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坂井徳蔵と西来庵事件

宇土にルーツがある湯徳章(日本名:坂井徳章)を「台湾の英雄」として顕彰する運動が地元で盛んに行われています。12月16日~来年1月16日まで、地元市役所1階市民交流スペースでは、パネル展「湯徳章と台南」が開催されています。台湾で製作された映画「湯徳章―私は誰なのか―」が来年日本でも公開されますが、同作品の後援にも本市が名前を出しています。TSMC進出で活気ある県北に対して、台湾との結びつきが弱い本市としては、なんとか台湾と交流を深めたい、それをかなえるうってつけのネタとして活用を図りたいということだと思われます。
それで、なんでルーツが宇土なのかということですが、父親の坂井徳蔵が当地の出身者であったからです。市役所に展示されているパネル説明では、徳章は父・坂井徳蔵と台南出身(台湾人)の母・湯玉との長男として誕生したことやその父が噍吧哖事件で亡くなったことが書かれていますが、同事件の内容や徳蔵の死亡理由については一切触れられていません。
宇土と台南との所縁を理解するのなら、まず坂井徳蔵が何者であり、なぜ台南で落命したのか、その原因となった事件を知ることが先なのではと思いますし、その理解なしには日台交流や徳章理解の起点としては浅いのではないかと思います。
パネルでは地名に由来する噍吧哖事件と表記されていましたが、歴史研究では西来庵事件と称されるのが主流だと思われます。日本台湾学会員の明田川聡士氏の論考記述によると、「西来庵事件とは、首謀者の余清芳(1879~1916年)が1915年に起こした抗日武装蜂起であり、余清芳事件とも呼ぶ。当時、台南市街には西来庵という廟宇があり、余や同じく抗日思想を抱く羅俊(1855~1915年)、江定(1866~1916年)らが蜂起を謀る密議の場となっていた。西来庵での謀議が検挙された後、余らは台南山間部の䬾吧哖(タパニー、現台南市玉井区)一帯に潜伏し、日本人官憲を相手に激しいゲリラ闘争を展開した。その際に総督府が制圧のために多数の地元住民に対しても無差別虐殺を加えたために、別に䬾吧哖事件(タパニー事件)とも呼ばれる。一説によれば、同事件に参加した義民数は10,000人に達し、烈士者は3,000人、無辜の女性や子供も3,000人超が犠牲になったという。事件後、被告人として逮捕・起訴された者は1,957名に上り、そのうち866名に死刑、453名に懲役刑が下された。「世界の裁判史上にない残酷な記録」となった判決は、台湾人を戦慄させ、内地社会にも大きな衝撃を与えた。」とありました。
徳章の父・徳蔵は事件当時、現台南市玉井区の警察署に勤める警察官であり、台湾人ゲリラ部隊の襲撃を受けて殉職しています。日本政府は内地から陸軍一個師団を増援急派するなどして鎮圧させますが、最終的に徳蔵を含めて95人の日本人が殺害されました。台湾人側は上記の通り866人が死刑判決を受けましたが、あまりにも多すぎるため日本人死者数と同数の95人に対して死刑が執行され、大正天皇即位式の恩赦により766名が無期刑に減刑されたといいます。また、事件後に、西来庵は台湾総督府によって破壊されています。
首謀者の余清芳(ユウ・チンファン)については、日本の台湾領有がなくなった後、中華民国政府が余清芳を抗日烈士と認定し、忠烈祠に祀り、台南忠烈祠に位牌を建て、台南市玉井の虎頭山に紀念碑を建てています。
徳章が父・徳蔵を亡くしたのは8歳のとき、母の姓である湯を名乗る台湾人として20歳のときに亡父と同じ警察官の職を得ます。28歳のときに亡父の弟・正三の養子となり、それから坂井姓を名乗り東京本籍の日本人となるのですが、警察内の日本人は徳章を台湾人として差別したため、当人は怒りに任せて警察官を辞職します。その後、33歳にして日本へ留学して高等文官試験の司法科および行政科に合格。36歳で台湾へ戻り弁護士を開業します。そして、38歳のときに養子縁組を解消して再び湯姓を名乗る台湾人に戻ります。その後に日本統治時代が終わり、国民政府へ移行し、39歳のときに自身も国民党へ入党しますが、40歳のときに二二八事件で坂井徳章の名で反逆罪に問われて処刑されます。
