昨年は「虎に翼」や「光る君へ」といった国内のテレビドラマに親しむ数少ない機会がありましたが、いまはそれがないので、無料のネット動画でロシアのテレビドラマをもっぱら視聴しています。大学生のときに少しロシア語を学習した経験があるので、いまでもキリル文字の字面から発音を読み取る程度はできますが、さすがにロシア語字幕では筋を追うのは困難なので、基本は英語字幕に頼っています。
自動生成のおかげでロシア語音声によるドラマであっても、英語変換だと割と正しく翻訳されますが、これが日本語変換だとちょっと使い物にならなくて、ドラマの本筋から離れてすっかり空耳アワーに陥ってしまいます。
自動生成といっても翻訳対象がテキスト(文字)データであれば、なんとかなります。しかし、対象が音声データであれば、AIくんが空耳状態に陥ると、変換された原語テキスト自体のスペルが別のものになるので、当然のことながら外国語の変換テキストも空耳翻訳になってしまうのだろうと思います。
下記に空耳翻訳事例を示してみます。
ロシア語:Секи за ней кулис фраерсуется
英語:Seki behind her in the wings is being a jerk
日本語:関さんは楽屋裏で悶々としている
このように音声言語に関してAIくんが本領を発揮してくれるのはどうしても英語中心なのだろうとは思いますが、海外のテレビドラマを見ると、その土地の歴史や文化、国民性の深い部分がつかめるので、新鮮です。
ところで、特にソ連時代のロシア社会では家庭内で市民が政治的な活動をしないためにテレビでは盛んに娯楽番組(市民が良からぬことを考える時間を奪うため)を流していました。私もその当時、宿泊先のホテルでそうした番組(写真=右下は現在のウクライナ、キーウのホテルのテレビ 1989年)を見た覚えがあります。
現在は海外各地の英語ニュース番組が視聴できますので、国の権力がテレビでいくら娯楽番組を流しても市民がそれに釘付けとなるのは難しい時代になったのではとも思います。
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召集令状でも届くのか
旧統一教会と議員たちとの関係をめぐる地元メディアのこびへつらい報道(広報?)ぶりに接するにつけ、郷土の先人ジャーナリストに学べと言いたくなります。それとも自称ジャーナリストばかりなのでしょうか。
以下は、2017年7月1日、熊本日日新聞「読者ひろば」掲載に掲載された、私の投稿です。
写真(1989年5月撮影)は、ロシア・モスクワのレーニン廟の衛兵。記事とは関係ありません。
「竹槍事件とミサイル広報」
もしも核弾道ミサイルが近くに落下したら、政府が広報する行動をとっても何ほどの意味があるのか、という思いで広告を見ています。あるいは屋内退避に主眼を置いているのは、派生しかねない原発事故を想定しての広報かと勘ぐってしまいます。
この奇怪な政府広報で熊本人として想起したいのが、人吉出身の硬骨の新聞ジャーナリスト、吉岡文六と「竹槍事件」です。昭和19年2月23日、大阪の毎日新聞編集局長であった吉岡は、大和魂を磨けば竹槍でも国防ができると非常時宣言を出した東條英機内閣を真っ向から否定しました。「敵が飛行機で攻めに来るのに竹槍をもっては戦ひ得ない」と、亡国の瀬戸際に立っている事実を、自分の判断で報道させたのです。翼賛政治と憲兵や特高による言論弾圧の時代でしたが、読者の大半は販売店へ賛辞を寄せたようです。東條は、この記事に激怒し、吉岡が守ろうとした37歳の記者は二等兵として懲罰召集されます。吉岡自身も事件直後に編集局長を辞めさせられ、終戦前に新聞社を自ら退きます。
政府も国民保護を真剣に考えるなら、竹槍もってのような無益な避難広報ではなく、ミサイルに狙われる場所は国内のどこかという真実を明らかにするとか、相手国に対する実効的な外交工作ではないかと思います。
ヨタ話の判別ができているか?
