の大学生からおわびの一言もなく、その後どのような刑罰を受けたのかさえ、検察から知らされることもなかったとありました。その腹立たしさは今も忘れることができず、加害者の学生の名前を自分の死後に「墓の中まで持ってゆくつもり」とまで、心情を吐露されていました。
いつになく私的な憤激が込められた文章に驚きも覚えつつも、長谷川櫂という人物の生身の人間性を最も強く感じた回でした。

『世界』2025年10月号メモ

今号では、以下の2本が注目でした。

短時間正社員──労働力不足時代の働き方アップデート
田中洋子(筑波大学名誉教授)
…働く時間を選べる正社員という選択肢があれば、働く人にとっても雇用者にとってもメリットが大きいと感じます。日本よりも人口が少ないにもかかわらずGDPでは上位のドイツには、非正規パートは存在せず、短時間正社員、時短正社員という働き方が普及しています。フルタイムもパートタイムも全員が同じ一つの給与表にしたがって実際に働いた時間の割合で計算して支払われるそうです。そのためドイツでは自分の働き方をパーセントで話すことが一般的であり、一つの管理職ポストを2人でシェアリングしながらキャリア形成することも普通だといいます。論考では、日本でも導入している例としてイケア・ジャパンと広島電鉄を紹介していました。優秀な人材に定着してほしいと願う組織では取り入れてみると採用面でも効果的だと思いました。

「天皇陵」と民主主義──世界遺産登録と大山古墳立入り観察から
高木博志(京都大学名誉教授)
…2019年に百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に登録された際に、大山古墳は「仁徳天皇陵古墳」、誉田御廟山古墳は「応神天皇陵古墳」の名称で構成遺産となったそうです。しかしこれは選ばれた一部の学者によって、学会や市民に諮ることもなく決められたがために、国際社会にのみならず、国内の市民や教育現場にも、記紀系譜や神話世界を鵜呑みにさせる影響をもたらしたと筆者は批判しています。陵墓の墳丘の上まで登ることができる宮内庁の2023年度の陵墓管理委員会委員としては、敬称略で河上邦彦、石上英一、和田晴吾、佐藤信、本中眞、堺秀弥、田村毅、福永伸哉といった学者が名を連ねています。これらの研究者は、「皇室の先祖の墓」と見なした上で、立ち入りが可能なのですが、中にはかつて陵墓公開運動に携わった学者も含まれていることから問題だと筆者は感じているようでした。ちょうど今月13日に熊本県立図書館において佐藤信氏の講演を聴く機会があるのですが、本稿をどう受け止めているかも聞いてみたい気もします。ちなみに21世紀の歴史学では、大山古墳や誉田御廟山古墳が築造された5世紀には、いまだ「天皇号」は成立せず、おそらく倭の五王の墓のどれかに過ぎず、それが7世紀後半に始まる律令制下の天皇や、まして現在の天皇家と直結するわけでもない、というのが寄稿者の見解です。

なんとかなるって旧軍じゃあるまいし

山口智美氏がX投稿で紹介していた、某県の「ウェルビーイング」資料が確かにすごい。
こんな目くらましの話で県民が幸福になって感謝されると考えたのだとしたら、ホントおめでたい行政機関ですね。
これで「なんとかなる」だろうってのは、とても施策と呼べる仕事ではないと感じました。
自称「成長戦略室」というのも、厚顔無恥の極みだねぇ。地元のいいクスリを飲んで目を覚ましたらと思いました。

