『継体天皇』読書メモ

河内春人著『継体天皇 六世紀に現れた世襲王権の「始祖王」』(中公新書、1000円+税、2026年)は、①継体天皇の即位が可能となった歴史的前提、②その治世をめぐる国際関係、③その死後の世襲王権の成立について論考された著作となっています。今日の皇位継承資格の論議にあたって大いに参考にしてみると面白い本だなと感じました。それと、私が在住する宇土とのゆかりもあります。
『国史大辞典』によれば、継体天皇とは、生没450-531年、在位507-531年、応神天皇の五世の孫と伝えられ越前(今の福井県)から迎えられた人物です。ただし、存命中は「オホト大王」だった、当人からすれば、「継体天皇って誰?」ということになります。「継体」とは8世紀半ばに淡海三船が歴代の天皇を漢字二文字で名付けた漢風諡号ですし、「天皇」も7世紀に成立した称号です。
なお、評価が定まらない天皇であるため、現行の歴史教科書で取り上げず教えない方向にもあるようです。確かに明治憲法の時代では、以下のようなことがありました。たとえば、喜田貞吉(1871-1939)は、「明治時代の終わりに文部省で国定教科書の編修に従事したが、1911年に南北朝正閏問題で責任を取って退官した。」(p.206)、「当時は古代史といえども天皇家の万世一系に異を唱える研究はタブーだった。1930年代になると皇国史観が世を覆い、天皇に関わる研究自体が低迷する。」(p.207)という具合です。したがって、研究や教育に対する時の権力の不当な介入(逆に受ける側の阿りにも)には敏感でありたいと考えます。
継体天皇ことオホト大王が王位継承する前世紀(5世紀)の倭王権は、中国王朝(宋)からの冊封体制にありました。古市集団(讃・珍)や百舌鳥集団(済・興・武)といった複数の王族集団のなかから適任者が大王即位後に宋へ遺使し倭国王に任命(唯一の例外が世子を名乗って要請した興)されていました。中国皇帝からの承認は即位した事実を補強するための手続きでした。また、新たな大王は他の豪族たちからの支持取り付けのため、豪族たちへの将軍号の授与を中国王朝に要請しました。
ところが、5世紀末に宋から南斉へ王朝が変わり、それが王朝簒奪した反乱に映った倭王権は外交関係を持つことを躊躇し479年を最後に中国への遺使を取りやめます。それまで大王を出したことがなかった王族である北陸集団から即位した継体天皇は、中国王朝という外部からの権威付けが得られないこともあって、仁徳天皇を出した古市集団の女性王族である手白香王女との婚姻によって即位の正当性を補強します。皇后の手白香王女は武烈天皇の妹とされますが、その武烈天皇については虚構と本書では見ています。たとえば、『日本書紀』は、それが完成した律令国家の時代に「かくあるべし」と設定した、きわめて作為的な編纂が行われていて、5世紀以前の記述は史実としてほぼ信用できないと著者は指摘しています。漢籍を下敷きにして武烈天皇の暴虐記事がありますし、血統よりは賢者であることを重く記した書物(北畠親房『神皇正統記』1343年)もあります。ちなみに、律令国家時代の「継嗣令」では皇位継承資格があるのは五世孫までとされていました。
在位中は朝鮮半島との外交失政や磐井の乱などが起きていますが、磐井の勢力基盤である八女集団も継体天皇の即位については支持していたと考えられています。その根拠の一つが現在の熊本県宇土市(当時は八女集団の勢力下)から産出する馬門ピンク石の存在です。この石は5世紀後半頃から畿内へ提供されていて、6世紀前半では最大の前方後円墳(墳丘の長さは190mに及ぶ)であり、継体天皇の真陵と推定される今城塚古墳(現在の大阪府高槻市に所在)の石棺の材質として用いられています。