『これからの世界の紛争』読後メモ

作家にして元外務省主任分析官の佐藤優氏監修の『これからの世界の紛争』(新星出版社、1500円+税、2026年)をつい先日買って読んでみました。購入のきっかけは、同氏が月1で登壇する動画で紹介していたからです。同氏の発言はその動画以外にも朝日新聞電子版でのコメントでも日頃接します。もっとも最初に氏の存在を知ったのは鈴木宗男事件に連座する形で逮捕される以前の時期に、雑誌『世界』(岩波書店)の「世界論壇月評」を寄稿されていた頃からなので相当長いですが…。それはともかく、氏の現在発する意見のすべてを首肯するものではないですが、国際関係に対する俯瞰力の広さや歴史や思想に対する造詣の深さには敬服するところがあります。それでいてこれまで同氏の著作は一度も手にしたことがありませんでした。言うなればこれまでほとんど無償に近い形でしか氏の言説に接してこなかった不義理に対するほんの僅かなお返しの意を込めて入手してみた次第です。
さて、本著についてですが、「サクッとわかるビジネス教養」のシリーズ本と謳っているだけあって、図解資料が多く、1時間ほどで読み終えるというか眺め終わることができました。取り上げられている紛争についてはすべて承知しているものばかりでしたので、特に新鮮な情報はありませんでした。しかし、特定の紛争のニュースに接したときに関係国・機関・人物や経緯の正しい情報を即座に確認したいときは、辞書的機能があって便利な代物(まるで教科書副読本みたいな!)ではあるかなと思いました。欲を言えば、アフリカ地域における紛争の取り上げ方が少ない印象を受けました。もっと広範な紛争情報について手軽に知りたければ、『分離独立と国家創設 係争国家と失敗国家の生態』の著者・ジェイムズ・カー=リンゼイ氏(英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス欧州研究所研究員)のビデオレターはたいへん有益です。興味を持たれた方は、この動画チャンネルへアクセスしてみるのもいいと思います。
https://www.youtube.com/c/JamesKerLindsay/Join
佐藤監修本の内容について話を戻すと、途中に挟まれているコラムの方が、同氏の識見の本領発揮という思いがしました。たとえば、p.112では1932年の、フロイトとアインシュタインの往復書簡「ひとはなぜ戦争をするのか?」を取り上げています。ここでフロイトは「(戦争を防ぐために)優れた指導層をつくるための努力をこれまで以上に重ねていかなければならないのです」と書いています。紛争の現状把握だけでなく、そうした人類がこれまで積み上げてきた知の蓄積についても目を向けてみることが必要なのだと思います。
(p.117に掲載のグラフの記載で誤記を1か所見つけ出版社に知らせたところ、翌日返信をいただきました。丁寧な対応に感謝します。)

「少子化と教育格差」特集読後メモ

 岩波書店発行の『世界』2026年4月号の[特集2]は、「少子化と教育格差」。そのねらいについて、発行元のサイトには次のように記されていました(▶は改行を示す)。「2025年の国内出生数は、68万人を下回る見込みとなった。▶ベビーブーム期の3分の1以下という急激な少子化が進行する一方、子育ての負担や保育・教育に関わる課題は噴出している。▶日本の公教育は、場所を問わず「教育の機会均等」を保障しようとしてきた。だが、少子化・人口減少下で綻びが広がり、その隙間に入り込む私教育では経済・文化・地域の格差が拡大しつつある。▶急激に進行する少子化は、子どもに、そして社会に何をもたらすのか。」。
 この特集では、いくつか興味深いデータが示されていましたので、紹介してみます。
 米国の家族人口学者であるサラ・マクラナハンが導いた指摘(2004年発表)によると、母親の晩産化や就業率の上昇、親の離婚の増加といった行動変化のうち、晩産化と母の就業は子どもの生活を安定させるが、離婚はウェルビーイングを低下させる傾向にあり、母親が高学歴で安定した生活を送る子どもと、母親が低学歴で資源の乏しいひとり親世帯で育つ子どもという、子どもの生い立ちとその帰結が二極化していく「分岐する運命」の顕在があるそうです。
 実際、日本の子どもについてもそれは言えるようです。1995~99年出生児では90%以上が34歳以下の母親から生まれていましたが、2015~19年出生児ではその割合は69%にまで低下し、母親が35歳以上だった割合が30%を超えています。この20年間で母親の年齢が確実に高年齢化しています。続いて、父母の学歴の組み合わせ別の構成変化を見ると、父母ともに非大卒が減り、父母ともに大卒の出生児の割合が上昇しています。母親が大卒の割合は、1995~99年出生児の37%から2015~19年出生児の50%に達していて、今後は母親が大卒である子どもがマジョリティとなると見られます。さらに、子どもが1歳時に母親が正規の職員として就業していた割合は、1995~99年出生児では16.8%ですが、2015~19年出生児では36.8%に達します。子どもが6歳時の母親の配偶関係構成の変化について見ると、1995年以降、母親がシングルマザーである割合は低下傾向にあり、2人親のもとで育つ子どもの割合が上昇しています。離婚理由にはさまざまなものがあり、その状態をもって非難するのは大間違いです。資源に恵まれた子どもとそうではない子どもとの格差があることに政治が目を向けて低所得やひとり親世帯の子どもに手を差し伸べることが重要です。
 もう一つ知っておきたいデータとしては、多様な文化的・言語的背景をもつ子どもが増加しているということです。2024年に日本国内で生まれた子どもは71万人ですが、そのうち父母が日本人の子どもは67万人、父母の一方が外国人の子どもは1万6千人、父母が外国人の子どもは2万3千人であり、出生総数の5.4%が両親のレベルで外国にルーツをもつ子どもとなっています(2024年の日本国籍出生児の2.3%は父母の一方が外国人です)。外国の文化的・言語的背景をもつ子どもについても特に母親が高学歴、正規職員である割合が高まっているそうですが、やはりその背景を考慮した支援は求められると思います。
 以上が、国立社会保障・人口問題研究所の岩澤美帆氏の「「子どもが減る社会」の実相 データで捉える子どもとその環境」からの読後メモでした。以下は、ハーバード大学アカデミー・スカラーの打越文弥氏の「「手に職」系学部の増大とジェンダー格差」からの読後メモになります。
 近年の日本の大学では、看護系や薬学系、保育系、社会福祉系といったケア領域の「手に職」系の学部が増えているそうです。それがどのような大学で増えているかと言うと、入学難易度が比較的容易な非銘柄大学、比較的歴史の浅い私立大学に多いようです。しかも定員割れに苦しみ生き残りを迫られた地方の私立大学に偏在する傾向にあります。女性資格職と結びついていた短大が四大へ昇格した背景もあります。
 私立大学のタイプ別にみた「手に職」系学部に在籍する学生が占める割合(注:数値はグラフからの読み取りのため大まかです):私立大学A群(早慶GMARCH旧設8医科大など)7%、私立大学B群(1960年以前設置)13%、私立大学C群(1960年以降設置)25%
 地域別にみた「手に職」系学部に在籍する学生の割合:北海道・東北25.1%、関東15.9%、中部24.3%、近畿17.9%、中国・四国27.3%、九州・沖縄25.4%
 選択肢が豊富な(潰しが効く)難関大学は都市部にあり、それら遠方の大学に進学するには高校生自身に周囲の大人を納得させるような合理的理由を提示する必要が哀しいかな求められています。このことから、進路選択を通じた男女の分離が強まらないか、大都市圏に比べて職業的な多様性に限りがある地方においては、高校生女子の将来の選択が、より制約されてしまうのではないかと考えられます。
 入学前に専門を決める入試制度と私的負担に加えて、日本の企業特殊的なスキル形成もとりわけ女性には足かせとなっています。日本では、企業特殊的スキルのレジーム下で得られたスキルは、その企業に特殊的である(と信じられている)ため、同業他社であっても通用しないと考えられて、出産・育児によって就業中断を経験しやすい女性には不利な労働市場となっています。その意味では「手に職」に対する志向性は「合理的」ですが、やはりジェンダー格差という問題は残ります。
 高学歴高所得の親なら子どもの教育環境と将来を考え、やはり都市部で居住したがるでしょう。「手に職」系の学部設置で生き残り戦略をとってきた地方の大学も、先行きは暗いようです。そこの卒業生も生活のことを考えればやがては都市部へ出て行くでしょう。高度なスキルを要する企業であればあるほど人材確保のため都市部に留まり続けるのではないかなと思います。