『草の根のファシズム』読後メモ

2022年8月に岩波現代文庫から文庫化出版された吉見義明著の『草の根のファシズム 日本民衆の戦争体験』は、もともと1987年7月にシリーズ「新しい世界史」の一冊として東京大学出版会より刊行されています。1946年生まれの著者は、もともと日本の社会運動に関する歴史を研究対象としていましたが、日本ファシズムと戦争の問題に関心を持つようになり、次第に視線を低くし、ファシズムや戦争に対する普通の人々の反応や意識の問題をさぐることに、強い興味を感じるようになったと、本書あとがきで明らかにしています。同時に1970年代に入ってから膨大な量の戦争体験記類(その多くは日記または敗戦直後にまとめられた記録、現役を退いてからまとめられた回想記)が、私家版などの形で刊行された時期にあたったこともそれを後押しすることとなりました。こうした記録はそれまでの現代史学で対象とならなかったのですが、当時30代の若手研究者であった著者は、それら生存記録者や故人記録者の関係者に対する追加取材(インタビュー証言・書簡交換など)を加えて本書を完成させるに至りました。
ですが、史料はそれだけに留まりません。軍部を批判した政党政治家の斎藤隆夫のもとに人々が寄せた激励や感謝の書簡、国民の手紙を検閲から得た司法省刑事局の分析報告、戦後のアメリカ戦略爆撃調査団戦意部の日本国民に対する聴取データもあります。
さらに、登場する民衆も内地人に限られません。沖縄県人、アイヌ、ウィルタとチャモロ人、朝鮮人、台湾人にも目を向けています。在外邦人についても滞在した土地や立場(兵士か商人など)で体験は異なりますから、それについても広く目を向けられています。
その中でも熊本県出身の新美彰(にいみ・あや)さんの体験についての記述は、印象に強く残りました。タイプと速記の技能があった彼女は、1943年5月にマニラ日本人会の職員募集に応じて単身フィリピンへ渡りました。同年9月、マニラに進出していた日本企業に勤める同郷の男性と結婚し、翌年7月には長女を出産します。しかし、1944年9月に米軍によるマニラ初空襲があり、同年10月には夫が現地召集されます。母子は帰国することもできず、ルソン島の山野を避難放浪することになります。生きるためにフィリピン住民の家から食料を盗んだり、逆に日本軍兵士から食料を盗まれたりすることもありました。厳しい食料事情の中、長女は1945年8月上旬、1歳あまりで命を失い、亡骸を山中に埋める悲惨な体験をします。敗戦は米軍機のまくビラで知り、その後、米軍の捕虜収容所を経て帰国できたのは11月、翌年に夫の戦死公報を受け取ります。熊本帰還後の1946年、栄養失調の療養中、石鹸の行商や線路に落ちている石炭拾いの間に手記をまとめ、1976年に私家版として『わたしのフィリッピンものがたり』を出版しています。
なお、新美彰さんの体験については、今年8月に放送された「NHKスペシャル 新・ドキュメント太平洋戦争 1945 終戦」「NHKスペシャル 新・ドキュメント太平洋戦争 最終回 忘れられた悲しみ」でも取り上げられています。戦後は、たびたびフィリピンへ通い、亡き家族の慰霊を続けるとともに、同じく家族を亡くしたフィリピンの人々とも交流しました。
https://gendai.media/articles/-/156213?page=2
戦争体験の継承としては、新美彰さんと吉見義明氏との共著である『フィリピン戦逃避行』(岩波ブックレット、1993年)もあります。戦争の悲惨を繰り返さないことと、長女の鎮魂を願って、紙芝居をつくり、若者たちに語り続ける活動をしていることが書かれています。
https://www.iwanami.co.jp/book/b253846.html
『草の根のファシズム』に取り上げられた記録を読むと、戦中・戦後を通じて意識・態度が変化した人もいれば、戦争を体験しながら「聖戦」観が残存したままの人や戦争協力に対する反省が中断したままの人、主体的な戦争責任の点検・検証が欠如したままの人、アジアに対する「帝国」意識が持続したままの人も登場します。戦争を体験したことのない現代人においてもそうした人がいるのを感じます。
戦争という過ちは、歴史上たびたび繰り返されているわけですが、歴史が過ちを繰り返しているわけではありません。歴史から学べない人が戦争という最大の過ちを繰り返しているわけです。
そうした過ちを繰り返さないためには、一人ひとりが常日頃からファクトチェックされた情報を進んで摂取して自ら考えを書き、集合知として共有していくことが有効だと考えています。肌の色や国籍・居住地その他が異なる人にとって共通の価値とならない主張はだいたいどこか間違っているものです。切り取り動画にたやすく騙される思慮のない人に成り下がらないようになりたいものです。
きのう読み書き習慣と読解力・思考力との関係についての興味深い考察が発表されていましたので、それも紹介しておきます。
https://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/news/topics/20250901140000.html

