久留米市美術館で現在開催中の宮城県美術館コレクション展を観ての気づきは、スパイ経歴とコレクターとのかかわり以外に、西洋画技法導入と戦争遂行とのかかわりがありました。というのも、明治期には陸軍士官学校や工部大学校(現在の東京大学工学部)で教鞭をとった洋画家がいて彼らの作品も展示されていたからです。彼らはアートとして教育にかかわったのではなく、外交・安全保障のツールとしての西洋画技法の教育者として携わりました。
当時の陸軍によって作製された地図は、地形図と写景(視図)から成り、士官学校で西洋画技法(画法幾何)や測量法、築城術を学んだ軍人たちによって作り出されていました。当時は写真が発達していないので、現地に行って、もしくは地形図から、現地ではどういうふうな風景に見えるかということをすぐ描くというのは、将校の重要な資質の一つとされていたようです。
工部大学校においても、モノの形を立体的に捉え、陰影や明暗、遠近を正確に描く西洋画技法の教育は重視されました。ついでながら触れると、この工部大学校は学習院とも浅からぬ縁があります。工部大学校の初代校長・大鳥圭介(1833-1911)は、後に学習院第3代院長を務めていますし、明治19年に校舎を火事で焼失した学習院は、明治23年に四谷に移転するまで工部大学校の旧校舎を使用していました。工部大学校の一機関として6年間だけ存在した工部美術学校で西洋画技法を学んだ松室重剛(1851-1929)が、明治22年から大正10年までの33年間、学習院中等科の西洋画教師を務めており、その関係で多くの教材が工部大学校から学習院へ持ち込まれたと考えられています。
前記の通り当時の陸軍において、地形の見取り図や地図を作成する能力は重要でしたし、学習院は陸軍士官学校や海軍兵学校へ多くの卒業生を輩出する校風も背景にあって、西洋画技法の教育を重視していたようです。なお、松室重剛史料は2000年に学習院大学史料館(2025年3月より「霞会館記念学習院ミュージアム」へリニューアル)に寄託されています。
戦意高揚のために描かれた絵画、それとは逆に戦争の不条理を描いた絵画と、単に美術作品として見るだけではなく、戦争遂行のための技術として教育に取り入れられていった歴史を辿ってみるのも興味深いです。
写真は記事と関係ありません。バルセロナのミロ美術館(1991年12月撮影)。