2年前の全国紙書評欄に日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が「職業倫理や専門性を持たないタレント学者や自称歴史家のもっともらしいヨタ話が社会的影響力を持つ様を、評者は何度も目にしてきた。私たちが対峙すべきなのは、表面的な面白さを追いかける風潮そのものなのである。」と書いていたのを、けさふと思い出しました。それともう一つ、日本が近代国際社会への参入した頃の、日本とロシアとの出会いについてでした。現代の感覚では意外に感じられると思いますが、その出会いはきわめて平和的でした。幕末に締結した日米和親条約(1854年)や日米修好通商条約(1858年)は、日本にとって不平等な内容でした。それに対して日露和親条約は例外的に同等で双務的な内容でした。それらを経て、明治政府は国際法を遵守することによって外交を行うという宣言しました。当時、国際法は「万国公法」と呼ばれ、マーティン(漢名:丁韙良)が1864年に漢訳した書名『万国公法』(原著『国際法要綱』)によります。1872年に学制が公布されると、京都府では『万国公法』を小学校の句読科の教科書に指定するなど、受容に努めました。
国民教育に目を転じると、アジア太平洋戦争期の1941年に出された国民学校2年生用の国定修身教科書「ヨイコドモ」では「日本ヨイ国、キヨイ国。世界ニ一ツノ神ノ国」「日本ヨイ国、強イ国。世界ニカガヤク エライ国」というように自民族第一主義、神々に作られたという非科学的な神国思想を吹き込むようになります。一方で、戦争末期から戦後まもなくの期間、日本を支える優秀な科学者や技術者の育成を目的として「特別科学学級」という英才学級が設けられていました。IQ150以上の全国から選抜された児童・生徒が高度なエリート教育を受け、結果的に敗戦後の高度経済成長を牽引する人材として、理工系をはじめ各界で活躍しました。私の大学時代の恩師も京都師範学校附属国民学校(現:京都教育大附属京都小中学校)と京都府立第一中学校(現:京都府立洛北高)のなかに設置された学年定員30名の特別科学学級に在学されました。京都における設置にあたっては、京都帝国大学の湯川秀樹博士の意向が働いていて、湯川がじきじきに旧制高等学校(現在の四年制大学教養課程)レベルの物理学の授業を行うこともあったようです。物理・化学の実験や、生物の実習などにも重点が置かれました。授業の内容は数学や物理学や化学はいうに及ばず、当時敵性語だった英語、さらには国語・漢文・歴史にもわたっており、当時、治安維持法下の禁書とされていた津田左右吉(私の高校時代の日本史の先生が門下生でした)の『古事記及び日本書紀の新研究』を題材に用いるなど、当時の軍国主義的イデオロギーにとらわれない高度な内容の授業で進み方も速かったといわれます。特別科学学級の児童・生徒は学徒動員が免除され、学習を継続しうる特権を持つとともに、上級学校への進学が保証されてもいました。
被治者向けには神国日本を刷り込む教育が行われ、一方の将来の統治者となるエリート向け教育では天皇の系譜の読み解き方を含めて科学的リアリズム重視だったわけです。
結局のところヨタ話の判別ができる指導者や国民に恵まれているのか、今の日本もロシアもと思う次第です。
写真はソ連時代のロシア・モスクワの「グム百貨店」(1989年5月撮影)。飾り付けに「平和」(ミール)の文字が見えます。
市議会が取り組むべきことはコレだ
わが宇土市においては2022年10月16日に宇土市議会議員選挙が執行されます。その後の市議会に取り組んでもらいたいことの一つをここで提案します。それは、旧統一教会の意向を汲んだ意見書の内容を変更する、新たな内容の意見書を速やかに可決させることです。
というのも、宇土市議会においては、いずれも県内の旧統一教会系フロント団体よる請願に基づき、2015年12月17日に「青少年健全育成基本法の制定を求める意見書」が、2018年3月9日に「家庭教育支援法の制定を求める意見書」が、可決されています。
しかし、市議会が一度議決したものは、議決することの重要性・安定性に鑑みて、議決を取り消し(撤回)することができません。それに代わる手段としては、一度議決した意見書の内容を変更した、新たな内容の意見書案を提出のうえ可決することしかありません。
