「ミュージアム」タグアーカイブ

こころピア&くまもと文学・歴史館訪問記

いずれも会期中の始め頃に2026年熊本地震が起きて一時休館したため、訪ねる機会を逸していた2つの展示会場(どちらも入館無料)へ、8月最後の日曜日、行くことができました。
まず1つめは、玉名市立歴史博物館こころピアの「熊本地震から10年 くまもと戦争遺産被災レスキュー展」(会期:7/22-9/13)。展示会タイトルにある「熊本地震」は2016年発生のそれを指していますが、今回の地震でさらに県内の戦争遺産が失われる恐れがあります。出展者の「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」では、「熊本地震戦争遺産支援金」を募っていて、八代市郡築の「コンクリート製軍人像」ほかの3D測量や宇城市・八代市を中心とした戦時資料のレスキュー活動の費用に充てたいと呼びかけています。
https://kumamoto-senseki.net/images/2026/26081801.pdf
展示品の中に、写真の教育勅語額装がありました。書いたのは「学習院教授 小野鐗敬」とあったので、ネットで調べて見たところ、明治時代に活躍した高名な書家である小野鵞堂(本名:小野鐗之助)(1862-1922年)らしいです。「鵞堂流」と呼ばれる独自の仮名書風を確立し、現代の学校教育における習字の手本にも大きな影響を与えた人物であり、華族女学校(現・学習院女子中・高等科)などで30年以上にわたり書道を教えたということです。
同展関連イベントとして8月1日に玉名市文化センターで「長崎被爆体験証言会と紙芝居Ⅱ~日本原爆被害者団体協議会設立70周年記念~」が開催される予定でしたが、当日は地震発災から間もない日程で会場が避難所となったこともあり、11月15日に延期されています(時間と会場は同じ)。
https://kumamoto-senseki.net/images/2026/26081201.pdf
2つめは、くまもと文学・歴史館10周年記念大収蔵品展の「温故知新 文学と歴史でたどるくまもとの記憶2026」(会期:7/17-9/23)です。本展で取り上げられる人物の時代は江戸時代から明治・大正・昭和・平成まで、分野は文学者に限らず、藩主・教育者・思想家などさまざまです。明治憲法や教育勅語を起草した井上毅も紹介されていました。井上の熊本時代の師匠は、木下韡村(1805-67年)です。もともとは農家に生まれましたが聡明なため22歳のとき苗字帯刀を許された人物です。弟の助之の孫が劇作家の木下順二です。次男の広次は、井上の義弟(韡村の長女が井上の後妻)にして、京都帝国大学初代総長であり、嘉納治五郎の媒酌人を務めています。
https://www2.library.pref.kumamoto.jp/bunreki/cat3/cat1
こちらも関連イベントとして9月12日に佐藤信館長講演会「海外に開かれた熊本の歴史」が開かれるので参加申し込みを行いました。
https://www2.library.pref.kumamoto.jp/blogs/blog_entries/view/1945/7674ffc593d84ad90631799d278ebaf5?frame_id=2144

東京都美術館とワタリウム美術館訪問記

2026年熊本地震の後、断水が続いていたこともあって、8月半ばころまで首都圏に滞在していました。その間に、息抜きを兼ねて2か所だけ美術鑑賞の時間を過ごしました。
最初に訪ねたのは、上野にある東京都美術館で開催中の「大英博物館日本美術コレクション百花繚乱」。ロンドンにある大英博物館へは30数年前一度だけ行ったことがあります。日本美術を含む東洋美術の展示室は同館の奥まったところにあり、ゆっくり見て回るには数日かけないと無理だなと思った記憶があります。それと充実した施設にもかかわらず入館料が無料で、多くの寄付で文化を支える気風に感心した印象が強く残っています。
さて、本展の目玉は、青森(春景花鳥図襖)・ロンドン(秋冬花鳥図襖)・シアトル(琴棋書画仙人図襖)に分かれて所蔵されていた狩野派の一連・一組の襖絵が一堂に会するというものでしたが、江戸時代を代表する浮世絵作品も多数展示されていて、より見応えがありました。大英帝国時代のコレクターの作品狩猟ぶりはさすがというか、抜け目ないと思いました。1回の実物鑑賞だけでは飽き足らず、公式図録を買って帰りました。
訪ねた当日は、公園の一角で「パキスタン・日本親善フェスティバル」のイベントが開かれて賑わっていました。その隣の国立西洋美術館での常設展はその日、無料入館できたのですが、それなら中は込み合っているだろうと判断し、素通りして次の目的地であるワタリウム美術館へ向かいました。
ワタリウム美術館は地下鉄の外苑前駅から徒歩7分の地にあり、「没後20年 ナムジュン・パイク|じゅげむ展」の開催中とあって今回初めて訪ねました。ナムジュン・パイクのメディアアート作品に最初接したのは、40年以上前の時期でした。その後、韓国・果川市にある韓国国立現代美術館やニューヨークのグッゲンハイム美術館でも作品と対面した体験があり、それだけ思い入れが深いアーティストの一人です。
今展は同館ビルの2・3・4階で開かれていました。2階フロアには、檜(?)のチップが敷き詰められていてその香り、踏みしめた靴底から伝わる感触もあって、視聴覚だけにとどまらない作品の奥行を感じました。
ビル1階および地階にはショップやカフェ、ギャラリーが併設されていて、その空間もセンスが良く気に入りました。ギャラリーでは、コケシスキーの個展が開催されていましたので、思いがけず2つの展示を楽しめました。