戦跡バスツアー参加メモ

#北九州市平和のまちミュージアム #戦跡バスツアー #門司陸軍兵器本廠跡 #正蓮寺軍馬塚 #門司兵器製造所跡 #古城山砲台堡塁跡 #火ノ山砲台跡

中東のホルムズ海峡は、封鎖される前、日本が輸入する原油の9割が通過する要所ということで、いつ安全航行が再開できるのか注目を浴びています。近代日本にとっても海峡防衛は重要でした。関門海峡を挟む北九州や下関には、200を超える戦争遺跡があるとされています。一方、それらが現役当時の写真や地形記録はほとんどありません。その理由は、1899(M32)年7月に要塞地帯法が公布されたことによります。北九州および下関地域の大部分が下関要塞地帯に指定され、当時は自由に写真を撮ることができなかったといいます。
北九州市平和のまちミュージアムでは、北九州周辺の戦争遺跡をオープンミュージアムと捉えて、年1回戦跡バスツアーを実施されているとのことです。2025年度のツアーが3月20日に催行されたのですが、応募したら幸いにも抽選が当り参加の機会を得ました。平和のまちミュージアム学芸員が同行案内してしかも参加費無料、ツアー終了後の同館入館も特別に無料と至れり尽くせりでした。その感謝の意味を込めて情報共有します。本投稿中には当日私だけが訪ねた戦争遺跡情報も付け加えています。以下、訪問順に記載します。
(丸囲み数字はツアーコース。〇はコース外)
①老松公園(門司陸軍兵器本廠跡)…1895(M28)~1917(T6)年の間、兵器類の貯蔵・保存、修理、供給などを担う陸軍施設がありました。その後公園化され、1932(S7)年に忠魂碑(現慰霊碑)が建立されました。日中戦争・太平洋戦争の時期は、旧門司市出身の戦死・戦病死者の遺骨の引き渡し場所として使われていました。戦後は球場や世界貿易産業大博覧会(1958年)会場として使用されたこともあります。関門トンネルに近く、公園の国道に面した場所に国道2号線と国道3号線の管理境界の標識があります。慰霊碑の裏手からは太平洋戦争期に福岡俘虜収容所第4分所が置かれていたYMCA跡地方向(隣接する料亭岡崎は当時から現存)を望むことができます。
②軍馬塚(正蓮寺)…写真右の軍馬塚は、日清戦争後に帰国する船が門司港の手前で事故により沈没し、船倉に残ったまま溺死した軍馬57頭の魂を弔うために、野戦砲兵第六連隊第二大隊長が1896(M29)年に建立したものです。写真左の日支事変殉難軍馬之碑は、日中戦争で落命した第六師団の軍馬の霊を弔うため、正蓮寺婦人会が1934(S9)年に建立したとありました。この時期までは退役した軍馬を生きて帰還させたり、死んだ軍馬の遺骨遺毛を内地へ送り届けたりしていましたが、戦争が泥沼化するにつれて、戦地に打ち捨てられるようになりました。外地で終戦を迎えたときに軍馬を射殺した戦争記録を読んだことがあります。
③ノーフォーク広場(門司兵器製造所跡)…明治・大正期は兵器製造所でしたが、その後は被服や糧秣の倉庫として太平洋戦争の終戦まで利用されました。現在、岸壁の石垣しか跡地を示すものは残っていません。訪れた日には、跡地の目の前の海で消防隊員が潜水訓練をしていました。
④古城山砲台・堡塁…ツアー配布資料には、砲台は1890(M23)年に完成し、堡塁は1895(M28)年に完成したとありました。現在の古城山には砲台そのものの跡はほとんど痕跡がなく、門司城跡碑が立つ山頂部に砲台の観測所跡(石階段など)が残っていて、堡塁跡地には胸壁や掩蔽部が残存しているとも書かれていました。同行の学芸員の説明によると、砲台の役割は海上を航行する敵艦を攻撃することにあり、堡塁の役割は砲台がある山へ侵攻する地上の敵軍を迎撃するためのものということでした。下関要塞のウィキペディアにも、「砲台」は対艦射撃用の砲台、「保塁」は陸戦用の砲台の事である、と記載されています。しかし、藤田豊著の第三十七師団戦記出版会(山中貞則会長)発行の『夕日は赤しメナム河』p.489には、要塞・堡塁・砲台の区分について以下の記載があります。「要塞とは、一定の要域を防護する目的をもって、永久築城を施した複数の陣地である。堡塁とは、永久(半永久・臨時を含む)築城を施し、重火器・火砲を混合配備した独立拠点式陣地である。砲台とは、永久(半永久・臨時を含む)築城の火砲陣地である。2個以上の砲台で構成した陣地が堡塁であり、2個以上の堡塁を含めたものが要塞となる。」。つまり、同行学芸員は、砲台と堡塁の区別は攻撃対象の違いにあると認識して、堡塁は重火器と防御壁があるが砲台にはそれがないと受け取れる説明でしたが、旧軍出身者の説明では砲台の個数の違いということになります。これでいけば、後掲の火ノ山砲台も規模的にも堡塁と呼んで差し支えないのではと思いました(しかも火ノ山第四砲台には防御壁もあります)。
〇清美食堂(注:戦争遺跡ではありません)…昼の休憩時間が1時間ありましたので、昼食は門司港レトロバス駐車近くの二代目清美食堂へ初めて行ってみました。ここの名物は「ちゃんら~」。ちゃんぽん麺を和風だしで炊き、それにもやしときゃべつ炒めが載った麺料理です。これにおでんも付いたセットを食べてみました。門司港では、他にも「焼きうどん」や「焼きカレー」といった名物料理があります。それを意識してか、清美食堂のメニューにも「焼きちゃんら~」というのがありました。これらの焼き料理はまた今度食してみたいと思います。芋洗坂係長の等身大写真パネルが店内にあってご本人もいたので、この方が初代の息子さんということを初めて知りました。
〇門司掖済会病院(外観写真のみ)…船員の養成と福利厚生を目的として設立された日本海員掖済会が運営母体。1921(T10)年に現在地に海員養成所と門司病院が開設されています。母方の祖父は日本郵船の船員でしたが、ここの海員養成所で学んだようです。1927(S2)年には門司高等海員養成所も新設されています。ちなみに戦前の海員養成機関には甲板や船室要員の普通海員養成所と航海士や機関士要員の高級海員養成所がありました。特に高等商船学校卒業生は海軍予備員令により海軍兵籍に入れられました。等級にもよりますが、たとえば海軍予備少尉などの階級が付与されていました。
〇日本郵船…門司港駅の向いに建つJP門司港ビルのショーウインドウには、戦前の長崎と上海を26時間の航海で結ぶ連絡船のポスターが展示されていました。
〇出征軍馬の水飲み場・門司港出征の碑…ツアーのコースに組み込まれていない戦争遺跡も今回訪ねてみました。門司港周辺にもあることを江浜明徳著『九州の戦争遺跡』(海鳥社、2022年)で承知していたので、それに載っていた地図を頼りに探してみたのですが、正確さを欠いていて最初見当たりませんでした。グーグルマップで検索して見て行き当たることができました。門司港出征の碑文には、ここ門司1号岸壁から200万人を超える将兵が戦地へ赴き、半数の100万人が生きて帰国できなかった、とありました。私の親族にも門司から戦地へ向かい戦死した人が何人もいます。
