#北九州市平和のまちミュージアム #戦跡バスツアー #門司陸軍兵器本廠跡 #正蓮寺軍馬塚 #門司兵器製造所跡 #古城山砲台堡塁跡 #火ノ山砲台跡
中東のホルムズ海峡は、封鎖される前、日本が輸入する原油の9割が通過する要所ということで、いつ安全航行が再開できるのか注目を浴びています。近代日本にとっても海峡防衛は重要でした。関門海峡を挟む北九州や下関には、200を超える戦争遺跡があるとされています。一方、それらが現役当時の写真や地形記録はほとんどありません。その理由は、1899(M32)年7月に要塞地帯法が公布されたことによります。北九州および下関地域の大部分が下関要塞地帯に指定され、当時は自由に写真を撮ることができなかったといいます。
北九州市平和のまちミュージアムでは、北九州周辺の戦争遺跡をオープンミュージアムと捉えて、年1回戦跡バスツアーを実施されているとのことです。2025年度のツアーが3月20日に催行されたのですが、応募したら幸いにも抽選が当り参加の機会を得ました。平和のまちミュージアム学芸員が同行案内してしかも参加費無料、ツアー終了後の同館入館も特別に無料と至れり尽くせりでした。その感謝の意味を込めて情報共有します。本投稿中には当日私だけが訪ねた戦争遺跡情報も付け加えています。以下、訪問順に記載します。
(丸囲み数字はツアーコース。〇はコース外)
①老松公園(門司陸軍兵器本廠跡)…1895(M28)~1917(T6)年の間、兵器類の貯蔵・保存、修理、供給などを担う陸軍施設がありました。その後公園化され、1932(S7)年に忠魂碑(現慰霊碑)が建立されました。日中戦争・太平洋戦争の時期は、旧門司市出身の戦死・戦病死者の遺骨の引き渡し場所として使われていました。戦後は球場や世界貿易産業大博覧会(1958年)会場として使用されたこともあります。関門トンネルに近く、公園の国道に面した場所に国道2号線と国道3号線の管理境界の標識があります。慰霊碑の裏手からは太平洋戦争期に福岡俘虜収容所第4分所が置かれていたYMCA跡地方向(隣接する料亭岡崎は当時から現存)を望むことができます。
②軍馬塚(正蓮寺)…写真右の軍馬塚は、日清戦争後に帰国する船が門司港の手前で事故により沈没し、船倉に残ったまま溺死した軍馬57頭の魂を弔うために、野戦砲兵第六連隊第二大隊長が1896(M29)年に建立したものです。写真左の日支事変殉難軍馬之碑は、日中戦争で落命した第六師団の軍馬の霊を弔うため、正蓮寺婦人会が1934(S9)年に建立したとありました。この時期までは退役した軍馬を生きて帰還させたり、死んだ軍馬の遺骨遺毛を内地へ送り届けたりしていましたが、戦争が泥沼化するにつれて、戦地に打ち捨てられるようになりました。外地で終戦を迎えたときに軍馬を射殺した戦争記録を読んだことがあります。
③ノーフォーク広場(門司兵器製造所跡)…明治・大正期は兵器製造所でしたが、その後は被服や糧秣の倉庫として太平洋戦争の終戦まで利用されました。現在、岸壁の石垣しか跡地を示すものは残っていません。訪れた日には、跡地の目の前の海で消防隊員が潜水訓練をしていました。
