月別アーカイブ: 2026年9月

『モノに宿る真実』読書メモ

8月30日の熊本日日新聞読書面で、スポーツライターとして著名な澤宮優氏が、戦争の記憶を継承する著作(『モノに宿る真実 あなたの隣りにある戦争の記憶』弦書房、1800円+税、2026年)を刊行しているのを知り、さっそく読んでみました。同氏の新聞寄稿をこれまで何度か目にした覚えはありますが、著書を手にするのは初めてとなります。著者が宇土高校時代に「社会部」という考古学の部活動に参加していたのも同窓の縁で知っていましたが、進学した大学でも考古学を専門に学んだということは本書で知りました。同書の著者プロフィール紹介には「文化財保存全国協議会員」「肥後考古学会員」とあり、現在もその専門分野とのかかわりが深いことがうかがえます。
さて、本書のタイトルを象徴するのは、奈良県香芝市の屯鶴峯地下壕跡について触れた第三章の部分だと思います。この地下壕は、陸軍航空総軍司令所として使用するため、アジア・太平洋戦争末期の1945年6月に作られた戦争遺跡です。著者はこれを「戦争(戦跡)考古学」の視点から後世に伝えるべきと考えています。第四章では、広島市のサッカースタジアム建設が優先され、2021年に発掘された中国軍管区輜重兵補充隊施設の被爆遺跡の大部分が破壊された問題を批判的に取り上げています。
著者の姿勢は、あとがきの以下の部分に記されています。「これからは歴史を正しく伝えることの重要性がさらに増してゆくということである。近い未来に戦争体験者から証言を得ることは不可能な時代がやってくる。モノを通して戦争の真実や戦時下での人々の暮らし伝える方法が主流になる。しかしこれが政治的な力や時代の空気で別の歴史物語が作られていく心配もある。(中略)モノはありのままの真実を伝えもするが、何も言わない。だから目を光らせる必要がある。何かそこに秘匿されていることはないか、都合の悪い史実に触れずにいるのではないか、それを見逃さないことである。」(p.239)。さらにスポーツライターらしい表現(元ネタは水上勉の子息で無言館館主の窪島誠一郎氏)もあります。「(1964年生まれの著者を含む)私たち世代は戦争体験者からの話を聞いている。戦争体験者が外野手であれば、そのボールを内野で受け取り、ホームにいる次世代の人たちに投げる。私たちカットマンの責任は大きい。まずしなければいけないのは、モノから歴史を学ぶとき、秘匿や改ざんをあきらかにすることで、正しい歴史の真相を多くの場に伝えなければならないということである。」(p.241)。
冒頭紹介したように、澤宮氏は宇土高校卒業生ですが、本書の第一章では宇土高校の前身の旧制宇土中学を卒業した谷口睦生と美術教師だった佐久間修について記されていますので、同窓生にはぜひ知ってほしいと思いました。まず、現在の八代市鏡町出身の谷口睦生は、大学生時代の1936年ベルリン五輪に出場した陸上短距離ランナーであり、当時の200m走直走路の日本記録保持者(21.2秒)でしたが、兵役に取られて1943年10月2日にブーゲンビル島付近で戦死しています。なお、200m走は1968年以降、曲走路が公式記録となったので、現在も谷口の記録が直走路の日本記録となっているそうです。文政小の北隣りの八代市総合グラウンド正面には谷口の銅像が今も建っていて、八代陸上競技選手権大会には「谷口睦生杯」の冠名が残されています。次に、佐久間修は勤労学徒を引率した先の長崎県大村市で1944年10月25日、空襲に遭い命を落としました。妻の静子さんを描いた作品が長野県上田市の無言館に保管されています。佐久間は世界的に有名な版画家・浜田知明と同郷(御船町)・同窓(旧制御船中学、東京美術学校)であり、交流があったことも本書で示されています。戦後、北九州市で暮らした妻の静子さんは行政書士の資格を取って収入を得て子どもを育てたとも書いてありました。
最後に、出版社の編集者が気付いてやれよというレベルの、記述の誤りと違和感をメモしておきます。佐久間の引率先が「第二海軍航空廠」(p.55とp.56の2か所)となっていますが、正しくは「第二十一海軍航空廠」です。第二は千葉県木更津市、第二十一は長崎県大村市に設置されていました。本書には、旧満州や朝鮮半島からの引き揚げ者の歴史についての記述がありますが、「引き揚げ者は、ソ連や中国などの侵略に晒されたので犠牲者も多い。」(p.65)という部分も適切ではないと思いました。旧満州は実質的に日本が中国から収奪した植民地でしたから、ソ連(および衛星国のモンゴル人民共和国)の対日(満)参戦は侵攻といえます。しかし、日中間の戦争は日本による中国への侵略であり、その逆ではありません。日ソ戦争の全体像は、麻田雅文著の『日ソ戦争』(中公新書、2024年)が良好なテキストになると思います。
※9月2日の西日本新聞朝刊にも関連記事が載ったようです。
https://news.yahoo.co.jp/articles/b788b4a9f97c27305a81f09bfd9ea9e5aebe58f9
※9月12日の読売新聞オンラインに熊本地震後に実家を訪ねた澤宮氏についての記事がありました。
https://www.yomiuri.co.jp/local/kyushu/news/20260912-GYS1T00031/

