戦争ミュージアムめぐり

戦争の記録や記憶を継承する上では、被害だけではなく、加害についても知らなくてはならないし、それがなくては戦争の実相を捉えることが一面的になり、継承の意味が変質してしまうと最近つくづく思います。
たとえば、長崎県大村市(幼少期に住んでいたので記憶はありませんが親しみを感じる土地です)についていえば、81年前の10月25日、第二一海軍航空廠に対して、中国・成都から出撃した米軍機B29による大規模な空爆があり、勤労動員されていた学徒が多数命を落としました。その中には旧制宇土中の生徒2名と引率の美術教師・佐久間修(妻を描いた「静子像」は長野県上田市の「戦没画学生慰霊美術館 無言館」が収蔵)もいます。
10月18日~11月24日の間、大村市歴史資料館では特別展「Never Forget 大村と戦争・その記憶と継承」が開催中で、10月25日には同市で「空襲・戦災を記録する会」事務局長の工藤洋三氏と「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」代表の高谷和生氏による講演会がありました。
このように、大村における空襲被害の継承は続けられていますが、当時からして国際法違反であった宣戦布告なき首都南京への渡洋爆撃を日本が始めた1937年8月15日の発進基地の地であり、南京事件前哨戦にかかわったことについても継承するべきだと考えます。初出撃は海軍木更津航空隊所属の九六式陸上攻撃機(中攻)20機でしたが、南京への空爆は同年12月13日の占領に至るまで各地から50数回、延べ900余機、数百トンの爆弾投下に及んでいます。
以下は、最近訪ねたミュージアムについてのメモです。

■東京大空襲・戦災資料センター(最寄り駅:住吉)
同じ戦争ミュージアムの一つに、「東京大空襲・資料センター」があります。こちらの館内には空爆に関する国内外の歴史年表が掲示されていて、大村からの南京への渡洋爆撃について、つまり加害の記録についても触れてありました。それによってその歴史検証拠点の信頼性も明らかになる感じがします。思うにそれは、その拠点の代表者の見識力によるのだと考えます。同センターの代表者は、『日本軍兵士』『続・日本軍兵士』を著した日本近代軍事史、日本近現代政治史が専門の研究者である吉田裕氏です(先代の館長は作家の早乙女勝元氏)。
https://tokyo-sensai.net/

■明治大学平和教育登戸研究所資料館(最寄り駅:生田、向ヶ丘遊園)
研究者が拠点の代表者を務める戦争ミュージアムとしては、「明治大学平和教育登戸研究所資料館」もあります。館長の山田朗氏の著書『兵士たちの戦場 体験と記憶の歴史化』を読むと、兵士一人ひとりに被害の側面と加害の側面があることを理解できます。資料館が考察対象とする「第九陸軍技術研究所」(秘匿名「登戸研究所」)の目的は、秘密戦兵器・器材の研究・開発にありましたので、加害の部分に加えて秘匿すべきとされた裏の記憶(被害や戦功は表の記憶としてまだしも語りつがれやすい)そのものです。それだけにその裏の記憶を継承する意義は大きいと言えます。こちらも館長の見識力があるからこそ、風船爆弾(昔のドローン兵器?)や偽札、電波兵器など展示が充実しているのだと思います。
同館には「石井式濾水機濾過筒」の実物が展示されています。石井というのはあの731部隊長の名に由来します。1965年に熊本日日新聞社が出版した『熊本兵団戦史 支那事変編』のp.132には、上海派遣軍軍医部部員(戦後化血研勤務)の証言として「上海では臨時編成の防疫給水班が呉淞上陸地付近に車載衛生濾水機を置き、黄浦江の水を水源にして大量の浄水を作り、各部隊に補給し、防疫にも戦力増強にも非常に寄与した。第六師団には昭和10年4月15日熊本県医師会が5個の石井式濾水機愛国第一号を献納した。この石井式は発明早々の最新式で、おそらく第六師団が日本で一番最初の濾水機装備師団であったろう」が載っています。
https://www.meiji.ac.jp/noborito/index.html

■昭和館(最寄り駅:九段下)
「伝単」の展示の説明文では、伝単を拾った者は内容を読まずに警察へ届けろとあるのですが、内容を読まなければ届けるべきシロモノかどうか判断できないのではと、当時のバカバカしさに苦笑してしまいました。
遺族の戦後の暮らしを展示するブースには、熊本県の遺児たちが東京の靖国神社へ参拝したときの感想文が掲載された遺族会通信や原稿用紙の展示がありました。通信と原稿の両方に宇土在住の遺児の名前がありました。私の母も遺児団の一員で参加したと聞いています。
図書室には「半藤文庫」があり、半藤一利・宮崎駿の対談本『腰ぬけ愛国談義』(文春ジブリ文庫、2013年)があり、ジブリ映画『風立ちぬ』で描かれた零戦設計者の堀越二郎の住家のモデルは、玉名市小天の前田家別邸だと書かれていました。2010年11月にスタジオジブリの社員旅行で宮崎駿が小天を訪ねたそうです。
https://www.showakan.go.jp/

■しょうけい館(最寄り駅:九段下)
10月9日に公表された、「香淳皇后実録」には、傷病兵に対する慰問をたびたび行っていたことが記されているとありましたが、同館には香淳皇后が下賜した義眼や義足の展示がありました。
https://www.shokeikan.go.jp/

■吉村昭記念文学館(最寄り駅:町屋)
訪ねたときは「吉村昭と津村節子 戦時下で過ごした青春」の特別展の会期中でした。1942年4月18日、米軍が東京を初めて空爆したときのB-25ドーリットル機を目にしたときの体験を語る吉村昭の映像が放映されていました。
ところで、吉村昭の略年譜を見ると、26歳のときに学習院大学を中退していますが、75歳のときにそれが学費未納による除籍処分だったと知り、改めて未納の学費を支払い、昭和28年3月付の退学許可書を受ける、とありました。これだけの著名人ですら卒業が了とならなかったことに高潔さを覚えて清々しいです。
https://www.yoshimurabungakukan.city.arakawa.tokyo.jp/index.html

なお、冒頭の大村大空襲も東京大空襲も米軍側で指揮したのは、戦後日本政府から空自創設に寄与したということで勲一等を授与されたカーティス・ルメイです。上岡伸雄学習院大学教授が2025年出版した著書『東京大空襲を指揮した男 カーティス・ルメイ』p.134-135に、東京大空襲に加わった爆撃機搭乗員による次の回想が載っています。「上昇気流は気持ちの悪くなるにおいを一緒にもたらした。鼻について離れないにおいだった――焼かれた人間の肉のにおいだ。あとになって、乗組員たちのなかにはこのにおいのために息を詰まらせたり、吐いたりした者がいたという話を聴いた。気絶した者もいたらしい」。
被害とは「殺傷される」であり、加害とは「殺傷する」であるリアルに他ならないわけですから、人類が歩むべき道は絶対に「殺すな」でしかありません。