宅建士法定講習受講記

宅地建物取引士証の交付を受けている場合、その有効期間は5年となっていて、その更新を希望する際には、5年毎に法定講習を受講しなければなりません。以前は特定の日に会場で開催される座学講義方式のみでしたが、一昨年末頃よりWeb配信方式による受講も可能となり、今回私も初めてWeb法定講習を受講してみることにしました。その利点は、なんといっても一定期間中(4週間)であれば日時を問わず受講できることです。会場へ赴く必要がありませんから、交通費も往復時間も節約できます。座学だと1日間で6時間の内容を詰め込む形ですが、Webだと土日祝日・夜間でも受講可能ですし、集中力が切れたときは自由に休憩できます。
それで、講義の内容ですが、さまざまな法令改正のポイントや紛争事例の解説が中心となります。行政書士へ持ち込まれる相談案件として相続や土地活用の分野は多いので、どうしても不動産コンサルティング的な知識を要求されますから、この講習は非常に役に立ちます。それで、以前の講習内容と比較すると、コンプライアンスや人権にかかわる啓発的な説明が充実してきた印象を受けました。それだけ宅建取引上のトラブルだけでなく、対人接客上のトラブルの撲滅が業界にとって大きな課題になってきている表れだと思いました。
例を挙げると、取引相手から同和地区の存在について質問を受けた場合、回答しなくても宅建業法第47条には抵触しません。というより、宅建業者は取引の対象となる物件が同和地区に所在するか否かについて調査することまたは取引関係者に教示することを絶対に行ってはならないのです。これに限らず、宅建業者の従業員が賃貸住宅を求めて電話してきた外国人に肌の色を尋ねて、後に損賠賠償請求が認められた事件もあったといいます。
加えて気をつけなければならないのは、反社会的勢力の排除に向けた取り組みです。マネー・ロンダリング対策として業者には、確認記録や取引記録等の作成義務があり、それを7年間保存しなければなりませんし、疑わしい取引については行政庁へ届出義務があります。
このような話を聴くと、高額な献金を集めて海外へ送金しているようなマネロンまがいの教団と票集めの取引を行ったとされる政党の関係者なんかは、まったく民間の事業者では考えられないようなコンプライアンス意識の低さだなと感じます。

国民に犠牲を強いておいて何が国を守るだ

9月20日の朝日新聞総合面の連載「いま選択の時に」に、平和学者の清水奈名子宇都宮大学教授の意見が載っていましたが、私が日頃思うところと重なる内容ばかりでした。国家中心の威勢のいい発言ばかりを行い、戦争や原発事故で犠牲になる国民のことを考えていないどころか、足元の人々の生活さえも理解していない政治家にこそ読んでもらいたい記事ですが、残念ながら自身の適性を判断できる能力がない人にそれを求めるのが無理なのも事実です。ただサル山のボスになりたいだけとか、そのボスに追従してエサをもらいたいだけの子分たちの姿を見せられると、政治の貧困という内からの脅威が外からのそれよりよっぽど危機的なのではと感じます。
https://www.asahi.com/articles/ASS9K1CG4S9KUTFK007M.html

とても政策集とは言えないペーパー(どうも自身の道徳観の羅列?)を、選挙区外の熊本までわざわざ送りつけた奇特な方もいるようです(9月9日着)。ゆうメールの配達日数は通常3~4日とされますので、一体いつ発送されたのかギモンです。

お寒い日本の安全保障

多くの日本国民に霊感商法被害を与えたカルト集団と政治家との関係を問われた総裁選候補者全員が、無回答というのは、あまりにも危機感がなさすぎると言わざるを得ません。
9月17日の朝日新聞では、安倍晋三元首相が自民党総裁応接室で旧統一教会幹部と面会したとされる写真を入手したことを報じていました。こんなことがまかり通っていて、一国の安全保障や治安行政を語れる資格が元首相周辺にあったのだろうか今更ながら思わされました。
仮に首相個人が無頓着だったとしても、とりわけ首相には防衛省や警察庁からは必ず秘書官が就きます。たとえ面談した場所が政党の総裁応接室だったとしても、首相が会う相手が、外国勢力からの不当な支配を受けている団体や犯罪集団の関係者でないか、首相周辺でも常に警戒を怠るべきないと考えるからです。
もう一つ本件で感じるのは、新聞で書かれていない不都合な情報こそ往々にして重要であるということです。朝日新聞の報道によると、安倍元首相が教団幹部と面会した目的は、元産経新聞政治部長の北村経夫氏が2013年参院選出馬にあたって教団からの支援を得るためだったとされています。しかし、本日の産経新聞では、朝日の報道に触れつつも、北村氏の氏名や教団とのかかわりは一切報じていません。重要情報が知らされない産経の読者はつくづく気の毒だなと感じます。

(追加1)
しかし一方も裏金議員を多数かかえた反社会的集団の頭目だったわけだから、なんとも救いようがない。それと、こうしたセンセイ方に日頃から諂い阿る国民もどうかしているよな。

(追加2)
反社会的勢力に日本の権力の中枢へつけ込むスキを与えるという失態にどうしようもない危機管理能力の欠如を感じます。しかも反社会的勢力の常套手段はしっかり写真などの証拠をおさえて相手が離反しようとするときの揺さぶりの材料にするものです。自己を防衛する能力のない政治家に日本の安全保障の議論は任せられないと思います。
地方でも思慮が足りない政治家をターゲットにした例が多々あります。たとえば、教団の教祖の名前入りの任命状をありがたく受け取ってアホ面をさらしている地方政治家の写真などを目にしたこともありました。それはそれで有権者としては政治家の資質を判断する材料にはなりますが…。

強制的夫婦同姓は「百端の紛雑」だ

共同通信が「選択的夫婦別姓」について全国の自治体首長に尋ねたアンケート集計結果に基づく、熊本県知事と県内市町村長の回答の一部が、けさの地元紙紙面に掲載されていました。しかし、残念なことにすべての首長個別の回答内容について紙面から知ることはできません。電子版会員のみスマホで紙面にあるQRコードで読み出すことによってしか知ることができないようになっていました。わずか46人分の図表なら10cm四方に満たないスペースで表示できそうなものです。反対の首長への忖度なのか、読者にたいへん不親切な報道だとまず感じました。
私自身の考えは、選択的夫婦別姓の実現には賛成です。現行の強制的夫婦同姓制度を採用している国・地域は、法務省が把握する限りにおいても世界で日本だけです。しかも、その夫婦同姓は明治民法の成立によって始まったもので、日本古来の伝統ではまったくありません。そもそも苗字強制となったのも1875年(明治8年)に陸軍省が兵籍登録を確実にするため、すべての人民に苗字を使用させることを建議したからです。しかし、ただちに夫婦同姓となったわけではありません。明治憲法や皇室典範、教育勅語などの起草の主軸を担った、熊本出身の法制官僚・井上毅は、明治民法成立前の戸籍法制定に向けた意見書案(1878年)において、「戸籍は一戸一籍とするを必とす、姓氏は必しも一戸一姓ならざるべし。……即ち数姓にして一家に過活するは世間常に有るの事なり」と述べ、戸籍法によって戸内の氏姓を統一しようとするのは社会における氏姓の慣習に適合せず、むしろ「百端の紛雑」を来たすものと理解していました。繰り返しになりますが、夫婦同姓の原則が法文化されるのは明治国家時代の民法の成立によってです。1890年制定の旧民法を経て、1898年制定の明治民法で、一家一氏の原則、一人一氏主義の原則となりました。家の標識として一つの氏の方が国として管理しやすいといった便宜主義から始まった側面もあります。それが戦後の家制度の廃止から氏(姓)の選択の自由だけが取り残された形となっています。
このたびの共同通信による全国首長アンケートによると、「選択的夫婦別姓」に反対は「どちらかといえば」を含めて17%となっており、理由は「家族の一体感を損なう」が最も多かったとあります。ですが、19世紀末の明治民法成立以前の日本では、夫婦同姓ではなかったので、それまでの家族は一体感が損なわれていたのでしょうか。それでよく日本人が古から存続できたことに考えが及ばないのでしょうか。歴史的な根拠もないのに反対するとか賛否を表明できない首長の知的レベルは、この際、大いに疑ってみるべきだと思います。
https://kumanichi.com/articles/1546866