旧統一教会系フロント団体と接点があった議員が今後一切関係を断つというのなら、なおさら率先して「青少年健全育成基本法ならびに家庭教育支援法の制定を求めない意見書(案)」(仮称)提出に動いてもらいたいものです。もちろん、あまり思慮なく2015年と2018年の意見書可決に応じてしまった議員、あるいは新人議員が、旧統一教会汚染の除染に取り組んでいただくのも歓迎です。ぜひ考えてみてください。
写真は1989年5月に当時ソ連のキーウを訪ねた際の独立広場です。右端奥の建物は、4つ星のウクライナホテルで今も同じ外観で健在です。5月上旬はメーデーから対独戦勝記念日にいたる祝祭の時期で、街頭は飾り立てられもっとも華やいでいました。白く見える街路樹はマロニエです。
ウクライナ東部の住民投票を嗤えない
わが宇土市では、本年7月の参院選の期日前投票において、70代の父親になりしまして30代の市外在住の男性が投票を行う事案が発生しました(翌月書類送検)。これは公正選挙を損なう犯罪であり、公職選挙法第237条第2項で定める「詐偽投票罪」に該当し、2年以下の禁錮又は30万円以下の罰金に処せられる可能性があるものです。
そして、現在、旧統一教会(関連団体含む)と接点を持ち、同団体の活動の広告塔役を担ったり、同団体が目指す特異な青少年健全育成・家庭教育支援の立法推進役を担ったりしてきた地方議員らの存在が明らかになってきました。こうした事実は、有権者にとって自身の投票行動を決める重要な情報となります。本市でも10月に市議選が執行されますが、議員たちは自ら公の場で同団体との接点について明確な説明を行っていません。
仮に接点があった人物が何も真実を語らずそのまま立候補すれば、その人物を当選させ推薦・支持する者と逆に落選させたい者の双方に、公職選挙法第235条の「虚偽事項の公表罪」を誘発させかねない危険があります(条文は以下を参照)。
第二百三十五条 当選を得又は得させる目的をもつて公職の候補者若しくは公職の候補者となろうとする者の身分、職業若しくは経歴、その者の政党その他の団体への所属、その者に係る候補者届出政党の候補者の届出、その者に係る参議院名簿届出政党等の届出又はその者に対する人若しくは政党その他の団体の推薦若しくは支持に関し虚偽の事項を公にした者は、二年以下の禁錮こ又は三十万円以下の罰金に処する。
2 当選を得させない目的をもつて公職の候補者又は公職の候補者となろうとする者に関し虚偽の事項を公にし、又は事実をゆがめて公にした者は、四年以下の懲役若しくは禁錮こ又は百万円以下の罰金に処する。
ロシアがウクライナ東部4州で行った住民投票を嗤えない選挙が、執行されることをたいへん憂慮しています。
写真左奥(1989年5月撮影)は、ウクライナの首都キーウにある「人民友好アーチ」の一部。ソ連の60周年とキーウの1500周年の記念碑公園として一帯は1982年11月7日にオープンしました。
1848年のロシアを見
岩波文庫から出ている『ロシア・インテリゲンツィヤの誕生』を昨日から読んでいます。英国人歴史家であるアイザイア・バーリンが描く19世紀半ばの帝政ロシアにおける思想家たちに思いを馳せると、権威主義の権力者が恐れるものは何か、権威主義を崩壊に至らしめるものは何かを感じさせてくれます。まずもってロシアの若者たちへ当時自由を求めて社会的批評活動を行った先人たちの存在を知ってもらいたいですし、当時の皇帝を連想させる現代の権力者にも思い知らせたい気持ちです。写真はサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館(1989年5月撮影)。
写真を並べて考える
写真は、ロンドンのマダムタッソーにあった英王室の面々の蝋人形です(1993年12月撮影)。日本だと皇室の人々をこうした観光の見世物にすることは憚れるのが実情だと思いますが、英王室とゆかりの深い国々では違うというのを、オーストラリアでも感じた経験がありました。1989年12月に訪問したシドニーにある、ニューサウスウェールズ州立美術館では先住民文化の展示もあって、その中に民族衣装をまとった先住民の写真と英王室の集合写真が並べられていて起源は共通であるということが図表でも強調されていたのを覚えています。かつては先住民や移民の民族の違いによる政策があった同国だからこそ、人類史に基づく科学的な思考を大切にしていると思えました。