④古城山砲台・堡塁…ツアー配布資料には、砲台は1890(M23)年に完成し、堡塁は1895(M28)年に完成したとありました。現在の古城山には砲台そのものの跡はほとんど痕跡がなく、門司城跡碑が立つ山頂部に砲台の観測所跡(石階段など)が残っていて、堡塁跡地には胸壁や掩蔽部が残存しているとも書かれていました。同行の学芸員の説明によると、砲台の役割は海上を航行する敵艦を攻撃することにあり、堡塁の役割は砲台がある山へ侵攻する地上の敵軍を迎撃するためのものということでした。下関要塞のウィキペディアにも、「砲台」は対艦射撃用の砲台、「保塁」は陸戦用の砲台の事である、と記載されています。しかし、藤田豊著の第三十七師団戦記出版会(山中貞則会長)発行の『夕日は赤しメナム河』p.489には、要塞・堡塁・砲台の区分について以下の記載があります。「要塞とは、一定の要域を防護する目的をもって、永久築城を施した複数の陣地である。堡塁とは、永久(半永久・臨時を含む)築城を施し、重火器・火砲を混合配備した独立拠点式陣地である。砲台とは、永久(半永久・臨時を含む)築城の火砲陣地である。2個以上の砲台で構成した陣地が堡塁であり、2個以上の堡塁を含めたものが要塞となる。」。つまり、同行学芸員は、砲台と堡塁の区別は攻撃対象の違いにあると認識して、堡塁は重火器と防御壁があるが砲台にはそれがないと受け取れる説明でしたが、旧軍出身者の説明では砲台の個数の違いということになります。これでいけば、後掲の火ノ山砲台も規模的にも堡塁と呼んで差し支えないのではと思いました(しかも火ノ山第四砲台には防御壁もあります)。
〇清美食堂(注:戦争遺跡ではありません)…昼の休憩時間が1時間ありましたので、昼食は門司港レトロバス駐車近くの二代目清美食堂へ初めて行ってみました。ここの名物は「ちゃんら~」。ちゃんぽん麺を和風だしで炊き、それにもやしときゃべつ炒めが載った麺料理です。これにおでんも付いたセットを食べてみました。門司港では、他にも「焼きうどん」や「焼きカレー」といった名物料理があります。それを意識してか、清美食堂のメニューにも「焼きちゃんら~」というのがありました。これらの焼き料理はまた今度食してみたいと思います。芋洗坂係長の等身大写真パネルが店内にあってご本人もいたので、この方が初代の息子さんということを初めて知りました。
〇門司掖済会病院(外観写真のみ)…船員の養成と福利厚生を目的として設立された日本海員掖済会が運営母体。1921(T10)年に現在地に海員養成所と門司病院が開設されています。母方の祖父は日本郵船の船員でしたが、ここの海員養成所で学んだようです。1927(S2)年には門司高等海員養成所も新設されています。ちなみに戦前の海員養成機関には甲板や船室要員の普通海員養成所と航海士や機関士要員の高級海員養成所がありました。特に高等商船学校卒業生は海軍予備員令により海軍兵籍に入れられました。等級にもよりますが、たとえば海軍予備少尉などの階級が付与されていました。
〇日本郵船…門司港駅の向いに建つJP門司港ビルのショーウインドウには、戦前の長崎と上海を26時間の航海で結ぶ連絡船のポスターが展示されていました。
〇出征軍馬の水飲み場・門司港出征の碑…ツアーのコースに組み込まれていない戦争遺跡も今回訪ねてみました。門司港周辺にもあることを江浜明徳著『九州の戦争遺跡』(海鳥社、2022年)で承知していたので、それに載っていた地図を頼りに探してみたのですが、正確さを欠いていて最初見当たりませんでした。グーグルマップで検索して見て行き当たることができました。門司港出征の碑文には、ここ門司1号岸壁から200万人を超える将兵が戦地へ赴き、半数の100万人が生きて帰国できなかった、とありました。私の親族にも門司から戦地へ向かい戦死した人が何人もいます。
〇関門連絡船通路跡・旧監視孔…門司港駅構内には1901(M34)~1964(S39)年の間就航していた関門連絡船の桟橋と駅とを結んでいた通路の一部が残されています。その一角には戦時下にあって渡航する不審者を監視するためののぞき窓の跡があります。
