月別アーカイブ: 2026年7月

惜しみなく与えよ

※本稿は「令和8年熊本地震」発生直前から書き始めて2日空けて本日脱稿したものです。
英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス大学教授(人類学)だった米国生まれのデヴィッド・グレーバー(1961-2020年)著『民主主義の非西洋起源について 「あいだ」の空間の民主主義』(平凡社ライブラリー、1700円+税、2026年)に所収の「【付録】惜しみなく与えよ――新しいモース派の台頭」は、魅惑的な論考です。自分と他人を同時に豊かにする贈与の「喜び」と「楽しみ」について思い起こさせてくれます。
この対極にあるのが、効率的に奪うことを良しとする自由市場一辺倒のタックスヘイブン、自由港、経済特区のような社会であり、非効率的だとみなされる民主主義がない資本主義の世界に見えます。そうしたゾーン(区)は世界のあちらこちら(後掲書によれば5400カ所)に出現しています。ボストン大学パーディー・スクール教授(歴史学)であり1978年カナダ生まれのクィン・スロボディアン著の『破壊系資本主義 民主主義から脱出するリバタリアンたち』(みすず書房、3600円+税、2026年)を読むと、香港、ロンドンのカナリーワーフ、シンガポール、南アフリカ、米国内のゲーテッド・コミュニティー、未承認国家ソマリランド、ドバイ、メタバースのクラウド国といった実例を知ることができます。
国家であれコミュニティーであれ、民主主義の手続きを捨象して物事を決める会社経営者のような人物がトップを務めるような政治がまかり通っていることに気づいて発言し行動するのが、人間の人間たる所以ではないのかなと、上記の2冊と合わせて7月27日放送の、NHK・Eテレの番組「こころの時代〜宗教・人生〜 川とひとをみつめて 〜ある河川工学者の半生〜」を視聴して感じました。この放送の40分前後では、熊本県の川辺川流水型ダム建設計画も取り上げられています。この番組に登場する河川工学者の大熊孝さんは、ダム治水に対して学問的見地から疑問を呈して行動してきたことが理解できます。
https://www.web.nhk/tv/pl/series-tep-X83KJR6973/ep/9L5KQJ6YVP
2020年7月に発生した球磨川流域の豪雨災害についてはダム計画に反対する市民団体から次のような見方が呈されています。この災害後、国交省は「川辺川ダムがあれば浸水は6割防げた」と主張し、当時の熊本県知事に流水型のダム建設へ舵を取らせました。しかし、この豪雨災害時に、川辺川流域に局所集中豪雨が降ったわけではありません。球磨川の中流域の山地へ局所集中豪雨が降り、人吉市街地で球磨川がまだ氾濫しない時刻に支流の山田川や万江川が氾濫して多くの命が奪われています。人吉市街地を襲った大洪水は球磨川からでも川辺川からでもなく合流点でつくりだされたものでした。合流点の直上の低地は丸太の集積場となっており、膨大な丸太が貯木されていました。洪水によってそこから流れ出した丸太が流木となって第四橋梁にたまりダム化し、その後崩壊したのが要因と考えられます。川辺川流域の地形や地質、人吉市に氾濫を起こした洪水の原因の分析を疎かにするばかりか、事実を捻じ曲げて進められようとするダム事業の姿があります。
なお、その市民団体の試算によると、川辺川のダム建設を巡る熊本県の将来負担は620億円(熊本日日新聞7月2日記事参照)に上ると見られます。実際、過去60年間の県の負担額は526億円に上っていますが、県は完成までの負担額を試算していないとしながら、木村知事は経済波及効果があるとする立場から「負担金を支払ってでもやるべき事業だ」(熊本日日新聞7月3日記事参照)と会見で述べています。治水に役立つか疑問な事業に620億円の公金を出すよりも、流域の住民へ同額を給付した方がよほど経済波及効果も復興効果もあると考える器量は感じられません。
7月9日には熊本県民交流館パレアで開かれたシンポジウム「熊本の防災・治水を考える―地域気象データ駆動型社会への展開―」があって、防災に役立つ気象予測や緑の流域治水の研究成果・活用実績が報告されました。閉会時には後援についている熊本県の知事があいさつに出てきて、「アカデミアに対するリスペクト」を口にしつつ、「川辺川の流水型ダムは(緑の流域治水にとって)うれしい社会実装」と述べ、報告の趣旨に反する見解を平然と盛り込んだ態度に、薄っぺらさを感じました。
この知事は同職に就く直前、県職員である公益通報者に対して以下のLINEメッセージを送ったことで知られています。「内情を暴露するのは逆にブーメランになって○○さん(通報者)を刺しに来るのが既得権・旧体制のやる手段です」(熊本日日新聞7月25日記事参照)。既得権・旧体制のやり口に詳しいことがうかがえますし、刺されないために既得権・旧体制におもねる処世術が知事には身についているようにも思われます。
公益通報も民主主義の手続きの一つだと思います。効率重視の既得権・旧体制の方々からすれば、民主主義の手続きを踏もうとする人は、目障りで刺したいのかと、勉強になりました。しかし、そんな仕事に「喜び」と「楽しみ」はないでしょう。哀れに思う気持ちもあります。