〇関門連絡船通路跡・旧監視孔…門司港駅構内には1901(M34)~1964(S39)年の間就航していた関門連絡船の桟橋と駅とを結んでいた通路の一部が残されています。その一角には戦時下にあって渡航する不審者を監視するためののぞき窓の跡があります。
⑤火ノ山砲台…下関にある標高268mの火の山山頂には第一から第四まで合計26門の火砲が備えられ、下関要塞では最大級の砲台として1891(M24)年完成、1926(T15)年に廃止決定、1935(S10)に除籍・撤去となりました。古城山もそうでしたが、明治時代に建設された砲台・堡塁は、実戦を経ることなく廃止されています。ですが、第三砲台砲側庫(砲弾などを収納)や第四砲台地下施設(掩蔽部)・観測所・指令室・防御壁(堡塁)などは、公園化された現在も保存されています。なお、火の山については、1941(S16)~1945(S20)の間、高射砲陣地としての転用はありました。
(関連)東京湾要塞には砲台を配備するための人工島「海堡」もあります。東京湾に現存する第二海堡の建設にあたっては、約50万人の人夫(作業員)が使役されたとされています。作業員の主な職種は世話役の他、工夫、水夫、潜水夫、石工、大工、鍛工、煉瓦工、人夫、女人夫となっていました。賃金は漁夫の平均賃金が38銭であった時代に、工夫の平均は約60銭、技能職である石工と煉瓦工は約80銭と高賃金であったと記録されています。世話役よりも技能職である石工、錬瓦工、大工、潜水夫の方が高い賃金設定だったようです。第二海堡からは桜花章煉瓦の他にいくつかの刻印が収集されています。「小丸に文字のす」、「小丸に文字のゆ」、「小丸に文字の大小」、「小丸に算木」、「英文字SR」などです。同行の学芸員に下関要塞建設時の作業員の属性(九州の産業遺産では囚人が多い)と煉瓦の製造元を質問してみましたが、不明ということでした。
https://daini-kaiho.jp/kaiho/jp/
〇北九州市平和のまちミュージアム…同館の入口近くには、歩兵第十四聯隊之跡の碑がありました。入館当日は企画展として「手のひらのなかの戦争」が開催されていました。明治後半から昭和の戦時中に至るまでの世相を反映した図案が描かれた子ども用の飯茶碗を中心に展示されていました。これらはいずれもコレクターの宮﨑修一氏から同館に寄贈された収蔵品だということです。常設展では軍隊とともに活気づいた工業都市であったことが紹介されていました。小倉陸軍造兵廠では太平洋戦争末期に米国本土爆撃のために開発された風船爆弾が製造されていたとありました。国民が戦争を支えた歴史を丁寧に紹介してもありました。暮らしが苦しくなり、やがて兵士だけでなく民間人も戦災に遭った歴史も伝えてくれます。M17集束弾の模型展示がありましたが、その尾翼根元の輪っかの部分を見ると、それを漬物石代わりに戦後使っていた父方の祖母の生活力の強さをいつも思い浮かべます。
https://kitakyushu-peacemuseum.jp/
〇小倉城内陸軍司令部跡…平和のまちミュージアムの展示を観覧後、江浜明徳著『九州の戦争遺跡』に掲載されている小倉城内の戦争遺跡を訪ねてみました。ミュージアムの裏手の交差点に出ると対角線の先に小倉北警察署が聳え立っていて、「五代目×××壊滅作戦推進中」の巨大懸垂幕が目に入ります。それを左手に見ながら西小倉駅方向へ少し歩くと、松本清張記念館入口の案内表示があるので、そこから右折直進すると、小倉城址になります。「歩兵第十二旅團司令部跡 小倉聯隊区司令部跡」の碑がすぐに見つかりました。本丸へ向かう階段を上ると第十二師団司令部の正門跡があるのに気づきました。近くには「野戦重砲兵第二旅團司令部跡」の碑もありました。やや探すのが厄介だったのが、第十二旅団本部の正門跡です。当日テント出店していた土産物店の支柱代わりに使用されていたため表から見えなかったわけで、それを知って驚きました。このほか城跡内には「生馬神之塔」「軍馬忠霊塔」「明治二七・八年戦役之記念碑」「第十二師管忠魂碑」を見ることができました。

『イスラームが動かした中国史』読書メモ

国際関係や外国人問題について論じられるときに、その対象について狭隘な先入観や断片的な知識しか持ち合わせていない人物の発言は、まずそれを疑ってみるに限ると考えます。その世界的な代表格が現在の米大統領ですし、わが国の現在の首相もまともな学習経験があるようには感じません。その手の人物というのは、ただただ大きな権力がある地位に就いてみたいだけで、行動が場当たり的で、先行きを見誤ることぐらいしか能がないのだと思います。ですが、皮肉なことにそういう手合いに共感する国民が多いからこそ、彼らに権力を与え振り回されているのだと思います。
さて、海野典子著の『イスラームが動かした中国史』(中公新書、1300円+税、2025年)は、隣国中国のムスリムの人々の歴史を描いた著作です。現代中国の国民において回族とされる人々はムスリムの子孫とされますが、彼らの風貌は漢族と変わりないですし、日常会話も漢語ですし、必ずしもすべて回教徒ではありません。もともと漢族だった人が民族登録を回族としていることもあります。「馬」姓を名乗る回族は比較的多いとされますが、なんせ1400年も激動する中国社会を生き抜いてきたコミュニティーです。その人口は1000万人以上ですから中国国内では少数民族と言っても規模が違います。中国には、他にウイグル族などのイスラーム系民族がいて、それらを含めると、人口は2500万人を越えます。本書を読むと、とにかく中国国民全体や各民族個々をステレオタイプ化して理解するのは見当外れも甚だしいことに気づかされます。
歴史を振り返ると、さまざまな文化が交流融合したり、人材登用され社会が発展したりした側面と、少数異質のコミュニティーが不当な弾圧を受けて社会が混乱疲弊した側面とがあり、実に複雑です。それと、宗派は異なっても世界には多くのムスリムがいて、そのことによる国際関係、絆の強さを無視してはならないと改めて感じました。
最後に1点だけ指摘すると、本書は日本の研究者だからこそ書けた、日本だからこそ出版できた面もあると感じました。一つひとつの記述が政府の考えと異なると潰されるようでは国の発展はありません。一方、そういう政府の国であったならどうやって生き抜いていくべきかの知恵も本書は示しています。今度都内に出たら回族出身者が経営するハラール料理店を訪ねてみたいと思います。

