山田朗著『兵士たちの戦場 体験と記憶の歴史化』(岩波現代文庫)は、書名の通り主に個人としての選択もできずに死を強いられた兵士たちの回想を構成した記録ですが、戦争指導者やそれに近い立場の人物の言葉も掲載されています。
爆装した航空機による組織的体当たり攻撃、特攻作戦が始まったのは1944年10月からです。レイテ沖海戦に際して、日本海軍の水上部隊のレイテ湾突入を支援するため、米空母の飛行甲板の使用を不可能にし、艦上機の離発着を阻止することで米側航空戦力の活動を減殺しようとする、一時的な非常の策として始まったとされます。特攻隊の編成を命じたのは第一航空艦隊司令長官の大西瀧治郎中将でした。その大西から特攻に込めた「真意」を直接以下のように聞いたと、第一航空艦隊参謀長の小田原俊彦大佐が、部下のベテラン搭乗員・角田和男少尉へ話しています。「(特攻によるレイテ防衛)これは九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では、何故見込みのないのにこのような強行をするのか、信じてよいことが二つある。一つは……天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦さを止めさせられたという歴史の残る限り、……必ずや日本民族は再興するであろう、ということである」(p.168)。
この話を角田少尉から聞かされた角田とは予科練同期の搭乗員・浜田徳夫少尉は次のように反論しています。「今、特攻以外に勝つ手はないという。敗けると分かったならば潔く降伏すべきだ。そうして開戦責任者は全部腹を切って責任をとるべきだ。(角田は)特攻が有利な講和のために最後の手段というが、こんなことをしていれば講和の時期は延びるばかりで、犠牲はますます多くなる。貴様のような馬鹿がいるから搭乗員も志願するようになるのだ」(p.169)。
しかし、第一次の特攻出撃の翌日、戦果の上奏を受けた裕仁天皇は「そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった」(p.166)と及川古志郎軍令部総長に語ったとされています。大西の思惑通りにはならず、浜田の見込み通り戦争の犠牲者はさらに増加の一途をたどりました。翌年の東京大空襲、沖縄地上戦、広島と長崎における原爆だけでもそれぞれ10万人以上の人が殺される結果となりました。浜田は沖縄戦で戦死し、その後徹底抗戦に執念を燃やした大西は終戦翌日に自決しています。
そして、当時の統治構造に問題があったとしても天皇が絶対的権力者であったのは事実です。その戦争責任について考えなければ、いつまで経っても歴史を直視したことにはならないと言えます。