同級生の近況映像に接しました

NHKプラスで、北海道スペシャル「極北ラジオ 樺太・豊原放送局」を視聴していたら、学習院大学在学時に同級生だった兎内君が出てました。ネットで近況写真を見たことはありましたが、映像でお目にかかるのは実に卒業以来初めてです。番組では、終戦直前からのソ連侵攻により南樺太に残された日本人の処遇について、日本政府が「現地定着方針」を終戦後示したねらいを解説していました。
彼は、大学時代、馬術部に属し史学科に学びました。当時の史学科に日露関係が専門の教授がいた覚えはないのですが、後年同じく学習院大学史学科を出ている麻田雅文氏(岩手大学准教授)が『日ソ戦争』(中公新書、2024年)の著者として活躍しているように、ユニークな研究者を輩出しているところでもあります。
麻田氏の『日ソ戦争』も遅ればせながら近く読んでみます。
なお、ロシア政治が専門の中村逸郎筑波大学名誉教授も学習院大学を出てますが、政治学科に学んでいて、私が属した河合秀和ゼミの先輩です。

『日本軍の治安戦』読後メモ

8月19-31日の間、熊本県立美術館分館において、(一社)くまもと戦争と平和のミュージアム設立準備会主催による「戦時下の市民の暮らしと文化 ~記憶を未来へ 平和のバトン~」という企画展が、開催中です。先日、同展を観てきました。日中戦争およびアジア太平洋戦争の時代の子どもたちが接した教材やおもちゃが展示されていて、それらは日本軍の戦いぶりを讃え、軍に進んで協力する国民へ子どもたちを誘う内容で彩られていました。当然のことながらそれらを手に取った当時の日本の子どもたちは、たとえば中国大陸で日本軍がどのような行為に及んだのか、中国の人々がどのような苦痛を味わったのか、を知る由もなかったかと思います。本企画展には、戦争協力に向かった日本国民の姿を思い起こさせる意義を認めますが、戦地における加害者と被害者の実相を伝えるものではないため、これだけで戦争を知った気になってはならないという思いもしました。
単行本としては2010年5月に岩波書店から出版され、2023年12月に岩波現代文庫版として出た笠原十九司著の『日本軍の治安戦 日中戦争の実相』は、ぜひ多くの現代日本人に読んでもらいたい本です。上記企画展が取り扱っていない側面の理解の助けになります。本書は日中戦争時に「第二の満州国化」と続いて「対米戦争の兵站基地」を担わされた中国華北における日本軍の治安戦の通史となっています。証言や史料は日本側・中国側の両面から突き合わされて構成されているため、実相と称して問題ない研究成果となっています。「天皇制集団無責任体制」に基づく無謀なエリート軍人による作戦指導、それによる日本軍兵士自体の被害、中国人被害者の中国国内における二次被害や「漢奸」の戦後にも紙幅を割いています。