⑤火ノ山砲台…下関にある標高268mの火の山山頂には第一から第四まで合計26門の火砲が備えられ、下関要塞では最大級の砲台として1891(M24)年完成、1926(T15)年に廃止決定、1935(S10)に除籍・撤去となりました。古城山もそうでしたが、明治時代に建設された砲台・堡塁は、実戦を経ることなく廃止されています。ですが、第三砲台砲側庫(砲弾などを収納)や第四砲台地下施設(掩蔽部)・観測所・指令室・防御壁(堡塁)などは、公園化された現在も保存されています。なお、火の山については、1941(S16)~1945(S20)の間、高射砲陣地としての転用はありました。
(関連)東京湾要塞には砲台を配備するための人工島「海堡」もあります。東京湾に現存する第二海堡の建設にあたっては、約50万人の人夫(作業員)が使役されたとされています。作業員の主な職種は世話役の他、工夫、水夫、潜水夫、石工、大工、鍛工、煉瓦工、人夫、女人夫となっていました。賃金は漁夫の平均賃金が38銭であった時代に、工夫の平均は約60銭、技能職である石工と煉瓦工は約80銭と高賃金であったと記録されています。世話役よりも技能職である石工、錬瓦工、大工、潜水夫の方が高い賃金設定だったようです。第二海堡からは桜花章煉瓦の他にいくつかの刻印が収集されています。「小丸に文字のす」、「小丸に文字のゆ」、「小丸に文字の大小」、「小丸に算木」、「英文字SR」などです。同行の学芸員に下関要塞建設時の作業員の属性(九州の産業遺産では囚人が多い)と煉瓦の製造元を質問してみましたが、不明ということでした。
https://daini-kaiho.jp/kaiho/jp/
〇北九州市平和のまちミュージアム…同館の入口近くには、歩兵第十四聯隊之跡の碑がありました。入館当日は企画展として「手のひらのなかの戦争」が開催されていました。明治後半から昭和の戦時中に至るまでの世相を反映した図案が描かれた子ども用の飯茶碗を中心に展示されていました。これらはいずれもコレクターの宮﨑修一氏から同館に寄贈された収蔵品だということです。常設展では軍隊とともに活気づいた工業都市であったことが紹介されていました。小倉陸軍造兵廠では太平洋戦争末期に米国本土爆撃のために開発された風船爆弾が製造されていたとありました。国民が戦争を支えた歴史を丁寧に紹介してもありました。暮らしが苦しくなり、やがて兵士だけでなく民間人も戦災に遭った歴史も伝えてくれます。M17集束弾の模型展示がありましたが、その尾翼根元の輪っかの部分を見ると、それを漬物石代わりに戦後使っていた父方の祖母の生活力の強さをいつも思い浮かべます。
https://kitakyushu-peacemuseum.jp/
〇小倉城内陸軍司令部跡…平和のまちミュージアムの展示を観覧後、江浜明徳著『九州の戦争遺跡』に掲載されている小倉城内の戦争遺跡を訪ねてみました。ミュージアムの裏手の交差点に出ると対角線の先に小倉北警察署が聳え立っていて、「五代目×××壊滅作戦推進中」の巨大懸垂幕が目に入ります。それを左手に見ながら西小倉駅方向へ少し歩くと、松本清張記念館入口の案内表示があるので、そこから右折直進すると、小倉城址になります。「歩兵第十二旅團司令部跡 小倉聯隊区司令部跡」の碑がすぐに見つかりました。本丸へ向かう階段を上ると第十二師団司令部の正門跡があるのに気づきました。近くには「野戦重砲兵第二旅團司令部跡」の碑もありました。やや探すのが厄介だったのが、第十二旅団本部の正門跡です。当日テント出店していた土産物店の支柱代わりに使用されていたため表から見えなかったわけで、それを知って驚きました。このほか城跡内には「生馬神之塔」「軍馬忠霊塔」「明治二七・八年戦役之記念碑」「第十二師管忠魂碑」を見ることができました。