熊本空襲を語り継ぐ集い

平和憲法を活かす熊本県民の会が主催する「第18回熊本空襲を語り継ぐ集い」に今年も参加しました。1945年7月1日の第1回熊本大空襲の際に本荘国民学校(現・本荘小学校)3年、8歳の少年だった寺本さんの証言を、いつも子どもたち向けに語るときに使っているという紙芝居仕立てで聴いてきました。その内容については取材に来ていた地元民放TV局のキー局サイトに載っていましたので、紹介します。
https://news.ntv.co.jp/category/society/kkc1f05e115a344c56a713d0e2855eeb34
この証言の前に、集いの代表幹事である高谷和生さんから、熊本大空襲に先んじて1945年の3月・5月から陸軍健軍飛行場と爆撃機「飛龍」を生産していた三菱重工業熊本航空機製作所へ空襲があったのは、米軍側が出撃基地と兵器工場を叩くことを優先していたからと解説がありました。同年7月の熊本大空襲の米軍の攻撃目標は健軍へ送られる部品工場がある南熊本周辺でしたが、実際の攻撃では東側にずれたと見立てていました。
三菱重工業熊本航空機製作所があった場所は、現在陸自の健軍駐屯地であり、今年長射程ミサイル部隊が配備されています。先の大戦当時も現代も有事となれば、直接の脅威をもたらす敵の出撃基地を相手側がまず無力化しようというのは当然です。それがために、指揮所や装備・弾薬がある健軍駐屯地の地下施設化が進められようとしています。一方、駐屯地が狙われるということは、周辺の住民・民間施設も危険に晒されます。まさに81年前のような被災に遭わないと断言はできないと考えます。
ところで、昨年12月にはFIFAの会長が、トランプ氏に「FIFA平和賞」なるものを贈ったことがありました。その後、イラン攻撃で多くの無辜の子どもたちが殺されたのですが、W杯に浮かれる人たちからFIFAへ平和賞を取り消せという声は聞こえてきません。そんなこともあって今回のW杯放送はまったく見る気になれませんでした。
この集いに参加する前には、2つの美術展会場を訪ねて心穏やかな時間を過ごせました。
6/15-7/31「フェルメール蘇る全37リ・クリエイト作品展」(肥後の里山ギャラリー)…元勤務先の前社長が熊大薬学部へ寄贈したリ・クリエイト絵画展。
6/23-7/4「大和淳子」(画廊喫茶オアシス)…中高時代の同級生の初個展。

「國學院大學博物館」訪問メモ

大学が運営するミュージアムの場合、入館料無料で日曜休館の施設が多いのですが、渋谷にある國學院大學博物館は月曜が休館なので、一般のミュージアムとハシゴ観覧しやすい施設です。ですが、日曜だとキャンパス内にある3カ所の学食がすべて休みなのでランチを楽しむことはできません。今回訪れたのは6月に入っての最初の日曜日にあたり、新卒採用シーズンでしたので休日にもかかわらずビジネススーツ姿の学生をかなり見かけました。同館へは渋谷駅からも恵比寿駅からも徒歩で迎えますが、それぞれの駅からバスも頻繁に出てますので、楽に行けました。
https://museum.kokugakuin.ac.jp/
博物館入口の前庭には同地周辺(東渋谷台地)の歴史の解説が表示されていて、朝鮮王族の李鍵公・李鍝公邸や朝鮮人女学生寮の鴻嬉寮などがあったとありました。(1945年8月6日、広島に置かれた第二総軍の教育参謀(陸軍中佐)であった李鍝公は、原子爆弾に被爆しています。同日、陸軍船舶部隊(暁部隊)の特攻兵器「マルレ」の訓練生たち(彼らも入市被爆します)によって救助されますが、翌日死去しています。広島の平和公園内に建つ韓国人原爆犠牲者慰霊碑の碑文にもその名が刻まれています。)
同館の常設展示は、考古・神道・校史の3つの部門からなっていました。大学の設立母体は皇典講究所ということでコレクションも皇族由来や神道関連が多くを占める印象を受けました。ただ、学問としてこの分野を研究するとなると、科学的検証も必要なわけで皇国史観とここではどう折り合いをつけているのか、モヤモヤ感も覚えました。
もっとも、今回の狙いは開催中の特別展「日本ベルギー修好160周年記念 美と知の交流の軌跡」でした。2002年日韓W杯の際に熊本をキャンプ地に選んだベルギーのサッカー代表チームの愛称が「赤い悪魔」なので、勝手に赤のイメージを強く持っていましたが、同国の漢字当て字は「白耳義」、そのため白と略されます。ちょっとしたことですが、情報一つでイメージがずいぶん変わるものだなと思いました。先入観なしにふらりと博物館を巡ってみるのもいいもので、大日本帝国憲法のモデルはプロイセン憲法とばかり思っていましたが、起草者である熊本出身の井上毅は、プロイセン憲法のモデルであるベルギー憲法にも学んでいたことも知りました。その展示資料は、國學院大學図書館が収蔵する、井上毅が所有していた文書・図書からなる「梧陰(ごいん)文庫」(「梧陰」は、井上毅の号)によるものでした。同文庫の成り立ちは、1957年に井上毅の継嗣・井上匡四郎氏(工学博士・第一次若槻礼次郎内閣の鉄道大臣)の篤志によって國學院大學に永久寄託され、その後、58年に寄贈へと切り替えられことにあるそうです。ベルギーと熊本の縁に寄せてその日はデザートに白熊を食べてみました。
https://www.kokugakuin.ac.jp/article/299808

