本日(9月12日)放送回のNHK朝ドラ「虎に翼」では1970年3月に公害訴訟における過失論の新たな法解釈が最高裁で検討されている場面が出ていました。それと、9月9日放送回の1969年1月と9月12日放送回の1970年3月に出たTVニュースを伝えるアナウンサーの氏名が「宮沢信介」となっていました。
1969年と言えば、水俣病第1次訴訟が熊本地裁に提訴された時期。当時熊本大学助教授の富樫貞夫氏が裁判における原告支援のため、新たな過失論の構築に着手していましたし、NHK熊本放送局勤務の宮澤信雄アナウンサーが水俣病を積極的に取材し、日本全国に向けた朝のニュース番組「スタジオ102」において現地リポートしていました。そのこともあって、水俣病事件に深くかかわる富樫貞夫氏(熊本大学名誉教授・一般財団水俣病センター相思社前理事長)と宮澤信雄氏(2012年に76歳で死去)の業績が、頭に浮かびました。
水俣病第1次訴訟は、1973年に原告勝訴の判決(確定)を得ますが、それには1969年9月に結成された水俣病研究会に、法律学者としてはただ一人参加した富樫貞夫氏の貢献が、大いにモノを言いました。当時の不法行為の過失論は、結果発生に対する予見可能性があったかどうかによって過失の有無も決まるという考え方が支配的でしたので、チッソはそれに依拠して自己の無過失を主張することができました。そのため、従来の過失論を再検討して水俣病裁判に適合した新しい理論を構築することが、富樫氏にとっての課題でした。
同氏の著書『水俣病事件と法』(石風社、5000円+税、1995年)によれば、思想の転換のきっかけは、1969年11月発行の「朝日ジャーナル」掲載の座談会「農業の人体実験国・日本」における原子物理学者・武谷三男氏の安全性の考え方についての発言にあったと言います。それには「農薬に限らず、薬物を使うときは、無害が証明されない限りは使ってはいけないというのが基本原則。有害が証明されない限り使ってよいとはならない。」旨の言葉がありました。同じころ、工場廃水処理に関する米国の標準的な教科書(邦題『水質汚染防止と産業廃液処理』原書1955年刊)にも出合ったこともあり、注意義務を「安全確保義務」として理論の再構成したとあります。そして裁判ではその理論で企業の過失責任を問い、被告を糺していきます。
1973年の熊本地裁判決では、危害を予知・予見できなかった以上無過失とするチッソの考え方を、次のように批判しています。「被告は、予見の対象を特定の原因物質の生成のみに限定し、その不可予見性の観点に立って被告には何ら注意義務違反がなかったと主張するもののようであるが、このような考え方をおしすすめると、環境が汚染破壊され、住民の生命・健康に危害が及んだ段階で初めてその危険性が実証されるわけであり、それまでは危険性のある廃水の放流も許容されざるを得ず、その必然的結果として、住民の生命・健康を侵害してもやむを得ないこととされ、住民をいわば人体実験に供することを容認することにもなるから、明らかに不当といわなければならない」。きょうの「虎の翼」の背景にはこのような現実のドラマがありました。
もう一人の宮澤信雄氏は、NHKアナウンサーとして水俣病を報じただけではなく、個人として長年にわたり事件史研究と患者支援を続けてこられた方です。熊本放送局に赴任したのは、1967年ですが、水俣病と出合ったのは初めて取材した1968年からでした。この社会の不条理に衝撃を受けた宮澤氏は、1969年4月、水俣病を告発する会(代表・本田啓吉氏 当時熊本第一高校国語科教諭)に参加し、同年9月結成の水俣病研究会にも同僚技術職員の半田隆氏とともに参加します。そして、前述の富樫氏らと水俣病第1次訴訟を理論面で支援していきます。熊本勤務は異例の10年間(1977年まで)に及び、その後は静岡、秋田、京都、大阪、宮崎と転勤しながらも熊本・水俣へ足を運び研究と支援を続けました。1997年に葦書房(現在廃業)から『水俣病事件四十年』という著書も刊行されています。研究会や同氏の蒐集・旧蔵資料は、下記の機関が保管しています。
熊本大学文書館水俣病研究会資料
http://archives.kumamoto-u.ac.jp/inventory/Minamata/MD_240523.pdf
熊本学園大学水俣学研究センター水俣病研究会蒐集資料
https://gkbn.kumagaku.ac.jp/minamata/db/index3.php
熊本学園大学水俣学研究センター宮澤信雄旧蔵資料
https://gkbn.kumagaku.ac.jp/minamata/db/index4.php
本日の「虎に翼」では、家裁の父である多岐川が「法律っちゅうもんはな 縛られて死ぬためにあるんじゃない。人が幸せになるためにあるんだよ。」と語った回想シーンを流していました。それを実効性あるものにするためには、やはり富樫貞夫氏や宮澤信雄氏のように最初から最後まで闘い続ける人間がいてこそです。ハシクレでもいいから私もそうありたいと思います。