熊本市国際交流会館で無料相談会

毎月第1水曜日と第3日曜日の13:00~16:00、熊本市国際交流会館2F相談カウンターにおいて、熊本県行政書士会会員の申請取次行政書士が、無料相談に応じています。
1月10日(日)13:00~16:00には、当職が相談員として対応いたします。
https://www.kumagyou.jp/?page_id=220
https://www.kumamoto-if.or.jp/plaza/default.html
https://www.kumamoto-if.or.jp/kcic/kiji003277/index.html
写真は記事と関係ありません。イタリア・ローマ、スペイン広場(1990年12月撮影)。

ホントおめでたい

熊本県の公式LINEの今年初(1月4日)の投稿が阿蘇神社参拝を勧めるものでした。これをおかしくはないかと気づける素養が関係者にはないのかと残念に感じました。巷のSNS投稿においては、還暦過ぎのいい大人が陰謀論者の駄本をありがたがっているのもよく目にします。そういうマーケットがあるからこそ、荒唐無稽の歴史言説が商品になるのかもしれませんが、踊らされている人たちもそれなりの教育は受けてきただろうに、今になって身に付いていないのはなぜなんだろうと思います。その程度の知性で、変な使命感から政治家になったりすると、余計始末に悪いものです。
過去についても正しく学べていなければ、当然のことながら未来への対処も誤ります。昨年11月に、運転停止中の石川県志賀町(このたびの能登半島地震で震度7を記録)にある北陸電力志賀原発を訪問した経団連会長が、「一刻も早く再稼働を望む」と述べていましたが、昨日(1月4日)にあった賀詞交歓会では、なんらその発言について釈明をせず、それを問い質して報道したマスメディアも確認できませんでした。経済界トップですらこうした塩梅です。
ホントおめでたい人材に恵まれたわが国において、教育やジャーナリズムの役割が重要だなあと感じます。

いっそ四重構造ぐらいがいい

昨晩NHKBSで放送の「日本人とは何者なのか - フロンティア」は、最先端のDNA解析技術によって、今の日本人の祖先を考察する、興味ある番組でした。現存する人類であるホモ・サピエンスの源流はすべてアフリカにあり、その意味で現在どこの地域暮らしていようが、みな遠い遠い親戚です。最新の研究成果では古墳時代の日本人の骨からは、縄文人と弥生人に加えてそれとは異なるユーラシア大陸由来のDNAが6割程度ある、三重構造になっているそうです。従来は氷河期が終わって大陸と断絶した縄文人の時代のあと、稲作と金属器をもたらした渡来人との混血による弥生人との二重構造説だったのが、古墳時代に弥生時代の渡来人とは異なる人々との交流があったと考えられています。ちなみに縄文人特有のDNA構造を今の人たちで最も残しているのは、アイヌの人たちで7割、沖縄の人たちで3割、今の東京の人たちで1割なのだそうです。
ところで、巷では縄文ブームがあるらしく、縄文時代は争いもなく暮らしていたと、あたかもそれが日本人の伝統であるかのようにもてはやす向きがありますが、違和感を覚えます。縄文時代の人口密度は現在と比べようがないくらいに低く、外部との交流はないと考えられています。寿命も短く明日食べられるか非常に不安定な暮らしだったわけで、他の集団と出合い、争いになる機会がなかっただけだと思われます。文化あるいは文明の発達には外部との交流なくしてありえないわけで、縄文よりも弥生、弥生よりも古墳の時代という具合に時代が下るほどに技術が進化し食べていくことが安定化していったのではないかと思います。したがって、当然のことですが、現代においてもさまざまな人たちとの交流が進むことが、文化や文明をより発達させることにつながっていくはずです。
ともかく、○○人は何々という具合に固定観念で判断するのは無意味だと思います。言葉や身体的特徴は異なってもホモ・サピエンスに変わりはありません。そうした考え方は科学の発展に伴って生まれてきたことで、つい200年足らず前までの人たちはそうした思考を持ち合わせていませんでした。今読んでいるのが、木村草太著の『「差別」のしくみ』(朝日選書、1800円+税、2023年)なのですが、米国の建国当初の独立宣言や連邦憲法の文言をsy紹介していておもしろい指摘を見つけました。たとえば、1776年アメリカ独立宣言には、「全ての人は生まれながらにして平等である」として、1788年発効の連邦憲法でも「国民の身分の平等」を定めました。ですが、当時は奴隷制があり、米国へ連れてこられたアフリカ系の人たちならびにその子孫は、奴隷主の動産とされ、国民でも人間でもない存在とされていました。奴隷制廃止の連邦憲法の修正が成立するのは1865年になってからです。158年前の人権意識はその程度だったことに改めて驚きを覚えますし、今日の日本の政治家のなかにも人権侵犯の言動を行う愚か者がいるわけで、まだまだなのかもしれないとつくづく憂いを覚えます。
https://www.nhk.jp/p/frontiers/ts/PM34JL2L14/episode/te/XRL92XPWX2/