「URまちとくらしのミュージアム」訪問メモ

国立歴史民俗博物館の「第6展示室(現代)」の解説パンフレット表紙には、東京都北区の赤羽台団地を空撮した写真が載っています。同団地は、日本住宅公団(現・UR)によって1959年から建設が始められ、1962年から入居が開始されました。当時、東京23区内では最大規模の3373戸を擁する「マンモス団地」として呼ばれました。もともとは被服本廠があった軍用地だったのですが、その広大な跡地には団地のほかにも3つの小中学校や公園、消防署、商店街などが設置され、高度経済成長の時代を象徴する最先端の生活の場所となりました。つまり、戦後復興の光の部分を代表する風景として表紙写真に採用されたのだと思いますし、その関連展示パネルも室内にありました。
1980年代前半の時期、団地内ではありませんが、私はこの赤羽台に住んでいました。そのため、個人的にも思い出深い街です。現在同団地は再開発され一部の建造物が残されているとともに、URまちとくらしのミュージアムが2023年に開館して集合住宅の歴史を伝えています。旧赤羽台団地の「41号棟(板状階段室型)」と「42,43,44号棟(スターハウス)」の外観は無料でいつでも見学できますが、同潤会代官山アパートや日本住宅公団黎明期の蓮根団地や晴海高層アパート、多摩平団地テラスハウスといった復元住戸を含むミュージアム棟は、事前予約制の90分間ツアー形式での無料見学となっています。
https://akabanemuseum.ur-net.go.jp/
水・日・祝日が休館で、ツアーは1日3回組まれています。私が参加したときは、1組15人程度で年齢層は中高年が大部分でした。外国人観光客と思われる参加者もいました。1979年に欧米から日本の住宅の狭さを「ウサギ小屋」と揶揄されたのが、中高年層の頭の片隅には残っていると思いますが、実際に高度経済成長期の住宅のしつらえに接してみると、生活の温かさが感じられたり、将来への希望が持てた時代の明るさがよみがえってきたりします。
以下はツアーで得たマメ知識。ガイドは若い女性でしたが、解説はよどみなく、時間管理や見学者捌きもテキパキしていて仕事ができるなと感じました。
・同潤会代官山アパート時代の電気料金は使用量ではなく設置する電球数で決められていた。トイレには照明具を付けなかった。部屋番号は建物全体の通し番号で振っていた。たとえば148号室でも5階に所在。高い部屋の外壁には縄梯子を架けられるフックがあった。
・公団初期の蓮根団地の流し台は石製。一戸ごとに職人の手作りだった。風呂桶も木製。
・前川國男設計の晴海高層アパートにはエレベーターが設置されたが、着床する階が3階ごととなっており、階によってはアクセスが悪かった。各階廊下に共通電話があり着信を交換手が各戸へ知らせ受信をしらせるボタン設備が各戸にあった。流し台はステンレス製。トイレも洋式。
・昭和30年代の郊外の団地には専用庭のある長屋建てのテラスハウスと呼ばれる低層集合住宅が多く建設された。
※この赤羽周辺には戦跡や鉄道見物スポットもあるので、別に投稿します。