社会インフラか、ネット犯罪の温床か

社会インフラか、はたまたネット犯罪の温床か。
同年代のユーザーが本稿で書かれているかなりの部分で共感しました。
確かに詐欺的な投稿・広告やコメント、友だち申請が多くてウンザリさせられます。
怪しいコメントを真に受けて返信されているアカウントを見かけると、お気の毒に思います。
こうしたことから、パソコン通信時代のフォーラムのような節度あるコミュニティ空間が失われ、荒涼とした一方的宣伝と論駁の場が大勢を占めてきたのでしょうし、気軽に実名で発言することが憚れ、鍵アカが増えてきたように思います。
表向きそうではありますが、無料で使える社会インフラとして今も機能しているのも事実で、民衆知を共有する空間として、やはりSNSは有効です。実際にリアルな知人と対話すると、SNS上では反応していなくても、結構投稿は見てますという声を聴くことは多くあります。現在、有料マスメディアの購読者が減っているのに比べたら、記者専業でもない一私人の考えを表明する場としてこれほど有効な手段は他に見当たりません。
私の場合は、他人からの負託を受けた公職者でもないので、別に政策表明する必要もありません。どちらかというと、アイデアのメモの書庫としてSNSを活用しているに過ぎません。だから私の投稿記事の読者のみなさんのことをずいぶん物好きな人だとしか思っていません。それでも何か食いついてこられた場合は少しでもお返しをするのが礼儀だと思っています。

9/15開催イベント「水俣病と気候危機」

9/15(日)14~16時 東京で水俣×気候変動イベントのお知らせ
https://www.soshisha.org/jp/archives/18494

東京で行われる講演イベントに水俣病センター相思社職員の坂本一途さんが登壇します。
オンライン参加が可能です。参加申し込み期限は、2024年9月14日までとなっています。https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdOU7ZQzrCysExVnCIKEOGAS6a3t_lOmnuHosvdypeAR8uAtg/viewform

「虎に翼」と水俣病事件

本日(9月12日)放送回のNHK朝ドラ「虎に翼」では1970年3月に公害訴訟における過失論の新たな法解釈が最高裁で検討されている場面が出ていました。それと、9月9日放送回の1969年1月と9月12日放送回の1970年3月に出たTVニュースを伝えるアナウンサーの氏名が「宮沢信介」となっていました。
1969年と言えば、水俣病第1次訴訟が熊本地裁に提訴された時期。当時熊本大学助教授の富樫貞夫氏が裁判における原告支援のため、新たな過失論の構築に着手していましたし、NHK熊本放送局勤務の宮澤信雄アナウンサーが水俣病を積極的に取材し、日本全国に向けた朝のニュース番組「スタジオ102」において現地リポートしていました。そのこともあって、水俣病事件に深くかかわる富樫貞夫氏(熊本大学名誉教授・一般財団水俣病センター相思社前理事長)と宮澤信雄氏(2012年に76歳で死去)の業績が、頭に浮かびました。
水俣病第1次訴訟は、1973年に原告勝訴の判決(確定)を得ますが、それには1969年9月に結成された水俣病研究会に、法律学者としてはただ一人参加した富樫貞夫氏の貢献が、大いにモノを言いました。当時の不法行為の過失論は、結果発生に対する予見可能性があったかどうかによって過失の有無も決まるという考え方が支配的でしたので、チッソはそれに依拠して自己の無過失を主張することができました。そのため、従来の過失論を再検討して水俣病裁判に適合した新しい理論を構築することが、富樫氏にとっての課題でした。
同氏の著書『水俣病事件と法』(石風社、5000円+税、1995年)によれば、思想の転換のきっかけは、1969年11月発行の「朝日ジャーナル」掲載の座談会「農業の人体実験国・日本」における原子物理学者・武谷三男氏の安全性の考え方についての発言にあったと言います。それには「農薬に限らず、薬物を使うときは、無害が証明されない限りは使ってはいけないというのが基本原則。有害が証明されない限り使ってよいとはならない。」旨の言葉がありました。同じころ、工場廃水処理に関する米国の標準的な教科書(邦題『水質汚染防止と産業廃液処理』原書1955年刊)にも出合ったこともあり、注意義務を「安全確保義務」として理論の再構成したとあります。そして裁判ではその理論で企業の過失責任を問い、被告を糺していきます。
1973年の熊本地裁判決では、危害を予知・予見できなかった以上無過失とするチッソの考え方を、次のように批判しています。「被告は、予見の対象を特定の原因物質の生成のみに限定し、その不可予見性の観点に立って被告には何ら注意義務違反がなかったと主張するもののようであるが、このような考え方をおしすすめると、環境が汚染破壊され、住民の生命・健康に危害が及んだ段階で初めてその危険性が実証されるわけであり、それまでは危険性のある廃水の放流も許容されざるを得ず、その必然的結果として、住民の生命・健康を侵害してもやむを得ないこととされ、住民をいわば人体実験に供することを容認することにもなるから、明らかに不当といわなければならない」。きょうの「虎の翼」の背景にはこのような現実のドラマがありました。
もう一人の宮澤信雄氏は、NHKアナウンサーとして水俣病を報じただけではなく、個人として長年にわたり事件史研究と患者支援を続けてこられた方です。熊本放送局に赴任したのは、1967年ですが、水俣病と出合ったのは初めて取材した1968年からでした。この社会の不条理に衝撃を受けた宮澤氏は、1969年4月、水俣病を告発する会(代表・本田啓吉氏 当時熊本第一高校国語科教諭)に参加し、同年9月結成の水俣病研究会にも同僚技術職員の半田隆氏とともに参加します。そして、前述の富樫氏らと水俣病第1次訴訟を理論面で支援していきます。熊本勤務は異例の10年間(1977年まで)に及び、その後は静岡、秋田、京都、大阪、宮崎と転勤しながらも熊本・水俣へ足を運び研究と支援を続けました。1997年に葦書房(現在廃業)から『水俣病事件四十年』という著書も刊行されています。研究会や同氏の蒐集・旧蔵資料は、下記の機関が保管しています。
熊本大学文書館水俣病研究会資料
http://archives.kumamoto-u.ac.jp/inventory/Minamata/MD_240523.pdf
熊本学園大学水俣学研究センター水俣病研究会蒐集資料
https://gkbn.kumagaku.ac.jp/minamata/db/index3.php
熊本学園大学水俣学研究センター宮澤信雄旧蔵資料
https://gkbn.kumagaku.ac.jp/minamata/db/index4.php
本日の「虎に翼」では、家裁の父である多岐川が「法律っちゅうもんはな 縛られて死ぬためにあるんじゃない。人が幸せになるためにあるんだよ。」と語った回想シーンを流していました。それを実効性あるものにするためには、やはり富樫貞夫氏や宮澤信雄氏のように最初から最後まで闘い続ける人間がいてこそです。ハシクレでもいいから私もそうありたいと思います。

