1月26日の熊本日日新聞に、菊池恵楓園入所者のハンセン病患者へ投与されていた薬剤「虹波」の人体試験が、旧陸軍の七三一部隊においても凍傷患者に対して行われていたことが載っていました。七三一部隊といえば、毒ガスや細菌兵器の開発を行う過程で人体実験を行い、多くの被験者を殺害した部隊として知られます。細菌兵器の使用や人体実験については、アジア太平洋戦争期における国際法でも違反とされていましたので、敗戦間際に書類や標本の焼却、施設の破壊を行い、徹底的な証拠隠滅を図ったとされています。
一方、冒頭の記事では触れられていませんが、七三一部隊関係者の中には、戦後、陸上自衛隊衛生学校長を務めた園田忠雄という人物もいます。しかもこの人物は、同学校が1970年1月にまとめた「大東亜戦争陸軍衛生史」(全九巻)の「監修の辞」として、「敗戦とともに消えた陸軍衛生部は、今や陸上自衛隊衛生科としてその伝統を継承することとなり、その責任も極めて重大と言わなければならない。温故知新、それは事象発展の道程であり、大東亜戦間はもとより終戦時の衛生部活躍の跡を尋ね、その業績を偲び世界に誇りうべき軍陣医学の真髄に触れることはまことに有意義である」と、書いています(参照:1973年6月19日、内閣委員会における横路孝弘委員の質問)。なお、七三一部隊所属歴がある自衛隊関係者としては、園田陸将の前任の衛生学校長である中黒秀外陸将ほか複数いることが、実名で政府委員より答弁で明らかになっていました。
横路委員の質問では、上記の「大東亜戦争陸軍衛生史」の第二巻の中に七三一部隊における凍傷に関する実験報告が出ているとの指摘もありました。その報告者の一人は戦後、京都府立医大学長を務めた吉村寿人と名指しされています。吉村は1930年に京都帝国大学医学部を卒業しています。吉村の研究班では、「虹波」の投与ではなく、民族による耐寒性の違いを調べるため、塩水に手を入れさせ水温を零下20度まで下げるなどして、異なる民族の人の手足に凍傷を発生させる実験を行ったとされています。
さらに、横路質問では「大東亜戦争陸軍衛生史」の第七巻には1月26日の熊本日日新聞の記事で氏名が出た北野政次部隊長についても触れられています。この北野部隊長自身が流行性出血熱の生体実験を行ったと記述されているようです。
菊池恵楓園入所者・長州次郎氏(山口県出身者であるための仮名?)の2015年の証言(三菱総合研究所ヘルスケア・ウェルネス事業本部まとめによる報告書)によると、1942年から「第六師団の結核の薬」という話で、宮崎松記園長の目の前で「虹波」を1日3錠飲まされたとありました。その他、注射や塗り薬などあらゆる投与方法を園長が試したことも証言しています。
宮崎は吉村と同じ京都帝国大学医学部の卒業ですが、卒業年は1924年ですので大学での接点はないようです。京都帝国大学医学部卒業の人脈と言えば、「虹波」の「波」に名前の一部が入る開発者の波多野輔久(1927年卒)もそうです。波多野は、1930年代に満州医科大学で写真感光増感用シアニン系感光色素を用いた研究を行い、これを体質改善薬として応用するという着想を得て、1939年に熊本医科大学教授に就任します。波多野輔久(はたの すけひさ)は、1930年代に満州医科大学で写真感光増感用シアニン系感光色素を用いた研究を行い、これを体質改善薬として応用するという着想を得ます。1939年に熊本医科大学教授に就任し、熊本で感光色素の研究を続けます。それが1941年、陸軍第七技術研究所の目に留まり、1942年12月から菊池恵楓園における臨床試験となっていきました。
しかし、虹波研究についての医療倫理上の問題点が指摘され、新聞報道で大きく取り上げられるようになってきたのは、2022年12月から。2010年代に行政が出した報告書が一部にあったにせよ、つい2年前からです(2006年に国立資料館の社会交流会館としてオープンした恵楓園歴史資料館に学芸員が配置されたのも2010年になってからです)。
「虹波」の人体試験をめぐる資料や証言、遺構は、戦争とリンクしたまさしく負の遺産そのものです。その厳粛な実相が指し示すのは、戦争で何が失われるのかという問いです。今を生きる人間は、その教え導きから平和堅持と人権擁護の正しい答えを出していかなければならないと考えます。
それと負の遺産と言えば戦争と同じく公害といった環境破壊もそうですが、ともすれば歴史は権力者側から見たものだけが残ります。権力者側にとって不都合な情報はたとえ残っていても個人情報保護を盾に非公開とされたり、被害者や研究者、報道機関が知らない間に廃棄されたりすることが懸念されます。そのためにも民間の戦争ミュージアムが熊本に必要だと感じています。