『朝鮮の王朝外交』読書メモ

森平雅彦編著の『朝鮮の王朝外交 ”ややこしさ”からの気づき』(集英社新書、1060円+税、2026年)は、朝鮮王朝が隣りの大国とだけでなく周辺諸国といかにしなやかに賢く渡り合ってきてたかを知ることができる、好著だと思いました。片や今日の日本は、ともすれば米国という大国の冊封体制に組み込まれた外交マインドでしか動いていない面が多いのではと感じます。本書でも触れてありますが、かつての日本には対馬の宗氏のお家芸である文書改ざんという知恵もありました。歴史の中に埋もれている知恵に学んでみると、米国と並ぶもう一つの大国である中国との付き合い方を含めて、もっと国際関係は良くなるのではと思います。
編者の森平雅彦氏は、本書のむすびで以下のように書いています。「他者に内在する論理が見えてくるとき、またはこれを見ようと努めるとき、それは、自分のなかの論理では見えていなかった物事に気づき、自分の論理が絶対ではないこと、あるいは、それが不十分な部分を省みるきっかけになる。他者の論理に向き合うことは、それまで自分になかった目線を手に入れ、自分の近く世界を広げ、豊かにする作業だ。それはもはや、他者を理解するためというより、自分のためにほかならない」(p.318-319)。
上記のモノの見方を考える具体的例として森平氏は、本書の序文でなんと草食動物のヌーを取り上げていました。ヌーという動物を肉食動物に捕食されるモノとして見るだけでなく、視力が良くないので視力に優れたシマウマと行動を共にして警戒を補う生存戦略などを示して誘ってくれました。
以下に興味深く感じた事例を列記してみます。一部は朝鮮王朝ではなく、対馬の宗氏の事例。
・モンゴル(元)の支配下でも高麗が独自の王国として存続できたのは、元の対日戦略を担う征東行省の名義利用があった。名目上は地方統治機関だが、実質的には高麗王が統治する高麗政府であり、元の直轄統治とはならなかった。
・小国が大国に事(つか)える、事大主義の冊封体制下で宗主国に無断で隣国に交わること(交隣)は、「私交」とされ、問罪の対象となった。しかし、朝鮮の第4代国王世宗は、宗主国の明に対して室町幕府の日本との私交を、「礼」には「礼」をもってする「交隣の礼」だと正当化して対処した。なお、世宗は第3代国王太宗の三男だが、長男や次男と異なり「天性が聡敏で大変に学を好む」と評価されていたので、「賢を択(えら)ぶべし」の方針にもとづき王世子となった経緯がある。
・1443年に結ばれた癸亥約条では、対馬の宗氏の年間渡航船数は50隻と定められた。宗氏はその制限を突破させるべく、博多商人とも協力して偽名義の使者を仕立てた。見かけのうえでは、上は室町将軍から下は瀬戸内の小島の領主までこぞって通交したかの観を呈した。
・16世紀末、日本国内の統一を果たした豊臣秀吉は、朝鮮を服属させて大陸に出兵し、明を征服することを目論んだ。その交渉を命じられて苦慮した宗氏らのはたらきかけで、朝鮮からは天下統一祝賀の名目で通信使が訪日した。これを朝鮮の服属表明と勘違いした秀吉は、明出兵の手引きを要求する。宗氏はこれを仮道(朝鮮国内の通過許可)にすりかえて朝鮮と交渉したが、朝鮮側は拒絶した。(p.237-238)
・朝鮮貿易を死活問題とする対馬は、壬辰戦争後ほどなく、その復活のために国交回復を朝鮮側に求めてきた。朝鮮もまた北方における女真の台頭をうけ、日本との和解に合意し、1607年、朝鮮使節が正式に江戸幕府を訪問した。当初朝鮮と幕府の間では国交再開の条件がおりあわず、交渉は難航した。そこでこのとき対馬が、お家芸である偽使のノウハウを駆使して双方の国書を偽造・改竄して修交を実現させるアクロバットを演じたことは有名である。(p.239)
・前述のように、当初は対馬が国書の偽造によって通交をスタートさせたため、それをとりつくろうべく、最初の3回までは引き続き対馬が国書を偽造・改竄していた。しかし1631年、対馬のお家騒動からこの事実が幕府に露見した。幕府ではこれを穏便に処理し、引き続き対馬に朝鮮外交の窓口役を任せたが、対馬現地で外交文書を担当する僧侶(以酊庵僧)を幕府が任命し、対馬がひそかに文書の偽造・改竄をおこなえないようにした。(p.243)

関連メモ
九州国立博物館開館20周年記念特集展示「豊臣秀吉とアジアの外交」では、宮内庁書陵部所蔵の「朝鮮国王李昖(宣祖)国書・別幅」(豊臣秀吉宛各1通)が出品されていました。面白いことに、この国書と進物目録は、対馬の宗義智(そう よしとし)が改ざんしたものです。本来は日本国書への返信(奉復)であるところを、先に偽の国書を送ったことが露見しないよう「奉復」の字を「奉書」と変えてあります。国王印も偽造印となっていて、まさに宗氏の諜報外交能力は職人技です。
同展では、5点の国宝指定された品が展示されていましたが、いかに歴史的・学術的価値が高くとも偽造品である限り国宝指定とはならないのでしょうか。「”正真正銘”の国宝級の偽造品」だけに、なんとも複雑な感じです。なお、宗氏偽作の朝鮮国王印(九州国立博物館所蔵)は、偽造品ながら重要文化財指定となっています。

