1938年の人道飛行

家近亮子著『蔣介石 「中華の復興」を実現した男』(ちくま新書、1400円+税、2025年)のp.302-306にかけて1938年5月20日に中国空軍2機によって「熊本県水俣から日本に侵入、球磨川を遡行し、宮崎県の延岡上空で反転、再び球磨川沿いに海に出て、姿を消し」た反戦ビラ20万枚の撒布について記されていました。この前年に盧溝橋事件が起こり、日中戦争が勃発し、国民政府は首都を南京から重慶に移します。南京事件も1937年から1938年にありましたが、日本の大手新聞が南京事件の実態を初めて報道したのは、戦後の1945年12月8日の『読売報知』だったと言います(p.298)。
つまり、1938年当時の中国国内での戦争の実態を何も知らない内地の日本国民を感化し、連帯を期待する目的で蔣介石が実行したのが「人道飛行」と名付けた反戦ビラ撒布だったというわけです。しかし、当時の日本人たちはビラを拾うと直ちに警察に届けたため、翌日の『九州日日新聞』や『宮崎新聞』では号外でビラ撒布の事件を報じましたが、ビラそのものはすべて回収され現存しているものはほとんどないとされています。なお、熊本県内では「日本農民大衆に告ぐ」が集中的に撒かれたようです。
ビラの内容は、日本の兵士が中国でたくさん戦死し、悲惨な最期をとげているという現状を伝えるもので、蔣介石が1938年7月7日の抗戦一周年記念に発表した「日本国民に告げる書」と一致するところが多いため、蔣介石の関与の深いと考えられています。
この人道飛行については、「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」が2025年8月に発刊したリーフレットでも触れられています。
※家近本とくまもと戦跡ネットとの相違点
(家)人道飛行 ― (く)人道爆撃
(家)徐煥昇 ― (く)徐煥升
(家)馬丁式重轟炸機マーチンB-10重爆撃機 ― (く)馬丁式重轟炸機マーチン重爆撃機B-10、B-10マーチン重爆撃機
(家)撒布されたのは4種類のビラ(「日本農民大衆に告ぐ」「日本労働者諸君に告ぐ」「日本小商工業者諸君に告ぐ」「日本政党人士各位に告ぐ」)と1種類のパンフレット(「日本人民に告ぐ」) ― (く)「日本人民に告ぐ」「日本農民大衆に告ぐ」「日本労働者諸君に告ぐ」「日本工商業者に告ぐ」「日本各政党人士に告ぐ」の5種類のいずれも冊子形式
(家)20万枚 ― (く)10万枚