海外に開かれた熊本の歴史

くまもと文学・歴史館10周年記念佐藤信館長講演会「海外に開かれた熊本の歴史」を9月12日聴講してきました。海外交流というと、人の移動手段が発展してきた近現代をイメージしてしまいますが、この講演では古墳時代から語られました。その時代の九州は中国文明、ことに漢字文化が伝わる玄関口であって、それを示す出土品などの存在について学ぶことができました。
講演の中で紹介された一部の情報に関連情報を付加して以下に示します。講演では中世、近世、近代の歴史についても語られましたが、下記では割愛します。
○江田船山古墳出土銀象嵌銘大刀…1873(M6)年、現在の熊本県和水町の江田船山古墳から出土。同年、東京国立博物館で保管された(窒素で錆を防ぐドイツ製のケースに現在保管されている)。刀身のみねの部分に銀象嵌の銘文がある。その内容からワカタケル大王(雄略天皇)のヤマト王権が肥後の地方豪族と連携して支配領域の拡大を進めた様子(5世紀後期)がうかがえる。当時は漢字を扱えること自体に呪力があったと考えられ、「長寿である」とか「支配権が安泰」であることを意味する文言が書かれている。渡来人とみられる「張安」の名が書者として刻まれている。
https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=J573
○日羅(にちら)…6世紀の百済王威徳王やヤマト王権の敏達天皇の外交顧問。父は肥後の地方豪族火葦北国造(ひのあしきたのくにみやつこ)刑部靱部(おさかべのゆげいべ)阿利斯登(ありしと)。『日本書紀』によれば、日羅は父とともに百済に渡って育ち、威徳王に仕えたのち、来日。朝廷へ百済に不利な内容を奏上したため、百済人によって難波で暗殺された。現在の八代市坂本町百済来に日羅の墓とされるものがある。
http://kumamoto-midori.com/rojumeiboku/100/100_detail.html
○浄水寺跡石碑…熊本県豊野町の浄水寺跡に奈良・平安時代の古代石碑群4点がある。延暦9年(790)南大門碑、延暦20年(801)燈籠碑、天長3年(826)寺領碑、康平7年(1064)如法経碑からなる。仏教とともに古代肥後へ漢字文化が広まったことを示す。
https://www.city.uki.kumamoto.jp/hihyoji0/hihyoji/2267777
※写真は、講演受講帰りに見た風景(砂取橋、水前寺児童公園、サクラマチクマモト)。

『調査票のなかの「戦争」』読書メモ

『調査票のなかの「戦争」 京浜工業地帯の労働者一万四千人の記録から』(勁草書房、3000円+税、2026年)の著者・渡邊勉さんが同書をめぐって報告する「第51回空襲オンライン学習会」(9/26開催)に参加予定なので事前に読んでみました。本書は、横浜・川崎の事業所に勤務する労働者1万4千人を対象にした1951年実施の調査データを数理・計量社会学の手法で分析し、回答者のライフコースを描き出した稀有な著作です。年齢・学歴・職歴・居住歴・結婚歴・家族構成・戦争経験(徴兵・引揚・戦災)などさまざまですが、「戦争とは人びとを選別するシステムである」と結論付けています。たとえば、地方の農民出身者ほど前線へ送られた経験をもつ者が多く、逆に高学歴の軍需産業の技術者ほど前線へ送られた経験をもつ者が少ないといったことが解析できています。戦争で夫を亡くしたり婚期を逸したりするなど、女性労働者の生活にも大きな格差が生じました。戦争による影響は、回答者の子孫の世代にもおそらく格差をもたらしたのではと思います。しかし、何よりも終戦から6年後の調査であるため、当然のことながら戦死あるいは戦災死した者たちの記録はないわけで、死者の声を聴けないことにも思いを向けなくてはならないと感じました。