「古代エジプト」観覧メモ

九州国立博物館の観覧ついでに足を延ばして福岡市美術館で開催中の米NY市のブルックリン博物館所蔵特別展「古代エジプト」も観てきました。この日は平日の午後、雨天ということもあって美術館近くの大濠公園は人もまばらでした。代わりに公園内の池では鳥たちがのんびり羽を休めて漂っていましたが、なかには池の周囲のランニング(あるいはウォーキング?)コースを散歩するカモもいて、人なれしているのか近づいてくる変わったのもいました。
さて、その「古代エジプト」ですが、王そのものよりもその周辺の人の暮らしにまつわる情報や出土品の展示が新鮮でした。会場に入ってすぐにあったのが、古代エジプトにおける人気No.1の仕事「書記」についての解説や関連の展示物でした。古代エジプトの「書記」とは、神の言葉である文字を操る役職であり、神官であり官僚でもあるということでした。筆記に際しては葦ペンを使います。読み書きの知識の力があるということは、かなり高い評価を受けていたそうです。書記は婚姻や不動産取引の契約書も書いていたそうですから、現代の日本に当てはめると、行政書士みたいなものだったと、強引に一人合点していました。
海外の収蔵品を日本へ運び込んでの展示となるので、数量は150点近くありましたが全般的に小粒感は否めません。それなら現地へ行けよという話になりますが、特別展観覧料2000円で館内別会場の常設展や企画展まで含めて見て回ると、相応もしくはお得な価格とも言えるなと思いました。特に同館1階の古美術企画展示室内で開催されていた「魅惑のインドネシア染織」は、島ごとに異なる模様や色合いが興味深く、一国におけるファッションにこれほどの多様性があることが驚きでした。ジャワ島だけかつて一度訪問した経験があるせいか、やはりそこの染織品が気に入りました。

「平戸モノ語り」観覧メモ

平日の午前でしかも雨天なら人がいくらか少ないだろうという読みで、太宰府市にある九州国立博物館で開催中の特別展「平戸モノ語り 松浦静山と熈の情熱」を観覧してきました。予想通り館内は割と空いていてじっくり見ることができましたが、梅が開花中の太宰府天満宮および参道は海外からの観光客や修学旅行生の団体がそれなりにいて賑わっていました。
ところで、特別展の主役は、江戸時代の平戸藩主であった九代の清(号は静山)と十代の熈(ひろむ)の親子(なお、氏の「松浦」は、「まつうら」ではなくて「まつら」と読みます)。父の清は肖像に描かれるのが嫌いなのですが、息子の熈は肖像画に描かれるのが好きで自分が気に入るまで何度も描き直しをさせるなど、性格は異なる面がありましたが、共に今でいう「学芸員」の資質・気質に恵まれた人物のように受け止めました。父の清は無類のコレクターであり、日記大好きの記録魔であるのに対し、息子の熈は史料の保存・修復に重きを置いた分類整理魔といったところでしょうか。藩主であったがためにそれなりに資力があり、江戸など都市の空気を吸い、各地の文化人との交流もあり、国元である平戸という根っこもありました。こういう稀有な環境にあった親子のおかげで貴重な品々が遺され、昨年10月に開館70周年を迎えた松浦史料博物館のお宝となっているわけです。
それと、常設展示室の一角で組まれていた、開館20周年記念特集展示「豊臣秀吉とアジアの外交」も特別展と並ぶかそれ以上の見ごたえある品々がそろっていて豪華でした。秀吉治世時代の外交における文書改ざん事件や諜報戦の一端がうかがえるものもあり、ゾクゾクさせられました。

『ナショナリズムとは何か』読書メモ

1月23日から動画がネット公開されている「先端研クロストーク」(2025年11月7日実施)の中で、登壇者の一人である中井遼氏(東大先端研教授)の存在を知り、同氏近著の『ナショナリズムとは何か 帰属、愛国、排外主義の正体』(中公新書、1100円+税、2025年)に興味を覚えて読んでみました。
https://www.youtube.com/watch?v=_3swK2zGynA
これだけ大きなテーマを新書1冊で解き明かせるものなのかという疑いをもって最初は手に取りました。ですが、読み進める中で、国内外の膨大な先行研究を狩猟し咀嚼したうえで論述した労作というのが伝わり、疑念はきれいに晴れました。著者も「科学とは人類によるチーム戦である」(p.229)と書いています。何がわかっていて、何がわかっていないのかを、知っていないと、社会は貧困になり、さまざまな争い(最悪は戦争)が生まれるということを、本書で感じました。そのためにも本書で紹介されている実証研究の成果が社会一般に共有されることが重要です。
時に帰属意識や愛国心、排外主義をくすぐるナショナリズムは、政府や政治家にとって都合にいい武器になります。これはファシズムだけでなくてリベラリズムや環境保護運動との相性の良さもあり、多面的です。皮肉なことにナショナリズムは、学校や軍隊、鉄道、出版印刷文化が発達した時代から登場した面もあります。
本書で紹介されていた実証研究やデータの中で知っていて損はないトリビア的なものをピックアップしてみます。
・デンマークやアメリカでは、国への帰属意識が強い人ほど、同時に排外意識が強いが、カナダやイタリアでは逆の相関関係で帰属意識が弱い人ほど、同時に排外意識が強い。
・サッカーW杯の予選をギリギリ勝ち抜いた国とギリギリ敗退した国では、前者のほうが2~3年後に戦争を開始する確率が有意に高い。
・イギリスのサッカーのクラブチームの地元回答者を対象にした分析では、中東にルーツを持つ選手の入団後、体系的にイスラム教徒への偏見が減ずる現象が確認されている。
・バルト三国の「歌う革命」。「歌うことは抵抗すること」であり、1990-91年にソ連からの独立を回復した。エストニアで1988年に行われたイレギュラーな祭典では全人口の役5分の1が1か所に結集した。「太陽・雷・ダウガワ川」が歌われた。
・アメリカにおいてはアイルランド系移民やイタリア系移民が歴史的にはしばしば非白人グループに属するとみなされてきた。
・日本では、高学歴層のあいだで、表立って回答する際には一定の反中反韓的な態度を表明することが規範的なふるまいになっている傾向にある。
・19世紀、プロイセンに敗北したフランスが下士官の指揮と意思疎通能力を高めるために急速に言語統一を推し進めた。日本も黒船襲来やアヘン戦争による国際危機認識のもとでの近代化(明治維新)の中で学校教育と共通言語教育を普及させた。
・インドのヒンドゥー教徒を対象にした実験で、ヒンドゥー教徒の多い地域の災害情報とイスラム教徒の多い地域の災害情報を見せてそれぞれの寄付額を聞くと前者が多くなるが、インドの国土と国旗の情報を先に見せてから両方の地域の災害情報を見せると寄付額が同じ程度になった。
・第二次大戦終結後から1999年までに発生した国家間戦争の死者数は約330万人である一方、同じ期間に発生した内戦の死者数は約1620万人であり、およそ5倍である。
・かつてリトアニアの最大都市のビリニュスは北のエルサレムと呼ばれ19世紀頃まで同地最大の民族集団はユダヤ人であったが、現在は同地にユダヤ人はいない。第二次世界大戦の際に、約20万人前後のほとんどのユダヤ人がナチスドイツの侵攻前後に現地協力者とナチスの手によって殺された。当時のリトアニア住民は、ユダヤ系住民をリトアニアの独立を奪ったソ連の味方だと観念し、敵に通じていると想定していたからである。現在、リトアニアではこの経緯が高度な歴史認識問題となっている。
・国民の祝日の30日後に国家間紛争に至るリスクはそれ以外の時期より2~3割高くなっている。
・国外に同民族問題を抱える国において、比例代表制をとる国が失地回復戦争を起こす確率は1.2%であるのに対し、小選挙区制をとる国では5.8%となる。軍事独裁国家のある国がある年に同様の紛争を起こす確率4.5%よりも高い。

