『日露戦争』に登場する熊本ゆかりの人びと

本書では、日露戦争時の著名人たちがどのような言動をとったのかを振り返っています。熊本にゆかりのある人物のそれを紹介してみます。

夏目漱石…「開戦当初は他の文学者同様、講談調で月並みな新体詩「従軍行」を発表した。しかし、当初の興奮が冷めると戦争を賛美して軍人や国民を鼓舞する軽率さに気づき、たとえ世間の関心や社会問題と遊離しようとも、自分自身にとって切実な問題だけを書こうと決心した。それが『吾輩は猫である』である。(中略)漱石は、国民的な流行語になった「大和魂」を徹底的に茶化しているのである。」(p.132)

矢島楫子…「キリスト教界の大多数は戦争に協力する態度を示した。(中略)全国各地の教会では戦勝祈禱会が開かれ、祈りや献金が捧げられる。日本基督教婦人矯風会の会頭矢島楫子も戦争支援体制を取り、同会は慰問袋の送付や出征兵士宅の訪問や生活援助、出征・帰還兵の送迎など、幅広い活動を展開した。」(p.112)

徳富蘇峰…「新聞社の中でも桂内閣寄りの『国民新聞』のオーナー徳富蘇峰は醒めていた。「国民の熱心」は、実は日清戦争当時の半分もないと断言する。しかし、その冷めた意識は国民が大いに責任を感じるがゆえであって、その方がよい。逆に、現在「突飛の議論」を行う者こそ、「畢竟二、三の飛び上り者流」にほかならないという。すなわち、蘇峰は浮ついた国民意識を警戒していたのである。奉天会戦後の1905年6月時点でも蘇峰は、日本は表面上強がっているが、実際は今回の戦争で「総ての力は殆んと出し尽し」たという。戦費は外債でまかなうことはできても、取り替えのきかない兵力量の問題はどうしようもない。よって、蘇峰は「完全の戦争」よりも「不完全な平和」を喜ぶと断言した。」(p.121-122)

鳥居素川…「従軍記者たちは、ジャーナリストとしてニュースを追うことより、戦争を素材に名文・美文を書くことを競いあった。朝日新聞の鳥居素川・半井桃水、毎日新聞の大庭柯公などが渡航、田山花袋が博文館から、志賀重昂が毎日新聞から派遣され、名文を競った。また、さまざまに文体を工夫した観戦記の通俗読み物が数多く登場、読者を魅了した。こうした従軍記者の書く記事は、日露戦争の戦場を悲壮美の世界として描くものであり、実際の戦場とはかけ離れたものであった。」(p.124)