「こうのとりのゆりかご」で知られる慈恵病院長の蓮田健氏の祖父である蓮田善明氏(1904年7月28日出生-1945年8月19日自決)といえば、学習院中等科在学当時の三島由紀夫(本名:平岡公威)の才能を見出した国文学者として著名な人物です。同氏の戦時下の足跡をたどると、1943年11月1日、第二次召集を受けて熊本で編成された第四十六師団隷下の歩兵第百二十三聯隊所属の陸軍中尉として門司港から現在のインドネシアのジャワ島にあるスラバヤへ派遣されています。同地には、翌年頭まで滞在していたようです。
私の祖父(1904年10月1日出生-1943年1月15日戦死)は、日本郵船の船員でしたが、軍属として、蓮田善明氏と同じく1943年の秋に日本からスラバヤへ向かいました。そして、1943年12月7日にスラバヤを出港し門司へ向かう海軍が徴傭した油槽船(この船は日本へ帰還できずフィリピン沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没)に最後の乗務をしました。そのため、蓮田善明氏と私の祖父の所属は異なりますが、生年と出身県が同じふたりが、1943年12月初め頃、スラバヤで滞在を共にした時期があったということになります。
そのような祖父の共通点を知ると、孫の蓮田健氏(直接お会いしたことはありませんが…)の取り組みについても自然と関心が湧くので不思議なものです。
現在のスラバヤはインドネシアでは第二の人口規模(約300万人)を持つ都市です。古くから貿易港として発展した歴史があり、華人も多く住んでいるため漢語では泗水と称されています。
祖父の没後71年の2015年9月に当時高校3年生だった私の子(つまり曾孫世代)が、スラバヤ工科大学を訪問する機会を得ました。そのときの記録動画がまだ残っていましたので、リンクを貼っておきます。
https://youtu.be/8Q1nRuvdc-c?si=7mnx9ln0Ly8PHNM4
なお、蓮田善明氏が所属した歩兵第百二十三聯隊は、マレー半島のジョホールバルにおいて敗戦の日を迎えました。その際の中条豊馬聯隊長(大佐)の訓示の内容が、蓮田中隊長(中尉)にとっては、あまりの豹変と変節ぶりであったために、激昂します。訓示を受けた集会の直後に、蓮田中尉は崩れて膝を床に着き、直属の上官である秋岡隆穂大隊長(大尉)の足を抱いて哭泣したといいます。そして、4日後、蓮田中尉は中条大佐を拳銃で射殺し、自身も拳銃で命を絶っています。秋岡大尉は戦後、現在は宇城市となっている旧・松橋町の町長を務めた人物です。秋岡家所蔵文書の「沙弥法喜寄進状」(竹崎季長が書き記した書状)は1978年2月2日指定の県重要文化財で、昨年末から今年初めにかけて、宇城市不知火美術館で展示公開されていました。その子息の秋岡廣宣氏は現在、学校法人尚絅学園理事長として活躍されています。秋岡廣宣氏が地元民放のRKK在職中の1991年、インドネシアツアーで私もご一緒した縁もありました。写真はジャカルタの国立博物館。