『無敵化する若者たち』読書メモ

日本総合研究所会長・多摩大学学長の寺島実郎氏が配信している動画「寺島実郎の世界を知る力#65」(2026年2月15日放送)を、先日たまたまネット視聴しました。その中で、紹介していた金間大介著『無敵化する若者たち』(東洋経済新報社、1600円+税、2026年)の内容に興味を覚えてさっそく読んでみました。
著者の金間大介氏は、イノベーション論を専門とする大学教員。1995年以降生まれのいわゆるZ世代の若者と接する機会が多い環境にあり、若者の価値観の特徴を詳しく紹介しています。彼ら若者との接し方に困っている上司世代に対しては、その価値観を変えるのではなく行動支援をすることを勧めています。また、おそらくこの本を手に取らないであろう若者たちに対しても、チャンスへ飛び込んでみる勇気を呼びかけています。
ところで、Z世代の価値観を一口で言えば、とにかくいい子症候群の安定志向。タイパ優先で、常に先に正解を求め、失敗することを恐れます。結婚したくない子どもを持ちたくない若者の率が多いのも失敗を恐れてなのかと思います。彼らの親世代が社会人となった時代が経済的にも不景気で将来の生活不安が大きく感じられることもあって、我が子が失敗の人生を送らないよう正解を教え続けてきた結果でもあります。職場でも優しく何でも教えてくれる、まるで塾講師のような上司が歓迎されているそうです。
昔からいい大学に入って安定した大企業に就職するのが勝ち組というので、安定志向の若者が一定数いたとは感じますが、現在は若者人口も減り、浪人してまで進学する大学は一部に限られています。あんまり努力する必要もありません。就職もずいぶん売り手市場になってきました。
読んでみて私がこれまで感じていた若者の価値観の大勢と違和感がなく、納得する点が多かったです。役に立ったのは、本書で紹介していた「大学生に通じないネタ・トップ5」。第1位:テレビコマーシャルネタ、第2位:ドラマネタ、第3位:サッカーネタ、第4位:相撲ネタ、第5位:野球ネタ、となっています。要するに若者は、テレビ見ないし、新聞・雑誌読まないし、努力嫌いだし、ということなのでしょうか。

つなぎ美術館での贅沢時間

昨日(2月14日)、水俣での用件を済ませた帰り道に、つなぎ美術館へ立ち寄り、台湾・高雄出身のアーティストの陳漢聲(チェン・ハンシェン)さんと劉星佑(リュウ・シンヨゥ)さんの作品展を観覧してきました。これらの作品は、昨年8月から11月にかけて津奈木町や近隣地域に2人が滞在する中で制作されたものです。展示は、2人のユニット「走路草農藝團」としての作品展とそれぞれの個展の3部構成となっていました。
入館したときの客は私1人だけでしたので、貸切状態で贅沢な観覧時間を過ごすことができました。陳さんの「田の神」といい、劉さんのご両親が出演協力した写真といい、ほのぼのとした優しさを覚える作品で、自然が身近に感じられた郷愁のようなものも得られた思いがしました。
同館所蔵の常設展示のブロンズ作品であり、浜田知明氏作の「無聊」(1988年)もあわせて観覧しました。

ファシズム・メーター

科学史が専門の隠岐さや香氏が、フランスの社会運動家兼デザイナーのジェフリー・ドルヌ氏が作成している「ファシズム・メーター」を朝日新聞コメントプラスで紹介していました。社会の危険な兆候をランキングした表となっていて、下に行くほど深刻度が上がっていきます。国政に限らず企業や学校などさまざまな組織の病気の重さを計測する指標にも応用できそうですね。

自由と参加(=ファシズムから遠い、安全な状態)
1.多元主義(複数の違う立場が見える状態)と権力抑制の尊重
2.自由で独立した報道がある
3.集会・デモの権利の保障がある
4.文化と教育への公平なアクセスがある
5.独立した司法がある

警戒すべき段階
6.治安・安全保障言説が恒常化する
7.「あなたの安全のため」という名目の大規模監視
8.偽情報の流布と穏健なプロパガンダ
9.労働組合・市民団体の権利縮小
10.文化的・学問的検閲が起きる

露骨な権威主義段階
11.内なる敵を指定する言説がある
12.国民史の書き換えが試みられる
13.少数者・ジャーナリストに抑圧がある
14.警察が暴力を奮っても処罰されない
15.日常的な排外的アイデンティティ・ナショナリズムの主張
16.権力の個人化が起きる

能動的ファシズム段階
17.民兵組織、政治的な暴力、指導者崇拝の横行
18.批判的組織の禁止が起きる
19.司法とメディアの統制が起きる
20.反対派の逮捕が起きる
21.「純化」や「道徳的立て直し」への呼びかけ
22.反対派の国外追放・排除

https://hckr.fr/fascismometre/

それはミュージアムかを判別する

ミュージアムといっても分類すると、総合系、歴史系、美術系、自然科学系とさまざまです。展示に力を入れているところもあれば、資料の保存や研究に重点を置いているところもあります。一般の人はその展示を通じて何かを感じるなり学ぶなり刺激を求めに訪ねていくのでしょうし、実際私もあちこちへ伺う機会があります。ですが、ミュージアムと名乗っていてもそのレベルはまちまちです。中にはこういうものを収集したので、陳列しましたと言っているだけの、勝手に眺めて楽しんでくださいという、ギャラリーショップ的なところもあります。でも、それでミュージアムと称していいのだろうかと思います。
高木徳郎編著『文化財を未来につなぐ 博物館と学芸員の仕事――学芸員をめざす人へ』(勉誠社、2800円+税、2025年)を読んでみると、ホンモノのミュージアムにはホンモノのキュレーターがいて、その判別に役立つ書籍だなと思いました。逆に日本における「博物館」とか「学芸員」とかいうのが、その呼称だけではレベルを保証するものではなく、国際基準からもかけ離れていることが理解できました。
まず、2021年に国が行った「社会教育調査」によれば、日本国内には、5771の「博物館」があり、次の3種類に分かれます。①登録博物館(911館、約16%)、②指定施設(旧・博物館相当施設、394館、約7%)、③博物館類似施設(4466館、約77%)。①・②は博物館法に規定され、その適用を受ける社会教育施設となりますが、③は博物館法の適用を受けない施設です。①は都道府県や政令指定都市の教育委員会による審査を受けて登録された「博物館」であり、学芸員がおり、年間150日以上開館し、公立施設では博物館協議会設置が定められ、原則入館無料となっています。②は国または都道府県・政令指定都市の教育委員会が登録博物館に類する事業を行う施設で、意外にも東京・京都・奈良・九州の国立博物館や国立科学博物館もこれに位置付けられている。学芸員に相当する職員を置くことが定められているに過ぎず、年間100日以上開館でいいそうです。③では学芸員の配置は義務でないこともあり、86%の施設で専任の学芸員がいないとされます。利潤の追求や観光施設のとしての集客、経営母体の情報発信が目的とするものもあります。
ところで、博物館法で規定されている「学芸員」の資格取得者のほとんどは四年制大学の所定の単位取得となっています。2007年度の数字では、全国で322の四年制大学が学芸員資格取得講座を設置し、8588人が学芸員の資格を取得して卒業していて、今もそれくらいの規模のようです。しかし、私もその資格を有しているので、わかるのですが、保存科学や修理にかかわる技術、展示や資料梱包にかかわる技法まで学ぶ機会はありませんでした。あくまでも準備教育ないしは基礎教育を受けたに過ぎません。それでも、博物館等に就職できる人が年間200人ほどあるようです。
この日本の学芸員制度は海外と比較すると特異です。たとえば米国の場合、学芸員の業務は、専門分野の調査・研究を行うcurator、資料の保存にかかわる技術者conservator、資料の修復にあたる技術者をrestorer、展示技術や演出を担当するexhibition designer、教育普及活動を行うeducator、資料の登録と管理を行うregistrarなど、専門分野に分化しているとのことです。欧米のcuratorは、大学で言えば教授に匹敵する研究実績と実務経験があり、博士号をもつのが一般的で、curatorの職に就くまでには、assistant curator、associate curatorなど、業績審査の過程を経て徐々に昇任することから、もしも図録や名刺でcuratorと肩書を英文表記している日本の学芸員がいたら、その経歴をよく確認してみる必要がありそうです。