富山大空襲

富山県はまだ訪ねたことのない土地の一つです。それもあって1945年8月2日の富山大空襲の歴史や富山市が不二越という工作機械メーカーの企業城下町であることも、昨夜開催の第50回空襲オンライン学習会での報告を視聴するまでは知らずにいました。この空襲は、米軍の報告書によると、作戦目標エリア内の焼失率が99.5%と他の都市と比べても格段に高い攻撃を受け、徹底的に焼き尽くされたことがわかっています。死者数は2700人超とされます。しかも、その目標エリアというのが、県都であり住宅が多く占める地域であり、近接する陸軍施設や不二越は逆にエリア外とされ、実際、不二越は被害を免れました。
報告者は、北日本新聞を定年退職後に立教大学大学院で学ぶ鶴木義直氏です。もともとは地方自治を研究したくて大学院に進まれたのですが、ジェノサイド研究の教授からの勧めと新聞社時代に富山大空襲を研究している地元歴史家との出会いがあったことから、研究テーマを変更し、論文作成にかかっているとのことでした。「なぜ富山は徹底的に焼き尽くされたのか」「大惨事の記憶はなぜ継承されなかったのか(公共財化の動きは戦後30年近く経ってから)」を課題に準備を進めていると報告がありました。
※富山市公式ウェブサイト「未来に語り継ぐ富山大空襲の記録」
https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/kuushuu/
※総務省ウェブサイト「国内各都市の戦災の状況」へは富山市から掲載がありません。
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/index.html#shinetsu
報告を聞きながら意外に感じたのは、当時ベアリング製造にあたっていた不二越がなぜ作戦目標エリアから外されたかということでした。米軍側からすると、この時期には、工業生産設備を叩かずとも勝敗が決していたので、むしろ戦後の活用を見据えてあえて温存させたのではないかとさえ思わせます。
上岡伸雄著『東京大空襲を指揮した男 カーティス・ルメイ』(ハヤカワ新書、2025年)を参照すると、ルメイがワシントンからの指令で、満州の鉄鋼産業を標的にするのやめ、台湾と日本本土の軍需産業を標的にするようになったのは、1944年10月からです。出撃基地もインド(成都経由)からマリアナ諸島に変わっていきます。第1目標は軍事施設(軍需会社を含む)としながら、第2目標は市街地に設定され、そちらを爆撃することもありました。武器製造を支える小型部品の工場が住宅地の至るところにあるので、そういう場所を叩くためには住宅密集地への攻撃もやむなしと航空軍の上層部は考えていました。
1945年3月の、無差別爆撃といえる東京大空襲を前にルメイは、「民間人にある程度の死傷者を出すことなく戦争に勝つことはできない。(……)我々が戦争を始めたのではないのだし、早く戦争を終わらせれば終わらせるほど、たくさんの命を救うことになる――アメリカ人の命だけではない。できることなら民間人の殺害は避けたいが、これは頭に入れておいてくれ。兵器を製造する日本人の労働者も彼らの軍事機構の一部だ。私の第一の義務は、我々のクルーの命をできる限りたくさん守り、救うことなのだ」と語っています。この時期は東京、名古屋、大阪、神戸と大都市が中心で、焼夷弾が尽きて半月あまり空爆を休止してしまうほどでした。その間、機雷投下のミッションを行っています。空爆再開後、1945年6月中旬までに東京の150平方キロ、名古屋の32平方キロ、神戸の23平方キロ、大阪の40平方キロ、横浜の23平方キロ、川崎の9平方キロが炎上しました。
この時期、まだ米陸軍の一部であった航空軍は、まだ残っている中小の工業都市への空爆によって、日本本土侵攻前に日本を降伏に追いこめば、航空軍が戦勝に最大の貢献をしたことになり、空軍独立の悲願を果たせるのではないかと考えていました。7月の終わりには原爆がテニアン島に届く予定でしたが、原爆は陸軍の仕事であり、航空軍はその運び屋にすぎないとされたことから、航空軍としては原爆なしでも自分たちの手で戦争を終わらせたという実績を求めていたという見方もあります。それで、ルメイは標的を中小の都市に向け、7月終わりまでに60の都市を破壊していきました。
1945年7月20日、富山市内3カ所に模擬原爆が投下されています。7月26日、原爆がテニアン島に運びこまれ、ワシントンから航空軍へ8月3日以降に原爆投下の指令が届きました。ルメイは原爆と競い合うように中都市への爆撃を進めました。7月31日に富山市へ空襲警告ビラ(伝単)が撒布されます。8月1日から2日にかけては陸軍航空軍の第38回目の創立記念日に合わせて特段に激しい空襲が企画され、富山はこの作戦で八王子、長岡、水戸とともに爆撃されています。死者は合わせて約5千人に上りました。
葛西伸夫著『水俣病が描く近代日本の自画像』(石風社、2026年)などによると、1944年1月に共に軍需会社に指定された化学産業である日窒水俣工場(防諜名:熊第7042工場)は同年3~8月に7回(最大規模は7月31日、26人死亡)、同延岡工場(現旭化成)は同年3月と6月、昭和電工川崎工場は同年4月に空襲を受けています。これら化学工場では爆薬原料の製造を行っていましたので攻撃目標となったのは頷けます。他の都市でも航空機製造拠点は早い時期から攻撃を受けています。それだけに富山の不二越がなぜ目標から外されたのかは興味あるテーマです。
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kyushu_07.html
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kyushu_09.html
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_22.html