「明治大学博物館」訪問メモ

大学が運営するミュージアムは日祝日休館の所が多いですが、一般に無料見学できることも多く、何よりも解説が充実していて結構見応えがあるものです。昨年10月には川崎市の生田にある明治大学平和教育登戸研究所資料館を訪ねて同館が考察対象とする「第九陸軍技術研究所」(秘匿名「登戸研究所」)が研究・開発していた秘密戦兵器・器材の記憶をじっくり受け止めてきました。とりわけ戦争の歴史については、被害や戦功は表の記憶としてまだしも語りつがれやすいのですが、加害の部分に加えて秘匿すべきとされた裏の記憶はどうしても消されやすいので、それを継承する意義は大きいと言えます。
さて、今回は神田駿河台にある明治大学が運営するミュージアム「明治大学史資料センター大学史展示室」「明治大学博物館」「明治大学阿久悠記念館」「明治大学米沢嘉博記念図書館・現代マンガ図書館」の4施設を初めて訪ねてみました。
以下は各展示の一口メモです。
・大学史展示室…卒業生の紹介コーナーなどがあります。しおりの表紙にはNHK朝ドラ「虎に翼」の主人公モデルで日本初の女性弁護士となった三淵嘉子さんが載っていて今も力が入っているなと思いました。総理大臣経験者の三木武夫氏については在学中の弁論写真も展示されていましたが、昨年亡くなった村山富市氏の紹介がないのは少し残念に思いました。1936年のベルリン五輪の金メダリスト・孫基禎氏に関連して日章旗抹消事件は承知していましたが、同氏が翌年明治大学に進学したことや卒業生だったことはここの展示で初めて知りました。
https://www.meiji.ac.jp/museum/university/daigaku.html
・明治大学博物館…商品部門、刑事部門、考古部門の3つの展示コーナーに区分されています。商品部門では午年にちなみ、ことわざの「瓢箪から駒」を表した縁起物のコレクションが特集展示されていました。「瓢箪から駒」の語源は、驢馬に乗って移動していた中国の仙人が、乗らないときは瓢箪の中に驢馬をしまっていたいたという昔話だと言われているそうです。「現実には起こりえない、ありえないこと」あるいは「思いがけない出来事が実際に起こること」の例えとして用いられ、転じて「思いがけない幸運に恵まれる」という縁起物が生まれたというわけです。刑事部門では拷問具や死刑罰具のゾッとする展示が目を引きました。考古部門の特集展示では中国鏡のコレクションが見られました。常設展示では関東地域から出土した収蔵品が多い印象を受けました。
https://www.meiji.ac.jp/museum/
・阿久悠記念館…5000曲以上の作詞を手掛けた稀代のヒットメーカーのメモリアル施設です。受賞トロフィーや年表を眺めると1970年代は阿久悠氏の30-40歳代の働き盛りであり、人の出来不出来はだいたいこの年齢で決まるよなと感じました。特に注目した展示は、氏が執筆には「ぺんてる社」のサインペンを愛用していたということと、作品を納品する際の原稿用紙には絶対に推敲修正の跡を残さないということと必ずタイトルをデザインした表紙を付けていたという仕事の完璧さです。父親は淡路島内を転勤する警察官で、元々は宮崎県の出身だったそうです。そのため一時期は宮崎県での教員を目指したそうですが、大学卒業後は広告会社に就職しています。また、戦争では兄が19歳で戦死しています。
https://www.meiji.ac.jp/akuyou/
・米沢嘉博記念図書館・現代マンガ図書館…明治大学博物館や阿久悠記念館が入るビル「アカデミーコモン」の裏手には明治大学が所有する「山の上ホテル」があり、改装工事中でした。そこから近いところに当館はあります。ここは火・水・木が休館なので、明治大学博物館とハシゴして訪問したいと場合は注意が必要です。それに開館時間も午後以降と遅めです。展示室は無料ですが、図書閲覧室利用は有料です。訪問したときは「コミケ50周年展」が開かれていて、入館者数は明治大学博物館よりも多かったです。館名にその名を冠する米沢嘉博氏は1953年、熊本市に生まれ、明治大学理工学部を卒業しています。1980年から亡くなる2006年までコミックマーケット準備会代表を務めました。コミックマーケット(略称:コミケ)とは、世界最大の同人誌即売会です。直近(2025年12月、東京ビッグサイト開催)の「C107」の2日間の入場者数は30万人、海外からの参加者は少なくとも75カ国といいますから、相当なものです。普段は縁遠い世界ですが、これがこれからも続けられることを切に望みます。
https://www.meiji.ac.jp/manga/yonezawa_lib/
※番外:今年3月にリニューアルオープンした三省堂書店神田神保町本店ものぞいてみました。オープン記念のノベルティグッズ欲しさに、小島和男著『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』(幻冬舎新書、960円+税、2026年)を買い求めました。
https://jinbocho.books-sanseido.co.jp/
https://www.gentosha.co.jp/book/detail/9784344988057/

「港区立郷土歴史館」訪問メモ

「港区立郷土歴史館」の開館は2018年のこと。開館して10年も経っていない比較的新しい施設であるため、今回初めて訪問しました。同館が入居する建物自体は、1938年竣工の歴史的建造物である「旧公衆衛生院」です。展示室は有料ですが、無料で建物見学できるエリアもあります。建物は東大キャンパスの時計台をすべてデザインした内田祥三の仕事だけに、権威オーラをたっぷり放つ存在感は圧が強いです。この建物の6階には「白金台学童クラブ」が入っていて、いったいどんな子どもらが利用しているのだろうと、下世話な興味をかき立てられます。さすが1人あたりの納税額日本一の自治体である港区だなと感じさせられました。「旧公衆衛生院」の隣りには同じく内田がデザインした「東大医科学研究所」の建物があり、そちらも対で見る価値があります。
さて、その港区の歴史ですが、6000年前は温暖化により海面が上昇しており、海岸線は現代よりも内陸にありました。そのため、港区内には縄文時代の貝塚が8カ所あるそうです。江戸時代になると、伊皿山貝塚の上には寺があり、同時代のネコの墓石が出土しています。ほかに地方の各藩の屋敷が数多くありました。熊本の細川藩の中屋敷もその中にありました。明治以降は広大な藩屋敷の跡地が軍用地として使われました。戦後の1962年に漁業権が放棄されるまでは漁業も盛んでした。その後も自主漁業がおこなわれていましたが、PCB汚染問題が出てからは自主規制となりました。
企画展では、「おもちゃ絵」が開催中でした。展示されている絵を眺めると、明治というと近代化の時代と考えがちですが、人々の暮らしや風俗について言えば、江戸時代と大きな違いを感じさせないものがありました。
特別区の歴史館とはいえ資料が充実しコンパクトに見やすい展示が施されていて堪能できました。『常設展示図録』(1冊1000円)もいい作りなので買い求めました。
この日は、東大医科学研究所、日東坂を通って恵比寿の東京都写真美術館まで歩き、「W.ユージン・スミスとニューヨークロフトの時代」を鑑賞しました。さらにその後、渋谷へ向かい、國學院大學博物館で開催中の特別展「日本ベルギー修好160周年記念 美と知の交流の軌跡」とハシゴしました。これについては別稿をアップします。