新聞記者のあるべき姿

岩波書店発行の『世界』(2026年10月号)に熊本日日新聞記者の植木泰士氏が、「巨悪よりも厄介な──陸自「思想調査」報道」(p.41-43)として陸自中央情報隊隷下の「現地情報隊」が民間人の思想調査活動をしていた事案報道の経緯を書いているのを読みました。この報道のきっかけは、植木記者あての電話だったと明らかにされていました。同記者の元には今回の件に限らずさまざまな組織の不正・不適切事案の情報が日頃から寄せられているとのこと。それだけ頼りにされている存在だということがうかがえます。陸自「思想調査」スクープ第1弾は今年7月23日の紙面ですが、記事にするまでの裏取りには1年かけたと別の動画では語っています。防衛大臣は報道内容について「確認されていない」の一言で済ませて文民統制の責任を果たすつもりがないありさまです。記者ならびに同紙の追及を期待しています。

関連YouTube動画(チャンネル名/配信日/タイトル/リンク先URL)
○『荻上チキ・Session』TBSラジオ 2026/8/5
植木泰士「陸上自衛隊の不適切な情報収集問題〜熊本日日新聞のスクープを取材報告」/熊本地震
https://youtu.be/AnJfrChL8ZU?si=7ENNmeGerTUV5KT1
○Dialogue for People 2026/8/19
植木泰士さん「自衛隊と『民主的統制』」Radio Dialogue 274(2026/8/19)
https://www.youtube.com/live/Oe-wLs7TPeM?si=cvX4OI849eEagetv
○SlowNews / スローニュース 2026/8/21
【18時30分より生配信 SlowNews Talk】陸自の情報隊が大学教授やNPO代表の思想信条の情報を秘密裏に調査していた! 国家を震撼させるスクープを書いた熊日の植木記者に聞く
https://www.youtube.com/live/Ht3GutGWIzc?si=AkOC4r7MlyKjpzGr
○望月いそことオッカ君チャンネル 2026/8/24
熊日の植木泰士記者が暴く!!独占スクープ「陸自、民間人の思想調査か」驚愕の41項目にわたるリストの正体とは?自衛隊の監視社会化と現代の「法の支配」崩壊の危機を望月衣塑子とオッカ君が徹底解説。
https://www.youtube.com/live/e76HZ4K9Sow?si=0LyPCatPcx1GrXJ1
○『荻上チキ・Session』TBSラジオ 2026/8/26
【特集】陸自の個人情報収集~熊本日日新聞の記者の報告とその問題点(植木泰士、木村草太)
https://youtu.be/6NvXmERi_IY?si=cwWRtr26HOMqOMY_