6回目の戒厳令(修正更新)

秋政久裕様からのご教示により当初の記述から2点を修正更新します。
1.「4度目」ではなく「6度目」。大日本帝国時代の戒厳は、日清戦争時、日露戦争時に「臨戦地境戒厳」が出ており、「行政戒厳」と合わせて5回出ている。
2.戒厳司令官は「畑俊六」で「佐伯文郎」ではない。戒厳司令官となった第二総軍司令官の畑俊六元帥は、船舶司令部司令官の佐伯文郎中将を、警備担任司令官に任命した。戒厳司令官はあくまで畑俊六で、佐伯は畑から区処された警備担任司令官である。

(以下は修正前の記述)
AIくんが教えてくれるところでは、大日本帝国時代に「戒厳令」が発令されたのは、日比谷焼打事件(1905年)、関東大震災(1923年)、二・二六事件(1936年)の3回となっています。戒厳令の根拠法は太政官布告第36号(明治15年)であり、天皇が大日本帝国憲法第14条に基づき「戒厳の宣告」を行う仕組みでした。
しかし、アジア・太平洋戦争末期の1945年8月6日に原子爆弾で焦土と化した広島において、歴史的にはないとされている4回目の戒厳令が天皇の許しを得ず宣告されたと考えている研究者がいます。昨夜(1月17日)行われた「空襲・戦災を記録する会」が主催する「第45回空襲オンライン学習会」において、その研究を行っている広島城の元学芸員・秋政久裕さんの報告を受講する機会を得ましたが、その考察内容は十分納得できるものでした。
根拠として以下の点を秋政さんは指摘していました。
1.戒厳令宣告を決定した事情を知る4人の参謀の証言が確認できること。
・広島県『広島県史 近代2』(1981年刊)…岡崎清三郎元第二総軍参謀長の話を基に記述。
・篠原優『暁部隊始末記』(1964年刊)…篠原氏は陸軍船舶司令部の元高級参謀。
・読売新聞社『昭和史の天皇4』(1968年刊)…井本熊男高級参謀と橋本正勝作戦主任参謀の話を基に記述。
2.第二総軍司令官の畑元帥が、隷下にない佐伯船舶司令官へ命令できたのは、戒厳令が出ていたからこそ。
・被爆直後は広島-東京間との連絡は不通。畑俊六が戒厳令を決定し、戒厳司令官には佐伯文郎中将を任じた。
3.畑や佐伯が戒厳令について証言を残さなかったのは、天皇大権を越権した悔いがあったから。
・畑は侍従武官の経験があり、自決前の阿南陸相へ終身制の元帥返上を申し出たのも、越権に対する責任感から。
・太政官布告第36号の第7条では、戒厳宣告時の上申先は太政官(=陸軍大臣)となっていた。
・戒厳令解止も本来であれば天皇が行うが、それは敗戦の混乱でうやむやとなった。
ところで、この戒厳令宣告を決定した場所は、原爆で倒壊した第二総軍司令部建物の背後の二葉山に構築中の地下壕内でした。現在、入口の穴が数か所確認されていますが、いずれも戦争遺跡としての保存整備は手つかずのままとなっています。地権者は国ということですが、行政の動きはたいへん鈍いと聞きました。今回の報告を聞いてなんとか保存整備そして公開へ進まないかと思いました。
それと、この戒厳令により、「本土決戦」に備えて広島県呉の山中で地雷を抱えて戦車に突き進む訓練をしていた海軍の「陸戦隊」や水上特攻艇マルレの訓練をしていた陸軍の船舶部隊「暁部隊」の若者たちが、原爆投下直後の焦土の広島へ救援部隊として送り込まれ、いわゆる「入市被爆」をします。しかし、いずれも特攻要員の秘匿部隊所属であったため、軍歴記録に空白があるなどして被爆を裏付ける証明が難しく被爆者手帳を取得するまで相当な期間を要しました。中には手帳を申請できることを知らないまま亡くなった方も数多くいます。その史実については、昨年12月に集英社新書から刊行された中國新聞客員編集委員の佐田尾信作氏による『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』が参考になります。
なお、地下壕について取り上げたニュース動画が下記より視聴できます。
https://www.youtube.com/watch?v=7JIUqS6hgnE

イスラムの世界史

イスラム地域研究の専門家である宮田律氏によるの最新著『50のストーリーでつながりがわかるイスラムの世界史』(中央公論新社、1950円+税、2025年)は、ふだん馴染みがないイスラム世界の歴史を理解するのに適した教科書としてお勧めではないかと思います。馴染みが薄いとはいえ、日本におけるイスラムに関する報道は、テロや戦争に関係するものがほとんどなので、イスラムに対するイメージが、何かしら物騒な得体のしれない怖さを秘めたものになっているのが、実情だと思います。しかし、本書を読むとイスラムは本来、テロや暴力を否定し、子どもや女性、高齢者などに対する保護を強調する宗教ですし、貧困者を救済するために喜捨の義務があり平等を求めます。信仰を強制せず信仰の自由を保障することから、歴史的に見ると、ユダヤ教徒やキリスト教徒との共存ができた時代がはるかに長かったことを知ることができます。
学問の発展についてもヨーロッパ・キリスト教世界で花開いたイメージが私たちには強くあると思いますが、これも歴史的に振り返ると、その基礎がイスラムの世界発ということが、医学や数学、天文学さまざまな分野で多くあります。算用数字をアラビア数字と称することを思い出してもらうと、納得されると思います。現在のアフガニスタンのタリバンからは想像できませんが、音楽・楽器もその源がけっこうイスラムの世界にはあります。
さらには、食文化においてもイスラム発祥のものが多いと知り、これがもっとも驚きでした。私がウィーンで飲んだコーヒーも、ローマで食べたパスタ、マドリードで食べたパエリアなど、いずれもイスラム世界からヨーロッパへもたらされたものです。
本書は、イスラエルとパレスチナとの関係など、現在の不幸な側面についての解説にもページを割いていますが、平和共存は絶対に不可能なのかを歴史から学ぶべきだと思います。現在の日本国内においてもクルド人に対する不当な差別も無知や誤情報思い込みゆえに起こっていることで、みっともなく思います。

