歴史を知ることと人治・法治の理

岡本隆司著『東アジアの論理』(中公新書、820円+税、2020年)を2~3時間程度で読み終えました。本書は近年「週刊東洋経済新報」で著者が持っていたコラムが元になっています。そのため、軽いタッチで読みやすかったので、半日とかからなかったのだと思います。南北朝鮮の対日観、たとえば日本に対する蔑称の情報など、それが日本に伝わらないことも含めて初めて知った情報もありましたが、改めて歴史を知るということは、どういうことなのかを考えさせられました。私たちはある歴史家の考えを学んで歴史を知った気分になる恐れがないかという思いです。たとえが的外れかもしれませんが、同じ建築資材を使って建物を造っても当然のことですが、建築家次第でまったく異なる建物ができあがります。同様に同じ食材を使っても、料理人次第でまったく異なる献立・味付けの料理ができあがります。パーツ実物は一つでもその構成やら組み立てによりずいぶんと変わったものになります。偏見ついでに言えば、私が20代のころに仕事で接したさまざまな職業の人たちの中で、圧倒的に建築家と料理人には変わり者が多かった印象があります。客のことよりも自分の思い、信念が強すぎる人物がそれらの仕事に就いている傾向が強いと感じました。本書に話を戻すと、歴史家の言うことも建築家や料理人と同じく自らの見立てであって、それに接する側はそういうバイアスがかかっていることを十分意識すべきだと考えます。ジャーナリストもそうですが、特に歴史家の場合、それが専門家であればあるほど、特定の地域や時期のことは詳しく知っているけれども、それを外れると非専門家と大差ないため、専門外の事象になると結構いい加減な考えしかもっていないのではと思います。その点、法律や政治の世界はもともと人は信用ならないという考えに立ってシステムを組み立て運用しようとします。つまり、人治ではなく法治という考えです。権力者を法律で縛るという立憲主義も、権力者は信用ならないから生まれてきています。だから、権力者は自らに都合の悪い憲法や法律を軽んじようとするものです。もう一つ権力者について言えることは自らの存立にとって都合の悪い歴史を見ようとしない、語ろうとしない性質があります。それで、しばしばありもしない与太話、つまり神話を教育に持ち込もうとする国家もあります。その国の中では触れられない歴史のタブーについては、かえって他国の歴史家の研究に頼るしかない側面もあります。