わからなさのなかで

NHK・Eテレ「こころの時代〜宗教・人生〜」の「わからなさのなかで―最首悟の思想をたどる―」。今夜放送の番組ということです。ぜひ視聴したいと思います。
内容紹介を読むと、最首悟氏の教え子である丹波博紀さん(大正大学准教授)が登場するとありました。
丹波さんは、今年6月より水俣病センター相思社の理事に就いていただいていることもあって、私にとって最近知遇を得た方です。
「わからなさ」と言えば、外部から理念的に正しいことを追求していると見られる団体において、しばしば内部でハラスメントを起こす構造が放置されることがあります。丹波さんのようなしがらみのない新しい理事の良識に期待しているところです。
https://www.web.nhk/tv/pl/series-tep-X83KJR6973/ep/K7QYR56NJ8?fbclid=IwY2xjawTKcWVleHRuA2FlbQIxMABicmlkETFVbUoxWkljbHBpd2ZyNzZmc3J0YwZhcHBfaWQQMjIyMDM5MTc4ODIwMDg5MgABHhkFmvYGQuvBWC0ltZXgatRyvA8-tjpiKAo78DArKf6DZChHZvPKFpQTS6ZA_aem_tevDpXRTg4f9fCrGxZD2GQ

農地利用最適化推進委員退任

3期9年にわたって務めていた、宇土市農業委員会の農地利用最適化推進委員を、2026年7月19日でもって退任することとしました。もともと権腐十年あるいは(細川護熙元熊本県知事が引き際に発言したように)権不十年とも言いますが、一つの公職に長期に留まることは、自分にとっても他人にとっても地域にとってもロクなことはないと考えていたからです。幸い私が続けなくとも、その任にふさわしい後任の方が出てこられたので、安堵しています。
この10年近くを振り返ってみると、私が居住する行政区の農業従事者の半数近くが高齢のため亡くなったり、引退したりしているうえに、後継者がいないのがほとんどで、担い手が激減しています。そのため、耕作されない農地が増える一方で、農地の集積集約化も進まない状況が続いています。気候変動による作物の生育収量の変化や資材の値上がりもあり、ビジネスとしての魅力も薄いものになっています。加えて将来は人口減少が確実でもあるにもかかわらず、空き家を残したまま農地を宅地開発したり商工事業施設・ヤード開発したりして、内水氾濫の危険性が高まる増災化の道を辿っています。虫食い的な開発はさまざまなインフラ設備の距離も増やしますから、将来行政が負担するインフラ維持コストは重くなる一方です。
このように、地元の将来はたいへん暗いと考えています。それが、農業委員会にかかわると手に取るように見えてくるのですが、委員にそれを止める権限は残念ながらありません。首長や議員になんらかの見識があるといいのですが、その発言内容に接する限りでは、考えが足りなさそうです。
農業振興はすなわち安全保障という考えが国にも地方にも不思議なほどに希薄です。