「漱石山房記念館」訪問メモ

夏目漱石(1867-1916)が亡くなるまでの9年間を過ごした旧居は「漱石山房」と呼ばれ、1945年5月25日の空襲で焼失するまで早稲田南町の地にありました。2017年、その地に「新宿区立漱石山房記念館」が開館しました。一度ぜひ訪ねてみたいと思っていましたが、最近初めて観に行きました。館内の展示は有料ですが、図書室やブックカフェだけの利用も可能ですし、建物の周囲の植栽や裏手の「猫の墓」(猫の名前は「福猫」)がある漱石公園、あるいは早稲田駅からそこへ至る「漱石通り」、夏目坂、生誕の地碑など、見どころがたくさんあり、楽しめること請け合いです。近くには予約制になりますが、草間彌生美術館もあります。
https://soseki-museum.jp/
さて、訪ねたときには企画展「夏目先生 漱石の教師時代」が開催中でした。漱石の孫にあたる夏目房之介氏が2008~2021年、学習院大学教授を務めていましたが、漱石自身も学習院へ英語講師としての就職を希望し、一高時代の同輩で先に学習院教授を務めていた立花銃三郎(三池藩家老の三男)宛に送った書簡が展示されていました。ですが、残念ながら不採用になってしまいます。このときのいきさつは下記の論考が参考になります。
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/12070/p001.pdf
熊本の五高教師時代にやはり立花銃三郎へ出した書簡も展示されていました。ここでは、腸チフスにかかり学費も払えずに退学処分となった漱石の教え子を、学習院へ転入学させてほしいという内容でした。かなり教え子思いだった漱石の人柄がうかがえました。
漱石は五高勤務、英国留学を経て東京帝大と一高の英語教師に転じますが、一高での教え子に後に学習院長を務める安倍能成がいます。夏目坂通りに「夏目漱石誕生之地」の石碑が建っていますが、これを揮毫したのが安倍能成です。「遺弟子安倍能成書」と刻まれています。このように漱石と学習院の縁を感じました。

「国立歴史民俗博物館」訪問記

千葉県佐倉市にある佐倉城址の一角に建つ「国立歴史民俗博物館」が開館したのは1983年のこと。都内に在住していたその時分に一度行ったきりで、以来足が遠のいていましたので、先ごろ40年以上の時を経て2度目の訪問を行いました。沿革で振り返ると、前回訪問時の展示規模は現況の半分以下でしたし、リニューアルもあって、今回訪ねてみると、まったくの別モノ、初めての施設といった印象を持ちました。それと、急に思い立って向かったので、着いたのが閉館まで残り1時間という状況でした。第1展示室(先史・古代)だけで気付いて見ると30分を費やしてしまい、続く第2(中世)・第3(近世)・第4(民俗)・第5(近代)・第6(現代)の展示室については相当駆け足の見学となってしまいました。本来朝から夕方まで終日通しで観に行くつもりで予定を立てるべき施設だったと思いました。
さらに、同地は、佐倉城址であるとともに、先の大戦まで旧日本陸軍の歩兵第五十七聯隊(1944年、フィリピン戦で壊滅)の兵営があった戦跡の場所でもあります。近現代史のオープンミュージアムの地でもあることを踏まえると、第6展示室だけでももっと丁寧に観たかったと悔やみました。熊本関連ではチッソと水俣病の展示がありました。
https://www.rekihaku.ac.jp/

つなぎ美術館での贅沢時間

昨日(2月14日)、水俣での用件を済ませた帰り道に、つなぎ美術館へ立ち寄り、台湾・高雄出身のアーティストの陳漢聲(チェン・ハンシェン)さんと劉星佑(リュウ・シンヨゥ)さんの作品展を観覧してきました。これらの作品は、昨年8月から11月にかけて津奈木町や近隣地域に2人が滞在する中で制作されたものです。展示は、2人のユニット「走路草農藝團」としての作品展とそれぞれの個展の3部構成となっていました。
入館したときの客は私1人だけでしたので、貸切状態で贅沢な観覧時間を過ごすことができました。陳さんの「田の神」といい、劉さんのご両親が出演協力した写真といい、ほのぼのとした優しさを覚える作品で、自然が身近に感じられた郷愁のようなものも得られた思いがしました。
同館所蔵の常設展示のブロンズ作品であり、浜田知明氏作の「無聊」(1988年)もあわせて観覧しました。

宇城市内での戦争展観覧記

宇城市内で開催中の戦争展を2つ観覧してきました。以下は、その感想メモです。

(一社)くまもと平和ミュージアム設立準備会主催「戦後80年 うき戦争の記憶展 ~戦時下の暮らしと文化~」
会期は12月7~14日まで、イオンモール宇城のセンターコートで開催されるという情報を宇土高校のブログで知り、初日にさっそく訪ねてみました。高校のブログには同高の生徒がボランティアで会場に入っているとのことでしたが、11時台に立ち寄った際にはその姿はなく、展示スペースが予想以上に広い割に来場者はほとんどなく閑散としていました。展示品の多くは宇城市在住の退職教員の方が所蔵する戦時下の子ども向け出版物やおもちゃでした。何度か目にしたことがある資料がほとんどでした。
出品者の意向としてできるだけ多くのコレクションを来場者の目に触れさせたいのだろうと思いましたが、パーティーションに所狭しと掲出されてあり、雑然とした感がありました。資料の解説文の文字が大きい反面、サイズもA4と大き過ぎて、資料より目立ち過ぎていました。資料の並びも時系列なのかテーマ別なのか分かりかねました。
また、タイトルに「うき」と入っているので、地元の資料展示に重きが置かれているというイメージで来場しましたが、松橋空襲などの資料は会場奥の隅の方に展示されており、その点でもちぐはぐ感がありました。
このように国民をある方向へ追い込んでいった戦時下の社会の空気を伝える展示はたいへん重要ですが、あまりにも見せ方に工夫が足らず惜しい気持ちがしました。
ひとつ儲けものだったのは、この会場で宇城市立郷土資料館の企画展の案内チラシを得たことです。その足で行ってみることにしました。