渋沢栄一の熊本に対する109年前の「愚見」が面白い

肥後銀行本店1Fの「肥後の里山ギャラリー」において開催中の「新しいお札とお金の歴史」展の会期が9月14日までなので、本日熊本市内へ赴いたついでに観覧してきました。展示のメインは、新千円札の肖像に採用された北里柴三郎についてで、それはそれで初めて知ったことがあり、興味深いものがありました。しかし、それよりも新一万円札の肖像に採用された渋沢栄一の、1915年(大正4年)10月6日に熊本県議事堂で開かれた歓迎会のときの発言が、より印象に残りました。今から109年前、当時75歳の第一銀行頭取である渋沢栄一は、同行熊本支店の開設披露に際して2度目のそしてこれが最後の来熊を果たしています。
このときの発言の一部がパネル展示されていましたが、その全文は公益財団法人渋沢栄一記念財団のデジタル版『渋沢栄一伝記資料』からも閲覧できます。渋沢栄一本人によると「我邦実業並に当熊本に対する愚見」(後掲)ということになりますが、なかなか面白いものがありました。
ひとつは後年公害企業となるチッソの前身・日本窒素肥料への言及です。同社自身の水力発電で賄った電気を利用して「空中の富」(=空気中の窒素成分を指す)から肥料を製造する化学工業への関心が高く、国策としても推進していることを熊本の名士へリップサービスしています。一方で、工業に重きを置くだけでなく、三池のように「地下の富」(=石炭を指す)はなくても「地上の富」(=米など農産物を指す)を産出する農業にも重きを置くよう述べています。米価の調節については市場経済に任せるべきであって、幕府時代の町奉行のように官吏に任せると失敗すると断言しています。言外に官吏の人智は人民よりも利口ではないと、その硬直性を指摘しています。
109年後の熊本でも工業と農業の両立が課題であり、農水省の備蓄米の扱いが論議を呼ぶなど、構造的には変わらない点を連想させられました。
【以下、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第50巻 p.105-106】
「従来御当地に事業関係を有ちませなんだ関係からしまして、御交際も薄かつた為めに、実際清正公と細川侯と肥後米に依つて御地を知つて居たと云ふに過ぎなかつたのであります、今日の熊本は全く面目を一新したと申して宜しからうと思ひます、現に私の関係ある九州製紙会社の如き、異常なる拡張の機運に向ひ、又日本窒素肥料会社の如き、豊富なる水電の動力を利用して農産物に関係の多い、肥料を製造して居りますが、之は空中の富を集めると申しても余り誇大な言葉ではなからうと思ひます、斯く事業を進むるは何れの向きも其途に依つて意を用ひましたならば、未だ種々有るだらうと思ひます、御当地は石炭の如き地下の富はないが、地上の富はある、即ち肥後米の如き夫れである、今は米の値段が安いので御地では一層お困りでしやうが、米の相場の高低の大なるは大に注意せざるべからざる問題であります、そこで応急の米価調節策も行はれ、今亦調査会組織せられ、私も其委員の一名たるべき内交渉に接したのでありますが、之は頗る重要問題で全国に取て考究すべきことでありますが、富を出す実業の進歩は一方面のみではドウモ行きませぬ、農業に進むか工業に走るか、一方計りを重んじて他を忘れることは不可であります、熊本は工商の方面に付いては或は一足後れて居つたかも知れんが、幸に二三の有力なる工業の発達を見つゝあるのは頗る喜ぶべき事であります、今や時勢は化学工業を重んずる時代に進みつゝあります、粗より精に入るは物の常であります、此の化学工業のことは議会の問題にも出で、染料会社の如き政事上より其の成立を応援することになつて居ります、昨日三池の炭山を視察しましたる節、コークス製造場を見まして、アニリン染料等、副産物製造の概況を模型により、技師の説明を求めて帰りましたが、斯の如き緻密なる工業にお互に注意せなくてはならないと思ひます、御当地に何が生ずるかは只今申上げることは出来ませんが、御注意になると何か事業があるかと思ひます。
最後に申添へたい事は米であります、此米に対して当県下では倉庫制度が行はれて居ります、此事には大に考究して此倉庫証券と金融とを結付けて、安全に信用が置ける様になると米価調節上此上なき策であります、幕府時代では米の相場を、町奉行所より触れて調節を政治上よりしたが、之は武断政治より来たのであります、此時代には左迄の害もありませんでしたが、今日の如き世界に、昔風の調節策を人智に依つて為さんとするは大なる誤りであります、官吏になれば人民よりも利口になつたと云ふ考へが出るが、之で行くといつも失敗であります、米価の調節策としては前も申したるが如く、当地の米券倉庫制は此の上なき策でありまして、自然と自家の節制を計り、余り安いと思へば売らない、自己の考へによりて調節し、誠に立派なことでありますから、考究したらば安全にして充分融通し得るのであります、尚今日は申上たい事は数々あります、即近い内亜米利加にも旅行しまするし、昨年支那にも旅行しましたから、其話もしたいのでありますが、先程申しました次第で長時間のお話をすることが出来ませぬので、御礼の為め一言申上げた次第であります。」

現代に生きる「原爆裁判」

9月9日放送のNHK「視点・論点」のテーマは、「現代に生きる『原爆裁判』」
以下、2点メモを残す。
1.現在の裁判官たちに三淵忠彦最高裁初代長官の言葉を聞かせてやりたい。
「裁判所は国民の権利を擁護し防衛し正義と衡平を実現するところであって圧制政府の手先となって国民を弾圧し迫害するところではない。裁判所は真実に国民の裁判所になりきらなければならぬ」
2.下記の通り核抑止論を批判する、核兵器禁止条約(2021年)をいまだに批准しない日本政府は、国民の人権を侵害する圧制政府だ。
「核兵器のいかなる使用も武力紛争に適用される国際法に違反」
「安全保障上の政策として核抑止が永続し実施されることは不拡散を損ない核軍縮に向けた前進も妨害」