『エネルギーの地政学』読書メモ

東大先端研のエネルギー国際安全保障機構に所属する研究者たちが書いた『エネルギーの地政学 エネルギートランジションと日本の戦略』(勁草書房、3000円+税、2026年)を読みました。化石燃料主体のエネルギーシステムから再生可能エネルギー主体のエネルギーシステムへのシフトが、文字通りエネルギートランジションということになります。資源小国である日本にとり、脱炭素化を進めながら、エネルギー安全保障を高めていく上で、水素エネルギー関連技術の果たす役割がとりわけ重要になっていることを認識しました。
水素を燃焼したときに発生するのは水のみ、つまり温室効果ガスの排出がゼロという特性があります。カーボンニュートラル社会の実現に向けて不可欠で重要な役割を果たす次世代エネルギーキャリアと考えられています。水素エネルギーの利点は、その多様性と柔軟性にもあります。太陽光や風力といった出力の変動性が高い再生可能エネルギーによって生成された余剰電力をグリーン水素として貯蔵でき、変動電源の調整力として機能させることができます。液化水素やアンモニアに変換して輸送も可能です。蓄電池と比較すると大規模・長期間の貯蔵にも適しています。
日本は国内の化石燃料資源に乏しい国です。原油の99.7%、天然ガスの97%を海外からの供給に頼っています。これら化石燃料は、数億年から数千万年の地球の活動によって生成されたもので、ここにはコストはかかっていませんが、原油埋蔵量の47.3%(2015年時点)が中東地域と、資源の賦存(ぶぞん)が地域的に偏っていますし、現時点でもおおよそ50年前後の可採年数が確保された有限資源であるということを認識すべきです。
一方、太陽光や風力といった再生可能エネルギーは、無尽蔵かつ無料の資源です。EEZを含めた面積では日本は世界で第6位の、資源ポテンシャルがあります。転換期においては輸入水素に頼らざるを得ない課題もありますが、国産電源で安価な水素生産を実現するのは決して幻想ではないと感じました。福島県浪江町などでは水素エネルギー自立コミュニティモデルの運用が始まっており、これなどは自治体の生き残り戦略としても有為な情報かもしれません。
もちろん課題がないわけではありません。再生可能エネルギー技術の設備や機器には、化石燃料を利用する従来の技術に比べて、重要鉱物の使用量が多いという問題があります。銅やレアアース、シリコン、リチウム、コバルト、黒鉛、ニッケル、プラチナ、イリジウムの採掘・製錬において特定の国・地域のシェアが高いとか、大量の電力を必要とするとか、環境汚染や労働者・周辺住民の健康被害といった人権侵害を伴う負の側面があります。
この点については、供給源を多様化する外交努力や重要鉱物の使用量を減らす技術開発が必要となります。たとえば水素製造に際してPEM型水電解装置の触媒には高価なプラチナやイリジウムを使いますが、固体酸化物型電解の触媒は安価なペロブスカイトを使います。その主材料はヨウ素なので、これは日本国内で調達可能です。
産業のサプライチェーンのボトルネックを握る、いわば技術的覇権の追求という現実もあります。(半導体産業を例にとると、半導体製造に欠かせない化学品であるフッ化ポリイミド、レジスト、フッ化水素については日本企業が90%近いシェアを持っており、これらの供給がなければ海外メーカーは半導体生産ができないのだそうです。)

前田浩文氏死去

本日(7/12)の熊本日日新聞27面に、熊本桜友会元会長の前田浩文氏の訃報記事が掲載されていましたので、お知らせします。7月10日にお亡くなりになり、通夜・葬儀は近親者のみで行なわれるとのことです。別途お別れの会の情報があれば投稿します。ご冥福をお祈りいたします。

