大石眞著の『井上毅 ―大僚を動かして、自己の意見を貫けり-』(ミネルヴァ日本評伝選、3200円+税、2025年)を昨夜から読み始めたところです。熊本に生まれ今年没後130年となる井上毅(1843-1895)は、明治憲法や教育勅語、国会開設の勅諭をはじめ、重要政策の立案・起草に中心的役割を果たし、近代日本の礎を築いた法制官僚なのですが、政治の表舞台で動いた鹿児島や山口の出身者に比べると、あまり知られていない人物です。私も中央に出てからの能吏としての足跡はある程度知っていましたが、井上毅が若いときにどのような教育を受けて、その資質を備えるに至ったのかについては承知していなかったので、本書はそれを理解するのに役立ちました。
まず注目したのが肥後細川藩の教育システムです。対象は藩士の子弟に限られますが、今でいう教育の無償化がすでに実現されているのです。毅(幼名:多久馬)は、家老・長岡監物の家臣である、たいへん貧しい藩士の家に生まれますが、幼少のころから英才であったようで、二人の兄が読書していたのを傍らで聞き覚え、いつの間にかその書物を暗誦していたとか、4、5歳頃には母から教えられた百人一首をすべて暗記していたというエピソードが残っています。10~15歳の間は、長岡家家塾「必由堂(ひつゆうどう)」で勉学に励み、ここでもたいへん優秀だったようです。15歳になると、監物の推薦で藩校「時習館」への進学塾的存在の木下犀潭(長女の鶴は毅の後妻。孫の木下道雄は昭和天皇の侍従次長。道雄の妻・静は劇作家の木下順二の異母姉)の塾に進み、木下門下の三秀才のひとりと呼ばれます。
そして、20歳のときに木下犀潭の推薦で時習館の居寮生となります。その修学費用は長岡家から支給されました。居寮生とは、「藩中の子弟より学力才幹の衆に秀で群を抜き、将来有望の目ある者を採りて之を特待し、学費を給し優遇を為して館中の寮舎に居らしめ、学問を勉強せしめ、他日之を重用して藩政の要地に立たしむる者」とされた、「藩学に於ける官費寄宿生」を指します。時習館における勉学は経史子集の四部からなる漢籍中心でしたが、後に藩からの推薦でフランス学修業のために長崎の広運館への遊学や東京の大学南校(東京大学の前身)への入学のチャンスも得ます。エリート優遇という面はあるにしても、近代以前の時代において無償教育の重要性が藩政で認識されていたのは刮目に値すると思いました。
次に、近代日本のグランドデザインを描いた法制官僚としての資質の源流について振り返ります。井上毅が初めて就いた官職は、わずか2カ月余りですが、大学南校での宿舎長を務めています。しかも、この間に「辛未学制意見」と題した大学南校学則の変更を求める意見書を書き上げ、学生や職員の賛同も得て大学当局へ提出しています。内容は、たとえば語学修業システムの改善など、大学の現状の問題点を指摘し、その要因を分析し、具体的な提案を行っています。しかし、あまりにもその献策が正鵠を射ていたためか、大学教員らの狭小な心証をすっかり害してしまい、当時29歳の井上の方から依願退官してしまう結果に終わります。
本書の副題にある「大僚を動かして、自己の意見を貫けり」は、やはり熊本出身のジャーナリスト・徳富蘇峰が井上毅を評した言葉ですが、優れた公務員つまり能吏としての資質はこのときすでに完成していたのです。それをもたらしたのは肥後藩の教育システムと言えなくはないなと感じます。