宇城市立郷土資料館「終戦80年企画展 モノが語り継ぐ戦争」
この資料館は、宇城市豊野支所近くにある施設で、今回初めて訪ねました。入館は無料で私以外に来館者はなく、貸切状態でじっくり観覧できましたし、展示方法や解説も工夫が凝らされていてコンパクトでしたが、たいへんためになる施設でした。
こちらの松橋空襲の展示では、郷土誌『燎火(かがりび)』の第5号(1993年3月発行)・第13号(2006年3月発行)・第18号(2011年3月発行)掲載の証言手記が読め、たいへん実相を知るうえで役に立ちました。同誌を読んでみると、宇城市松橋町出身の故松浦豊敏氏の寄稿などもありましたし、市の文化財審議員の中に私の小学生時代の恩師が就いていたこともわかりました。なお、同誌バックナンバーは宇城市文化課において1冊500円で販売しているとのことです。
1945年8月7日の松橋空襲については、そのうちの1機(米陸軍中型爆撃機B25)が、現在の八代市鏡町の氷川河口に墜落し、搭乗員5名が捕虜となり、地元住民によって傷害を負わせられています。しかも、8月15日に捕虜虐待の証拠隠滅(表向きは日本の市民に対する無差別爆撃の罪)のため、福岡で日本軍(戦後これにかかわった軍人はB・C級戦犯として起訴)によって処刑されています。これらの日本側の加害の歴史も展示解説で触れられていました。貴重な資料も適切な説明があってこそその教訓が伝わります。

これもついでに。
12月5日のNHK総合で「時をかけるテレビ 池上彰 “医師の罪”を背負いて 九大生体解剖事件」という番組がありました。もともと戦時下の医師の倫理観に迫るドキュメンタリーとして2015年に放送されたETV特集「“医師の罪”を背負いて~九大生体解剖事件~」を取り上げた番組で、生体実験の現場に立ち会った当時19歳の医学生だった故東野利夫さんが、生涯をかけて罪と向き合い、語り継ごうとした記録です。生体解剖事件の対象となったのは、戦時中に墜落した米軍爆撃機B29の搭乗員たちでした。その墜落後の捕虜の扱いについても自決に追い込んだ例もありますし、国際法に照らして危害を加えなかった例もあったと紹介されました。戦後、東野さんは唯一生き残った機長に会い対話していますが、その機長も無差別爆撃の体験を家族にも伏せてずっと苦しんできたことが明かされました。東野さんの母校・九大医学部に歴史館がオープンした当初の事件の扱いはあまりにも小さく同氏を落胆させましたが、近年になって同氏提供の資料も含めて大きく取り上げるようになったといいます。歴史は多面的に見なければいけないことを感じました。
(熊本日日新聞ではこの事件に関連する「殉空に散る」が連載中です)
九大医学部出身関係者について言えば、12月6日のやはりNHK総合で放映された「新プロジェクトX 75万人命救った用水路~医師・中村哲 希望のアフガニスタン」で紹介された故中村哲さんの業績も凄いと感じます。本来このような人物がノーベル平和賞を受賞すべきでした。米国大統領は、同賞を切望するただの破廉恥な人物に思えます。せいぜいFIFA平和賞止まりであってほしいものです。
https://www.lab.med.kyushu-u.ac.jp/rekishikan/
https://www.web.nhk/tv/an/tokikaketv/pl/series-tep-WQGK99QWJZ/ep/2L7J19XXJG
https://kumanichi.com/articles/1932457
https://www.web.nhk/tv/pl/series-tep-P1124VMJ6R/ep/8XWVR96MXN

ばけばけ関連展をハシゴ

NHK朝ドラで現在放映中の「ばけばけ」はあんまり視聴していないのですが、たまたまラフカディオ・ハーン(小泉八雲)関連の企画展が熊本市で2つ開催中なので、観覧してきました。昨夏、松江を訪ねる機会があり、当初は同地の小泉八雲記念館へも立ち寄る予定でしたが、松江城の堀を舟で巡ったり、天守閣まで昇ったりで、入館の時間がなくて記念館の前を素通りしただけでした。そんなこともあって、一種のリベンジの意味もあって足を運んでみた次第です。