ルポ無縁遺骨読書メモ

森下香枝著『ルポ無縁遺骨 誰があなたを引き取るか』(朝日新聞出版、1600円+税、2023年)を読んでいるところです。ちょうど昨日のNHKニュースでも「『相続人いない財産』過去最多768億円が国庫へ 昨年度」(※)と報じていました。現在、身元がわかっている人でも相続人がいない方が亡くなった場合、その方の葬送をどうするのか、残された財産をどうするのかが問題になっていて、その対象人数と遺産額は年々増えているようです。また、そうしたケースの場合に一線で対応にあたるのは市町村行政ということになっていて、その負担もたいへん重いものになっています。もちろん、そうならない手立てとして相続人がいない方が遺言書で遺贈先や遺言執行者を定めたり、死後事務委任契約を結んでおいたりする方法もあります。専門家はそういって済ませますが、本人がよほど終活に関心を持たない限り、そうした準備を行う人は増えないのではないかと思います。実際、孤独死者の平均年齢は62歳と意外に若いそうです(p.109 日本少額短期保険協会など2022年11月発表「孤独死現状レポート」)。
死は予期せずに到来するわけですから、それを前提に市町村に財政的負担をかけない葬送システム・遺産活用の制度設計があっても良さそうなものと考えます。市町村が、引き取り手のない死者の埋火葬のために適用する法律としては、葬祭扶助(生活保護法)と墓地埋葬法の2つがありますが、適用比率は9:1と極端に前者に偏重しています。そのカラクリは以下のようになっています(p.85-86参照)。
葬祭扶助…費用は国が4分の3負担、地方公共団体は4分の1で済む。
墓埋法…市区町村が全額立替払い。遺族が弁済請求に応じない場合は都道府県に弁済請求できる建前だが、支払ってもらえず市区町村が結局かぶるケースが多い。
死をめぐる費用負担の自治体ごとの違いは他にもあって、異状死の検案・運搬の費用が都内ほかでは公費負担ですが、神奈川県内だと遺族が全額負担となります。
また自治体の違いではなく地域の違いとして遺骨を骨つぼに入れる収骨のスタイルの情報も興味深いものがあります。東日本では「全収骨」、西日本では「部分収骨」のため、骨つぼの大きさも東日本の方が大きいようです。
あとは未整理のメモです。
横須賀市…「わたしの終活登録」事業。それをモデルに豊島区社協なども同様の事業を提供。
Casa…「家主ダイレクト」(孤独死保険付きの家賃保証サービス)
本寿院…ゆうパックで送骨する遺骨ビジネス。費用は1柱3万円。年会費・管理費は不要。
NPO法人つながる鹿児島…「つながるファイル」
長野市…「『おひとりさま』あんしんサポート相談室」。厚労省の「持続可能な権利擁護支援モデル事業」の指定を受けている。九州では古賀市が指定されている。
大田区…「見守りキーホルダー」(愛称:「みま~も」)。厚労省の「地域包括ケアの実現可能なモデル事業」の指定を受けている。都内各地で導入が進んでいる。九州では、日田市や小城市が導入済み。
いろいろ事例を知ると、自治体間の取組み格差を感じます。担当者の問題意識や政策実現能力の違いがあるかもしれません。それと財政負担能力の問題です。国庫に帰属する遺産を基金として国が管理して葬送や死後事務について発生する費用を市町村へ渡す、あるいは遺留金を金融機関から解約引き出す権限を市町村へ持たせる仕組みを構築した方が効果的にも思います。
先日観た映画『PERFECT DAYS』の主人公・平山の場合は、妹(または姪)が相続人となってくれる可能性がある続柄設定でしたが、「ほんとうにトイレ掃除(の仕事)をやってるの?」と兄に問いかける、裕福な妹がわざわざ面倒を引き受ける可能性は低く感じさせるところもありました。相続人がいてもアテにはならないという社会を前提に福祉政策を考える必要がありそうです。
(※) https://www3.nhk.or.jp/news/html/20231224/k10014298341000.html

