アジア太平洋戦争期の熊本県内を標的とする大規模な空爆として知られる1945年7月1日の熊本大空襲(※写真は大甲橋近くの慰霊碑)から80年の昨日(7月1日)、平和憲法を活かす熊本県民の会主催による「第17回熊本空襲を語り継ぐ集い」に参加しました。今回の集いでは、熊本への初めての空爆となる1944年11月21日の「柿原(かきばる)空襲」の体験者の証言を聴く機会を得ました。証言者自身は米俵の下に避難して爆撃から1時間後に救出されたそうですが、自宅で祖母と当時5歳のいとこが命を奪われたということでした。
「熊本空襲を語り継ぐ集い」についてのNHK熊本放送局の報道。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kumamoto/20250701/5000025627.html
「熊本空襲を語り継ぐ集い」についてのTKUの報道。
https://www.tku.co.jp/news/?news_id=20250701-00000007
実は熊本市西区花園の柿原地区は臨機目標であり、爆撃の主目標は、長崎県大村にあった海軍航空廠(航空機製作工場)でした。最初に大村が空襲に遭ったのは、1944年10月25日です。このときは、多くの勤労学徒が犠牲となりました。熊本県立宇土中学校4年生の生徒2名と引率の美術教師1名が亡くなっています。このときの証言(初出は『宇土高校創立70周年記念誌』※写真)は、平和憲法を活かす熊本県民の会が戦後65年の2010年に出版した冊子に収録されています。
このように戦争で命を落とすのは、戦闘員だけとは限りません。東京・沖縄・広島・長崎は言うに及ばずここ熊本においても戦争の実相を少しひも解いてみれば、武器を手に取らなかった民間人の死者が多数いたことを忘れてはならないと思います。
しかし、「命をささげた人々」(=戦没兵)だけを取り上げて、それで戦争の歴史を継承するとか、平和を祈念するという動き(※県護国神社)もあります。戦争は兵士も民間人も命を奪いますし、それらの死者に対して「命をささげた」とすることに強い違和感を覚えます。
これでは、戦争が起きたら国民は戦争に協力しろ、命を奪われたらそれは受忍しろということにしかならないと考えます。
2004年制定の国民保護法や同法に基づく居住地の県や市が定めている国民保護計画を読んでみると、損失補償や損害補償が認められる範囲・条件は驚くほど狭いなと感じます。国や地方公共団体からの要請に応じて協力し、土地が収用されたとか、救助にあたって死傷した場合の損失や損害なら補償してやってもいいぐらいなもので、これのどこが「保護」なのかと思います。
たとえば、80年あまり前の空襲に遭い孤児となった国民に対しても補償は何もありませんでした。受忍論が今もまかり通っていることがわかる記事リンクを貼っておきます。
https://www.asahi.com/articles/AST6W2FFZT6WOIPE00KM.html