カスハラ対策法10月1日施行

企業にカスタマーハラスメント防止の取り組みを義務付けるカスハラ対策法の施行日は、今年の10月1日。たまたまトラック業界の啓発動画を視聴してみましたが、なかなかよくできています。まずもって身体的・精神的苦痛を相手に与えるだけのハラスメント行為に無自覚な人物には、軽蔑の念を覚えます。問題は、いくらその方針や対策を文章にしても、社員の人権が侵害されていると気づいて受け止めて毅然とした対応がとれる経営者なり管理職がいるかどうか。それがないところでは、人材が離れたり育たなかったりするわけで、いろいろ考えさせられる動画でした。
私は、最初の仕事が求人情報誌の営業だったので、さまざまな業界の経営者と会う機会がありました。その後自分でもやってみましたが、会社を起こすのはある意味カンタンなことです。社長なんぞには誰でもなろうと思えばなれます。クズ比率も必然的に多くなるというのが実感です。
そして、人権意識が高い経営者や管理職がいる組織かどうかは話が別だなとも感じていました。そこが足りない組織はいずれ自然淘汰されます。
https://www.youtube.com/watch?v=9nycaSwQK1Y

ツカハラではなくてツカワラ

一昨日のNHKローカルニュースで、熊本市塚原歴史民俗資料館の「熊本市遺跡発掘速報展2025」の内覧会を紹介してしていました。割と近距離に位置する施設ですが、これまで訪ねたことがないのと、それまで「つかはら」だと思い込んでいた地名が、実は「つかわら」だったと知って、俄然興味が湧き観に行きました。地名の読みについては、熊本出身のアナウンサーもニュースでは最初私と同様に間違った読みで紹介していて番組の終わり方に訂正していたぐらいです。
それはともかく実際に観に行ってその展示には満足しました。出土品からうかがえる交流の広さを知ると、現代日本で蔓延る外国人排外主義の風潮がなんともみみっちく思えます。貝塚の位置からは当時の海岸線もうかがえますから、元は海だったところに住んでいる現代人が土地の権利でそんなに偉そうにするなよという気持ちにもなります。
近くにぜいたくな気分に浸れる施設があって得しました。

戦争の時間旅行者展

益城町交流情報センターで開催中の企画展「戦争の時間旅行者」を先日見てきました。小規模な展示でしたが、益城町に関連する戦争の記憶を、実に弥生時代から第二次世界大戦まで振り返る、時間軸が長いユニークな企画でした。たとえば、関ヶ原の戦いで東軍に組した加藤清正が、西軍の小西行長の居城・宇土を攻める際に拠点にしたのは、益城町の木山だったそうです。
それから277年後の西南戦争のおりには、熊本城包囲戦から撤退した薩軍が、本営を熊本市の二本木から木山に移したとありました。加藤清正も西郷隆盛も同地を本陣とする重要性を認めていたということでしょうか。益城町の飯野地区では、官軍と薩軍との戦闘(今でも弾丸が出土するそうです)があり、地元の有力者たち依頼でその激闘の模様が絵馬として描かれ、砥川阿蘇神社に奉納され現在も残っていることを知りました(会場では写真を展示)。西南戦争でいえば、当時の細川護久知事の娘3人が薩軍から逃れるため益城町内の有力者宅に避難していたそうで、そのときに使用された駕篭の展示もありました。
あと珍しいものとしては、一〇式艦上戦闘機(1922年=T11に英国の技術供与で日本が最初に建造した空母「鳳翔」の複葉の艦載機。試作が1921年=T10であることから一〇式。ちなみに鳳翔は戦後復員船として供用された)木製プロペラを津森神宮で所蔵しているということで、これは実物が展示されていました。
会場の近くにはワンピースの「サンジ」像があり、それ目当ての人が多い場所ではありますが、ぜひこちらへも立ち寄る人が増えてほしいと感じました。アンケートに答えるともれなくクリアファイルがもらえます。
https://kumanichi.com/articles/1940113

第二総軍地下壕と入市被爆

空襲・戦災を記録する会が主催する第45回空襲オンライン学習会が近くあるので参加予定ですが、今回のテーマは「昭和20年8月6日 第二総軍原爆記 ―空襲と戒厳令―」で報告者は秋政久裕さんということでした。
https://kushusensai.net/joz4ywci4-9/#_9
ここに出てくる「第二総軍」とは、1945年4月、本土決戦で国内が戦場となることを想定した陸軍が日本列島を二分して置いた西日本の部隊の総称です(東日本側が「第一総軍」)。「第二総軍」の司令部は、広島市の騎兵第五聯隊の兵営跡に置かれました。同年8月6日の広島原爆被爆当時は、地上三階建ての建物であり、450人余りの要員が原爆で倒壊した建物の下敷きになったといいます。2017年にICANがノーベル平和賞を受賞したときの講演で知られるサーロー節子さんは、当時広島女学院高等女学校の生徒であり、司令部暗号班に動員されていたため、やはり下敷きになりましたが、必死で這い出た数少ない生存者の一人です。
同時期、司令部は朝鮮人労務者100人ほどを使い、二葉山の山中に横穴式の地下壕を掘削する工事を進めていました。洞窟司令部としては7割方完成していたそうです。原爆被爆後は実際にその地下壕を司令部として利用したそうですが、現在その遺構は保存されていません。
報告者の秋政久裕さんは、中国軍管区司令部があった広島城の元学芸員ですが、二葉山南麓の斜面に横穴4か所、立坑1か所を確認しているそうです(2025年1月の広島の地方紙・中國新聞に記事掲載)。第二総軍の二葉山地下壕について秋政さんは、焦土と化した広島の復旧のため一時的に「軍政(戒厳状態)」を敷くと決めたことに係る重要な場所だと考えています。
実は、これら第二総軍地下壕や報告者のお名前は、先月集英社新書から出たばかりの佐田尾信作著の『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』のp.99-108に出てきます。同書は、陸戦隊の元水兵を父に持つ中國新聞記者による著作です。取材対象は、1945年夏に「本土決戦」に備えて広島県呉の山中で地雷を抱えて戦車に突き進む訓練をしていた海軍の「陸戦隊」や水上特攻艇マルレの訓練をしていた陸軍の船舶部隊「暁部隊」の若者たち。彼らは原爆投下直後の焦土の広島へ救援部隊として送り込まれ、いわゆる「入市被爆」をします。しかし、いずれも特攻要員の秘匿部隊所属であったため、軍歴記録に空白があるなどして被爆を裏付ける証明が難しく被爆者手帳を取得するまで相当な期間を要しました。中には手帳を申請できることを知らないまま亡くなった方も数多くいます。
81年前にただただ命を差し出すことを求められた若者たちがいて、生きながらえても重い傷を負い続けなければならなかったのです。これほど罪深いことを強いた人間が確実にいたということ、これからもそんな人間が出てしまいかねないということを絶対に忘れてはならないと思います。