木漏れ日のような穏やかな幸せ

12月23日は熊本市圏のバス・電車の運賃が無料ということもあって、公開されたばかりのヴィム・ヴェンダース監督の映画『PERFECT DAYS』を、桜町で観てきました。ふだん映画館で映画を鑑賞することはなく、ずいぶんと久しぶりでしたが、心穏やかになれる味わい深い作品でした。ヴェンダース監督の作品では過去に『パリ、テキサス』(1984年)と『ベルリン・天使の詩』(1987年)しか観たことがなくて、どちらかというと難解な作風の印象がありました。今回作の舞台は現在の東京であり、出演者も日本の役者だけなのですが、都内に住んで働く生活者の日常を捉えていて、いかにもクールジャパン的な違和感はありませんでした。
作品の良し悪しということではなく、気になった点をいくつか挙げてみます。1.主人公・平山が仕事に使っている車はダイハツの軽ワゴンだった。2.平山のルーティンの一つに酒場で酎ハイをひっかけるが、飲んだ後も自転車に乗っている。3.平山が通う小料理屋のママ(石川さゆり)が「朝日楼」をさらりと歌うのだが、当然のことながら反則的に上手過ぎる。ここは日本と海外では受け止めが異なるかもしれない。(ちなみに筆者は浅川マキが歌う「朝日楼」を1980年代にナマで聴いたことがある。)4.トイレ清掃のロボット化は難しいと思った。清掃する対象物の形状が複雑であり、清掃中に出くわす利用者への対応が無理。作中で平山が独自に清掃用具を作っていることも明らかにされた。5.ママの元夫役(がんで死期が迫っている設定)の三浦友和のくたびれ感がじーんと来た。上下スーツだがスニーカー履きで登場。元妻に「謝りたい」「ありがとうと言いたい」「いやただ会いたかった」というのが切ない。
来館者の年齢層は圧倒的に若くても50代以上の印象を受けました。作中に流れる音楽(※)を年代的に懐かしく思えてその点でも見入ってしまうのではないかと思います。その一方、そうしたミドル層の子世代の若者たちにも親世代の日常を通じて「暮らしとは?」「労働とは?」「幸せとは?」「喜びとは?」を感じてほしい気にもなりました。
(※) https://www.perfectdays-movie.jp/collection/
写真は記事と関係ありません。正月用に買ってきました。

博物館訪問で得るもの

博物館・美術館といったミュージアム訪問が基本的に好きです。初めてのところはもちろんですが、何度か訪れたことがあるところでも、必ず新しい学びが得られます。先月、福岡県太宰府市にある九州国立博物館では古代メキシコの特別展を観てきました。マヤ、アステカ、テオティワカンといった3つの文明の各出土品の展示がありました。メキシコは中米に位置しますが、古代メキシコ文明を築いた人たちの祖先は、北米の先住民と同じく約4万年前にシベリアから渡ってきた狩猟民です。つまり、約4万年前はユーラシア大陸とアメリカ大陸は陸続きだったわけです。同じころ、現在の日本に最初に暮らした人たちもユーラシア大陸から渡ってきたと考えられています。その頃の日本列島にあたる地帯は「島」ではなくユーラシア大陸と陸続きだったからです。その説明が先日訪ねた佐賀県立名護屋城博物館の展示にありました。熊本県立運動公園一帯は、石の本遺跡といって最古のものでは3万7500年前の旧石器が出土していて国内でも最古の人が暮らした痕跡があります。メキシコと熊本とはずいぶん離れていますが、移動した時代を考えると、妙に親しみを覚えて不思議な感じになります。広島県立歴史博物館(福山市)では瀬戸内の海上交通についての展示が印象的ですが、そもそも瀬戸内が海になったのは6000年前ということも先月知ったことでした。そのように、今現在の陸地のありようではなく、氷河期の陸地で考えたらずいぶん世界も違って見えるのではないかなという気持ちになります。それでいうと、固有の領土・領海とか言ってもせいぜい200年足らず前のつい最近の話ということになって権力者の執着心が強すぎると無用の争いしか招かないものだと思います。
そして争いの中では、それに加担する者の武功アピールが必ずあります。佐賀県立名護屋城博物館の解説ペーパーでは、慶長の役(第2次朝鮮侵略)に従軍した医僧の慶念が、日本軍の殺戮の凄さを、『朝鮮日々記』として記していると紹介しています。それによると、戦功の証として戦闘には関係のない子どもの鼻切りまでもが横行し、たくさんの人たちが奴隷として日本に連行されたことも記されています。敵の首ではなく鼻を斬って持ち帰り戦功申告を行うということは、後年の島原の乱でもありました。そこでも多くの非戦闘員が犠牲となっています。12月13日の熊本日日新聞で、細川家の松井家文書にその記録があることを、熊本大永青文庫研究センター長の稲葉継陽氏が明らかにしていました。
400年後の現代においても世界各地で無益な殺戮が続いています。このような救いようのない愚かなことを行うのも人の業であり、これを繰り返さないために歴史を学び現実を変えていくしかありません。