何が報道されていないかを知れ

先日読んだ『原発を止めた裁判官による 保守のための原発入門』(岩波書店)の著者・樋口英明さんは、同書の中で司法に対してと同時に、ジャーナリズム特に大手マスコミに対して、政府に忖度せずに独立の気概を持って使命を果たすことを期待してます。裏返せば、原発についてマスコミが重要な事実について報道していないため、何が重要な事実であるかは、マスコミが何を報道するかを見るのではなく、何を報道しないかを見れば分かるからだと言います。さらには、「嫌なことは知りたくない、嫌なことは考えたくない」という国民と、都合の悪いことを隠したい政府の意向は合致しやすいという点もあると、指摘しています。
では、原発に限らず何が重要な事実であるか、何を報道していないかを知るためには、どうしたら良いのでしょうか。これは逆説的になりますが、報道に接するのが第一になるかと思います。報道に接するだけでなく研究者の論考に接する、ナマの資料・現場に接する、周囲の人々と語ってみるというのが次にあるかもしれません。これが順番を間違えると、たいへんなことになります。国籍や民族ヘイトに染まっている人の発言の根拠を探ってみると、同類の人の発言の受け売りであることが多く、日頃新聞さえ目を通していないように感じます。情報源の質が悪く、事実に基づかない妄想ほどタチの悪いものはありません。
何を報道していないかを知る素材として、先月、NHKのラジオ国際放送の中国語ニュースで、中国籍の外部スタッフが尖閣諸島を中国の領土と原稿にない発言をしたことが報道された例を挙げてみます。9月8日の朝日新聞での後追い報道では、同スタッフが所属先と結んでいた業務委託契約書には、日本の公的見解を伝えることが定められていましたが、近年は日中間で争いのある話題の原稿を読まされることに不満をもらしていたとありました。
この報道では触れてありませんでしたが、中国における反スパイ法が在外中国人に与える警戒感や心理的影響の大きさを考えると、そのスタッフにとって日中間で争いのある話題について日本の公的見解を口にさせられるのはかなり危険な行為になります。あえて中国の公的見解を口にして自分の身を保護したとも考えられます。中国の反スパイ法は同国外の外国人つまり日本人にさえ適用されるものですから、業務委託者側があらかじめ日中間で争いのある話題の読み上げに中国籍のスタッフを関与させないような人権的配慮を行うべきだったのではないかと思います。もしそうしていればこうした事故は防げたのではないかと思います。一応、先の記事内にも「日頃から、日本政府の見解を伝えることに支障がないか、明確に確認する必要があった」との委託元関係者の反省の弁らしい発言を載せてはいます。
近年は権威主義体制に疑問を持って中国から日本へ経営や就労の在留資格を得て移住する「潤」(※)と呼ばれる人たちの存在も注目されています。これらの人たちは、難民申請に至らない富裕層や知識人らからなります。これら自立した中国の中間層の移住は、日本の国益にとって損にはならない存在だと考えますので、本国から不当な弾圧を受けないよう擁護することが重要です。
※「潤」:中国語の発音のローマ字表記は「run」であるため、「(生活が)潤う」とともに「(国外に)逃げる」という意味と重なるという。
続いて話はそれるかもしれませんが、報道ではなくてスポーツの世界での裏読みについてです。以前、木村県知事が10代の頃の愛読書として野村克也の『裏読み』と川北隆雄の『大蔵省』だと明かしていた文章を読んだことがあります。対戦相手を出し抜く技量や財政を握って権勢(県政?)を振るうことへ憧れを子ども時代から抱いていたとは、読書傾向が異なりますが私と同様にずいぶんとヒネた子どもだったのだなと、感じた覚えがあります。そういうワケで、裏読み=ノムさんのイメージがあります。
しかし、ノムさんが裏読みせざるを得なかった事情は、最初に監督を務めた南海の弱さにあったのだろうと、つい最近、江本孟紀氏のインタビュー記事(現在朝日新聞で連載中の「語る 人生の贈りもの」)で知りました。江本氏が投手として南海に在籍した当時、捕手であるノムさんが出すサインはかなり複雑だったそうです。ベンチから攻撃の際にバッターへ出すサインもダミーを混ぜるだけでなく回ごとに内容を変える念の入りようでした。ところが、江本氏が阪神へ移籍して最も驚いたのは、南海で行われていたことは何もしていなかったということでした。吉田監督に南海でのサイン見破り方法を話したら、「はあ? まさか」と返ってきただけ。法政大学で江本氏の1学年先輩にあたる捕手の田淵氏に複雑な投球サインを提案したら、「そんな難しいことできるか!」と一蹴されたそうです。何もしないのに阪神がリーグで2位や3位になるので「なんて強いチームなんだ」と思ったと語っています。南海の裏読み野球は、強者に勝つための、弱者の知恵と工夫だったと江本氏は評しています。
私自身、ずっと阪神が好きですし、サインを駆使する小賢しい野球を見て何が面白いのかと、ボヤきたくなります。ですが、強者にダマされないためには、必要不可欠な民衆知なのでしょう。

「お出かけ知事室」質問草稿

熊本県民が知事へ直接質問できる機会として始まった「お出かけ知事室」が、地元の宇土市で9月21日に開催されます。当初6月23日に開催予定されていたものが、3か月後に延期されたので、質問者として登壇予定の当方も質問内容を順次更新しています。本日現在の草稿は以下の通りです。
知事職は、県政運営にあって絶大な権力を有しますが、中にはパワハラやおねだりで県政を停滞させながら、「道義的責任が分からない」と公言する不適格な知事もいます。お互い原稿の朗読会にしない時間にしたいと思います。

