富山大空襲

富山県はまだ訪ねたことのない土地の一つです。それもあって1945年8月2日の富山大空襲の歴史や富山市が不二越という工作機械メーカーの企業城下町であることも、昨夜開催の第50回空襲オンライン学習会での報告を視聴するまでは知らずにいました。この空襲は、米軍の報告書によると、作戦目標エリア内の焼失率が99.5%と他の都市と比べても格段に高い攻撃を受け、徹底的に焼き尽くされたことがわかっています。死者数は2700人超とされます。しかも、その目標エリアというのが、県都であり住宅が多く占める地域であり、近接する陸軍施設や不二越は逆にエリア外とされ、実際、不二越は被害を免れました。
報告者は、北日本新聞を定年退職後に立教大学大学院で学ぶ鶴木義直氏です。もともとは地方自治を研究したくて大学院に進まれたのですが、ジェノサイド研究の教授からの勧めと新聞社時代に富山大空襲を研究している地元歴史家との出会いがあったことから、研究テーマを変更し、論文作成にかかっているとのことでした。「なぜ富山は徹底的に焼き尽くされたのか」「大惨事の記憶はなぜ継承されなかったのか(公共財化の動きは戦後30年近く経ってから)」を課題に準備を進めていると報告がありました。
※富山市公式ウェブサイト「未来に語り継ぐ富山大空襲の記録」
https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/kuushuu/
※総務省ウェブサイト「国内各都市の戦災の状況」へは富山市から掲載がありません。
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/index.html#shinetsu
報告を聞きながら意外に感じたのは、当時ベアリング製造にあたっていた不二越がなぜ作戦目標エリアから外されたかということでした。米軍側からすると、この時期には、工業生産設備を叩かずとも勝敗が決していたので、むしろ戦後の活用を見据えてあえて温存させたのではないかとさえ思わせます。
上岡伸雄著『東京大空襲を指揮した男 カーティス・ルメイ』(ハヤカワ新書、2025年)を参照すると、ルメイがワシントンからの指令で、満州の鉄鋼産業を標的にするのやめ、台湾と日本本土の軍需産業を標的にするようになったのは、1944年10月からです。出撃基地もインド(成都経由)からマリアナ諸島に変わっていきます。第1目標は軍事施設(軍需会社を含む)としながら、第2目標は市街地に設定され、そちらを爆撃することもありました。武器製造を支える小型部品の工場が住宅地の至るところにあるので、そういう場所を叩くためには住宅密集地への攻撃もやむなしと航空軍の上層部は考えていました。
1945年3月の、無差別爆撃といえる東京大空襲を前にルメイは、「民間人にある程度の死傷者を出すことなく戦争に勝つことはできない。(……)我々が戦争を始めたのではないのだし、早く戦争を終わらせれば終わらせるほど、たくさんの命を救うことになる――アメリカ人の命だけではない。できることなら民間人の殺害は避けたいが、これは頭に入れておいてくれ。兵器を製造する日本人の労働者も彼らの軍事機構の一部だ。私の第一の義務は、我々のクルーの命をできる限りたくさん守り、救うことなのだ」と語っています。この時期は東京、名古屋、大阪、神戸と大都市が中心で、焼夷弾が尽きて半月あまり空爆を休止してしまうほどでした。その間、機雷投下のミッションを行っています。空爆再開後、1945年6月中旬までに東京の150平方キロ、名古屋の32平方キロ、神戸の23平方キロ、大阪の40平方キロ、横浜の23平方キロ、川崎の9平方キロが炎上しました。
この時期、まだ米陸軍の一部であった航空軍は、まだ残っている中小の工業都市への空爆によって、日本本土侵攻前に日本を降伏に追いこめば、航空軍が戦勝に最大の貢献をしたことになり、空軍独立の悲願を果たせるのではないかと考えていました。7月の終わりには原爆がテニアン島に届く予定でしたが、原爆は陸軍の仕事であり、航空軍はその運び屋にすぎないとされたことから、航空軍としては原爆なしでも自分たちの手で戦争を終わらせたという実績を求めていたという見方もあります。それで、ルメイは標的を中小の都市に向け、7月終わりまでに60の都市を破壊していきました。
1945年7月20日、富山市内3カ所に模擬原爆が投下されています。7月26日、原爆がテニアン島に運びこまれ、ワシントンから航空軍へ8月3日以降に原爆投下の指令が届きました。ルメイは原爆と競い合うように中都市への爆撃を進めました。7月31日に富山市へ空襲警告ビラ(伝単)が撒布されます。8月1日から2日にかけては陸軍航空軍の第38回目の創立記念日に合わせて特段に激しい空襲が企画され、富山はこの作戦で八王子、長岡、水戸とともに爆撃されています。死者は合わせて約5千人に上りました。
葛西伸夫著『水俣病が描く近代日本の自画像』(石風社、2026年)などによると、1944年1月に共に軍需会社に指定された化学産業である日窒水俣工場(防諜名:熊第7042工場)は同年3~8月に7回(最大規模は7月31日、26人死亡)、同延岡工場(現旭化成)は同年3月と6月、昭和電工川崎工場は同年4月に空襲を受けています。これら化学工場では爆薬原料の製造を行っていましたので攻撃目標となったのは頷けます。他の都市でも航空機製造拠点は早い時期から攻撃を受けています。それだけに富山の不二越がなぜ目標から外されたのかは興味あるテーマです。
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kyushu_07.html
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kyushu_09.html
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_22.html