宗教の起源読書メモ

ロビン・ダンバー著の『宗教の起源 私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか』(白揚社、3000円+税、2023年)については、先月の投稿でも触れていますが、ここでは第5章以降の読書メモをアップしておきます。宗教について考察することは、ヒトの脳について考えることであり、政治やビジネスへの応用あるいは悪用にも連なる恐れも抱きました。
多くの日本人は、シャーマニズム宗教の神道(明治憲法下では国家神道として教義宗教化したともいえます)と教義宗教の仏教の二刀流なのですが、これは世界的に特異な例です。宗教以外の面で規格化された日本人共同体の内と外を認識している感じがします。日本語や戸籍・氏姓、風貌・肌の色の要素が高い気がします。
○第5章社会的な脳と宗教的な心
「友情の7つの柱」(p.129)…言語、出身地、学歴、趣味と興味、世界観(宗教、道徳、政治の立場)、音楽の好み、ユーモアのセンス。ヒトの場合は、これらの共通点が多いほど共同体のメンバーであるという信頼感が強固になる。
「メンタライジング能力」(p.141)…自分の観念を他者に伝達する能力(五次志向性のレベル)がなければ、宗教は成立しない。自閉症と診断される人はメンタライジング能力が低い。女性よりも男性が低い。
一次志向性/私は「雨が降っている」と思う。/宗教にならない
二次志向性/あなたは「雨が降っている」と考えていると私は思う。/宗教にならない
三次志向性/あなたは「人智を超えた世界に」神が存在すると考えていると私は思う。/宗教的事実
四次志向性/神が存在し、私たちを罰する意図があるとあなたは考えていると私は思う。/個人宗教
五次志向性/神が存在し、私たちを罰する意図があることを、あなたと私は知っているとあなたは考えていると私は思う。/共有宗教
○第6章儀式と同調
「宗教儀式」(p.156)…歌、踊り、抱擁、リズミカルなお辞儀、感情に訴える語り、会食。エンドルフィンが出やすい。儀式に参加することで他の構成員に対してより向社会的に接したくなる。共同体意識をつくりだす。
○第7章先史時代の宗教
「向精神性物質」(p.180)…アヘンやアルコールといった向精神性物質の存在は考古学的に1万年前までは確信をもってさかのぼれる。トランス状態の経験、ひいてはシャーマニズム宗教が存在していたことの決定的証拠となる。
「解剖学的現生人類(ホモ・サピエンス)が五次志向性を獲得できたのは約20万年前」…発話のための解剖学的構造の出現があって宗教は生まれた。トランス状態に入れるだけでは宗教にはならない。ネアンデルタール人は五次志向性を獲得できなかった。
○第8章新石器時代に起きた危機
「教義宗教への移行」(p.206)…人間がより大きな集落で暮らしていくには、その規模にあわせてストレスや集団内の暴力を減らす方法を見つけていくことが必須。明確な儀式と正式な礼拝所、専門職を擁する教義宗教への移行が始まった。
「高みから道徳を説く神(人間の行動になにかと関心を持つ神)の出現」(p.212)…大きな共同体のなかで団結し、おたがいを守るために必要とした。紀元前1000年紀がほとんど。
「主要な教義宗教は北半球の亜熱帯地方に出現した」(p.219)…熱帯地方ほど感染症の負荷が高くなく栽培できる期間が年に6ヵ月以上で食料生産能力が高く、交易しなくても自給自足ができた。しかし、人口が急増してくると、共同体間の紛争が激化した。大きな社会集団では新たな結束強化の手段として、教義宗教を必要とした。
○第9章カルト、セクト、カリスマ
「カルト指導者」(p.146)…統合失調型パーソナリティ障害を抱えている。ほかの人よりも激しい形で宗教現象を経験し、ひては信仰の目ざめや強烈な宗教体験をひきおこす自己同一性の危機に陥りやすい。
「カリスマ指導者」(p.247)…多くが親を早くに亡くしていたり、恵まれない境遇で育ったりしたという。
「貧しく不安定な幼少期を乗り越え、厳然と立ちはだかる社会に挑まなければならなかった彼らは、人生の早い段階から多くを学び、逆境に立ち向かい嘲笑をはねのける精神的な強靭さを身につけたのだろう。」「シャーマンを筆頭に、神秘主義者は一般に定型からはずれた者が多い。精神的疾患を抱えていることが多く、それがトランス状態に入りやすい素因になっている。見た目や挙動が奇妙で、周囲からは狂人扱いされるが、それでも人びとは彼らのことを信じる。なぜ信じるのかといえば、ひとつにはその他大勢に埋没しない、突出した存在を頼みにしたいと思う気持ちがあるからだろう。とくに顕著なのはシャーマンで、人びとはかれらが超人的な能力を持っていると信じこむことが多い。」(p.248)
○第10章対立と分裂
「経済状態が良好で、富の格差が小さいと、宗教への関心が低下することはすでに指摘されている。貧困と抑圧の苦しみから逃れるのに、宗教に癒しを求める必要がないからだ。」(p.283)
一方で、「宗教がいまもさかんな地域は、世界のかなりの部分を占めている。」「南北アメリカ、アフリカ、南アジアなど、富の分配に格差がある地域では、キリスト教もイスラム教もさかんに信仰されている。」(p.284)

二刀流より文武両道が凄いと思う

熊本との縁が深い黒田武一郎元副知事が今度宮内庁次長に就かれるそうです。皇室の諸問題でどういう働きをされるのか興味あります。
その名の通り剣道のたしなみがあり今も明治神宮の道場に通っておられるという報道もありましたし、小説『ステップ』(2005年)・『時のはざまに』(2011年)も書かれて出版されています。まさに文武両道。ネット古書店では3万円超の値がついています。
ご本人とは20年以上前にグランメッセ熊本で開かれたIT系の展示会場でブースを訪ねていただきお目にかかったことがあります。
写真は記事と関係ありません。
https://news.yahoo.co.jp/articles/0760fb9509e4c8081e4d273afcb2eaa2e454f79a?fbclid=IwAR1iXl9XRAetkR3JJYFpn8Ahvz6AfPto4Hmoxod0eY0mswQecF7ncHYd0fI
https://item.fril.jp/cd662d65b9eff63107640e1d7da6846a

