昨日参加した「第18回熊本空襲を語り継ぐ集い」のおりに講話した高谷和生さんが、1938年5月20日に熊本県水俣から日本に侵入、球磨川を遡行し、宮崎県の延岡上空で反転、再び球磨川沿いに海に出て、姿を消した中国空軍2機による伝単20万枚の撒布について触れていました。これを、日本側では初空襲と捉えましたが、その作戦の実行を命じた蔣介石は、当時の中国国内での戦争の実態を何も知らない内地の日本国民を感化し、連帯を期待していたため、「人道飛行」と名付けています。撒布された伝単の内容は、4種類の反戦ビラ(「日本農民大衆に告ぐ」「日本労働者諸君に告ぐ」「日本小商工業者諸君に告ぐ」「日本政党人士各位に告ぐ」)と1種類の反戦パンフレット(「日本人民に告ぐ」)となっています。内容が内容だけに、伝単は官憲によって回収されたため、現存されているものはほとんどないとされてきました。
ところが、今年3月19日の熊本日日新聞によると、水上村で農業を営みながら、ロシアの文豪トルストイの翻訳を手がけた湯前町出身の故北御門二郎氏(1913~2004年)の遺品から、「日本人民に告ぐ」の伝単が発見され、遺族から熊本県立図書館へ寄贈されたという報道がありました。
https://kumanichi.com/articles/1970572
トルストイの研究家である北御門二郎氏は、良心的兵役拒否を貫いた人としても知られています。人道飛行があった1938年は、国家総動員法が公布(4/1)・施行(5/5)された年でもあり、北御門氏が徴兵拒否の意思を固めたきっかけにもなっています。東京帝国大学文学部英吉利文学科に在学中の同氏は、徴兵検査を受けるべき同年4月21日の前日に失踪し、父が警察で訊問を受けたり、消防団による山狩りが行われたりしています。翌日に、形の上では、出頭を催促されて母とともに出向いた徴兵検査の場で、北御門が徴兵忌避の申し立てを言い切るよりも先に、精神を病む者と「判定」されて、検査をまぬかれたことになっているようです。ともかく、検査を受けて結果的に兵役免除となりました。同年に大学を中退、球磨郡水上村で就農します。日本初空襲=人道飛行があった1938年5月20日には熊本へ帰っていたとすれば、本人が自ら伝単を手に入れ秘匿していた可能性があると思われます。
北御門二郎氏の名前を最初に知ったのは約50年前の高校時代のときでした。高1時の担任である美術教師の坂田燦先生が同氏と交流があり、トルストイの翻訳作品に版画を併載した版画集(『二老人』1978年。その後も『火の不始末は大火のもと』1980年、『愛ある所に神有り』1981年、『人には沢山の土地がいるか』1982年、『作男エメリヤンと空太鼓』1992年と続く)の共同出版をされていました。
熊本県立美術館でも要職に就かれていた坂田燦先生は、現在89歳。今も年賀状でいただく版画作品が楽しみです。写真は2026年のもの。
番外:日本で初めて伝単が登場したのは、九州で起きた藤原広嗣の乱(740年)
官軍が広嗣を「逆人」と指摘する情報ビラ(伝単)を使用して心理戦を仕掛けたのが始まりと考えられています。