やなせたかしの生涯読後メモ

#やなせたかしの生涯 #梯久美子 #朝ドラあんぱん
今度の土曜日に熊本市現代美術館で梯久美子さんを講師に迎えて開かれる、やなせたかし展・開催記念講演会「光のほうへ ぼくは歩く――アンパンマンが生まれるまで」の聴講を楽しみにしています。とはいえ、会場定員は100人。やなせたかし氏が編集長をつとめた雑誌『詩とメルヘン』の編集者として身近で働き、同氏の生涯をよく知る梯さんの講演だけに果たして聴講可能か心配です。それもあって、本年3月に書き下ろしで文春文庫から出た『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』を読んでみました。
同書を読むと、「困ったときのやなせさん」と呼ばれるほど多彩な仕事をこなした同氏の稀有な才能に驚かされます。一方で、理不尽な軍隊生活の初期に何も考えずに過ごした経験や身近な人の死で受けた影響には、戦争体験をもつ世代の誰にでもある共通性を感じました。
今年は戦後80年ということで、新聞紙上では、さまざまな戦没者慰霊の式典の報道が取り上げられます。その中で、しばしば遺族が「今の平和は戦没者の犠牲の上にある」と語りますが、それには強い違和感を覚えます。今日まで平和が保たれたのは戦争の過ちを学んだ者たちによる非戦に向けた不断の努力があったことに他ならないと考えます。戦没者たちは平和構築のため犠牲となったのではなくあくまでも戦争遂行に加担するか、巻き込まれて落命したのであって、戦争が起こらなければ犠牲にならずに済んだ者たちです。つまり犠牲者を出さずに済むする社会にするため、どのような政治の道を選択すべきだったかを考え行動することが、慰霊ではないかと思います。
きょう放送の朝ドラ「あんぱん」では、主人公・朝田のぶと商船の一等機関士・若松次郎とのお見合いシーンが出てきました。ドラマでモデルとされる小松暢さんは、やなせたかし氏との前にも結婚歴がありました。暢さんは、大阪の高等女学校卒業後、しばらく東京で働いた後、21歳のときに最初の結婚をします。その相手が6歳上で、高知県出身の小松總一郎氏。日本郵船に勤務していて、一等機関士として海軍に召集され、終戦直後に病死されています。ひとり残された暢さんは、自活の道を求めて高知新聞社に入社しました。
海軍に入り、戦死したのは、やなせたかし氏の弟・柳瀬千尋氏です。1943年9月に京都帝大法学部を半年繰り上げ卒業し、海軍予備学生兵科三期を経て、翌年5月に駆逐艦「呉竹」の水測室(米潜水艦の水中音を探知するため船底に近い位置にある)に配属されます。千尋氏が乗った同艦は、1944年12月30日、バシー海峡で米潜水艦「レザーバック」の雷撃を受けて沈没、同氏も22歳で戦死します。やなせたかし氏は、1946年1月に中国・上海港から佐世保港へ復員、高知へ帰る途中、原爆で街が消えた広島の風景を目にしています(私の父方の伯父も外地から終戦の翌年に復員したら実家が1945年8月10日の松橋空襲で焼失していたのを知りました)。
私の母方の祖父が小松總一郎氏と同じく日本郵船勤務の船員でしたし、1944年1月に乗り組んでいた輸送船がバシー海峡で米潜水艦の雷撃を受け、柳瀬千尋氏と同様、船と共に海へ沈み戦死しています。きょう放送の朝ドラ「あんぱん」の最後には、兵事係から戦死公報を受け取る留守宅のシーンがありました。私の母が、自身の父の戦死の知らせが届いた日のことを手記に残していますが、悲報を受けたときの留守家族(当時の居宅は同年7月の熊本大空襲で焼失)のさまが、本日の「あんぱん」の映像と重なって見えました。
国内外に膨大な犠牲者を出さなくてもよい道がきっとあったはずなのに、どこから過ちは始まったのか、それを止めることはできなかったのか、今を生きる人間が考えなければならないのはそこです。