まずは、熊本博物館の特別展「八雲とセツ 家族の物語」から見てみました。JR上熊本駅で降り、そこから熊本市電に乗り、杉塘電停で下車。城内へ向かって歩いていくと上り坂ですが、割とすぐ着きました。同館へ行くのは約20年ぶり。そのときは子どもらを連れてプラネタリウムや屋外展示のSL見学が主目的でした。その後、リニューアルもありましたし、今回の入館は初に近い印象でした。
特別展の内容は、小泉セツの回想を裏付ける八雲の書簡が中心となっていました。その書簡を通じて、八雲の家族に対する思いが伝わりました。なんといっても当時では国際結婚自体が稀有なことでしたので、家族とどのような関係を築いていくかいろいろ工夫しなくてはならないことが多かったとようにうかがえました。長男が生まれた頃は正式な婚姻ではなかった(八雲の帰化はその後)ため、セツにすべての財産を遺贈する旨の遺言を当時作成していたことも展示で知ることができました。先着1000人限定の特別展プレゼントのクリアファイルもまだ開催2日目ということでもらえました。
せっかくの機会なので、常設展もひと通り観覧しました。細川家の参勤交代に際しては現在の大分の鶴崎から大坂までは海路であり、そのために川尻の大工たちに御座船「波奈之(なみなし)丸」を造らせました。展示室にはこの船の御座所部分があります。参勤交代の経費は、現在の価格に換算すると12億円ということでしたから、相当な負担だったことが改めて理解できました。旧石器時代の出土品の展示では、この施設が熊本市立ということもあって熊本県が発掘を行った熊本市の「石の本遺跡」のものの展示がないのかなと思いました。一方、縄文時代の出土品の展示では、現在の宇土市の轟貝塚や曽畑貝塚のものがあって、そうした運営自治体と遺跡出土自治体との関係がどうなのか気になりました。なお、貝塚があった時代の海岸線の図も展示されていたので、その写真も示しておきます。時代が下って近代の熊本は軍都という面がありましたので、戦争関連の展示の割合をもっと多くあってもよいのではと思いました。アンケートに回答すると熊本城のポストカードをもらえました。
さらに、熊本博物館の近くにある護国神社の境内に、戦後復員した伯父が所属していた第三十七師団の「歩兵第二二五聯隊慰霊碑」があることを知っていましたので、こちらも見てきました。その隣に建つ同じく熊本編成の第二十三師団(ノモンハン事件の主力部隊)の碑には坂田道太氏の揮毫がありました。
https://kumamoto-city-museum.jp/

次に熊本大学黒髪北地区内にある五高記念館の企画展「五高教師ラフカディオ・ハーン」も観覧してきました。熊本大学のキャンパス敷地内に入ったことはこれまで何度もありましたが、五高記念館の館内に入るのは実は初めてでした。1階が常設展示室となっているため、そちらから見て回りました。五高の成り立ちから理解できるようになっています。ラフカディオ・ハーンは、五高教師としては夏目漱石(金之助)とともに著名ですので、常設展示でもハーンのことを多く取り上げていました。企画展示は、2階の2室を占めていました。ハーンが出題した英語の試験問題文を読むと、英会話的な試験ではなく、英文で書く論文試験の印象を受けました。嘉納治五郎とハーンがサインした雇用契約書が展示の目玉という気がしました。
ついでに、ここも初めての入館でしたが、やはり五高時代の化学実験場を会場とする「明治の地質学掛図と描かれている化石」の展示も見てきました。ここには、階段教室も保存されています。展示室には理学部地球環境科学コースの現役教授のコレクションの化石が多数展示されていました。大学自体が保有するアンモナイト化石の大きさには驚きました。化石が発掘実習を行った北海道では漬物石代わりに使われていたエピソードも紹介されていて、父方の祖母が戦後焼夷弾の残骸鉄くずをやはり漬物石代わりに使っていたことを思い出しました。
帰りに赤門と正門間の歩道で500円硬貨1枚と10円硬貨2枚を拾ったのですが、子飼交番までは距離もあり届けるのも面倒なので、少額でもあるので、五高記念館の募金箱に入れてきました。おそらく防犯カメラにも記録されていると思います。
https://www.goko.kumamoto-u.ac.jp/

2025年12月4日の熊本日日新聞2面「射程」欄にも同紙記者によるハーン展はしご記が載っていました。
https://kumanichi.com/articles/1932266

東京大学生産技術研究所S棟1Fギャラリー

東京大学生産技術研究所S棟1Fギャラリー https://sites.google.com/view/connecting-artifacts/05
「Connecting Artifacts05 つながるかたち展05」
開館日の時間に訪ねてみましたが、なぜか入口が閉ざされていたので、外からとインスタとで見ました。
駒場Ⅱキャンパスは、駒場博物館のある駒場キャンパスと異なり、教育拠点というより研究拠点という色合いが濃く、キャンパス内の人通りは少なく、オフィスビル風の施設が目立ちます。それでも、シンボルのイチョウの木があるのは共通で鮮やかに色付いていました。
写真はどちらかというと、先端研のが多いです。西門の前に太陽光発電の自販機が設置されています。

日本近代文学館

日本近代文学館 https://www.bungakukan.or.jp/
2025年度秋季特別展「滅亡を体験する 戦渦と文学 1936-1950」
タイトルから期待して訪問してみましたが、思ったよりも1936~1950年の歴史解説に重きが置かれて、そのため展示資料も新聞・雑誌の方が目立ち、当時の報道ぶりは理解できても、肝心の同時代の文学人たちの発言や思いが何だったのかが伝わりにくい構成になっていたように感じます。原稿が掲載された雑誌や図書の実物が展示されていても、ショーケース越しに閲覧するとなると、文字も小さいですし、何か書いてあるよなあ程度にしかなりません。
せっかくのコレクションがあっても図画とは異なり発言が伝わらなくては…。なんだかもどかしい展示でした。

駒場博物館

駒場博物館 https://museum.c.u-tokyo.ac.jp/
秋季特別展「世界をビジュアル化する 未完の地図製作史」
当然のことですが、初期の地図は図も地名文字もすべて手書きでした。それと、影響力を行使したい相手先の詳細な地理情報を手に入れるのがいかに価値の高いものであったか、良く言えば交易、悪く言えば資源収奪の歴史と共に精緻化されていったんだなあと感じました。

