渋沢栄一の熊本に対する109年前の「愚見」が面白い

肥後銀行本店1Fの「肥後の里山ギャラリー」において開催中の「新しいお札とお金の歴史」展の会期が9月14日までなので、本日熊本市内へ赴いたついでに観覧してきました。展示のメインは、新千円札の肖像に採用された北里柴三郎についてで、それはそれで初めて知ったことがあり、興味深いものがありました。しかし、それよりも新一万円札の肖像に採用された渋沢栄一の、1915年(大正4年)10月6日に熊本県議事堂で開かれた歓迎会のときの発言が、より印象に残りました。今から109年前、当時75歳の第一銀行頭取である渋沢栄一は、同行熊本支店の開設披露に際して2度目のそしてこれが最後の来熊を果たしています。
このときの発言の一部がパネル展示されていましたが、その全文は公益財団法人渋沢栄一記念財団のデジタル版『渋沢栄一伝記資料』からも閲覧できます。渋沢栄一本人によると「我邦実業並に当熊本に対する愚見」(後掲)ということになりますが、なかなか面白いものがありました。
ひとつは後年公害企業となるチッソの前身・日本窒素肥料への言及です。同社自身の水力発電で賄った電気を利用して「空中の富」(=空気中の窒素成分を指す)から肥料を製造する化学工業への関心が高く、国策としても推進していることを熊本の名士へリップサービスしています。一方で、工業に重きを置くだけでなく、三池のように「地下の富」(=石炭を指す)はなくても「地上の富」(=米など農産物を指す)を産出する農業にも重きを置くよう述べています。米価の調節については市場経済に任せるべきであって、幕府時代の町奉行のように官吏に任せると失敗すると断言しています。言外に官吏の人智は人民よりも利口ではないと、その硬直性を指摘しています。
109年後の熊本でも工業と農業の両立が課題であり、農水省の備蓄米の扱いが論議を呼ぶなど、構造的には変わらない点を連想させられました。
【以下、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第50巻 p.105-106】
「従来御当地に事業関係を有ちませなんだ関係からしまして、御交際も薄かつた為めに、実際清正公と細川侯と肥後米に依つて御地を知つて居たと云ふに過ぎなかつたのであります、今日の熊本は全く面目を一新したと申して宜しからうと思ひます、現に私の関係ある九州製紙会社の如き、異常なる拡張の機運に向ひ、又日本窒素肥料会社の如き、豊富なる水電の動力を利用して農産物に関係の多い、肥料を製造して居りますが、之は空中の富を集めると申しても余り誇大な言葉ではなからうと思ひます、斯く事業を進むるは何れの向きも其途に依つて意を用ひましたならば、未だ種々有るだらうと思ひます、御当地は石炭の如き地下の富はないが、地上の富はある、即ち肥後米の如き夫れである、今は米の値段が安いので御地では一層お困りでしやうが、米の相場の高低の大なるは大に注意せざるべからざる問題であります、そこで応急の米価調節策も行はれ、今亦調査会組織せられ、私も其委員の一名たるべき内交渉に接したのでありますが、之は頗る重要問題で全国に取て考究すべきことでありますが、富を出す実業の進歩は一方面のみではドウモ行きませぬ、農業に進むか工業に走るか、一方計りを重んじて他を忘れることは不可であります、熊本は工商の方面に付いては或は一足後れて居つたかも知れんが、幸に二三の有力なる工業の発達を見つゝあるのは頗る喜ぶべき事であります、今や時勢は化学工業を重んずる時代に進みつゝあります、粗より精に入るは物の常であります、此の化学工業のことは議会の問題にも出で、染料会社の如き政事上より其の成立を応援することになつて居ります、昨日三池の炭山を視察しましたる節、コークス製造場を見まして、アニリン染料等、副産物製造の概況を模型により、技師の説明を求めて帰りましたが、斯の如き緻密なる工業にお互に注意せなくてはならないと思ひます、御当地に何が生ずるかは只今申上げることは出来ませんが、御注意になると何か事業があるかと思ひます。
最後に申添へたい事は米であります、此米に対して当県下では倉庫制度が行はれて居ります、此事には大に考究して此倉庫証券と金融とを結付けて、安全に信用が置ける様になると米価調節上此上なき策であります、幕府時代では米の相場を、町奉行所より触れて調節を政治上よりしたが、之は武断政治より来たのであります、此時代には左迄の害もありませんでしたが、今日の如き世界に、昔風の調節策を人智に依つて為さんとするは大なる誤りであります、官吏になれば人民よりも利口になつたと云ふ考へが出るが、之で行くといつも失敗であります、米価の調節策としては前も申したるが如く、当地の米券倉庫制は此の上なき策でありまして、自然と自家の節制を計り、余り安いと思へば売らない、自己の考へによりて調節し、誠に立派なことでありますから、考究したらば安全にして充分融通し得るのであります、尚今日は申上たい事は数々あります、即近い内亜米利加にも旅行しまするし、昨年支那にも旅行しましたから、其話もしたいのでありますが、先程申しました次第で長時間のお話をすることが出来ませぬので、御礼の為め一言申上げた次第であります。」