科学的な思考という点では、今読んでいる『帝国の計画とファシズム』で意外な資料を知りました。原資料から現代の日本語表記に変えて以下に示します。「私が初めてアメリカの土を踏みまして滞在半年の間における印象は、アメリカの非常に強大なる富の力、言葉を換えて申しますると非常に豊富な天然資源を有し巨額の資本並びに溌溂たる企業の精神というものに恵まれておりまして、アメリカの経済界は実に強大なる力を持っていると思ったわけであります。もっともアメリカも当時欧州戦後の不況の余波を受けまして経済界の不況は深刻になっておりましたけれども、我々は日本人はほとんど想像もできなかったような膨大な経済機構を持っている。これに対抗している日本経済の姿というものはあまりにもみずぼらしい。たとえば石油にいたしましてもロサンゼルス付近におきまして石油の井戸の櫓は遠くから見るとあたかも林のごとく立っている。日本の1年の石油の生産額はその付近だけで出る数日の生産額にも及ばない。あるいはアメリカの1か月の鉄の産額が200万トンである。日本では八幡製鉄所で年産100万トンを理想として数年やってきているが、まだ100万トンには達しない」。これは、1926年に米国の産業を半年にわたって視察した商工省官僚だった岸信介の発言記録です。この後の行動には評価が分れるにしても、当時のものの見方はきわめて正しいと思います。現代においては、当時の米国を中国に置き換えて日本があくなき軍拡に走って活路があるのかと考えることができるかもしれません。
50年前の光景
50年前に沖縄が本土復帰したのは大半の日本国民にとって歴史上の遠い出来事となりつつあると思います。しかし、当時を知る一人として象徴的な光景は、当日の朝のNHKの報道番組「スタジオ102」においてそれまでの自動車の右側通行が一斉に左側通行へ切り替わる模様の生中継放送でした。もちろん通貨がドルから円へとか切手が琉球政府発行から郵政省発行へ変わる出来事があったのは知っていますが、本土に居ながらにして一瞬にして歴史が変わるのを実感できたという点では、これほど分かりやすい場面はなかったと思います。私の場合、太陽が南を回るか北を回るか、エスカレーター上で右側に立つか左側に立つかで、土地に対する違いを大きく感じます。エスカレーターでいえば、ヨーロッパ圏では右側に立ちます。モスクワの地下鉄を利用したことがありますが、駅が日本と比べると相当地下深いところにあり、エスカレーターがやたら長いという覚えがあります。登りの右側に立っていると、軍服姿の男性たちが左側を駆け上がっていく姿をよく見かけました。写真はクレムリン広場。
小先生にはなるな
さまざまな経歴を持つ構成員からなる団体の月例会議に午前中参加していました。地域社会の話題の中で教員出身の住民で認知症状態にある方が多いということでした。あくまでも印象ですから、具体的データに基づいた話題ではありませんが、私もそうした住民に出会った経験があるので、まったく的外れでもないなと思いました。現役を退いた後、気位が高くて近隣と交流がない方は確かにそうなりやすいと思います。地元出身で、幼馴染と気軽に付き合えるといいのですが、それが苦手だと難しいかもしれません。新興住宅の地区だとなおさらです。先生でもないのに先生と呼ばれることに慣れると、素直でなくなりますし、独善性が高まります。始末が悪いのは、グループの構成員同士で先生と呼び合う関係の団体もそうです。話してみると価値観が時代とずれている例や連絡手段が前近代的であったりする例など、これまたそうした場に遭遇した経験がありますので、十分気を付けたいと思います。
写真は、1989年5月撮影のロシア・サンクトペテルブルクの街角風景。中央にトロリーバスが写っています。当時の日本国内は女子差別撤廃条約を批准して男女雇用機会均等法が施行されてまだ数年という時期。片やロシア(当時:ソ連)国内の地下鉄やバスの運転手は女性の方がはるかに多い印象でした。それだけ若い男性が軍隊という職場に囲われる経済効率の悪さの裏返しという側面もあって男女同権というよりは職域すみ分けという考え方もあるかもしれません。ところで、トロリーバスから降車したいときは、車内に張り巡らされているヒモを引っ張るとベルが鳴って知らせる仕組みでした。地下鉄はどこまでいっても当時のレートで5円か10円という安さでした。