『水俣病が描く近代日本の自画像』読書メモ

葛西伸夫著『水俣病が描く近代日本の自画像――新興財閥チッソと昭和電工』(石風社、2500円+税、2026年)は、東京生まれの著者が15年前に水俣へ移住し、「水俣病という補助線で近代史を描く」という構想で世に出した労作です。あとがきで「あなたは水俣病から何を学ぶのか」と問いかけています。それに回答するならば、チッソや昭和電工の歴史を遡ると、今日のテック右派が経営する巨大企業と共通する公共性の欠如、裏を返せばあくなき私益追求の腐臭、国策(その最たるものが戦争遂行だと考えます)協力になびく無責任さ・無秩序さを、見せつけられたということに尽きます。
2社の戦争とのかかわりをめぐる情報について、本書を参照してメモをとってみました。
■日露戦争
・p.46参照。1906(M39)年1月、日窒の前身となる水力発電会社の曽木電気株式会社を野口遵(1873-1944)が設立。その前年、日本は日露戦争に勝利したが、戦費調達による対外債務で、正貨(金)が極度に不足していた。政府は金山開発を奨励しており、水俣から東南方向にある鹿児島県伊佐地方でも金鉱開発が活況を呈していた。しかし、大量の湧水処理のために排水ポンプを動かすために使う石炭火力発電にかかるコストに悩んでいた。そこで、鉱山主がドイツの発電機メーカー・シーメンス日本支社勤務歴のある野口へ発電コストが安い水力発電の事業を誘致したいと話を持ち掛けた。それが曽木電気設立のきっかけである。
・p.47参照。日露戦争の戦費調達のため、国は塩の専売制を断行した。全国の塩田が整理され、江戸時代から続いていた水俣村の塩田が廃止され、村は困窮していた。曽木電気の余剰電力を使ったカーバイト工場の進出地を探していた野口に誘致を働きかけたのは水俣村側からだった。曽木電気が発電を開始する以前に金山が動力に使っていた石炭は、三池炭鉱から水俣まで船で運搬されており、中継港の水俣には400人の馬方がいた。金山が石炭を使わなくなったことにより、仕事を失った労働力を転用できる利点もあった。1908(M41)年7月、曽木電気は社名を日本窒素肥料株式会社と改めた。
・p.55-56参照。後に昭和電工を創業する森矗昶(1884-1941)の最初の事業成功の裏には日露戦争特需があった。森家は千葉県房総の一介の網元であるが、森は身体上の理由から徴兵免除され、家業である、海藻由来のヨード製造に従事していた。ヨード(ヨウ素)は戦場における傷病兵用消毒薬や(副産物のカリウムが)爆薬原料であるため、その家業は大いに潤った。しかし、特需が去ると、塩の専売法施行により、海藻を焼くと副産物の塩が出るヨード製造業者の集約化が迫られた。森は同業他社をまとめ上げ、房総のヨード産業を統一する総房水産株式会社を1908(M41)年12月に設立した。
■第一次世界大戦
・p.58-59参照。日本窒素肥料鏡工場で硫安生産が始まった1914(T3)年に第一次世界大戦が始まり、それまでの英独からの安価な硫安輸入が途絶え、国内肥料価格は3倍近くへ跳ね上がった。野口は「大正の天佑」と呼ばれた空前の好景気に乗り、水俣と鏡の工場を拡張し、4つの水力発電所を新設する投資を行い、莫大な利益を得た。1908(M41)年設立時の資本金は100万円だったが、12年後の1920(T9)年には22倍の2200万円へと急成長した。
■昭和恐慌、朝鮮進出
・p.79-82参照。野口が朝鮮進出を決断したきっかけは「朝鮮の電力原価は、日本の3分の1で済む」ということにあった。1926(T15)年1月、日窒全額出資の朝鮮水電株式会社を設立する。社長に野口、専務に森田一雄(熊本県出身、野口と帝大で同級)、工務部長(実質的な建設責任者)に久保田豊(熊本県出身、帝大では野口の後輩)が就いた。3分の1という破格の安さは、土地と水を強制的に収奪し、環境を破壊しても文句を言われない植民地という特殊環境があった。進出にあたっては朝鮮総督府の宇垣一成総督の後押しもあった。宇垣自らが国策銀行である朝鮮銀行と日本興業銀行を新会社長津江水電のメインバンクとして斡旋した。
