経済的な貧困層や在日外国人などの文化的マイノリティといった、いわば社会的に公認された「明白な弱者」が救済されるのは「特別扱い」で不公平だとし、自分が救われていないと感じる「曖昧な弱者」の存在に、『曖昧な弱者の時代』(岩波新書、920円+税、2026年)の著者である伊藤昌亮氏は注目しています。「曖昧な弱者」は、「明白な弱者」に対して、憤懣を抱き、敵視し、攻撃します。彼らの反感の矛先は「明白な弱者」を救済しようとする政治家や知識人、マスメディアに及びます。もっとも彼らの反感を利用して支持を集めて伸長しようとする政治の動きもあります。社会の分断が進むだけで、なかなか厄介で醜悪な構造があることを、本書で理解することができます。
一方、本書で「曖昧な弱者」の特質を知ると、ある政党や政治家が自己啓発系の動画や競合相手の中傷動画を利用して一過性のブームを起こすことは、意外と簡単そうに思えました。もちろん、それが政治運動のやり方として考えられても、政策の担い手としての正当性を感じるかは別です。というわけで、本書を読んでも気が晴れるということはありませんでした。それどころか、ダメなところを論理的に批判しても伝わらない、皮相的な手合いの氏名が脳裏をよぎるだけでした。
先日、東大駒場リサーチキャンパスの公開イベントで政治学者の牧原出教授の話を聴く機会がありましたが、そこで高市早苗氏がかつて「政党は(政策の)道具」「発言の場が欲しい」と述べていた新聞記事を紹介し、他の党首になっていても不思議ではない人物像を語っていました。同氏は政策の中身・実現可能性よりも「やりたい」「やったる」という姿を見せることが重要なので、支持が落ちたらサバサバと辞めるのではとも見ていました。この話を聴くと、高市氏の支持層が、情報源をもっぱらSNSや動画に頼り、体系だった政治の知識に疎い情報弱者による「曖昧な支持」で成り立っているのが頷けます。まんざら悲観することもないなと後日感じました。