サガしものは書店になイカ

先月1週間ほど佐賀県有田町に用向きがあったのですが、観光的な行動ができる時間がなかったため、なんとも物足りないままでいました。さらに今月、朝日新聞の経済面で5回にわたり有田町に近い波佐見町のことを取り上げた連載「波佐見焼 小さな町の奇跡」を読み、ぜひ訪ねてみたい気持ちになりました。波佐見町についてはコースをもっとリサーチしてからと、手始めに以下の場所を訪ねてみました。
・鯨組主中尾家屋敷・・・イカを焼く香ばしさが漂う呼子朝市通りの入口から300m奥にある重要文化財です。江戸時代から昭和30年代までの時期に呼子が捕鯨漁の港であることは、現在は呼子=イカのイメージが強いこともあり、これまで知りませんでした。屋敷も立派ですし、資料館の展示もたいへん興味深いものがたくさんあり、入館料210円が申し訳ないくらいお得でした。
・佐賀県立名護屋城博物館・名護屋城跡・・・佐賀県立の博物館はここ以外に九州陶磁文化館や県立博物館・県立美術館がありますが、一部の特別展を除き入館料が無料となっています。ロンドンの大英博物館もそうですが、こうした運営方法は誇るべきことだと思います。入館してみると、日に何回か学芸員による説明が聞けるようでした。展示コーナーごとの自由に持ち帰りができる解説ペーパーも充実していて帰宅後もゆっくり読み返すことができます。城跡も初めての訪問でしたが、スケールが大きく特別史跡にふさわしい場所でした。訪問当日は強風のため、天守台がのぞむ冬の玄界灘には厳しさがありましたが、天候が良ければ文字通り海外進出を目論んだ秀吉の野心が途方もないことがより感じられたかもしれません。博物館入口には道の駅があって、そこのレストランで名物のイカ刺身定食をいただきました。イカ活きづくり、イカシュウマイ、ゲソ天ぷらに満足しました。
・佐賀之書店・・・帰路の途中で佐賀駅に今月オープンした書店ものぞいてみました。ここは佐賀出身の直木賞作家がオーナーを務める店舗で、オーナーの著作が多数置かれていました。書棚は新刊書で埋め尽くされ、新札を思わせる香りがいい雰囲気を出していました。ただし、駅ビルの一角ということもあって、店舗面積はそれほど広くはなく、専門書のたぐいはほとんどありません。総合雑誌もウィルとかハナダといった怪しい書き手のものしか見当たりませんでした。世界や岩波新書は皆無でした。駅内書店ですからこれは致し方ないのが現実なのかと思いましたし、実際私の日頃の行動でも目当ての書物がほとんど置かれてない地方書店に行くことはありません。

自分で勉強すればいいんだよ

本日(12月15日)の熊本日日新聞に、渡辺京二さんの連載「小さきものの近代」の編集を担当した記者の手記が掲載されていました。その中で、生前の渡辺さんが「(自己の文章を読んで)分からなかったら、自分で勉強すればいいんだよ」と語っていたことが紹介されていました。手記の執筆者は、「分からないことにぶつかり、思考を促される文章こそが読み手を鍛えていくと言いたかったのだろう」と、捉え直していました。
状況をどう認識するかは、人によってさまざまですが、その違いはどう学び続けてきたかによって形成されていくものだと思います。直に渡辺京二さんのような知識人と出会う機会は限られていますから、多くは確かな著作や報道で学ぶしかありません。学び続けることで、たとえば読むに値する著作や報道かどうかという判断力も備わってくると思います。思考が鍛錬されることで、自分はどのように生きていきたいかも定まっていく気がします。
今、政界では裏金疑惑が取りざたされていますが、政治資金規正法を正しく理解していれば、収支の不記載を派閥から指示されたとしても、それは違法だと簡単に判別できるものなのですが、よほど日頃から考えることや調べるといったことをしない人たちの集まりなんだなあと、驚きました。法を犯すような人たちが法をつくる国会議員の仕事に就いてはなりません。即刻国会議員を差し控えていただきたいものです。
写真は佐世保駅の「貧乏が去る像」ですが、国会議事堂内の一つ空いている台座上には「不勉強が去る像」でも置いておく必要があります。