82年前の不発弾か

8月17日に長崎県大村市の郡川河川敷(福重橋付近)で発見された不発弾の処理作業が、9月6日、無事終了したとの報道がありました。今回発見処理されたのは、アジア・太平洋戦争期に米軍が使用していた250キロ爆弾と判断されています。米軍側での呼称は、「500ポンド通常弾 (AN-M64)」とされ、主にB29爆撃機などから投下されました。戦時中の大村市は第21海軍航空廠(現在の長崎空港の対岸)や海軍航空隊基地(現在のサンセット通りの西側)がある軍産都市であり、たびたび米軍機による空襲を受けました。うち5回の空爆で250キロ爆弾を使用したことが米軍側の記録に残っていますが、中でも大規模な空爆だったのが、1944年10月25日の「大村大空襲」でした。この日の攻撃では360発の250キロ爆弾が投下されています。さらに焼夷弾が初めて使われたのもこのときでした。この空襲での人的被害は死者300名以上、重軽傷者500名以上とされています。特に第21海軍航空廠では死者272人(うち、動員学徒70人)を出しました。その海軍航空廠跡地での最後の慰霊祭が昨年行われ、遺族の高齢化で主催団体も解散しています。
建物被害の一つとして今回の不発弾発見場所の近くにあった福重国民学校(現・福重小学校)の校舎焼失があります。この場所は第21海軍航空廠や海軍航空隊基地からは北方向に離れていますが、付近には米軍機を迎撃するための戦闘機部隊「草薙部隊」(1944年8月新設)や「皆同砲台」もありましたので、福重橋とともに攻撃目標となったかもしれません。福重国民学校が立ち退き移転した跡地の郡川北岸に、1945年5月、福重飛行場が急ごしらえで造られましたので、戦争末期の空襲なら同飛行場が標的となった可能性もあります。
結論としていつ投下された爆弾の不発弾だったのか特定できませんが、大村大空襲のときのものである可能性も排除できないと思います。慰霊祭という形で遺族(ヒト)による記憶の継承の場が開かれなくなっても、このたびの不発弾(モノ)が戦争の歴史を忘れるなというメッセージになったと受け止めています。

『戦争の世紀を読む』読書メモ

佐藤卓己著『戦争の世紀を読む――ナチズムと帝国日本を超えて』(岩波現代文庫、1600円+税、2026年)は、ドイツ現代史からスタートした日本メディア史の研究者による書評集であり、総力戦と国民支配(自発的協力体制づくり)を理解するためのブックガイドと言えます。収録された書評の初出時期は1991-2026年、評者の年齢が30-65歳の期間となります。評者と私は同世代とあって、書評が執筆された時代の雰囲気・体感(異世代との関係性を含む)をよく知るため、心なしか内容がすんなり入って来る感じを持ちました。
ところで、興味深いのは、収録された書評対象本の大部分が、評者自身が選んだのではなくて依頼原稿のために、つまり書評のために読んだという点です。それと、「あとがき」で著者が自身の書評を振り返り「35年間であまり進歩があったようには思えない。ただ、私は人類の進歩など信じない歴史家なので、それは以て瞑すべしなのだろう」と書いていた点が意外でした。私自身もここ35年間で何か進歩があったかと問われれば、自信はありません。それより気になるのは、年齢を重ねるごとに残りの人生は確実に短くなっていくので、できることなら読むに価する本だけに出合いたいという思いが強いです。読んでみないと、つまりある程度無駄読みしないと、その機会が生まれない点も重々承知しています。だからこそ、良き書き手へ誘ってくれる良き読み手の存在は、ありがたい限りです。
以下はメモ情報です。
○オイゲン・コーゴン『SS国家――ドイツ強制収容所のシステム』(ミネルヴァ書房、2001年)……収容所内の特権囚による自主管理システムについて書かれています。「過酷な生存競争の中で誰もが望む利権を手にした特権囚は、自分の地位=生命を守るためにはどこまでも冷酷にならざるを得なかった。収容者の憎悪をナチではなく同じ収容者に向けさせた自主管理システムの恐ろしさは、被差別者がより冷酷な差別者となる現代社会の多くの事例に見ることができる。」(p.60)
○ルドルフ・ヘス『アウシュヴィッツ収容所』(講談社学術文庫、1999年)……捕虜銃殺の汚れ仕事を担った親衛隊兵士たちには飲み放題のアルコールが支給されていましたが、精神的負担に耐えられず発狂したり自殺したりする者も多く深刻な問題であったと書かれています。そのため、収容所では精神を荒廃させる行為から親衛隊員が遠ざけられました。「そこでヘスが考え出した悪魔的なシステムが、ガス室や死体焼却炉の作業をまかされたユダヤ人「特別部隊」の利用である。遺品を分類し、死体から金歯を抜き取り、灰を処分した彼らは、秘密保持のため約4か月ごとに用心深く抹殺された。」「ユダヤ人自身に残忍な任務を押しつけることで、犠牲者自身に罪の重荷を移転したのである。自分たちの代わりに非人間的な汚れ仕事を行ってくれる特別部隊に対して、親衛隊はある程度仲間意識さえ感じていた。「仕事」の合間に、親衛隊警備チームとの間でサッカーの試合さえ行われている。」(p.68)
○林芙美子『戦線』(中公文庫、2014年)……本書は、1938年9月19日から10月28日にかけて陸軍(第六師団)の漢口攻略に随行したときの朝日新聞社発行の従軍記などの復刻版です。林は内閣情報部が組織した「ペン部隊」に自ら望んで参加していましたし、従軍記掲載の契約を交わしていた朝日新聞社が取材に協力していました。1938年当時、東日・大毎(毎日新聞社)の発行部数は285万、東朝・大朝(朝日新聞社)のそれは248万でした。その後、朝日の戦争報道が優り、1941年には部数が毎日を抜いています。「文壇での成功に新聞社を利用した女性作家があり、彼女の野心を部数拡大イベントに利用した新聞社があったというだけだ。その共犯関係は明白である。」(p.186)と評者は記しています。
○山之内靖/J・ヴィクター・コシュマン/成田龍一編『総力戦と現代化』(柏書房、1995年)……「総力戦が格差是正、つまり社会的平準化を必然化させるのは、大衆に戦争への主体的参加を求めるためである。」(p.151)という指摘からは福祉国家の顔はファシズム国家でも覗かせることがあるという歴史が学べる思いがしました。
○若桑みどり『戦争がつくる女性像――第二次世界大戦下の日本女性動員の視覚的プロパガンダ』(ちくま学芸文庫、2000年)……「市川房枝ほか「進歩的」女性指導者たちが、戦時動員を女性の社会参加の機会と信じて、積極的に戦争協力を行った事実も指摘されている。」(p.188)という記述からも国民から協力を引き出す体制づくりの巧妙さを感じます。

