1984年から2019年に凶弾に倒れるまで、アフガニスタン東北部で医療活動と灌漑事業のプロジェクトを推進した中村哲医師の活動と、その国際政治における意義について、昨日の投稿で触れた藤原帰一氏ほか編著の『気候変動は社会を不安定化させるか』(日本評論社)の最終章で取り上げられています。気候変動と水資源をめぐる政治環境を知れば知るほど悲観的になりがちですが、中村医師が果たしたアフガニスタンでの事例を知ると、地道な平和・相互扶助の理念に基づく活動にこそ、希望を見出すことができます。
実際、歴史を振り返ると、アフガニスタンは「帝国の墓場」でした。大国による軍事的制圧は、1919年(第三次アフガン戦争)の英国、1979~89年のソ連、2001~21年の米国と、ことごとく頓挫しています。一方、中村医師の活動はもっぱらペシャワール会の会費や寄付金で賄われ、予算の90%以上が現地での実際の活動費に充てられました。現地で水資源開発・灌漑工事に従事した人たちはほぼすべてが地元住民や帰還難民であり、彼らの収入が向上しました。灌漑農地の増加により農業生産も増え、それによる収入も増やすことができました。このプロジェクトがなければ、軍閥や米軍の傭兵になるしかなかった人々に生活の糧をもたらし、地域の治安安定に寄与しました。それと、もう一つは教育施設の建設です。教育の機会提供という形での福祉の実現にも貢献しています。このような事業が日本人への信頼につながり、結果として軍事によらない日本人の「安全保障」になると、福岡市にあるペシャワール会事務局長で出版社・石風社社長の福元満治氏も語っています。
その福元氏ですが、1月10日の熊本日日新聞に「渡辺京二さんと私」を寄稿しておられます。同氏は、もともと福岡市にあった葦書房の社員として故・渡辺氏の文芸誌「暗河」の編集出版にかかわっておられました。故・渡辺氏を「ある意味リベラルな日本知識人の典型」と本稿で評しておられましたが、中村医師についてもそう言えるのではないかと思います。
さらに言えば、平和を国是とする日本人に対する信頼を国際的にも広めたという意味で、たいへん稀有な人を亡くした損失はあまりにも大きかったと感じました。