それぞれの百年

12月2-3日と水俣病センター相思社で開かれている「百年芸能祭in水俣」の初日イベント「百年座談in相思社」に参加しました。通常は休館日にあたる水俣病歴史考証館に展示されている丸木作品も観覧することがかないました。座談会の前に千葉明徳短期大学の明石現教授による11弦ギター演奏があり、明石ゼミ学生8名による手話合唱もありました。特に普段の生活では無縁の若い女性たちの歌声には、さすがに日頃シニカルな自身の心も洗われる思いを抱きました。これまで何度も相思社を訪ねたことがありましたが、これほど清々しい気持ちにさせられたのは初めてでした。
この後の座談会の最後で、本祭の「口先案内人」を務める姜信子さんが、権力者が怖れるのは、人々が歌うこと、踊ることというようなことを述べていましたが、世の中の不条理に異議申し立てを行う手段としては、確かに力を覚えます。最近読んだ、ロビン・ダンバーの『宗教の起源』でも、笑う、歌う、踊る、感情に訴える物語を語る、宴を開くといった、社会的グルーミングにはエンドルフィン分泌をうながす効果があり、結束社会集団の規模を大きいものにするとありました。法事なんかで経本をみんなで声を合わせて詠まされるように宗教儀式にはそうした要素が仕込まれています。
さて、「百年座談会 私たちのつながりあう百年」では、(一社)ほうせんか理事の愼民子さんから「在日の百年」、宮城教育大学准教授の山内明美さんから「東北の百年」、相思社職員の葛西伸夫さんから「水俣の百年」をテーマにトークがありました。今から100年前の1923年に関東大震災があり、水俣では日窒(チッソ)に対する漁民の最初の闘争が起きています。
座談会では、以下のキーワードがありました。関東大震災直後の朝鮮人虐殺(中国人や標準語を話さない日本人も犠牲になっています)、コメのナショナリズム(植民地での日本米増産)、放射線育種米(あきたこまちR12)、六ケ所村、寺本力三郎、大間原発、三居沢水力発電所、日窒興南工場、野口遵、半島ホテル(現在はソウルのロッテ百貨店が建つ)、水豊ダム、福島第一原発、復興庁、ハンフォード・サイト、朝鮮籍。
今回の座談会を聴いてこの百年を理解する手引きとして、以下の2つの書籍を個人的に挙げてみたいと思います。1冊目は、遠藤正敬『新版 戸籍の国籍の近現代史 民族・血統・日本人』(明石書店)です。「日本人」の定型、「臣民」への画一化が如何に形成されてきたかを知るには良著です。朝鮮籍・韓国籍・琉球籍の経緯を知る価値があります。旧満州国の日本人は満州国人ではなく内地人(日本人)であり続けたことも学んだことがない国民が大部分だと思います。2冊目は、ジャニス・ミムラ『帝国の計画とファシズム 革新官僚、満洲国と戦時下の日本国家』(人文書院)です。先進技術や資源をめぐる利権に蠢く権力者たちが、外国人だけでなく自国民の人権を如何に蔑ろにしてきたか、その手口を知るのに適しています。かつてのテクノファシズムには、今日のテクノソーシャリズムにも近しいところがあり、それも国民は監視すべきだとは思います。ついでに挙げると、これからの百年を考えるには、ブレット・キング、リチャード・ペティ『テクノソーシャリズムの世紀 格差、AI、気候変動がもたらす新世界の秩序』(東洋経済新報社)もお勧めです。
ところで、私の百年では、祖父の兄が大工だったそうですが、関東大震災後の復興特需で横浜へ移住します。その兄を頼って祖父も横浜へ行き、当地で商船会社の社員の職を得ます。北米航路の豪華客船にも乗っていましたが、アジア太平洋戦争中は軍の傭船に乗務し、南方と内地との物資輸送にあたっていました。最期はインドネシアから出港した油槽船に乗っていましたが、マニラから基隆へ向かう途中で米軍潜水艦からの攻撃に遭い亡くなりました。その命日は、偶然ですが、日窒創業者の野口遵と同じ1944年1月15日です。野口遵は電気化学を学んだ人物ですが、私の息子(COP3京都会議の期間中生まれ、私の祖父からすると曾孫)は、現在まさしく電気化学の分野の研究(※)を進めており、脱炭素社会の一翼を担っています。なにかしらつながるものだなと思わざるを得ません。
※一口で言えば、二酸化炭素還元反応。CO2(二酸化炭素)からCu(銅)を電極触媒として用いてCH4(メタン)やC2H4(エチレン)、C2H5OH(エタノール)といった有用物質を得る電解還元の研究。CO2排出抑制につながるものです。

 

 

 

キッシンジャー回想録ぐらい読んどけよ

SNSなんかで坂本龍馬気取りの政治家の投稿にたまたま触れると、ロクな奴はいないなというのが、私個人の偏見に基づいた感想です。企業経営者にしても、理論も何もない成り上がり者の自慢話をありがたがっているのは、得てして小物ばっかりというのが、これまた私個人の偏見に基づいた感想です。
さて、11月29日、米国の元国務長官だったヘンリー・キッシンジャー氏が100歳の生涯を終えました。その外交の成果はダイナミックであり、常人では得られないのは、衆目の一致するところだと思います。2年前に岩波現代文庫から上下巻で刊行されている『キッシンジャー回想録 中国』を読みましたが、同氏自身の能力もさることながら、当時の中国の指導者の器の大きさも感じます。読んだときの感想をブログに何度も記しています。
https://attempt.co.jp/?p=9670
https://attempt.co.jp/?p=9690
https://attempt.co.jp/?p=9728
https://attempt.co.jp/?p=9737
https://attempt.co.jp/?p=9749
https://attempt.co.jp/?p=9963
https://attempt.co.jp/?p=10022

