81年前のサントス事件など第2次世界大戦中と戦後にブラジルで日系移民が受けた迫害に対して、同国政府が初めて謝罪したことが、けさの新聞で伝えられていました。ブラジルではこれまで日系迫害について歴史教科書での記述はなかったことから、今回の謝罪が積極的な歴史教育への出発点になることが期待されているとも報じられていました。
さて、地元熊本県に目を転じると、昨日の知事の定例記者会見での発言に憤怒の念を抱きました。内容は、県が除斥期間を主張している水俣病訴訟での対応について問われた際の回答です。旧優生保護法訴訟最高裁判決で被告である国が主張した除斥期間の適用について著しく正義・公平に反するとして退けられ、判決後に首相も主張を撤回する考えを示しました。ところが、知事は、「旧優生保護法と水俣病の問題を一律に議論するのはふさわしくない」と鬼畜同然の物言いを行っています。
不法行為から20年の経過で損害賠償請求権が消滅する除斥期間の主張をするということは、後から被害を訴えた患者は一切救済せずに切り捨てると述べるのと同じです。この一点だけでも「県民に寄り添う」という日頃の知事の言葉が、いかに口先ばかりか、棄民政策の実行者に過ぎないかということを示していると考えます。付け加えて記すと、水俣病原因企業のチッソも現在進行中の訴訟で除斥期間の適用を主張しており、チッソ代理人弁護士は適用を認めない判決を「民事司法の危機」、適用を認めた判決を「信頼を回復した」「極めて正当」と表現し、加害者にもかかわらず不誠実で傲慢な態度を取り続けています。つまりは、県の姿勢はチッソと変わりないのです。まったくもって不正義です。
頑なに除斥期間の主張を続ければ、仮に将来実施する汚染地域居住歴のある住民対象の健康検査で見つかった患者は救うけれども、自ら被害を訴えて名乗り出た患者は救わないという不公平も生じかねません。逆に考えると、そうした不公平が出ないように患者を見つけない健康検査しか行わないつもりかもしれません。
冒頭歴史教育について触れましたが、本日の朝日新聞「交論」欄において、大学教養課程の年齢層の若者の歴史観を問われた歴史学者の宇田川幸大氏が次のように語っていました。「『時間切れの現代史』と言われるように、高校で戦争や植民地支配のことをあまり教えられていないので知識不足が目立ちます。何も知識がないまま、インターネットやSNSに広がる歴史修正主義にさらされるのは、あまりに危険です。その意味で、歴史教育はますます重要になっています」。
それは、いい歳した大人、たとえば知事職にある人物の資質にも言えると思います。地元紙の報道では、水俣病未認定患者の救済に国や熊本県とは対照的に積極的に対応していると、新潟県知事を評価しています。一方で、同知事は、ユネスコの世界文化遺産登録が目指されている佐渡鉱山への朝鮮人の強制連行を記述した「県史」を尊重しようとしていないと指摘する歴史学者(外村大氏)もいます。
知事の経歴は一般的に外形的には立派な人物が多いように思いますが、ときに判断を誤ることもあると思います。どのような歴史教育を受けてきたのか、今も歴史に学ぶ器量があるのかを、県民は見極める必要を感じます。
写真は記事と関係ありません。パリ・ロダン美術館(1991年12月撮影)。
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フタをすることだけが早業だった
現県知事が「政治の原点」とかつて口にした割には、こと水俣病問題解決に向かってこの16年間、県政の良き流れがあったとはとてもいえません。本日の熊本日日新聞1面の「点検 県のチカラ」の7回目記事にあるとおり、2013年の最高裁判決や国の不服審査会裁決が示した感覚障害のみの患者認定の判断、あるいは2023年の大阪地裁が示した水俣病特措法の救済漏れを認めた判決などに、一貫して背を向けてきたのは明らかでした。
その一方で、チッソが1968年まで有機水銀を垂れ流した、百間排水口の木製樋門(フタ)を水俣市が撤去する計画が持ち上がり、現地から反対の声が上がった際には、いち早く知事が県の予算で現場保存に昨年7月乗り出したことがありました。そのフタは、工場廃水が流れていた当時のものではありませんし、新たに設置されるレプリカのフタ自体には水理機能上の意味もないものです。被害拡大の事件史的視点から言えば、百間排水口から一時期変えた、水俣川河口近くのチッソ八幡プールの排水路からの有機水銀流出がより悪質だったわけで、私自身はフタ保存の必要性をさほど感じていません。むしろフタをすることで被害者に寄り添う格好のポーズ作りの材料にさせられただけだったと考えています。
※写真は記事と関係ありません。パリのポンピドゥーセンター(1991年12月撮影)。当時は広場で火を噴く大道芸人がいましたが、今はどうなのでしょうか。
アレではなくコレだ
