『兵士たちの戦場 体験と記憶の歴史化』(岩波現代文庫)の著者・山田朗氏は、明治大学平和教育登戸研究所資料館の館長を務めています。資料館の名称に含まれる登戸研究所とは、戦前に旧日本陸軍によって開設された研究所です。秘密戦兵器・器材を研究・開発していて、正式名称は第九陸軍技術研究所ですが、研究・開発内容を決して他に知られてはいけなかったために、「登戸研究所」と秘匿名で呼ばれていました。同研究所は、アジア太平洋戦争終戦とともに閉鎖されました。その後、1950年代に研究所跡地の一部を明治大学が購入し、現在の明治大学生田キャンパスが開設されました。資料館は、そのキャンパスの一角に2010年設立されました。
というわけで、登戸研究所は秘密戦の中核を担った旧日本陸軍の組織だったわけですが、登戸研究所第三科が蔣介石政権下の法幣の偽造を研究し、印刷した偽札を中国戦線へ大量散布する謀略を1939年から始めたと、本書(p.40-43)は紹介しています。特に1941年12月25日に日本軍が香港を占領し、蔣介石政権の造幣所から法幣の印刷機・印刷用原版と紙幣用紙を入手した1942年以降、登戸研究所における偽札印刷は軌道に乗り、中国へ大量に送られました。実に45億元(日本円でほぼ45億円相当)の偽札が印刷され、そのうち30億元が使用されたとされます。大半は中国大陸における日本軍の物資収買のために使われました。なお、偽札印刷導入の当初の目的はインフレ促進を狙った経済謀略戦にありましたが、大戦末期には、中国でも軍事インフレによって、極端な貨幣価値の下落が起こり、蔣政権側が英米の支援で超高額紙幣を導入したため、低額面紙幣しかなかった日本側の偽造法幣は無価値になる結果となりました。
登戸研究所が印刷した偽造紙幣としては、米国関税局証票券(通称「関銀券」)もありました。本書(p.176-177)では、「関銀券」を利用した徴発についても描かれていましたが、それすらも使わない食糧略奪の有り様が記されています。例として挙げられていたのは大陸打通作戦に参加していた第三十七師団(主に熊本・宮崎・鹿児島出身者で編成)が通過した後の状況です。
侵攻作戦下の通過部隊の食糧調達(徴発)・強制買い上げ方式の実態については、第三十七師団戦記『夕日は赤しメナム河』p.260-261で触れられているので、関連情報として載せておきます。「住民が逃げて不在の地域では軍用徴発書(通称「買付証票」)が使用された。徴発に任じた主計将校が、軍用徴発書丙片に、徴発の年月日・物件の品目・数量・賠償金支払いの時間・場所などを記入捺印し、これを発見しやすい位置、家の入口の扉などに貼り付けて帰っていた。代金は、後で取りに来い、というわけであるが、作戦間、代金を取りに来る例は、ほとんどなかった。取りにきても、この代金は、華北では軍票の聯銀券、華中・華南では儲備券で支払われるのが常であり、時として作戦間に押収・鹵獲した中国の旧法幣などが使用された。聯銀券の通用する範囲の実情は日本軍の駐屯地域内や域外せいぜい4キロ四方程度の地域内だけで、山間部落では通用するはずはなかった。このため、徴発を受ける地域の住民にとっては、蝗(いなご)の大群の襲来を受けたほど、大変な被害を受けた。日本軍は現地では皇軍ならぬ蝗軍(こうぐん)と呼ばれた。」。同書p.420では、「事実上の掠奪」と記述されています。
『兵士たちの戦場』p.27によると、「満州国」をのぞく中国大陸に日本陸軍の将兵の数は1944年時点で約80万人だったといいます。第三十七師団戦記『夕日は赤しメナム河』p.259によれば、1個師団の人員約12000名・馬匹約4200頭・馬夫など約500名。戦時作戦中の1日に要する糧秣総量は人糧だけで小麦粉10440キロ(米・麦換算)・生肉類2520キロ・生野菜7200キロ。駄馬1頭の駄載量約80キロとして、小麦粉131頭分・生野菜約90頭分・牛約7頭分(豚約60頭分)になりました。これ以外に兵器・弾薬、書類を携行する行軍の負担も高く、常に糧秣不足に陥っていたのが実態でした。
大兵力になればなるほど戦時の食糧調達は困難を窮めます。同時に兵士だけでなく無辜の民間人も容易に飢餓状態を強いられることを戦争非体験者は知らな過ぎると思います。