2年前の全国紙書評欄に日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が「職業倫理や専門性を持たないタレント学者や自称歴史家のもっともらしいヨタ話が社会的影響力を持つ様を、評者は何度も目にしてきた。私たちが対峙すべきなのは、表面的な面白さを追いかける風潮そのものなのである。」と書いていたのを、けさふと思い出しました。それともう一つ、日本が近代国際社会への参入した頃の、日本とロシアとの出会いについてでした。現代の感覚では意外に感じられると思いますが、その出会いはきわめて平和的でした。幕末に締結した日米和親条約(1854年)や日米修好通商条約(1858年)は、日本にとって不平等な内容でした。それに対して日露和親条約は例外的に同等で双務的な内容でした。それらを経て、明治政府は国際法を遵守することによって外交を行うという宣言しました。当時、国際法は「万国公法」と呼ばれ、マーティン(漢名:丁韙良)が1864年に漢訳した書名『万国公法』(原著『国際法要綱』)によります。1872年に学制が公布されると、京都府では『万国公法』を小学校の句読科の教科書に指定するなど、受容に努めました。
国民教育に目を転じると、アジア太平洋戦争期の1941年に出された国民学校2年生用の国定修身教科書「ヨイコドモ」では「日本ヨイ国、キヨイ国。世界ニ一ツノ神ノ国」「日本ヨイ国、強イ国。世界ニカガヤク エライ国」というように自民族第一主義、神々に作られたという非科学的な神国思想を吹き込むようになります。一方で、戦争末期から戦後まもなくの期間、日本を支える優秀な科学者や技術者の育成を目的として「特別科学学級」という英才学級が設けられていました。IQ150以上の全国から選抜された児童・生徒が高度なエリート教育を受け、結果的に敗戦後の高度経済成長を牽引する人材として、理工系をはじめ各界で活躍しました。私の大学時代の恩師も京都師範学校附属国民学校(現:京都教育大附属京都小中学校)と京都府立第一中学校(現:京都府立洛北高)のなかに設置された学年定員30名の特別科学学級に在学されました。京都における設置にあたっては、京都帝国大学の湯川秀樹博士の意向が働いていて、湯川がじきじきに旧制高等学校(現在の四年制大学教養課程)レベルの物理学の授業を行うこともあったようです。物理・化学の実験や、生物の実習などにも重点が置かれました。授業の内容は数学や物理学や化学はいうに及ばず、当時敵性語だった英語、さらには国語・漢文・歴史にもわたっており、当時、治安維持法下の禁書とされていた津田左右吉(私の高校時代の日本史の先生が門下生でした)の『古事記及び日本書紀の新研究』を題材に用いるなど、当時の軍国主義的イデオロギーにとらわれない高度な内容の授業で進み方も速かったといわれます。特別科学学級の児童・生徒は学徒動員が免除され、学習を継続しうる特権を持つとともに、上級学校への進学が保証されてもいました。
被治者向けには神国日本を刷り込む教育が行われ、一方の将来の統治者となるエリート向け教育では天皇の系譜の読み解き方を含めて科学的リアリズム重視だったわけです。
結局のところヨタ話の判別ができる指導者や国民に恵まれているのか、今の日本もロシアもと思う次第です。
写真はソ連時代のロシア・モスクワの「グム百貨店」(1989年5月撮影)。飾り付けに「平和」(ミール)の文字が見えます。