国際法との出会い

このところ山室信一氏の3年前の著書を再読したついでに、2005年に岩波新書から刊行された、やはり同氏著の『日露戦争の世紀』を読み返しています。
同書の第1章は、日本が近代国際社会への参入した頃を描いています。幕末に締結した日米和親条約(1854年)や日米修好通商条約(1858年)は、日本にとって不平等な内容でした。それに対して日露和親条約は例外的に同等で双務的な内容でした。現代の感覚では意外ですが、日本とロシアとの出会いは平和的でした。それらを経て、明治政府は国際法を遵守することによって外交を行うという宣言しました。当時、国際法は「万国公法」と呼ばれ、マーティン(漢名:丁韙良)が1864年に漢訳した書名『万国公法』(原著『国際法要綱』)によります。1872年に学制が公布されると、京都府では『万国公法』を小学校の句読科の教科書に指定するなど、受容に努めました。教科書といえば、時代が下って1941年に出された国民学校2年生用の国定修身教科書「ヨイコドモ」では「日本ヨイ国、キヨイ国。世界ニ一ツノ神ノ国」「日本ヨイ国、強イ国。世界ニカガヤク エライ国」というように自民族第一主義、神々に作られたという非科学的な神国思想を吹き込む道具であって道を誤った歴史も忘れてはならないと思います。
もっとも、当時の国際法は、「無主の地」であれば先に占有したものの所有となるという「先占の法理」が働くのが基準でしたから、欧米列強が植民地や被保護国を求めて広げていく時代でした。日本もその当時の秩序に乗っかって周辺の「非文明国」を勢力下に置こうしたのも事実です。国際法で最初に痛い目に遭った日本が国際法を利用して「一等国」になろうとのし上がりそして自壊した歴史があります。
現在の世界を見渡すと、自国第一主義、自民族第一主義の勢力が強まってきています。その流れを変えて、もっと高い基準の国際法を定めて守らせる努力が必要です。過ちを経験した日本だからこその発言や行動ができるはずです。