本日質問するテーマは6月初めに出したときと同じ水俣病被害者救済についてですが、その後の動きも加味して伺いますので、よろしくお願いします。
本年5月、水俣市で開かれた水俣病被害者慰霊式後の環境大臣との懇談会のマイクオフ事件を受けて、今も救済から漏れて死を待つだけの多くの被害者が現にいることが明らかになったかと思います。その後、患者団体との懇談を通じてわずかな離島加算やこれもわずか500人未満の住民を対象にした試験的な健康調査を2年以内に実施する予算要求が環境省から行われたことは、承知しています。ですが、被害者が要望することとはずいぶんズレがありますし、まだ議論が進んでいない課題が山積しています。
まず、知事選前の本年3月、水俣病の患者・被害者計7団体でつくる連絡会が出した公開質問状に対して当時の木村候補は、「国の患者認定制度の見直しは求めない」「公害健康被害補償法で対応し、特措法での救済漏れには対応しない」「県としての健康調査の実施は考えない」旨の回答をしました。再懇談同席以降の知事の発言に接しても、どうも今も知事就任前の考えから変わりないように見受けます。私は、この3点の見直しに向き合わずして、今後患者団体との協議機会を増やしても信頼関係を築けないし、認定患者の処遇改善や地域振興も大切ですが、なんら根源的な解決策にはならないと考えています。
次に、個別具体的に指摘させていただきます。1つ目は公健法での患者認定条件が不当に厳しいという点です。医学的には食中毒症の一つである水俣病か否かの判別はシンプルです。原因食品である汚染された不知火海産の魚介類を食べ、手足の感覚障害など関連症状のいずれかがあれば患者と言えます。環境疫学の知見によれば、メチル水銀汚染地域の寄与危険度割合を用いてメチル水銀食中毒症との因果関係を推定するのが国内外で確立したルールです。たとえば水俣市の寄与危険度割合は99%ですから、汚染地域で症状がある人は100%患者認定して医学的に問題ありません。そうしたルールに無知な委員だけで構成された審査会が開かれていることも問題です。分野は異なりますが、国連難民高等弁務官事務所の「難民認定基準ハンドブック」に記された有名なフレーズ「認定の故に難民となるのでなく、難民であるが故に難民と認定されるのである」に近い考え方です。被害者を診るのではなく補償負担のことばかり加害者たちが脳裏に描いているので、認定が歪められているのです。まずこの見直しに向かっていただきたいですが、どうですか。
2つ目は特措法での救済漏れの件ですが、行政処分ではないとされて行政不服審査の機会がないですし、裁判では後から救済を求める被害者に除斥期間の適用を加害者が主張して、著しく正義・公平に反する姿勢を続けています。これは後から被害に気付いた人に救済を求める権利はないと言っているようなものです。すでに除斥期間の適用を認めない判決もありますし、やはり除斥期間が争点になった旧優生保護法訴訟では最高裁判決後に首相が適用の主張を撤回しました。県民の生命と財産を守る立場にある知事なら、このような不正義・不公平な行動を即刻取り下げるべきだと考えますが、どうですか。
3点目の健康調査の件ですが、国が2年以内に開始する予定の検査手法では1日最大5人しか検査できません。だから予算要求でも500人未満分の1億5100万円に過ぎませんでした。一方で国水研の検査に使う脳磁計の更新に4億4000万円も充てるとかバランスを欠いています。汚染地域居住歴のある人数を47万人とすると、この方法では257年かかるというふざけた話で、やる気のなさしか伝わりません。福島第1原発事故後に福島県が202万人に行ったような調査を本県独自でも実施すべきです。全容を明らかにしないまま手当てすべき予算を組まずに国民・県民を切り捨ててきたのが、これまでの国政・県政の流れです。県民に寄り添うなどと口先だけのポーズは止めて、だれひとり取りこぼさない救済に向けて健康調査を全力で実行いただきたいですが、どうですか。
以上、3点について明確に回答をお願いします。

『保守のための原発入門』読書メモ

一般人が裁判官と口をきく機会はほとんどないと思います。ましてや裁判官がどんな人柄なのか、そもそも普通の国民生活を知っているのかさえうかがい知れない、どこか浮世離れした職業人の代表格なのではないかと思います。しかし、世界各地どこでもそうかというと、まったくそうではありません。海外のTV放送を見てみると、現役の最高裁判事が対談番組に出演して、自らの生い立ちを語ったり、他の裁判官についての評価を述べたり、あげくに著書の宣伝まですることもあります。しかも笑顔でジョークを返す姿まで見せられると、普通の人なんだと感じて親しみやら安らかさを覚えます。
https://www.youtube.com/watch?v=7xQaFf-w-30
https://www.youtube.com/watch?v=ePflrZ0I1y4
https://www.youtube.com/watch?v=91yq9BHyHLE
『原発を止めた裁判官による 保守のための原発入門』(岩波書店、2500円+税、2024年)を先月出版した樋口英明さんは、2014年大飯原発運転差止判決(※)、2015年高浜原発再稼働差止決定を書いた元裁判官です。樋口さんは、大飯原発の運転差止訴訟を担当したことで、原発のとてつもない危険性を知ってしまいます。「裁判官は弁明せず」という慣習があるなかで、「無知は罪、無口はもっと罪」という思いから、原発の本当の危険性を知ってしまった以上、国民へ伝えるのが自分の責任と考えるようになったといいます。同時に真実を知る立場にある政治家やメディアが、国民へそれを伝えない風潮にあることへの怒りがあると感じました。
※判決文の一節:「コストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが、たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても、これを国富の流出や喪失というべきではなく、豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。」
本書を読み進めると、原発問題は論理を素直に受け止められるかどうか、シンプルな話のように思いました。ところが、原発を推進したい側はなんとか目を逸らさせようと専門用語を折り込みながら奇妙な論理を展開しているに過ぎず、なんとなく安全であるという神話を受け入れさせているのが現状です。
以下に印象に残った点をメモしておきます。
・福島原発事故前の一般公衆の被曝限度は年間1ミリシーベルト→事故後13年間も原子力緊急事態宣言下の措置とされた20ミリシーベルトまで許容が常態化。
・ウラン燃料で水を沸騰させる「大きなやかん」と言われる原発(格納容器中の死の灰は広島型原爆1000発分)の安全三原則は「止める」「冷やす」「閉じ込める」…複数経路の外部電源と各炉の非常用電源が必要不可欠←耐震性が低い。
・原発は人が管理し続けない限り、事故になる。運転を止めるだけではだめで、電気と水で原子炉を冷やし続けない限り大事故になる。「停電してもメルトダウン」「断水してもメルトダウン」。
・人が管理できなくなって事故が起きたときの被害の大きさは想像を絶する。
・福島原発事故で東日本は壊滅しかけた…2号機の奇跡:格納容器のどこかに脆弱な部分(欠陥)があり、そこから圧力が漏れ、圧力破壊による大爆発に至らなかった。4号機の奇跡:「使用済み核燃料プール」と「(シュラウド取り替え工事の遅れで普段はない水が張られた)原子炉ウェル」との仕切りが地震でずれて、ウェル側の水がプールへ流れ込んだほか、建屋の水素爆発で吹き飛んだ部分から中国から無償提供されたポンプ車(アームが62メートルある通称「大キリン」)で注水できたため、プールの干上がりが防げた。
※当時、日本ではポンプ車のアームの長さが最長33メートルに制限されていたため、40メートル以上の高さにあるプールへの注水が困難だった。日本の危機を知り、中国から「大キリン」を送ってくれた中国企業の三一重工に対する恩を忘れるのはあまりに非礼だろう。
https://news.ntv.co.jp/n/fct/category/society/fcab24add07e1747569a7a77e749698f08
・現在稼働中の原発の耐震設計基準(基準地震動)では過酷事故は避けられない。原発では配電、配管の耐震性が極めて重要だが、ハウスメーカーの住宅の耐震性より劣っていることが国民に知られていない。ガルとは地震の強さを示す加速度の単位。
玄海原発(佐賀県)・川内原発(鹿児島県)620ガル…最低
伊方原発650ガル
美浜原発(福井県)993ガル…最高
住友林業3406ガル
三井ホーム5115ガル
・1000ガル程度の地震発生は決して珍しくない。下記は1300ガル以上の近年の地震。
2013年 栃木県北部地震1300ガル
2021年 福島県沖地震1432ガル
2016年 鳥取県中部地震1494ガル
2003年 宮城県沖地震1571ガル
2016年 熊本地震1740ガル
2018年 北海道胆振地震1796ガル
2024年 能登半島地震2828ガル
2011年 東日本大震災2933ガル
2008年 岩手・宮城内陸地震4022ガル
※本書で思い出したのが、熊本地震での液肥タンクからの液肥流失の経験。格納容器に相当するタンクに損傷はなかったが、パイプが震動により損傷して高額な液肥が漏れてタンクが空になった。流失した液肥の損害は保険でカバーできず痛い目に遭った。
・2022年6月17日福島原発事故国家賠償請求訴訟最高裁第二小法廷判決の国の賠償責任を否定した多数意見の問題点:①2002年地震本部(文科省機関)長期評価は信用に値するものであったか否か、②仮に本件長期評価が信用できるとした場合、これを知った経済産業大臣が東京電力に対し、津波対策を命じるべきであったかどうかについて判断していない。津波対策を命じたとしても、福島原発事故は防ぐことができなかったという理由付けに全く説得力がない。
・上記判決の三浦守裁判官反対意見の要旨:①の長期評価の信用性の問題については、長期評価には信用性があると判断した。②の経済産業大臣の義務違反については、経済産業大臣に命令権が付与された法の趣旨からすると、遅くとも本件長期評価の公表から1年を経過した2003年7月頃までの間に、経済産業大臣は東京電力に対して津波対策を命じる必要があると認めた。
※三浦裁判官は検察官出身。旧優生保護法最高裁判決では除斥期間を認める意見を出している。
・著者によれば、多数意見を書いた裁判官(菅野博之・岡村和美・草野耕一)は原発の本質が分かっていないとのこと。彼らには、「優れた判決を書く能力が欠けていただけでなく、他の裁判官の意見を虚心坦懐に聴いて、自分の意見を修正していく能力も欠けていたということになる。しかも、三浦裁判官の反対意見は判決に近い体裁をとっているのであるから、多数意見と照合すればその優劣は明らかだが、多数意見の3人の裁判官にはその優劣さえもわからなかったということになってしまう。」(p.80)と、かなり手厳しい評価がなされています。さらに極めつけは、この3人と東京電力と密接なつながりがある弁護士事務所との関係への指摘です。菅野裁判長は判決言い渡しから1か月後に退官し、弁護士事務所に就職していますし、岡村・草野の両裁判官は弁護士事務所出身とのことです。
・上記判決の影響:最高裁のみならず裁判所全体に対する国民の信頼が損なわれた。原発事故が起きたとしても、誰も賠償してくれない。原発の再稼働を止めることによってしか、私たち自身と私たちの国土を守る手段が残されていない。
・原発を止める理由(樋口理論)
①原発の過酷事故のもたらす被害は極めて甚大である。
②それ故に原発には高度の安全性が要求される。
③地震大国日本において原発に高度の安全性が要求されているということは、原発に高度の耐震性が要求されていることにほかならない。
④しかし、わが国の原発の耐震性は極めて低く、それを正当化できる科学的根拠はない。
⑤よって、原発の運転は許されない。
・多くの政治家は憲法の意義を理解していない:「法律は国民が守るべきもので、国民が法律を守っているかどうかを国が監視している。他方、憲法は国が守るべきもので、国が憲法を守っているかどうかを国民に代わって裁判所が監視するという役割を担っている。そうすることで、国民を国家権力から守るのが憲法の役割であり、それを支える理念が法の支配である。」(p.134-135)。
・原発推進勢力は平然と公然と継続的に嘘をつき続けている:①原発が経済的で安価という嘘、②原発は安定電源であるという嘘、③原発がないと電気が足りなくなるという嘘、④すべての原発は固い岩盤の上に建てられているという嘘、⑤岩盤の揺れは普通の地面の揺れよりも遥かに小さいという嘘、⑥原発が地球温暖化防止のために役立つクリーンなエレルギーだという嘘、⑦福島原発事故による健康被害は出ていないという嘘等(p.138)。
※書名にもある通り本書は、保守を自認する読者向けに書かれています。そのため、著者が考えるところの保守層を明らかにしながら訴えかけているのですが、正直なところそこはあまり意識する必要がないのではと思いました。多数の国民が保守であるというよりも「あいまい保守」というか、現状追認的に流されるまま生活しているのが大半だろうと思います。医療や年金、税金といった生活者個人に影響ある政治課題について何かしら不満があれば、顕著な投票行動につながると思いますが、原発の危険性を日常的に感じる国民は、立地場所近くに住む国民に限られると思います。やはり理解されやすい論理で危険性を伝えるしかありません。はたして論理理解力のある国民がどの程度いるのか、そうしたレベルの国民へこのような論理が伝えられるのか、はなはだ心もとない限りですが、続けるしか、広めていくしかないのだと思います。