ミュージアムめぐりの楽しみ

『忙しい人のための美術館の歩き方』(ちくま新書)という本が、今年7月に出て現在4刷1万9千部を数え、11月22日の朝日新聞読書面「売れてる本」欄で取り上げられていました。その本は書店で手に取ったことがあり、目次だけ流し読みしたことがあります。結局、私の場合は、読者として想定されているほど忙しないわけじゃないし、日頃から機会があれば美術館へ足を運んでいるので、いまさら必要ないかなと買いませんでした。
そこで、私の場合は、何が面白くてミュージアムめぐりを続けているかを振り返ってみます。突き詰めると、自分の好み・興味は何なのかを確認したい、自分の価値観を知りたいということなのではないかと思います。自分にはない才能の発露・知見の結晶を発見することで、より広く、より深く、自分を再発見する楽しさがあるのではないかと思います。それが世の中の役に立つかと言われれば、そもそも作品化・展示化した側だってそういう功利的な野心で表現・出品したとは限りませんから、観覧する側もそのつもりはありません。
それで、数あるミュージアムや展示の中からなぜそこを選んで訪ねるのかという理由もさまざまです。好きな作家の作品が出ているからというのが大きいですが、テーマ・企画意図が気になってということもありますし、ハコそのものへの興味ということもあります。同じ作家でも時期によって作風が異なることもありますし、さして好みではない作家でも題材次第では気になる作品があるということもあります。そうした点は文学その他の作家作品や日常の人付き合いでも同じなのではと思います。
今月後半だけもさまざまな会場を訪ねました。順不同ですが、葛飾北斎、岡本太郎、浜田知明、奈良美智、山口晃あたりが気になる作家だなと思いました。テーマでは、戦争や猫をけっこう気にしているなあというのが見えてきます。
写真(左) すみだ北斎美術館から見える東京スカイツリー。
写真(右) 清澄白河駅から東京都現代美術館へ向かう途中で見かけた石柱。「出世」を考えなくて済む気楽な稼業がいいねと思って撮りました。

調布市武者公路実篤記念館

調布市武者公路実篤記念館・実篤公園 https://www.mushakoji.org/
秋の特別展「細川護立と武者小路実篤 同級生、信頼の軌跡」
同館の成り立ちは実篤の死去後に遺族から愛蔵品や自宅建物・土地を調布市へ寄贈したことにあります。旧宅および敷地はそのまま公園となっています。今回の特別展は学生時代より実篤の活動を資金面で支援した護立との友情の歴史を辿るものでした。互いに信頼し合い、自由に文学と芸術に取り組んでいたことが理解できました。

府中市美術館

府中市美術館 https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/
「フジタからはじまる猫の絵画史 藤田嗣治と洋画家たちの猫」
アクセスは、府中駅(あるいは東府中駅)から30分間隔で運行している、「ちゅうバス」を利用すると、館の目の前で乗降往復できるので便利です。運賃も100円で済みます。
藤田嗣治については、正直なところ大して好みの画家ではないのですが、猫には罪はなく、猫が描かれた絵には関心があるので、つい足を延ばしてみました。11月19日の朝日新聞1面のコラム「天声人語」でも本展について触れてあり、それも後押しになりました。
会場ではフジタの猫の前史として菱田春草の「猫」の展示がありました。春草の「黒き猫」は10月に永青文庫で観覧しましたが、やはり日本画の猫が、味があります。加えて言うなら江戸時代の浮世絵に出てくる猫たちの方がさらに愛らしいと思いました。2年前に太田記念美術館で観覧した「江戸にゃんこ 浮世絵ネコづくし」展は、今思い返しても至福の時間でした(図録も大切に保管しています)。
ただし、本展の企画実現の熱意は大いに感じました。各地から猫の絵を交渉して掻き集めてくるのですから学芸員が相当猫好きでないとできない仕事ではないかと思いました。それと初めての来館でしたが、セットで観覧できるコレクション展が充実していて満足しました。府中と言えば三億円事件の被害を受けた東芝の工場で有名ですが、これほどの収蔵品を持てるとは財政が豊かなのかなと羨ましくもありました。

WHAT MUSEUM

WHAT MUSEUM  https://what.warehouseofart.org/
「諏訪敦 きみはうつくしい」
本展についての記事が朝日新聞東京本社版の11月11日夕刊に載っていて、それで興味を覚えて行ってみました。場所は、天王洲アイル駅より徒歩5分、東京湾岸の物流倉庫が立ち並ぶ一角にあり、美術館の施設自体も運営会社の「寺田倉庫」の一区画を占めています。倉庫の特性を活かしてスペースが広く天井も高い展示会場でした。公立では大きなハコの美術館は珍しくないですが、私立のギャラリーとしては開放感があり大作の展示にも向いている会場だと思いました。
会場内では諏訪敦自身が登場した、2025年作の「汀にて」の制作過程を追った映像の放映があって、作家本人の対象への向き合い方の変遷が示され、作品に込めた意味が理解できる助けとなりました。
諏訪敦は、身近な人間の死に、人が物体化していく汀(みぎわ)を感じるのだと言います。死期が近まり病室に横たわる自身の父親や母親を間近に見て表現した作品もありましたし、満州開拓団の一員であり、帰国前に外地の難民収容所内で亡くなった、父方の祖母の場合は、現地取材して追想をつかみ作品化したものもありました。