道はある
3月来、地元の遊休農地活用に際して農地中間管理事業の活用ができないか、リサーチしていました。県内の関係者に聴いたところ農振農用地以外の農地では行政上の支援措置は困難ということでしたが、愛知県の元職員の方から岩手県での事例を紹介され、地元の対象農地においてもある手順を踏めば活用可能ということが分かってきました。根拠法令の読み方一つ、使い方一つで答えがまるで異なる体験をしました。いろんな課題がありますが、道はどこかにあるわけです。このところ読んでいる『ヨーロッパ覇権以前』では、東の中国と西のヨーロッパが出会う前の時代にインド洋航路の記録がかなりあったことが記されていました。一年の中で西から東へ向かうのに適した風向きの時期があり、逆に東から西へ向かうのに適した風向きの時期があります。これらの時期を外すと、数か月から1年間、船を留め置かれるロスがあったといいます。先の例でいえば、いかにいい風を吹かせる人を掴むかで道は開けるということなのかもしれません。写真は、ロシアのレニングラード空港(現・サンクトペテルブルク)に降り立った時に見かけた路上のチョーク描き。子どものロシア版ケンケンパなのではと思いました。撮影当時の1989年は空港施設でカメラを向けるのは憚られる時代でしたが、たいへん興味深かったのでどうしても撮ってしまいました。
体育大会は嫌いだ
小中高を通じて基本学校は好きではありませんでした。今でも特にこの時期は学校周辺を通りかかると体育大会の練習の声が聞こえてきます。コロナ禍前には本番の大会に招待されて見に行ったことがありますが、行進などはどこぞの軍事パレードのようで気持ち悪くなります。当事者であった時代もこの本番に向けた練習などは、号令で一糸乱れるように子どもを調教するのがだれかのための満足だけにあるようで、まったくバカげているとしか思えず、まるでやる気が起こりませんでした。学校で唯一落ち着けるのは、昼休みの図書室だけで、小学校では毎日小学生新聞、中学校では世界、高校では朝日ジャーナルを手にすることが多かったように思います。たとえば、中学生の時にはどんな職業に関心が高かったかというと、作家でした。それもいわゆる純文学ではなく五味川純平のような戦争文学を好んで読んでいましたから、書くことよりもとにかく社会の根っこを知りたいという願望が強かったように思います。なので、作家になるためにはどうしたらいいかという方法論を考えることはありませんでした。当時の思い出として同じ中学のある生徒が将来の目標として地元の国立大学の法文学部に進んで、やはり地元の県庁に入りたいと話しているのを聞いて、相当衝撃を受けた記憶があります。まずそのような「コース」があることを当時の私は知りませんでしたし、それが優れて価値のある職業選択だという意識もありませんでした。ただただ驚いて他の人は非常に現実的な進路を考えているのだなと思いました。
写真は1989年のメーデーを迎えたときのサンクトペテルブルクで見かけたソ連兵の一団。
アーチだけが残った
写真左奥(1989年5月撮影)は、ウクライナの首都キーウにある「人民友好アーチ」の一部。ソ連の60周年とキーウの1500周年の記念碑公園として一帯は1982年11月7日にオープンしました。眼下にドニエプル川を臨めます。とにかく巨大なこのアーチの下には、ウクライナ人労働者とロシア人労働者が一緒に立っている様子を描いた彫刻があったのですが、2022年2月のロシアのウクライナ侵攻を受けてキーウ市の手により今年4月に解体されてしまいました。人民友好アーチ記念碑の一部であったアーチは、名前が変更され、新しい記念碑になる予定です。
メーデー
このところニュースで取り上げられることの多いロシアやウクライナにかかわる経験を思い出すことが多くなりました。あんまりモノにはならなかったロシア語学習の最初の気づきは、動詞の変化で出てくるのが「働く」であることでした。フランス語の初級テキストだと、動詞の変化で出てくるのが「愛する」なので、ずいぶん違うなあと感じたことがあります。働くといえば、5月1日はメーデーです。ソ連時代末期のレニングラード(現・サンクトペテルブルク)でその日を迎えたことがあります。街中が華やかに飾られ、通りに掲げられた横断幕に「平和(ミール)」の文字があったのが今も印象に強く残っています。同じく広場で見かけた市民が掲げる旗には「民主主義(デモクラシー)」の文字があって、これも意外なことで興味深い体験でした。ということで、それぞれの言葉を理解するというのは、重要なことで、相手に対する訴求力を持ちます。その点、中国だと中国語を学んだ経験はありませんが、漢字である程度の意味はわかります。たとえば、通信会社のHUAWEIを漢語表記は「華為」です。これは、文字通り中国の為にある会社ということが、社名からも明らかで、どう接するべきか考える起点になります。