Jリーグクラブの企業価値は?

熊本日日新聞の「わたしを語る」欄に連載された高谷和生さんの聞き書き記事も第51回を数えた9月3日で終了し、ひとつ紙面を読む楽しみが減りました。そんなところに、翌日の同紙2面「射程」欄の「Jリーグへの外資参入」と題する記事が目に留まりました。同記事では、J3大宮の運営会社を今度オーストラリアの大手飲料メーカー・レッドブルが買収することに触れ、J2熊本への投資呼び込みに期待を寄せていました。
この記事では触れてありませんが、ある経済メディアの関係者が、買収額は3億円程度と伝えています。これは大宮の株主NTT東が保有する株式の額面額100%から算出したもののようで、私のような投資の素人から見ても破格に安い取得額だと思います。
しかし、驚いたことに、過去の買収例の取得株式と金額は、以下の通りバカみたいに安いのです。
J1 鹿島…メルカリ 61.6% 16億円
J1 FC東京…ミクシィ 51.3% 10.5億円
J2(現J1) 町田…サイバーエージェント  80% 11.48億円
ありていに言えば、それぞれのクラブ関係者に企業価値を算出できるだけの経営のプロがいなかったからだと思います。前述の「射程」記事の視線の先にはおそらく熊本における外資の最大手TSMCへの期待感があるのだと思いますが、ここはまずJ2熊本の企業価値を知ることが必要だと思います。
世の中には、Jリーグクラブの企業価値を試算している専門家がちゃんといます。たとえば、J2岡山の筆頭株主(オーナー)の木村正明東京大学先端研特任教授の研究がそうです。この方は、岡山県出身で東京大学卒業後、ゴールドマンサックスに入社し、30代で執行役員に上り詰めた人物ですが、Jリーグ入りを目指す岡山を株式会社化し、自ら社長として経営的基盤を築きました。現在は2万5000人入る専用スタジアム建設へ向け尽力されているようです。
後掲の動画(17分過ぎ)を視聴すると、木村特任教授によるJ1クラブの価値推定を知ることができます。2つのモデル値が示されていますが、以下の3クラブの高い方の額は次の通りです。
鹿島 183億円
FC東京 158億円
町田 57億円
外資を呼び込むのもいいですが、安売りすることはないよと言いたいだけです。
https://www.youtube.com/watch?v=YwmHpdvlv5o
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/rsk/470141?display=1

故中村哲医師のパネル展

故中村哲医師のパネル展が、宇土市役所1階ロビーで上天草・宇城水道企業団紹介パネル展との同時開催企画として行われていたので、観覧してきました。
パネルはこれまでの実績を示していますが、会報を読むとタリバン支配下のアフガニスタンにおいても遺志を引き継ぐ活動が続けられているのを知りました。
2021年8月のタリバン制圧に伴うアフガニスタン人現地職員の退避のおりは、その退避要件の厳格さ(通常の短期滞在査証発給要件よりもハードルの高い条件をわざわざ新規に創り出して要求)が非人道的で理不尽なものであり、来日後も難民申請阻止や帰国強要を疑われる行為があったとされます。当時はそれだけ、日本政府が人権や人道に後ろ向きなイメージを世界へ発出してしまいました。
一方で、故中村医師による貢献は、タリバンでさえ認めるところです。日本政府は現地における人道支援ひいては人権擁護に向けて独自の外交ができます。やがてそれが国益につながる機会を逃してはなりません。