宇土の宝

9月5日の朝日新聞掲載記事中にある「学校の音楽講師でもある原山圭子さん宅で練習を重ね、地域のイベントなどに参加。」に登場する、原山圭子さんは中学時代の同級生。指導者として活躍されているのを知り、誇らしく感じました。
大会では、「おかあさんコーラス賞」を受賞とありました。まさに宇土の宝の一つかもしれません。
https://www.asahi.com/articles/ASV941H7WV94ULIP00WM.html

当サイト来訪の方へのお断り

当サイトを閲覧いただき、誠にありがとうございます。
最初にお断りしておきますが、当サイト公開の目的は運営者自身の備忘録としての活用と合わせて閲覧者との情報共有(公共財としての情報活用)にあります。法人設立あるいは行政書士事務所開業の当初のコンテンツは、集客目的の事業紹介のそれが確かに主体だったのですが、年数を重ねるうちに次第にそのウエイトは減り、今では運営者自身もその目的を意図していないサイトとして取り扱っています。(備忘録情報は1万ページを超えていますので、何かと検索でヒットしてしまうようです。)
以上の理由により、特にホームページ制作事業者のみなさまが、当サイトの構成や伝え方・見せ方を分析され、提案営業をかけられるのはまったくのムダです。ご案内いただいても毎度無視しています。
加えて(かつてはあった)「お問い合わせ」フォームも開設しておりません。この理由はあまりにもスパムメールが多いため、その対応に時間を割きたくないためです。
※同一の内容を固定ページにも掲載しました。

