昨日熊本市内へ出向いた際に文芸誌「アルテリ16号」を買い求めました。今号は「渡辺京二追悼号」となっていて、購入の最大の理由は執筆者・談話者の中に何度もお目にかかったことのある方たちの名前があり、それが読みたかったことに尽きます。たとえば、掲載ページ順に、松下純一郎さん、磯あけみさん、阿南満昭さんです。
渡辺京二氏の死去間もない時期に新聞各紙にさまざまな方々による追悼文が掲載されました。しかし、それらのどの文章よりも「アルテリ」に載っている追悼の言葉の方が、読んでみて(表現は適切ではないかもしれませんが)面白く感じました。特に上記に名前を挙げた3人の文章・談はそうでした(逆に、他の全国的に著名な方々のそれはそうでもありませんでした)。
これは、なぜかと考えたときに、新聞紙上での文章は普遍性が求められるので、故人の業績紹介に重きが置かれて、どうしても故人から筆者の人格形成に受けた影響はそのエピソード情報も含めて文量が少なく、後景に追いやられてしまいます。それと、故人の名誉を慮りどうしても非の打ち所がない人物として持ち上げられ過ぎてしまいます。言うなれば、当たり障りなく上品な仕上がりになってしまいます。
「アルテリ」の場合は、新聞と比べてかなり身近に接した経験を持つ執筆者・談話者が、故人の社会常識から逸脱した側面も明らかにしていますし、故人から受けたきわめて私的な影響が詳らかになっています。結果的に故人に対する新しい視点や理解の深まりが得られた気がします。阿南さんが語るように「困った人だった」だからこそ、歴史が作られた点も確かにあります。
私自身は、渡辺京二氏についてお姿を見たことはありますが、ほとんど著書や伝聞でしか知りません。字面を通じた影響には感謝していますが、こういう気性が難しい方とはナマでは付き合いたくないときっと感じたことだろうと思います。