上天草・宇城水道企業団のパネル展示を開催について
https://kamiama-ukisuido.jp/publics/index/106/
上天草・宇城水道企業団パンフレット↓
https://kamiama-ukisuido.jp/publics/index/43/

核兵器廃絶を口にもしない落ちぶれ方ではないか

NHKの朝ドラ「虎に翼」も残り4週となって今月27日には完結を迎えます。9月2日の放送回では原爆裁判の準備手続きが終わって1960年2月となって第1回の公判に入ったところでした。それから64年も経っていますが、被爆地・広島選出の総理大臣でさえ核兵器禁止条約の批准には後ろ向きで、世界の核兵器廃絶へ本気で立ち向かおうとはしませんでした。現首相の後任の座を狙う連中も同様のようで、だれひとりとして批准すべきだとは口に出しません。それどころか、数だけはいる裏金議員や声だけは大きい岩盤保守だか極右思想に染まった支持票の獲得で脳内がいっぱいなようで、党内選挙とは言え有権者平均の意識からかなりズレた政党に落ちぶれた体を示しています。結局、去り行く人もトップの座に登りつめたい人も、何をやりたいのかよく見えない人たちのレースになっている感じがします。ここまで政治の世界で人材が貧困になったのかと嘆息せざるを得ません。
写真は、福山市人権平和資料館の建物南側に植えられている被爆アオギリ二世(広島市)と被爆クスノキ二世(長崎市)。2023年11月撮影。

環境省はどこを向いて仕事をしているのか

8月30日に環境省が2025年度予算に向けての概算要求を発表しました。主に水俣病対策関係の内容を報道で追ってみましたが、患者団体側からの要望とは大いにズレがありました。
たとえば、離島の患者の交通費などの手当の加算については、患者の要望を取り次いだ熊本県からの環境省への要求は月1千円から月1万円への増額だったのですが、結果1千円増額(総額1200万円)の月2千円に留まり、都合8千円も値切られました。子どもの使い扱いされた県もこれだけ国から軽く見られていることをどう考えているのか、聞いてみたいものです。それでも見た目は月1千円から月2千円と「倍額」になりましたと、手柄話にしてしまうかもしれません。なんとも情けない話です。
不知火海沿岸の住民健康調査の実施についてももともと数をこなせないやり方なのに、わずか500人未満を対象に2026年度試験的に行うとあります。被害者が死ぬまで大規模な調査はやらないと言っているようなものです。しかも国水研の脳磁計(同調査に使用するとしている)の更新などに4億4000万円も充てるというのですから、呆れます。それよりも、増額要求が盛り込まれなかった療養手当の拡充の方が断然意味がありました。
今回の概算要求の内容を通じて環境省の役人たちはいったいどういう脳で仕事をしているのかと疑問に思いました。水俣病被害者救済については、まだ課題がたくさん残っています。地元の首長や議員が率先して動かないのも非常に残念ですが、これからも一つ一つ追及していくしかありません。
写真は8月31日の朝日新聞熊本地域面のイメージ。

バカも休み休みに言え

8月31日の熊本日日新聞2面掲載の「射程」欄の「台湾の英雄が結ぶ縁」は、現在宇土市で盛んに流布されている、湯徳章英雄視の言説を鵜呑みにした記事で、「バカも休み休みに言え」と思うほど浅慮なシロモノでした。TSMC進出の恩恵にあずかれない同市の関係者が、なんとか台湾との交流の接点を持ちたいばかりに頼総統がかつて市長を務めた台南市と結びつきを強めたがっているのは、承知しています。
しかし、徳章英雄伝説のネタ本の著者の日頃の振る舞いや同書の記述を考え合わせると、「待てよ」という問題を抱えています。ある研究者によれば、ネタ本の記述はノンフィクションではなくて半ばフィクションとまで指摘されています。たとえば、徳章の処刑場面は、まるで見てきたかのような小説風の作為的な描写であり、根拠に乏しいとされます。また、徳章一人が罪を被って本省人たちの身代わりとなって彼らを救ったかのような書かれ方をしていますが、一部の本省人が日本人の血が流れている徳章を裏切り、外省人の当局へ差し出したのが実際と言われます。
2024年3月16日の朝日新聞国際面で、台湾出身で日本在住の芥川賞作家の李琴峰さんが、日台の関係はいびつだと指摘していました。日本国内の保守派による台湾に関する言説についても冷ややかに捉えてました。やや長い引用となりますが、次のように述べています。「日本の保守派はよく「台湾が好き」と言いますが、その言説を観察すると「日本の植民地時代のおかげで台湾が近代化した」「だから台湾人は日本が好き」などと紋切り型の表現を使います。植民地支配の歴史を正当化するために台湾を都合良く使っているだけではないでしょうか。」。
このことからも、徳章英雄伝説は、植民地支配肯定論者にとっては、うってつけの美談とされがちです。さらに、始末に悪いのは、植民地支配に後ろめたさを感じる多少「良心的」な日本人にとっても、日台友好ムードのなか、湯徳章という「日本人」がすすんで台湾人のために犠牲になったとする物語は「贖罪」感をもたらす感動話として受け入れてしまっています。
結論:宇土市における徳章英雄伝説の流布のありようは、同伝説マンガを小学生へ配布するなど子どもまで巻き込んだ「集団思考(集団浅慮)」(※1)の典型的な動きとなっているというのが、私の見方です。実際、この動きにクギを刺そうという「デビルス・アドボケイト(悪魔の代弁者)」(※2)たりうる能力をもった市関係者は残念ながら見当たりません。
※1:「集団思考(集団浅慮)」…心理学者のアーヴィング・ジャスニスが作った用語。協調を重んじ、論争や異議を抑制し、結果的に融通が利かない間違った信念に至ってしまう組織文化。誤認識が改善されず、議論の結果が極端になる。
※2:「デビルス・アドボケイト(悪魔の代弁者)」…議論を活性化するために、あえて多数派に異議を唱える役割の人。
※写真は記事とは関係ありません。台湾交通部観光局のキャラクター「喔熊Oh!Bear」(オーション)。2023年9月30日撮影。

「馬空」つながり

8月29日の熊本日日新聞17面の「わたしを語る 高谷和生さん 第48回」で、玉名市の街角サロン「馬空」ならびにオーナーの荒木さんらお仲間のことが紹介されているのを拝読しました。
同サロンへは昨夏と今夏の2度おじゃまさせていただきました。
民間だからこそ自由に情報発信できて、世代や属性を超えた市民交流が創出されている大切な場所であることが伝わった、喜ばしい紙面でした。
高谷さんらが構想している「戦争ミュージアム」が、熊本県にもぜひとも必要です。