社会的グルーミング

ここ1週間ばかり所用で県外に出かけていてその間せわしなかったので、オックスフォード大学進化心理学名誉教授のロビン・ダンバー著の『宗教の起源 私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか』(白揚社、3000円+税、2023年)の読書は、行きがけの列車の中で読み進めたところで止まったままです。というわけで、読みかけの感想なのですが、タイトル通り宗教の起源の考察という側面もありますが、人間の脳と共同体の規模感とのかかわりの考察が面白く思えました。
第4章共同体と信者集団(p.119)で以下の通り要点がまとめられています。
1霊長類が結束の強い社会集団で生活するのは、外的脅威から身を守るためだ。
2特定の種の集団規模は、脳の大きさによって制限される(次いでその規模は、居住と採餌の環境が良好であるかぎり、その種が通常経験する脅威のレベルに順応している)。
3人間の自然な社会集団と個人の社会ネットワークにもこのパターンが当てはまる。
4人間の自然な共同体、個人の社会ネットワーク、そして教会の信者集団には、約150人というはっきりした上限が存在する。
5この上限は、構成員の帰属意識、ほかの構成員との個人的なつながり、集団所属による利益に対する満足度といった、集団規模が与える影響によって決まっていると考えられる。
1974年にデヴィッド・ワスデルが発表した「自己限定的教会」の研究というのがあって、英国内の1万超の教区を対象に毎週の日曜礼拝に出席する信者数は、地域の人口規模に関係なく、175人前後という結果が得られています。別の研究でも信者数はおよそ200人ではっきりと頭打ちになるそうです。信者が150人から250人の教会は安定を失いやすいという、「バスター(牧師)とプログラム(事業運営)の中間圏」を突きとめた研究もあります。それによると、50人までのファミリー・サイズの教会であれば指導者を持たない民主体制でも機能しますが、150人までのバスター・サイズになると誰かが指導者を務める必要があり2~3のサブグループを作ってそれぞれに精神的支柱のような存在も求められます。さらに350人までのプログラム・サイズになると牧師ひとりでは手に余り集団指導体制が求められます。これも1970年代のアラン・ウィッカーの研究ですが、構成員が約340人と約1600人の教会を比較すると、小さい教会の信者集団のほうが日曜礼拝への出席率や収入に対する寄付額が高いことが確認されています。
直接触れ合うグルーミングを行うサルと類人猿の場合、結束社会集団の大きさはおよそ50頭で頭打ちになりますが、ヒトは直接ふれることなくエンドルフィン分泌をうながす社会的グルーミングを獲得することで、より大きな社会集団を構成することが可能になりました。笑う、歌う、踊る、感情に訴える物語を語る、宴を開くなどがそうです。宗教儀式にはそれらの要素を含むことからトランス状態に通じるものがあります。
どうしたらヒトは満足感・高揚感を得られるのか、そのヒントは音楽やスポーツ、宗教にありますから、政治や企業経営がその手法を取り入れるのは自然の流れとも思えます。

宗教の起源

中東情勢を理解するにはそれがすべてではないにしても宗教についての理解が必要不可欠です。オックスフォード大学進化心理学名誉教授のロビン・ダンバー著の『宗教の起源 私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか』(白揚社、3000円+税、2023年)は、タイトル通り宗教の起源から考察する書籍とあって役立ちそうです。

熊本市国際交流会館で無料相談

毎月第1水曜日と第3日曜日の13:00~16:00、熊本市国際交流会館2F相談カウンターにおいて、熊本県行政書士会会員の申請取次行政書士が、無料相談に応じています。
11月19日(日)13:00~16:00には、当職が相談員として対応いたします。
https://www.kumagyou.jp/?page_id=220
https://www.kumamoto-if.or.jp/plaza/default.html
https://www.kumamoto-if.or.jp/kcic/kiji003277/index.html
写真は記事と関係ありません。インドネシア、ジャカルタ国立博物館(1991年7月撮影)。

カリガリの閉店

喫茶「カリガリ」の2度目の閉店についての熊本発の記事が、本日の毎日新聞東京本社版社会面にも載っていました。場所が移る前の頃はよく訪ねる機会があり、ここで多くのことを学びました。なんともさびしい限りです。写真は前の店先の外灯。
https://mainichi.jp/articles/20231116/k00/00m/040/190000c
【2024/11/18追記】
「カリガリ」閉店の記事が、11月18日の朝日新聞熊本地域面にも掲載されていました。
https://digital.asahi.com/articles/ASRCJ65PCRCJTLVB002.html

