「熊本空襲を語り継ぐ集い」参加に際して

本日(6月29日)の熊本日日新聞社会面に、7月1日に熊本市中央公民館で開かれる「熊本空襲を語り継ぐ集い」について紹介した記事が載っていました。私も参加予定ですが、当日は以下のプログラム構成となっています。1つは、県内で初めての空襲とされる1944年11月21日の「柿原空襲」(柿原は熊本市西区花園町にあります)について当時9歳だった住民の証言。もう1つは、米軍が撮影した空襲のモノクロ写真を人工知能(AI)などでカラー化して記憶の継承へ取り組む、市民団体「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」の高谷和生代表によるプロジェクト説明となっています。
ところで、「柿原空襲」を行ったのは、中国の国民党支配地域である成都から飛び立った米軍爆撃機B29の1機だったとされています。成都はいわばB29の前進基地で、第20爆撃機集団の本拠地は英領インド東部のカラグプール基地でした。このときの米軍司令官は、カーティス・E・ルメイ(1906~1990)です。ハヤカワ新書から上岡伸雄学習院大学教授が今年出版した『東京大空襲を指揮した男 カーティス・ルメイ』でも1945年3月10日の死者10万人を数える東京大空襲から80年ということで注目された人物です。ルメイは、航空自衛隊の創設と発展に貢献したという理由で1964年に勲一等旭日大綬章を授与されています。
成都からの日本本土への初空襲は、ルメイの前任者、ウォルフが司令官だった1944年6月。上記書p.107によれば、「92機がインドを出発し、1機がヒマラヤで墜落、12機がヒマラヤを越える前に引き返した。68機が成都で給油して出撃したが、1機が離陸直後に墜落、さらに4機が機械の不具合で引き返した。6機はやむなく途中で爆弾を投棄した。1機が日本に接近中に撃墜され、荒天のため、標的エリアに到達できたのは47機のみ。うち目標の八幡製鉄所を実際に視認できたのは15機で、作戦を完了するまでに7機と55人を失った。目標に命中した爆弾はたったの1発だった。」とあります。大戦中にヒマラヤ越えで墜落した米軍機は700機に上ったといいます。
司令官がルメイになってから、事故を減らすため、4機編成の夜間攻撃を止め、12機編隊による昼間攻撃に切り替えました。レーダーを使用し雲の上からの爆撃精度を上げさせました。満州周辺の気象情報の提供をソ連に求めましたが、これはソ連側からあっさり断られました。中国共産党支配地域への米兵不時着に備えて毛沢東へ要請した米兵保護は快諾されたので、医療品を共産党に提供し、毛沢東はルメイに日本軍からの戦利品である日本刀をルメイに返礼で贈ったともありました。
「柿原空襲」は、実は臨機目標であり、作戦本来の標的は長崎県の大村にある海軍航空廠でした。1944年11月21日の大村への攻撃では、109機のうち6機を失い、悪天候のせいもあって標的に爆弾を落とせたのは61機だったと、上記書p.111にあります。大村の海軍航空廠への爆撃はその前月25日にもあり、このとき初めて焼夷弾が使われましたし、その日の空襲では勤労動員で工場にいた熊本県立宇土中学校(旧制)の生徒や引率教師の犠牲者が出ています。同校内にはその慰霊塔がありますし、享年29歳の美術教師・佐久間修氏(現在の東京芸大卒)が妻を描いた「静子像」は長野県にある戦没画学生慰霊美術館「無言館」の代表的収蔵品となっています。
なお、高谷氏がAIでカラー化した元の写真が撮られた1945年8月10日の熊本空襲にあたった米軍機は沖縄から出撃したものです。その日は、宇土・不知火・松橋も空襲に遭い、当時子どもだった私の父母も身近に感じた惨事だったといいます。
https://kumanichi.com/articles/1814233
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