「エッフェル姉さん」などと共に新語・流行語大賞2023にノミネートされた「アレ」について本日の朝日新聞教育・科学面に面白い記事が載っていました。言語学者の研究によると、指示詞の「あれ」や「これ」を表す単語は、世界的にあるそうです。しかも面白いことに、文化や地域が変わっても、対象物が自分から50センチ程度までの「手の届く範囲」を「これ」と表現する傾向が、世界共通ということでした。その意味では18年もリーグ優勝から遠ざかっていた阪神ファンにとっては、まさしく「アレ」であり、さらにその倍以上の38年ぶりの日本一は「アレのアレ」に違いなかったと言えます。記事は空間範囲についてしか触れてありませんでしたが、時間範囲で言えばぜひ来季から「コレ」を達成し続けてもらいたいと思います。1年前にJ1まであと1勝だったロアッソ熊本にしても昇格は「アレ」ではなく「コレ」なんではないでしょうか。
写真は記事と関係ありません。パリのエッフェル塔。1991年12月撮影。
口利き稼業のなれの果て
すっかり汚職の祭典のイメージが残ってしまった東京オリ・パラ。大会組織委員会の元理事の財布へのカネの吸い上げ方は、違法なのはもちろん、人としての品性のなさが如実に表れていて驚かされます。一方、元理事のそうした性分が培われたであろう広告代理店の企業風土を考えると、さもありなんという気持ちにさせられます。
バブル期の頃、地方都市にある私の勤務先でも電通を使うことがありました。今振り返ると、同社の事業の本質を一言で表すと「口利き稼業の最たるもの」なのではないかという気がします。たとえば、CM素材の制作においても実際に動くのは下請けのデザイナーやコピーライター、カメラマンたちです。スポンサーによっては、媒体を黙らせる手駒の一つとして同社を使うことがあったかもしれません。本体の社員は、契約書を運ぶだけだったり、接待をアテンドしつつ自分たちも遊びに興じたりするのが、仕事だったように思います。
そういえば、アーケード街の吊り看板広告の契約書の内容などは、書面をよく確認しないとひどいものでした。吊り看板が落下して通行人が被災したときの賠償責任は、設置管理している商店街ではなく、広告主とするとあって突っ返したことがあります。また、同社の退職者の自己紹介フレーズとして「元電通の・・・」というのをよく聞いた経験があります。個としてのクリエイティブ能力がない方が多かったなという印象があります。
写真は、パリのアラブ世界研究所(1991年12月撮影)。窓がカメラの絞り機能で採光できる仕組みになっていることで有名です。実は、この建物の存在を知ったのは、地元の電通支社内で視聴した世界のトレンド情報のリポートビデオを通じてでした。月1回早朝にこの社内向けのトレンド情報ビデオを視聴する会が行われ、数回参加したことがありました。今となっては儚い時代の思い出です。
国際交易の歴史
このところ1章ずつ読み進めている『ヨーロッパ覇権以前』にすっかり魅了されています。つい1000年足らず前、東(中国)の商品と西(ヨーロッパ)の商品の交易はありましたが、ムスリム商人が中継していたこともあってそれぞれの地域に住む人にとってお互いは未知の存在であり、絹にしても綿にしてもそれらの原材料がどのようなものから産出されるのかさえ知られてなかったといいます。侵略や略奪から得る一時的な富よりも国際交易から得る継続的な富が価値が高いことを学ぶにはかなりの年数がかかりますし、現代においてもその価値を判断できない資質の人が権力者の位置に収まってしまうことがあることに気づかされます。写真は、パリのアラブ世界研究所(1991年12月撮影)。窓がカメラの絞り機能で採光できる仕組みになっていることで有名です。当時から入館する際にセキュリティチェックがかなり厳しかった覚えがあります。
野蛮人の歴史を知る
またしても『ヨーロッパ覇権以前』の記述についての投稿となります。「第4章 ジェノヴァとヴェネツィアの海洋商人たち」で描かれる約1000年足らず前のヨーロッパ人の野蛮人ぶりが凄まじく、人道も何もない時代があったことを知ります。おそらく現代の当事国の歴史教科書には載っていない出来事だと思います。たとえば、11世紀末に十字軍のヨーロッパ人たち(ムスリム側の書物ではフランク人)がイスラム文化の地を破壊したのちに異教徒の人肉や犬肉を食べる行為があったことが紹介されています。こうした「特別軍事作戦」には市民殺害や略奪を伴うことは言うまでもないことです。もっとも、こののちには東から別の野蛮人であるモンゴル人が登場するので、ヨーロッパ人だけが野蛮人ではなかったこともよく知られていることです。
イタリアが海洋国家として繁栄を極めた時代の輸送コスト比較でいえば、陸上輸送は海上輸送の20倍だったという考察があり、さまざまな商品を運び莫大な富を得ます。その商品の中にはコーカサスから積み込む奴隷の存在もありました。一方、イタリアが衰退した背景にはガレー船に紛れ込んだネズミを介した黒死病の流行もあります。こうして見るとまさに歴史は繰り返すので、たとえ祖先が野蛮人であっても歴史は直視する必要があると感じます。
写真は、パリのロダン美術館(1991年12月撮影)。