あと5月1日は水俣病にとっては公式発見の象徴的な日であることも忘れてはなりません。
ウイグル支配の狂気
米国人のジャーナリストであるジェフリー・ケインが『AI監獄ウイグル』(新潮社、2200円+税、2022年)は、最新技術を用いた支配がいかに想像を絶する世界であるかを、中国のウイグル人の証言で示した調査報告です。用いられている技術の根幹は、いずれも米国発となっており、文字通り使えるAIとして「発展」できたのは、膨大な被治者のデータがあったからであり、皮肉なことに米国も実験開発の恩恵を受けたともいえます。
それにしても漢民族主体の中国当局によるウイグル人のデータ収集の徹底ぶりは凄まじいものがあります。顔認証に必要な写真撮影にあたってはさまざまな表情をさせますし、通信データ分析の基礎となる音声認証のために録音も行います。DNAデータ取得のために採血もされます。当局が「信用できない」家には、監視カメラ、もちろん音声も拾えるものが有無を言わさず設置されます。「再教育センター」といった拘束施設や強制労働の実態も明らかにされます。そうでなくても、中国における通信事業者は、政府が求めるままにデータを提供しなければならないことになっています。まるで個体識別番号が振られた肉食用家畜並みの扱いを受けている人々がいるのです。
一方、コロナ禍において対面での支援、特に福祉サービス面でのそれができづらくなっていて、デジタルテクロノジーを使った支援に目が向けられています。効率アップのメリットと相反する情報漏洩のリスクをどう防止するかについて常に考えなければならないと思います。
中国のような行き過ぎた監視社会は、支配民族側も監視されているわけで、内部からの告発もあり得るかと思います。支配する側も大きなリスクを抱え込みます。そうした綻びはいつか崩されることにならないか期待もあります。
写真は、投稿内容とは直接関係がない1989年のキーウ中心地にある独立広場の風景です。
惨劇を直視しよう
ウクライナで起こった戦争犯罪の実態が次々と明らかになっています。日本国内での報道では遺体の映像が加工されていますが、死者の尊厳の議論を考慮しても加工する必要はないと考えます。惨劇だからこそありのままの蛮行の証拠を直視して知り、次にどのような行動をとるべきか人類は考えなければならないと思います。
衝撃的な映像がもたらす子どもへの影響についていえば、放送時に予告するなどの対策を講じることは必要だとは考えますが、中学生以上の学齢では戦争の現実を知ってもらうことが重要なのではないでしょうか。
私の読書体験では、中学時代から戦争文学や反体制ルポルタージュに接しました。学校の図書室にあったベトナム戦争における米軍が起こしたソンミ事件の本には虐殺された遺体写真が載っていたのを記憶しています。五味川純平の『戦争と人間』では、皇軍が中国大陸で繰り広げた戦争犯罪を描いていました。『海の城』では、軍隊内ではびこるいじめが描かれていましたし、ソルジェニーツィンの『収容所群島』では、過酷な強制労働の実態を告発していました。また、雑誌『世界』(職員室から図書室へバックナンバーが回ってきていました)で連載されていたT・K生による「韓国からの通信」では、隣国における軍事政権vs民主化の現実を知ることができました。権威主義体制が必然的にとってしまう誤った道がそこにあること、ともすればそれは繰り返えされるということを学べたと思います。
写真は1989年5月に当時ソ連のキーウを訪ねた際のものです。場所は独立広場です。右端奥の建物は、4つ星のウクライナホテルで今も同じ外観です。5月上旬はメーデーから対独戦勝記念日にいたる祝祭の時期で、街頭は飾り立てられもっとも華やいでいます。今年はこれとはまったく違った風景になっていることだと思いますが、それでもマロニエの花だけは咲いているかもしれません。