第12回空襲・戦跡九州ネットワーク荒尾集会に伴い実施された、荒尾二造の見学会に参加する機会を得ました。荒尾二造の正式名称は、東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所。ここは、戦時中、日本有数の大規模な火薬生産工場でした。原料の石炭酸は隣りの大牟田から運ばれ、1944年の黄色火薬の月間生産量は全陸軍の3割近くを占めたといいます。勤労動員学徒も含め約3000人が働くその用地の広さは、現在の荒尾市の5%超に及び、万田駅(現荒尾駅)から工場までは5.2kmの専用鉄道も敷設されていました。現在も跡地内にさまざまな建造物・工作物が残っています。
掲載写真順に示すと、火薬庫、廃液路、検査掛棟建物(岱志高校の部室・トレーニングルームとして現在も使用)、変電所(284とあるのは米軍接収番号)、官舎建物、陸軍境界石、廃液路溜桝などがあります。火薬製造や保管にかかわる施設はいずれも堅固な鉄筋コンクリート構造となっていました。その反面、強酸性の廃液処理は中和しただけでそのまま有明海へ流すという環境被害を一切考慮しない乱暴なものでした(当初は処理をしないまま流していたので魚介類が死滅したそうです)。
戦時中、荒尾二造の北に隣接する大牟田はたびたび空襲を受け多大な犠牲が出ましたが、二造については1945年6月18日の第1回目の空襲で1棟が全焼、同年7月27日の第2回目の空襲でも1棟が全焼したものの2回とも人的被害はなかったそうです。これは、米軍側が戦後接収して再利用を目論んでいたため、あえて空爆を控えたという説があります。一方で二造以外の現荒尾市内では46人の死者と295人の負傷者、878戸の罹災が記録されています。
これらの戦争遺跡のうち民有地にあるものは徐々に姿を消しているのが実情です。戦争の狂気に社会全体が覆われた痕跡を保存しなくていいのか、住民や行政の意識が問われていると感じました。
見学会には、空襲・戦災を記録する会全国連絡会議の事務局長・工藤洋三氏も参加されていました。工藤氏からのご案内により同会主催の「第44回空襲オンライン学習会」にも参加することにしました。今回は、『東京大空襲を指揮した男 カーティス・ルメイ』(ハヤカワ新書、2025年)の著者・上岡伸雄学習院大学教授が、自著をめぐって報告する合評会となっています。同書は私も読んでずいぶん参考になりましたので、内容を期待しているところです。