ところで、中国共産党はなぜ中国革命に成功することができたのでしょうか。誘因の一つは日中戦争時の日本軍による残虐・虐殺行為にあったと、本書から学ぶことができます。日中戦争開始期に日本軍の北支那方面軍が華北一帯を軍事占領するのにともなって多くの町や村で住民を殺戮し、掠奪、放火、強姦などの残虐行為をはたらいたことが、民衆を憤激させ、自分や家族、親戚、地域の人々の命を守るために、抗日ゲリラ闘争、抗日根拠地へ参加させずにおかなかったことがあります(p.126参照)。前半期は主に中国の国民党軍との戦闘でしたが、追撃の掃蕩作戦に民衆を巻き込んだことが、後半期に開始された中国共産党の八路軍による百団大戦の要因となりました。この百団大戦で甚大な被害を受けた北支那方面軍は、対共産党軍認識を一変させ、反撃と報復のための大規模な燼滅掃蕩作戦を展開します。それは、八路軍の根拠地を燃えかす同様になるまで徹底的に破壊して消滅をはかれという作戦であり、中国側のいう三光作戦の本格的な開始であり、日本軍の性犯罪はもっとも非道・残虐になりました(p.127参照)。
本書で紹介されているチャルマーズ・ジョンソンの『中国革命の源流』にも、「一般的にいって、共産党は日本軍を直接経験しなかった地域では、ゲリラ基地を建設できなかった」「日本の侵略に伴う破壊と収奪が、北方中国人の政治的態度を激変させてしまった。華北の農民は、戦時中、共産党の組織的イニシアチブに、きわめて強い支持を与え、共産党のゲリラ基地は、華北の農村で最大の数を記録した」と書かれています。1944年1月24日に支那派遣軍に命じられた一号作戦(大陸打通作戦)で、日本軍は膨大な犠牲を強いられますが、日本軍の予期しなかった皮肉な戦果として、国民政府軍に大打撃を与えた結果、共産党軍の対日反抗に有利な条件を作り出し、北支那方面軍が大動員された間隙を利用して八路軍が抗日根拠地を拡大することができた点も触れておきます(p.169参照)。
なお、終戦後4年間、共産党軍と内戦を戦うため、山西省に残留して国民党軍に組み込まれた2600人の日本軍将兵がいたことも、p.303で触れられています。この部隊は最終的には550人の犠牲を出して共産党軍に敗れますが、陥落が予測された2カ月前に司令官の澄田中将と参謀長の山岡少将の2人だけが部下を見捨てて帰国を果たしています。1956年の衆議院「海外同胞引き揚げ及び遺族援護に関する特別調査委員会」において澄田と山岡の2人が「残留は自願によるものであり、彼らは現地除隊の手続きもとり軍籍はなかった。なかには逃亡者も混じっていた」と証言したために、同年以後帰国しはじめた「山西残留部隊」の兵員には、軍人恩給、傷痍軍人手当、亡くなった兵士の遺族年金も支給されなかったという史実もあります。
山西残留部隊については、その生存者に取材したドキュメンタリー映画作品である池谷薫監督「蟻の兵隊」(2006年公開)があります。関連記事が2025年8月29日の朝日新聞夕刊(東京本社版)に掲載されていました
https://www.asahi.com/articles/DA3S16291357.html

