中国や韓国・北朝鮮、ロシアとの関係を語るときに、ここ150年間足らずの史実を知らずに語っていれば、これほど無知をさらけ出すみっともなさはないという思いを最近強くしています。
たとえば、日清戦争(1894-1895年)は、清朝の冊封体制にあった朝鮮を、日清のいずれかが支配するのかという覇権争いにほかならない戦争でした。その朝鮮支配をめぐる覇権争いにおいて、清朝に代わる競争相手がロシアであり、日露戦争(1904-1905年)は、日露のいずれの領土でもない朝鮮(当時:大韓帝国)や満洲(当時:清)を戦場とした戦争です。こうした基本的な関係を押さえただけでも中国や南北朝鮮の今に連なる人たちの記憶がどのようなものかを認識すべきだと思います。
戦争だけでなく、現代では大半の日本人が忘れている事件も数多くあります。日清戦争後に清から日本へ割譲された台湾では、日本の領有に反対し、さらには清朝からの独立を目指して台湾民主国が樹立されましたが、日本は台湾に5万人派兵して「消滅」させています。同じ年に清に独立を認めさせた朝鮮において親露派の国母・閔妃を殺害する事件が民間日本人(熊本県出身者が多数を占めています)の関与により起きています。1900年に起きたブラゴヴェシチェンスク事件は、最大2万5000人まで諸説ありますが、清国人がロシア軍によって大量虐殺され、黒竜江(ロシア名:アムール河)に葬り去られた事件です。当時、世界最大の陸軍国であるロシア戦に備えて現地で諜報活動を行っていた石光真清は、「老若男女を問わぬ惨殺死体が筏のように黒竜江の濁流に流された」(『曠野の花』)で語っています。旧制一高寮歌「アムール河の流血や」として当時の日本の人々の心をとらえました。
日露戦争に際して、国力と軍事装備において劣っていた日本がとった戦略は、援軍が到着しない前にロシア軍に大打撃を与えて外債を獲得し、戦況が有利な段階で英米などに講話斡旋を依頼して早期に戦争を終結させるものでした。その外債の募集には高橋是清が渡英して動き、それに応じたのがニューヨークの投資銀行経営者であったヤコブ・シフでした。ユダヤ人であるシフがなぜ日本を援助したかというと、当時の帝政ロシアでは世界の約3分の1に当たるユダヤ人が強制移住や改宗強要、虐殺などの迫害にあっていたからでした。
日本で持たれた恐露感の一方、ロシアでも東方の民族である日本に対する潜在的な恐怖感が13世紀のモンゴルの支配に起因してあります。ヨーロッパではモンゴル系の人々を、ギリシャ語で「地獄の住人」を意味するタルタロスに重ね合わせて、タタールと呼びました。15世紀末まで続いたモンゴルによるロシア支配を指して「タタールの軛」と称しています。野蛮な黄色人種が白色人種のキリスト教文明国の脅威となるという黄禍論については、ドイツのヴィルヘルム2世が、ドイツが東アジアにおいて軍事的な拠点を得るために日本の進出を牽制するとともに、ロシア皇帝ニコライ2世に日本と対抗させて東アジアに目を向けさせ、ドイツへの軍事的圧力を避けさせるためにも大いに利用されました。
歴史、特に戦争は、憤怒と侮蔑の連鎖から起きます。理解と敬愛の連鎖からしか、非戦平和の歴史は築かれないものです。日清戦争・日露戦争の時代に生きてこのことを理解していた日本人も少なからずいました。当初、日清戦争を義戦と唱えた内村鑑三は、戦後(1905年)、それを「略奪戦」だったと考えを変えます。さらに日露戦争後の演説で「日清戦争はその名は東洋平和のためでありました。然るにこの戦争は更に大なる日露戦争を生みました。日露戦争も東洋平和のためでありました。然しこれまた更に更に大なる東洋平和のための戦争を生むのであろうと思います。戦争は飽き足らざる野獣であります。彼は人間の血を飲めば飲むほど、更に多く飲まんと欲するものであります」と、覇権主義の暴走を批判しています。日本最初の社会主義政党を結成した安部磯雄も「日清戦争といい、日露戦争といい、その裏面にはいかなる野心の包蔵せられあるにせよ、その表面の主張は韓国の独立扶植であったではないか。しからば戦勝の余威を借りて韓国を属国視し、その農民を小作人化せんとするが如きは、ただに中外に信を失うのみならず、また我が日本の利益という点より見るも大いなる失策である」と、1904年記しています。歴史認識に対する誠実さをもつ深い賢さが必要な気がします。