地獄の戦場参千粁

先月菊池市内で開催された「空襲・戦跡九州ネットワーク」の集まりに参加した際に、事務局の高谷和生さんから歩兵第二二五聯隊歩兵砲中隊初年兵戦友会が私家本として編集出版した『地獄の戦場参千粁』を頂戴し、さっそく読ませていただきました。同連隊は、旧日本陸軍の第三十七師団(本拠地は山西省に置く通称「冬兵団」、1944年4月からの大陸打通作戦参加時より防諜名「光兵団」)に属し、主に熊本県出身者からなる部隊です。記録をまとめた初年兵たちは1944年11月に熊本で入営し、中国に渡った後は先行して南下する本隊を追いかける形で行軍を続けます。最終的に初年兵たちは編入を果たせず、終戦をベトナムで迎えます(本隊はタイで迎えたので延べ8000km、日本一歩いた部隊の一つです)。ベトナムやタイからは終戦翌年に復員しますが、戦死者以上に戦病死者が多く合わせて1629名が命を落とすほど損耗が過酷だったと記録されています。
本書を読んで身近だった2人の人物を思い浮かべました。ひとりは6年前に亡くなった伯父です。亡伯父は、本書執筆者と同じく歩兵第二二五聯隊の通信中隊に所属していましたが、この方々より入営が早かったので終戦時はタイにいたようです。復員してみて終戦直前に実家が空襲で焼失していたことを知ったと聞いています。こうした例は本書に登場する初年兵の郷里でもあり、八代の王子製紙や水俣の日本窒素(初年兵の父が従業員で機関砲を受け亡くなったことも書かれていました)の空襲被害の話が触れられています。
そして、もう一人は、私と交流があった故・松浦豊敏氏。本書内に参考文献として同氏著の『越南ルート』が紹介されています。現在の宇城市松橋町出身の松浦氏は、私の伯父と同じく1925年(T14)5月生まれですが、入営したのは上記書執筆者の歩兵砲中隊の方々と同じ1944年11月でした。所属はやはり冬兵団の山砲兵第三十七連隊の初年兵で、終戦はベトナムで迎えられました。そのため、歩兵砲中隊の初年兵らと同じ船で復員されていたことを本書で知りました。松浦氏の場合は、入営までの経歴が特異です。旧制宇土中学卒業してすぐに山西省太原に渡り、山西産業に入社します。同社は鉄鉱・軽工業製品を扱う国策会社で、諸勢力の動静を探る特務機関でもあり、松浦氏は同社の特務課に所属していました。なお、同社の社長は張作霖爆殺事件の首謀者とされた河本大作です。『越南ルート』の初出は1973年刊の同人誌「暗河」ですが、2011年に石風社から出した同名の単行本に所収の自伝的小説「別れ」においてこの山西産業時代のことを描いています。
復員当時20歳前後の青年たちにとって「死」はすぐ傍にあり、しかもそれが国策で強いられたものであったことを命がけで日々体感したと思います。それだけにこの世代の方々のその後の人生の歩みを見ると、分野の違いはあっても、物事を所与のものとして捉えない精神が強靭だと思える面があります。いまさらですが、もっともっと学べることがあったのだろうと思います。