「4年生大学」の誘致って何だよ

一昨日告示の県南の市長選挙の選挙公報をわざわざ閲覧したのですが、誤記をさっそく見つけてしまいました。「4年制大学」とあるべきところが、「4年生大学」となっています。
これとは別の話ですが、昨日財布の落とし物を見つけて交番に届けました。係の方から拾得物件預り書を受け取りました。後でよく読んでみると、物件リストに「運転免許証 ○○○○名義 熊本県公安委員会甲府」と印刷されていました。こっちは珍しい公文書なのでそのまま保管しています。

過ちに学ばない不名誉な国民に成り下がるな

8月17日の朝日新聞記事に、各地の公的機関が運営するミュージアムで戦時中の日本の加害行為の展示をめぐって、撤去・縮小へ向かう動きがみられることを報じていました。過ちを直視してそれを反省し教訓とすることは、それだけ賢い国民を育成し、ひいては国益になることなのですが、誠に嘆かわしい限りです。権威主義国家における公的ミュージアムではしばしば国威発揚が目的のプロパガンダ施設になりがちですが、最近では米国でもあまり賢くなさそうなトップが、自身の見解に沿った展示に見直すよう国立スミソニアン博物館等に通告したという報道もありました。権力者やその取り巻き連中にとっては、愚かな国民ほど都合がいいという風潮は、このようにスキを見ていつでも顔をのぞかせるものだと思います。
○(戦後80年 記憶の先へ)日本の加害、縮みゆく展示
https://www.asahi.com/articles/DA3S16282957.html
○「党派色排除」迫る米政権 スミソニアン博物館、展示見直しへ 「歴史を正確に描く」主張
https://www.asahi.com/articles/DA3S16281089.html
ここ数日で、笠原十九司著『南京事件 新版』(岩波新書、2025年7月刊)と吉見義明著『日本軍慰安婦』(岩波新書、2025年7月刊)を読んでみました。たいへん貴重な知見を得ることができました。同時にこれら書籍の内容を、とりわけ公的なミュージアムや文科省検定済み教科書から得られるかというと、現状甚だ乏しいのではと感じます。いずれも戦時中に軍など国の組織の関与が認められる加害行為だっただけに、組織としては変わっても先人たちの過ちに触れたくないのでしょう。しかし、国の内外を問わず被害を受けた側にとってはけっして忘れられない記憶としてあるので、不都合な史実ほどを後世へ継承しなければ、国民が同じような過ちをいつか繰り返してしまうことになりかねません。それこそ学ぶことができない国民であることは、不名誉極まりないと考えます。
とはいえ、現状の公的ミュージアムは、ことに近現代史の扱いに及び腰なので、引き続き笠原十九司著『日本軍の治安戦 日中戦争の実相』(岩波現代文庫、初版2023年12月刊)と吉見義明著『草の根のファシズム 日本民衆の戦争体験』(岩波現代文庫、初版2022年8月刊)を読んでみることにします。
『南京事件 新版』では、「広義の南京事件」(新版)と「狭義の南京事件」(旧版)が示されていましたので、以下に紹介します。戦時中に米軍から日本が受けた都市空襲や原爆使用は無差別爆撃だったわけですが、その始まりを日本軍の行為にも見ることができるので、広島や長崎の原爆資料館ではやはり南京事件について触れる必要があると考えます。東京都江東区にある民間の東京大空襲・戦災資料センター(館長:吉田裕氏)の展示では、日本軍による錦州爆撃、南京渡洋爆撃、重慶爆撃が都市空爆の口火として示されています(辻田真佐憲『「あの戦争」は何だったのか』p.256-258参照)。これは稀有な例です。
○東京大空襲・戦災資料センター 館長から皆様へ
https://tokyo-sensai.net/archives/category/director
■南京事件の定義:日本の海軍ならびに陸軍が、南京爆撃と南京攻略戦ならびに南京占領期間において、中国の軍民(中国軍兵士と民間人、市民)にたいしておこなった戦時国際法に違反した不法残虐行為の総体のことをいう。
■広義の南京事件(新版)の開始時期・期間:1937年8月15日の海軍航空隊の南京渡洋爆撃に始まり、9月、10月、11月、12月とつづけられた海軍機の南京爆撃を下記狭義の期間に含む。
■狭義の南京事件(旧版)の開始時期・期間:日本の大本営が南京攻略戦を下命し、中支那方面軍が南京戦区に突入した1937年12月4日前後からからはじまる。終わりについては、大本営が中支那方面軍の戦闘序列を解いた1938年2月14日が南京攻略戦の終了にあたるが、南京における残虐事件はその後もつづいたので、日本軍の残虐事件が皆無ではないまでも(近郊農村ではあいかわらずつづいていた)、ずっと少なくなった3月28日の中華民国維新政府の成立時と著者は考えている。
※事件の期間と地理的範囲の定義によって犠牲者概数の計算は異なるが、著者の結論は旧版と同じで「十数万以上、それも20万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される」(p.209)としている。
本書では、南京事件のような大虐殺事件の犠牲者数は概数の推定で十分であり、根拠を示して算出し、一番実態に近い概数を通説化していくことが重要としています。日本軍が戦場においてどのような虐殺をおこなったかという歴史実態を知ろうとしない者に限って、概数でしか記すことができないからと事件の存在を否定したり矮小化したりしがちに感じます。不都合な歴史から逃げて学ばない者は、いつかその者自身も騙されるなど不利益を被るのではないかと思います。実に哀れで気の毒です。