「高輪築堤」観覧メモ

「日本を拓いた鉄の道 高輪築堤」観覧メモ
佐賀県立美術館で開催中の特別展「ジパング 平成を駆け抜けた現代アーティストたち」の観覧が第一の目的で佐賀市を訪ねた旅でしたが、沿道からすると美術館に隣接して手前に位置する佐賀県立博物館が否応なく目に入りますし、観覧無料ということもあって、博物館1Fの「日本を拓いた鉄の道 高輪築堤」の展示も観てきました。高輪築堤とは、1872年に開業した日本初の鉄道である新橋-横浜間の海に築いた線路を通すための堤です。この築堤には佐賀出身の大隈重信が陣頭指揮にかかわりました。大隈の活躍を映像劇で伝えているほか、屋外には遺構の再現展示もなされています。
佐賀市中心部では明治維新の際に活躍した地元佐賀出身の人物像が設置されていてよく目にしました。こういう顕彰の仕方は九州では鹿児島市中心部でも見かけます。中でも大隈重信に対する佐賀の人たちの思いは相当の強さを感じさせられます。当展には江戸時代後期から明治時代に至る佐賀藩と全国の動きを表した年表も展示されています。その年表の中には「佐賀の七賢人」の名前と生没年が記されています。ちなみに、7人の名前は、鍋島直正(藩主)、島義勇(秋田県権令)、佐野常民(ウィーン万博副総裁、大蔵卿)、副島種臣(外務卿)、大木喬任(民部卿、文部卿、元老院議長)、江藤新平(司法卿)、大隈重信(大蔵卿)です。江藤と副島は1873年の政変で下野します。江藤や島は佐賀戦争で1874年に処刑されます。佐野は1877年の西南戦争に際してのちの日本赤十字社となる博愛社を設立しています。大隈は1881年の政変で下野します(その後、現在の早稲田大学の創設や2度の総理大臣就任もあり)。こうしてみると全員がずっと権力の中枢に居座ったわけではありません。賢人でありながら不遇な運命を辿った人物もいて、その名前を忘れまいとする愛郷精神の風土があるように思えました。わが熊本ではこういう文化はないように感じます(あるとすれば全県的なものではなく出身地周辺の狭いエリア限定?)。
それと、私もこの年表で初めて知ったのですが、佐賀県は1876~1883年の時期、長崎県に編入されていました。分離独立して141年ということですが、もしも編入されたままなら、西九州新幹線の佐賀県区間の工事がもっと進んでいたのではと勝手に想像します。
とにかく佐賀の県民性を垣間見た興味深い展示でした。