「風よ あらしよ」は見て損はない

先日、本渡第一映劇まで「ほかげ」を観に行ったおりに予告編で「風よ あらしよ 劇場版」を知りました。熊本県内では2月16日からDenkikanで公開されるということでしたので、さっそく初日に鑑賞してきました。
この映画は、大正時代の女性解放運動家の伊藤野枝の生涯を描いたものです。彼女の最期は関東大震災後の混乱のなかでパートナーの大杉栄とともに憲兵大尉の甘粕正彦らの手によって殺害されるという悲劇に見舞われていますが、なんといっても100年前のことですし、あまり一般には知られていない人物かもしれません。私もどちらかというと、故・松下竜一さんの著書『ルイズ 父に貰いし名は』の影響もあって、大杉栄と伊藤野枝の遺児で1996年に亡くなられた伊藤ルイさんの活動についての方が、松下さんとルイさんが共に九州在住ということもあり、見聞する機会が多かったように思います。
ところで、映画作品についての感想ですが、安直な物言いですが、見て損はないと思いました。人間としての尊厳や自由について考えさせられますし、男性視点からするとなんだかんだいって女性のことを理解できてないダメさ加減をこれでもかと突きつけられる思いを受けます。映画の中で、足尾鉱毒事件における谷中村の棄民政策について大杉栄が「自分の原点」という意味合いの言葉を発しますが、どこかの県知事がやはりある公害事件を「政治の原点」といっていたのを連想し、軽々しく「原点」という言葉はつかえないなと思いました。
ほかにも「センチメンタリズム」「奴隷」「権力のイヌ」というキーワードが印象に残りました。ロシアや中国といった権威主義国家の外へ出て自国内にいる同胞へ発言を続ける知識人が数多くいますが、彼らが現在置かれている立場に近いものも感じました。
一方で、前述の「原点」に関連するのですが、差別の問題についていえば、やはり軽々しく理解した気に陥るのも危ないのではないかと思います。今読んでいる本は、中国系ベトナム人難民の娘としてオーストラリアで育ち、現在は米国の大学で哲学の教員をしているヘレン・ンゴ(呉莉莉)氏の『人種差別の習慣 人種化された身体の現象学』(青土社、2800円+税、2023年)なのですが、なかなか難解です。人種化する眼差しを持っている人はたいてい差別する意図はないと語りがちですが、身体行動には差別の現象があります。それを人種化される眼差しを受ける人は差別として確実に感じ取ります。世界をいかに解釈し、世界をいかにより良きものに変えていくか、それこそが哲学の役割なのですが、いつの時代も世界のどこでも課題はつながっているという思いもしました。