こころピア&くまもと文学・歴史館訪問記

いずれも会期中の始め頃に2026年熊本地震が起きて一時休館したため、訪ねる機会を逸していた2つの展示会場(どちらも入館無料)へ、8月最後の日曜日、行くことができました。
まず1つめは、玉名市立歴史博物館こころピアの「熊本地震から10年 くまもと戦争遺産被災レスキュー展」(会期:7/22-9/13)。展示会タイトルにある「熊本地震」は2016年発生のそれを指していますが、今回の地震でさらに県内の戦争遺産が失われる恐れがあります。出展者の「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」では、「熊本地震戦争遺産支援金」を募っていて、八代市郡築の「コンクリート製軍人像」ほかの3D測量や宇城市・八代市を中心とした戦時資料のレスキュー活動の費用に充てたいと呼びかけています。
https://kumamoto-senseki.net/images/2026/26081801.pdf
展示品の中に、写真の教育勅語額装がありました。書いたのは「学習院教授 小野鐗敬」とあったので、ネットで調べて見たところ、明治時代に活躍した高名な書家である小野鵞堂(本名:小野鐗之助)(1862-1922年)らしいです。「鵞堂流」と呼ばれる独自の仮名書風を確立し、現代の学校教育における習字の手本にも大きな影響を与えた人物であり、華族女学校(現・学習院女子中・高等科)などで30年以上にわたり書道を教えたということです。
同展関連イベントとして8月1日に玉名市文化センターで「長崎被爆体験証言会と紙芝居Ⅱ~日本原爆被害者団体協議会設立70周年記念~」が開催される予定でしたが、当日は地震発災から間もない日程で会場が避難所となったこともあり、11月15日に延期されています(時間と会場は同じ)。
https://kumamoto-senseki.net/images/2026/26081201.pdf
2つめは、くまもと文学・歴史館10周年記念大収蔵品展の「温故知新 文学と歴史でたどるくまもとの記憶2026」(会期:7/17-9/23)です。本展で取り上げられる人物の時代は江戸時代から明治・大正・昭和・平成まで、分野は文学者に限らず、藩主・教育者・思想家などさまざまです。明治憲法や教育勅語を起草した井上毅も紹介されていました。井上の熊本時代の師匠は、木下韡村(1805-67年)です。もともとは農家に生まれましたが聡明なため22歳のとき苗字帯刀を許された人物です。弟の助之の孫が劇作家の木下順二です。次男の広次は、井上の義弟(韡村の長女が井上の後妻)にして、京都帝国大学初代総長であり、嘉納治五郎の媒酌人を務めています。
https://www2.library.pref.kumamoto.jp/bunreki/cat3/cat1
こちらも関連イベントとして9月12日に佐藤信館長講演会「海外に開かれた熊本の歴史」が開かれるので参加申し込みを行いました。
https://www2.library.pref.kumamoto.jp/blogs/blog_entries/view/1945/7674ffc593d84ad90631799d278ebaf5?frame_id=2144

東京都美術館とワタリウム美術館訪問記

2026年熊本地震の後、断水が続いていたこともあって、8月半ばころまで首都圏に滞在していました。その間に、息抜きを兼ねて2か所だけ美術鑑賞の時間を過ごしました。
最初に訪ねたのは、上野にある東京都美術館で開催中の「大英博物館日本美術コレクション百花繚乱」。ロンドンにある大英博物館へは30数年前一度だけ行ったことがあります。日本美術を含む東洋美術の展示室は同館の奥まったところにあり、ゆっくり見て回るには数日かけないと無理だなと思った記憶があります。それと充実した施設にもかかわらず入館料が無料で、多くの寄付で文化を支える気風に感心した印象が強く残っています。
さて、本展の目玉は、青森(春景花鳥図襖)・ロンドン(秋冬花鳥図襖)・シアトル(琴棋書画仙人図襖)に分かれて所蔵されていた狩野派の一連・一組の襖絵が一堂に会するというものでしたが、江戸時代を代表する浮世絵作品も多数展示されていて、より見応えがありました。大英帝国時代のコレクターの作品狩猟ぶりはさすがというか、抜け目ないと思いました。1回の実物鑑賞だけでは飽き足らず、公式図録を買って帰りました。
訪ねた当日は、公園の一角で「パキスタン・日本親善フェスティバル」のイベントが開かれて賑わっていました。その隣の国立西洋美術館での常設展はその日、無料入館できたのですが、それなら中は込み合っているだろうと判断し、素通りして次の目的地であるワタリウム美術館へ向かいました。
ワタリウム美術館は地下鉄の外苑前駅から徒歩7分の地にあり、「没後20年 ナムジュン・パイク|じゅげむ展」の開催中とあって今回初めて訪ねました。ナムジュン・パイクのメディアアート作品に最初接したのは、40年以上前の時期でした。その後、韓国・果川市にある韓国国立現代美術館やニューヨークのグッゲンハイム美術館でも作品と対面した体験があり、それだけ思い入れが深いアーティストの一人です。
今展は同館ビルの2・3・4階で開かれていました。2階フロアには、檜(?)のチップが敷き詰められていてその香り、踏みしめた靴底から伝わる感触もあって、視聴覚だけにとどまらない作品の奥行を感じました。
ビル1階および地階にはショップやカフェ、ギャラリーが併設されていて、その空間もセンスが良く気に入りました。ギャラリーでは、コケシスキーの個展が開催されていましたので、思いがけず2つの展示を楽しめました。