KKDよりも理論

自分の業務分野では馴染みがない世界ですが、興味があって秋川卓也・木下剛著『はじめて学ぶ物流』(有斐閣ブックス、2900円+税、2023年)を読んでみました。普段の生活の中で目にする物流と言えば、道路を行き来する貨物輸送のトラックのイメージが強いと思います。ですが、それはほんの一部の姿でしかなく、物流センター内の保管や荷役、それを機能させる情報システムなど、規模は大きくてとてもじゃないですがKKD(経験・勘・度胸)では済まない分野であることを知りました。KKDはまさに属人化の極みですから、それでは物は流通できません。物流を可能にする理論がしっかりないことにはシステムは組めませんし、ここに学問として成り立つ理由があるのだと感じます。
本書は、さまざまな用語の定義が親切に解説されています。それらの用語の定義にはJISがかかわっていて、その重要性を改めて認識しました。それでいて語り口は平易であり、紹介されているエピソードにはいくつもの興味深いものがありました。たとえばコンビニ1号店オープン当初は1店舗へ1日70台のトラック配送があっていたのが、現在は管理温度帯別の商品配送でせいぜい1日10台に効率化されているそうです。FedEx創業のきっかけは、教授から自己の理論を低評価された学生(創業者)の反発によるものだったということです。ちなみに本書では触れられていませんが、低評価を受けたレポートは同社本社に今も飾られているそうです。

アレではなくコレだ

「エッフェル姉さん」などと共に新語・流行語大賞2023にノミネートされた「アレ」について本日の朝日新聞教育・科学面に面白い記事が載っていました。言語学者の研究によると、指示詞の「あれ」や「これ」を表す単語は、世界的にあるそうです。しかも面白いことに、文化や地域が変わっても、対象物が自分から50センチ程度までの「手の届く範囲」を「これ」と表現する傾向が、世界共通ということでした。その意味では18年もリーグ優勝から遠ざかっていた阪神ファンにとっては、まさしく「アレ」であり、さらにその倍以上の38年ぶりの日本一は「アレのアレ」に違いなかったと言えます。記事は空間範囲についてしか触れてありませんでしたが、時間範囲で言えばぜひ来季から「コレ」を達成し続けてもらいたいと思います。1年前にJ1まであと1勝だったロアッソ熊本にしても昇格は「アレ」ではなく「コレ」なんではないでしょうか。
写真は記事と関係ありません。パリのエッフェル塔。1991年12月撮影。

やさしい日本語

所属団体の研修で「やさしい日本語」のポイントを学ぶ機会がありました。日本語を母語とする人が、日本語を母語としない人たちと接するときに役立つ内容でした。東京都が2018年に行った都内在住外国人向け情報伝達に関するヒアリング調査によると、希望する情報発信言語として「やさしい日本語」が「英語」を上回っています。ではどうしたらいいのでしょうか。たとえば、易しい言葉に書き換えて分かりやすい書き言葉にすることができます。話すときは相手に分かってもらっているか優しく確かめながら進めて行きます。これは外国人向けだけでなくて日本人の高齢者や子ども向けにも必要な対応だと思いました。 https://www.moj.go.jp/isa/support/portal/index.html
一方、日頃見聞する出来事によっては、悲憤慷慨することが多々あります。当然内容的に「やさしくない日本語」で表現したいことが多くあります。私のSNS・ブログにおける情報発信は、ビジネス目的であるよりも自分の日々のメモ代わりが主なので、多くの読者を獲得しようという目論見はもともとありません。あえて読んでみる方は物好きな方に違いないと考えていますので、やさしくない日本語をこれからも多用して咆えていこうと思います。
※写真は記事と関係ありません。アンカレッジ空港内のホッキョクグマ剥製(1990年12月撮影)

公教育の義務は

10月17日、滋賀県東近江市の市長が、子どもの不登校対策について同県内の首長会合や、その後の報道陣の取材で、フリースクールへの公的支援について「国家の根幹を崩しかねない」「不登校の大半は親の責任」などと発言したことがニュースになりました。これを受けた同月25日の定例記者会見で、二つの発言は「保護者や運営団体などを傷つけた」として陳謝し、その2日後の27日には、県内のフリースクールや親の会などでつくる市民団体側と面会して謝罪したことも報じられました。
現在不登校の子どもたちの受け皿として一定の役割を担っている民間のフリースクールがあることは認めますが、前述の市長発言の騒ぎに乗じて質の悪いフリースクールへも公金注入を進めるのは疑問だと考えます。私自身は市長の持論にはくみしません。しかし、子どもの不登校対策は公教育の枠組みで行うのが筋で、安易に民間へ丸投げするものではないと思います。自治体には子どもたちへ教育を受けさせる義務がありますから、不登校の子どもたちにも教育を受けさせる機会を提供しなければなりません。よって公の運営によるフリースクール形態の場を用意することはありえます。
ところが、民間の自称フリースクールの質はさまざまで、学習指導要領を無視した体験活動が主体のところも見受けられます。運営者の思想信条や歴史認識が極端な例も見受けられます。またそうした運営者が不勉強な議員へ近づいて自らへ有利な質問を議会で行うよう働き掛けないとも限りません。
地元の直近の市議会だよりを見ると写真画像のような質疑もすでにあっています。まずは公教育が文字通り公自身の手で義務を果たすことが先決です。民間のそれはあくまでも事業であって公教育の義務を負った存在ではありません。