仁藤敦史著『加耶/任那―古代朝鮮に倭の拠点はあったか』(中公新書、900円+税、2024年)のタイトルを目にしたとき、最初に頭に浮かんだのは李恢成の小説『伽耶子のために』(正式表記は「耶」に人偏付き)でした。1984年に小栗康平監督作の同名の映画が公開され、岩波ホールへ2回も観に行った思い出があります。伽耶子役は南果歩で彼女のデビュー作だったと思います。
そんなわけでタイトルの語感に惹かれて読んだ本でしたが、存外面白い本でした。「本書は、古代加耶諸国の歴史を倭との関係を中心に、近年の文献・考古学の研究を踏まえ、新たな観点から記述したものである。」と、著者自身が本書あとがきに記していますが、確かに本書を読んでみると、文献史学や考古学という学問は歴史のファクトチェックを行い、史実を究める面白さがあるなと感じます。具体的には、記紀批判と呼ばれる作業、つまり外国史料・金石史、さらには考古学の発掘成果などとのクロスチェックが行われています。
加耶(かや)は、3世紀から6世紀にかけて、朝鮮半島南部の洛東江の流域に存在していた10数カ国の小国群を示す名称です。『日本書紀』では任那(みまな)と表記されることが多い諸国です。加耶諸国の資料は、6世紀に国が滅亡し、以後継承した国が存在しなかったため、まとまっては存在していません。朝鮮半島最古の官撰歴史書である『三国史記』が記述する高句麗・百済・新羅ほど、知名度が高くないのはそれも理由です。実際、日本の高校歴史教科書でも扱いが小さく、私にとっても馴染みがない名称でした。しかし、近年研究が進んで、同教科書に掲載されている6世紀の朝鮮半島地図はずいぶんと変更されています。
本書を読むと、たとえば『日本書紀』神功紀には、編纂者によって史実を120、180年古く遡らせて3世紀として描いている記事があると、指摘しています。一種の歴史修正主義といえなくもありません。これは古朝鮮の建国神話にもあることで、壇君神話がそれにあたります。神と熊の子である壇君が平壌城を都とし朝鮮と号したのは紀元前2333年にあたり、以後1500年朝鮮を統治しましたが、周の武王が朝鮮の地に殷の王族である箕子(きし)を封建したので、山に隠れて山の神になったと伝えられます。それが、北朝鮮では高句麗墓の遺骨を壇君として認定し、実在を主張しているのだそうです。さらには、加耶の盟主的なにも有力国だった金官にも建国神話があって、初代首露王は西暦42年に卵から生まれたと伝わります。しかも金の卵から生まれたので金氏を称しました。
しかし、本書の醍醐味は、本書の終章にある「本書では、国家・国境や国籍など現在の国民国家的な立場を前提とした解釈ではなく、両属的、あるいはボーダーレスな立場の人々がいたことを、史料から実証・解釈し強調している。」の通り、さまざまな人々の存在を知ったことにあったと思います。加耶があった時代に、当地の日本府には倭からの使者、倭系の在地豪族集団がいましたし、百済には倭系百済官僚(その先祖が栄山江流域の前方後円墳に埋葬されている?)もいました。逆に倭にも加耶や百済から渡来した人々がありました。政治・経済・文化への影響も大きいものがあります。交流の歴史が古代からあったことを考えると、あんまり固定的に物事を考えるなと、その当時の人々から言われている気もします。
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