市役所の展示パネルでは、「銃殺直前、徳章は日本語で「台湾人万歳!」と叫んだと伝えられています。」と記されています。これには日本の某ライターの2017年出版の著書にある人物描写の影響が感じられます。やはり日本台湾学会員の研究者である天江喜久氏の指摘によれば、同書の記述にはとても史実とはいえないようなフィクションが多く混在していて文学ジャンルの作品といった方が正しいという評価です。もしも、それに依拠した二次資料を作成して、徳章英雄伝説が流布されているなら、危なっかしい限りです。
これも天江氏の論考からの参照になりますが、二二八事件とは、1947年2月27日に台北で闇タバコを売っていた女性が摘発され、暴行を受けたことに憤慨した民衆が翌日政府に抗議のデモを行ったところ、不意にも機銃掃射を受け、死傷者を出したことが引き金になり、民衆の不満が一気に爆発、台湾全島規模の暴動へと拡大していった政治事件のことです。この事件で各地の政府機関や軍の施設が襲撃され、外省人(戦後大陸から台湾へ渡ってきた人たち)が本省人(元から台湾に住んでいた人たち)の暴行を受け、死傷者を出す事態に発展しました。しかし、平和的解決を望んだ有力者たちは各地で「二二八事件処理委員会」を結成し、政府との交渉に当たります。行政長官公署長官の陳儀は表向き委員会と協調する姿勢を見せましたが、裏では中国大陸で国共内戦中の蒋介石に援軍を求める電報を秘密裡に送り、援軍の派遣が決まるや否や、協議を中止、全島に戒厳令を布き、二二八事件処理委員会を「叛乱団体」と指定し、そのメンバーの逮捕に踏み出しました。9日未明、軍が基隆に上陸するなり、政府は武力制圧に乗り出し、各地で多くの犠牲者を出す結果となります。そのうち、二二八事件処理委員会のメンバーを含め多くの者が冤罪を被りました。また、拷問(または拷問の恐怖)のためか、命乞いか、逮捕者の密告が相次ぎ、さらに多くの被害者を出すこととなりました。軍事裁判にかけられた者に公平な裁きが与えられたとは到底いえず、徳章もその犠牲者の一人となりました。
前述の日本の某ライターは、徳章が処刑された理由は軍の要求した「蜂起」に加わった学生の名を記したリストを提出するのを拒否したためだとしています。つまり、若い学生たちが連座され、裁かれるのを、身を挺して守ったというわけです。現実に、徳章の死後、拘留されていた容疑者は皆無罪となり、釈放されています。そのため、二二八事件時、台南市での死亡者が他の都市と比べて圧倒的に少ないのは、徳章一人が罪を被ったからだ、己を犠牲にし、台南を救った英雄という物語が某ライターの著書では強調されています。
しかし、これも歴史の研究者の指摘によれば、同書には作為的に情報を取捨選択しているフシがあるそうです。たとえば、事件当時、『台湾新生報』の記者を務めていた楊熾昌によると、徳章とともに二二八処理委員会のメンバーであった侯全成は当局が委員会のメンバーを厳しく処罰するという情報を聞くなり、軍司令部の人間に湯徳章の父親が日本人であり、問題人物であると密告したという証言を残しています。にもかかわらず、某ライターが著書のなかで侯全成など台南の一部有力者が徳章を裏切り、当局に差し出した点について踏み込んで検証していないのは、おそらくは徳章が「すすんで自分を犠牲にした」というストーリーを完成させたかったためではないでしょうか。日本人という「原罪」ゆえに、一部の台南の有力者、市参議会議員の知人たちに裏切られ、当局によって連行され、濡れ衣を被って徳章は処刑されたと見るのが的を射ていると思われます。
こうして見ると、台南の人たちからしても裏切り者の台湾人がいたという史実よりも日本とゆかりのある台湾人が台南の若者たちの身代わりとなってくれた美談で収めてくれた方がいいと思われているかもしれません。

