空襲・戦災を記録する会が主催する第45回空襲オンライン学習会が近くあるので参加予定ですが、今回のテーマは「昭和20年8月6日 第二総軍原爆記 ―空襲と戒厳令―」で報告者は秋政久裕さんということでした。
https://kushusensai.net/joz4ywci4-9/#_9
ここに出てくる「第二総軍」とは、1945年4月、本土決戦で国内が戦場となることを想定した陸軍が日本列島を二分して置いた西日本の部隊の総称です(東日本側が「第一総軍」)。「第二総軍」の司令部は、広島市の騎兵第五聯隊の兵営跡に置かれました。同年8月6日の広島原爆被爆当時は、地上三階建ての建物であり、450人余りの要員が原爆で倒壊した建物の下敷きになったといいます。2017年にICANがノーベル平和賞を受賞したときの講演で知られるサーロー節子さんは、当時広島女学院高等女学校の生徒であり、司令部暗号班に動員されていたため、やはり下敷きになりましたが、必死で這い出た数少ない生存者の一人です。
同時期、司令部は朝鮮人労務者100人ほどを使い、二葉山の山中に横穴式の地下壕を掘削する工事を進めていました。洞窟司令部としては7割方完成していたそうです。原爆被爆後は実際にその地下壕を司令部として利用したそうですが、現在その遺構は保存されていません。
報告者の秋政久裕さんは、中国軍管区司令部があった広島城の元学芸員ですが、二葉山南麓の斜面に横穴4か所、立坑1か所を確認しているそうです(2025年1月の広島の地方紙・中國新聞に記事掲載)。第二総軍の二葉山地下壕について秋政さんは、焦土と化した広島の復旧のため一時的に「軍政(戒厳状態)」を敷くと決めたことに係る重要な場所だと考えています。
実は、これら第二総軍地下壕や報告者のお名前は、先月集英社新書から出たばかりの佐田尾信作著の『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』のp.99-108に出てきます。同書は、陸戦隊の元水兵を父に持つ中國新聞記者による著作です。取材対象は、1945年夏に「本土決戦」に備えて広島県呉の山中で地雷を抱えて戦車に突き進む訓練をしていた海軍の「陸戦隊」や水上特攻艇マルレの訓練をしていた陸軍の船舶部隊「暁部隊」の若者たち。彼らは原爆投下直後の焦土の広島へ救援部隊として送り込まれ、いわゆる「入市被爆」をします。しかし、いずれも特攻要員の秘匿部隊所属であったため、軍歴記録に空白があるなどして被爆を裏付ける証明が難しく被爆者手帳を取得するまで相当な期間を要しました。中には手帳を申請できることを知らないまま亡くなった方も数多くいます。
81年前にただただ命を差し出すことを求められた若者たちがいて、生きながらえても重い傷を負い続けなければならなかったのです。これほど罪深いことを強いた人間が確実にいたということ、これからもそんな人間が出てしまいかねないということを絶対に忘れてはならないと思います。