【関連情報1】
その記事にお名前が出ている荒尾市の松山強さんが所蔵する戦時資料の一部が、大牟田市立三池カルタ・歴史資料館で9月23日まで開催中の「平和展2024 兵士たちの記憶 戦場からのメッセージ」で展示されています。先日、観覧してきました。
同氏の所蔵する戦時資料については、31日まで玉名市立歴史博物館こころピア・エントランスホールで開催中の「夏の平和展2024子どもたちが見た戦争」の会場にも展示されています。
記事には同じく宇城市の上村真理子さんのお名前も出ていますが、同氏が所蔵する戦時資料については、今年6月に宇城市の不知火美術館で開かれた「うき 戦争の記憶展」で観覧する機会を得ました。
私がこれら戦争遺産に関心を持つきっかけは、昨夏の「馬空」訪問にあったので、感謝しています。

【関連情報2】
玉名と言えば、日本のマラソン界の先駆者・金栗四三が主人公のNHK大河ドラマ『いだてん ~東京オリンピック噺~』(2019年)のご当地。「馬空」のお向かいの中華料理店「煌」には、その金栗四三を慕う反骨のランナー・川内優輝氏の色紙が飾ってあります。
その『いだてん ~東京オリンピック噺~』のオープニングタイトルバック画として山口晃さんが制作した「東京圖 1・0・4輪之段」が、現在、佐賀県立美術館で開催中の特別展「ジパング 平成を駆け抜けた現代アーティストたち」に出品されています。同作品が展示されているとは知らずに先日訪ねたのですが、同じく山口晃制作の東京パラ輪公式ポスター「馬からやヲ射る」(2019年)と「当世壁の落書き 五輪パラ輪」(2021年)と併せてじっくり鑑賞してきました。
「東京圖 1・0・4輪之段」はサイズ的にも大作で、TV画面では気付けない、図に盛り込まれた東京の過去と現代の細密な描写の豊かさには驚嘆しました。神宮外苑周辺の箇所の描き様も、今にして思えば興味深いものを覚えました。
「当世壁の落書き 五輪パラ輪」は、制作者が「毒まんじゅう=翼賛案件」とまで思い悩んで末にあえて東京パラ輪公式ポスター制作にかかわり、「真ん中で声を上げる」道を選んだ心境がマンガ仕立てで表現されています。
そういう作品を生み出す山口晃さんがかかわった『いだてん ~東京オリンピック噺~』は、やはり名作だったと改めて感じました。

【関連情報3】
山口晃制作の東京パラ輪公式ポスター「馬からやヲ射る」(2019年)を見ると、なんだか「馬空」のイメージとかぶる気がします。
天空の馬上から、口や足を使って矢を射る人物の背景には、アンダーコントロールだと誰かさんが言った福島第一原発や、5cmの段差を越えられない車椅子の人など、多くのモチーフが描き込まれています。矢が向かう先には霞が関があるのだそうです。

「兵士たちの記憶」観覧メモ

アジア太平洋戦争期の1944年11月から1945年8月にかけて5度にわたる空襲に遭った大牟田市では、これを「大牟田空襲」(※)と呼び、その記録を伝える活動が続けられています。たとえば、大牟田市立三池カルタ・歴史資料館では毎年「平和展」が開催されています。今回の「平和展2024 兵士たちの記憶 戦場からのメッセージ」では、戦地において実際に兵士が使用した武器や装備品、生活道具などが展示されていました。展示品の大半は、荒尾市の戦時資料収集家の松山強氏から借りた品々ということでした。松山氏の所蔵品については、玉名市立歴史博物館こころピアのエントランスホールで開催されている「夏の平和展2024 子どもたちが見た戦争」でも観覧する機会がありました。
※大牟田空襲
①1944年11月21日 B29、7機が爆撃。死者31人。
②1945年6月18日 B29、116機が爆撃。死者260人。
③1945年7月27日 B29、124機が爆撃。死者602人。
④1945年8月7日 B24、23機、P47、18機が爆撃。死者240人。
⑤1945年8月8日 B29、1機が爆撃。死傷者8人。
大牟田市立三池カルタ・歴史資料館については昨夏、やはり平和展開催中の時期に行きましたので、今回が2回目になります。展示品が異なれば当然知り得ることもより広くより深くなります。展示品の中に海軍の水兵帽のペンネント(ハチマキ状に帽子に巻く前章リボン)があったのですが、それに刺繍される文字が1942年10月30日の改正を境に統一されたことを初めて知りました。それまでは艦船名が入っていたのが、改正以降は防諜のため、「大日本帝國海軍」(ただし文字の並びは右から左)に統一されたそうです。いつかその改正日をまたいで水兵が登場する映画や再現ドラマを見たら、ペンネントの表記をぜひチェックしてみたいと思います。
ところで、大牟田における戦争の記録・記憶を伝える活動は、平和展にだけにはもちろん留まりません。JR大牟田駅前に「おおむた観光案内所(大牟田観光プラザ)」があるのですが、そこではこの三池地方をエリアとする地方紙「有明新報」を読むことができます。同紙を読んでみると、大牟田空襲や戦争遺構関連の記事などが載っていました。
この「有明新報」は徹底してローカルネタだけを網羅する紙面構成となっていて、なかでも「こちら110番」のコーナーは地元警察署に寄せられた通報と出動対応記録が載っている特異な紙面でした。初めて目を通した新聞でしたが、6~8面立ての小規模な日刊紙ながらたいへん存在感あるおもしろいメディアだと思いました。大牟田市立三池カルタ・歴史資料館の新マスコットの名前が「カルタン王子」というのも同紙を見たから知り得たことです。
なお、案内所では土産物も販売されています。どうしても買いたいというものはありませんでしたが、「石炭クッキー」や「せきたん飴」などは、やはり印象に残りました。

「ASIAN POP」観覧メモ

福岡アジア美術館の開館25周年記念コレクション展「アジアン・ポップ」の会場は、福岡市地下鉄・中洲川端駅6番出口からすぐに行けて、しかも観覧料は200円と常設展並みの低価格なので、スキマ時間に気軽に訪ねやすい場所と機会だと感じました。来場者も年齢的に若い世代が多く、海外からの観光客と思われる層も見受けられました。訪ねた日は佐賀市から福岡市へ向かったせいもあって、街中を行き交う人の多さを見ると、福岡市は九州では際立つ大都会だと改めて思いました。
さて、展示されている作品についてですが、南アジアのそれ(例:パキスタンのトラック塗装)は華々しい色彩のものが多く、アートというよりPOPそのもの商業広告らしい熱量の高さを感じました。一方で、偶像崇拝を禁じていない権威主義国家では権力者の大きな肖像が街中で掲げられるなど、政治的プロパガンダ要素が高い作品(?)が幅を効かせる点もあり、そうした環境下で表現者が自由に活動可能なのかという側面もあります。一口にアジアといっても政治や宗教、歴史的経緯はそれぞれ異なるので、そのあたりを合わせて理解しながら作品を鑑賞してみるとおもしろいと思いました。
最近、熊本でもさまざまな業種の経営者肖像写真入りの屋外広告を数多く見かけるようになりましたが、かつて全国展開の某ホテルの女性経営者の巨大顔写真を彷彿とさせるセンスが悪いプロパガンダに近く、かえって広告主のうさん臭さを覚えてしまいます。ついつい余計な連想をしてしまいました。