写真は基隆。2019年撮影。

あんぱんで目を洗う

銀座木村家によると、昨日4月4日は「あんぱんの日」なのだそうです。今から150年前の1875年(明治8年)4月4日に創業者木村安兵衛が明治天皇へ「桜あんぱん」を献上したことを記念したからだと、そのサイトに由来が記してありました。NHK朝ドラの「あんぱん」が今週放送スタートしたこともあって、パンが人々へもたらす幸せ感に心が癒されます。
しかし、日本の近代化と製パン業・製菓業などの大企業の発展過程を見てみると、軍部との結びつきが強固だったことが意外と知られていません。平賀緑著『食べものから学ぶ現代社会 私たちを動かす資本主義のカラクリ』(岩波ジュニア新書)を読むと、日本では1885年ごろから機械製粉の小麦粉輸入が急増し、その主要商品は軍用パンやビスケットだったとされています。現在まで続く製パン業・製菓業の大企業の多くが帝国日本の海外進出に伴って誕生しています。具体的には、明治製糖(1906年)、森永商店(1910年)、味の素(1907年 創業時は鈴木製薬所)、日清豆粕製造(1907年 現・日清オイリオグループ)など。
しかも、日本の製粉業や製糖業、製油業(植物油)のみならず、原料を輸入する商社は、財閥系大企業による寡占でしたし、近代化を急ぐ政府はこれら新旧財閥を保護してきました。戦後の食料システムも基本的に同じです。現在の世界人口のカロリー摂取の半分以上は、小麦、コメ、トウモロコシという、たった3種類の作物で占められていますが、巨大企業と取引のマネーゲーム化の下で生産加工流通されているのが実情です。
それはともかく、朝ドラの「あんぱん」は、花粉症の時期ということもありますが、格好の洗眼剤となっています。主人公の朝田のぶちゃんが、長期の海外出張に赴く商社マンの父を駅まで見送って、その父が帰郷の最中に亡くなったという知らせが届く展開は、戦時中の私の母が体験した父親(私にとっては祖父)との思い出と重なり切なく思いました。
私の母の両親(私の母方の祖父母)は1930年に結婚、神戸港に近い西宮市甲風園に居を構え暮らしていましたが、開戦後、商船会社勤務の祖父は日本と南方を結ぶ軍の輸送傭船に乗務することもあって、家族は熊本市国府に留守宅を移すこととなりました。母と生前の祖父との別れは1943年の秋でした。1週間ほどの休暇を留守宅で家族と過ごしたのち、幼い子どもたち(私の母たち)だけで戦地に戻る父親を国府電停で見送ったといいます。祖父は1944年1月15日にフィリピン・マニラから台湾・基隆への途上バシー海峡で最期を迎えたので遺骨も家族の元へは帰ってきませんでした。
当時、国府の自宅は現在の宇土内科胃腸科医院の付近にありました。電車通り沿いに宇土屋旅館とその旅館の貸家数軒が並んでおり、その貸家の一軒で母たちは暮らしていました。1945年7月1日の熊本大空襲で一帯は焼失、多くの犠牲者が出ます。母たちは、その半月前に同地から祖父の実家がある不知火町へ移ったために、その難は逃れましたが、続く同月27日の松橋空襲を間近で体験しています。命を失う危険は当時だれにでもあったのです。
写真は現在の国府電停(2025年3月21日撮影)と基隆港(2018年7月28日撮影)。

著作権者探索の一元窓口

けさの朝日新聞紙面で目を引いたのは、「著作権対応へ一元窓口 政府計画 データベースを整備」の記事。どういうことかというと、たとえば本に掲載されている写真を利用したいときに、利用者は著作権者から許諾を得る必要がありますが、政府が著作物と著作権者、利用条件を登録したデータベースを整備することで、著作権者を探索しやすくする計画を決めたそうです。もっとも、著作権者不明や連絡が取れない場合もあります。現在は文化庁長官から裁定を受け著作物を使える裁定制度がありますが、いたって手続きの負担が重いので、一元的な窓口に申請して使用料相当額の支払いを済ませれば利用できる、新しい権利処理の仕組みを作ることも併せて計画するとのことです。音楽業界の著作権管理団体は著名ですが、出版物の場合、その出版社がすでに存在しなかったり、著作者が個人であったりすると、なかなか著作権者の探索はやっかいです。法律の基本書などは、著者が故人となっても重版されることがあり、印税の支払先の探索に出版社自身が苦労している例はあります。有斐閣のホームページには、著作権の相続人向けの告知コーナーがあります。価値ある著作物を遺して逝ったところの相続人であれば、こうした一元的窓口ができると、有益かもしれません。
またホームページに載せた写真と被写体人物の権利が問題になったニュースがありました。ある政治家が世界各地の女性を撮影して被写体の承諾を得ず勝手にホームページに掲載していたそうです。しかもその掲載コーナーのタイトルがずいぶん品がないものだったといいます。私も過去に海外で撮影した写真を載せていますが、個人が特定される肖像には気を付けています。
写真は、台湾の基隆(2018年7月撮影)。