甘耀明著の『鬼殺し』(白水社、2017年)のタイトルにも出てくる「鬼」について理解するには、同書下巻の巻末にある訳者の白水紀子氏による解説が役に立ちました。やや長いですが、引用してみます。「中国語で鬼(グィ)は死者の霊魂を指す。人は誰しも死ぬと鬼となって冥界(あの世)に行き、その霊魂は墓・位牌・冥界に一つずつ宿るとされている。鬼は目に見える鬼(生前と同じ顔かたちをしているのが普通)もいれば姿形が見えない鬼もおり、必ずしも人に危害を加えるとは限らない。祀る人がいる鬼でも死後に一度この世に戻ってくるし、この世で供養してもらえず墓や位牌がない鬼も、冥界からたびたび抜け出て「この世」をさまよう。今日でも、鬼も一緒に出てくる月とされる旧暦の七月は、冥界の門が開いて先祖の鬼だけでなく、普段供養されていない鬼も一緒に出てくる月とされる。「あの世」といいながら決して別世界ではなく「この世」の一部であるかのように、鬼はあちらこちらを行ったり来たりできるのだ。また、神と鬼は非常に近い関係にあり、たとえば本書にも名前がでてくる鍾馗のように立派な行ないをした鬼は神様(人格神)になり、弔う者のない野鬼(狐魂)でさえ有應公という神様に「昇格」して祀られることがある。つまり、神、人、死者(鬼)はそれぞれ天、地、地下の三つの世界をつくっているが、これらの断絶感は希薄で、帰るべきところが定まらず(まだ転生せずに)この世とあの世をさまよっているのが鬼なのだ。」(下巻p.350-351)
この「鬼」の概念が台湾人読者には自然と備わっているでしょうから、本書に鬼王として苗栗出身の客家の抗日英雄である呉湯興が登場しても違和感がなく、物語の世界へ入り込みやすいと思われました。逆にその概念を理解していない読者にとっては奇想天外過ぎて追い付いていけない思いも正直ありました。この呉湯興とは、1895年、日本の台湾領有に抵抗して独立を宣言した台湾民主国の義勇軍総統領です。圧倒的な日本の軍事力を前に民主国は5か月で崩壊し、呉湯興は彰化の八卦山の戦いで死亡(妻も後を追って自殺)しましたが、その死体は見つからず鬼になってさまよっているという言い伝えがあるそうです。
台湾の19世紀末ころからの歴史を振り返ると、清朝から捨てられ、日本から捨てられ、国民党政府からも見放された孤児のようであり、帰るところがなくあの世とこの世の間をさまよう鬼たちの住む島が台湾であるという心象風景が台湾人にあるのではないかと感じました。
戦争犠牲者の存在を忘れたかのように「核兵器保有すべき」と発言した官邸幹部が日本にはいるそうですが、死者はさまよいつつも残るという信念をもつ台湾の人たちからすると、これはどうなのだろうかと思いました。私なんぞは墓も位牌もなくていいと考えていますが、反戦平和の鬼として彷徨ってみるのは面白しろそうなので、たまにこの世に出てみようかしらんと思ってしまいます。