・p.87参照。1927(S2)5月、興南に朝鮮窒素肥料株式会社設立。1930(S5)年から合成硫安の生産を始めた。赴戦江や長津江の巨大ダム湖は高原リゾートの観光資源として利用された。同年、資材運搬や観光客誘致のための高原鉄道会社である新興鉄道株式会社も設立された。宇垣も長津湖畔のコテージに度々滞在した。
・p.106参照。1930(S5)年、アンモニア合成技術を確立していた日窒は多角化を目指し、日本窒素火薬株式会社を設立。延岡(※)と朝鮮の興南に大規模工場を建設した。1932(S7)年には興南に朝鮮近海で獲れたイワシ油からニトログリセリンの基材であるグリセリンを製造する工業を建設した。
※延岡工場は戦後日窒から独立し、旭化成となった。延岡では野口を偉人として今も顕彰している。
・p.96-99参照。ヨード業界が不況になり、味の素の鈴木三郎助が設立した東信電気に総房水産を吸収合併してもらい、森は電力業界に転じていた。森が率いる東信電気は、1920年代末の昭和恐慌時代に、余剰電力を消費する産業への進出を図った。まず目をつけたのが化学肥料である。東信電気の卸先である東京電燈(現・東京電力)と共同で昭和肥料株式会社を設立。東信電気の新潟県鹿瀬発電所の電力を使って昭和肥料鹿瀬工場でカーバイトと石炭窒素を製造した。次いで川崎工場でアンモニア合成(硫安製造)を1931(S6)年4月から始めた。
■満洲事変、日中戦争、アジア・太平洋戦争
・p.75参照。満州事変勃発から2か月後の1931(S6)年11月、熊本県で直後に満洲へ出兵する陸軍第六師団による特別大演習が行われ、昭和天皇が統監した。同演習終了後、天皇は日窒水俣工場へ行幸し、アンモニア合成の現場に立ち会った。火薬原料である硝酸を製造できる戦略企業と認知され、一躍「水俣の誇り」へと昇華された。
・p.107-108参照。日窒水俣工場では、航空機の塗料に使われるアセテート繊維の原料である酢酸を合成するプラントが1932(S7)年7月に稼働し始めた。これを成功させたのは、後に工場長や水俣市長を務めた橋本彦七である。この合成はアセチレンからアセトアルデヒトを経るが、触媒として水銀が使用され、廃液は無処理のまま海へ流された。
・p.96-99参照。森が東信電気の余剰電力を消費する産業として次に進出したのは、兵器としての重要性が増した航空機の機体に使われるアルミニウム製造である。森が私財を投じて設立した昭和アルミニウム工業所の大町工場でアルミニウム地金が初めて取り出されたのは1934(S9)1月である。昭和アルミニウム工業所が軌道に乗ると日本沃度に合併させた。隆盛を極め、日本沃度は日本電気工業株式会社(※)と改称した。
※1939(S14)年6月、昭和肥料と日本電工が合併し昭和電工が誕生する。森が同社社長を務めたのはわずか1年2か月だった。
・p.93参照。1937(S12)年9月、野口は朝鮮鴨緑江水力発電株式会社(本社・京城)と満洲鴨緑江水力発電株式会社(本社・新京)を同時設立。満洲国側からは産業部次長の岸信介が交渉に参加した。水豊ダムは1937(S12)年着工し、わずか1年で完成させた。送電開始は1944(S19)年である。巨大な人造湖の出現により2万戸、10万人の朝鮮人が移住を強いられた。
・p.109参照。日中戦争がはじまると、植民地の豊富な石炭を液化して石油を作る人造石油が国家計画として急浮上した。1937(S12)年に人造石油製造事業法が公布され、日窒も国策の担い手となった。ソ連国境に近い朝鮮北部の阿吾地と満洲の吉林に巨大プラントを建設した。軍事的に成功したのは興南の龍城工場でのイソオクタン製造だった。アセチレンから航空用ガソリンを合成する技術は、陸軍の主力戦闘機である隼の燃料として実際に供給された。
・p.110参照。1939(S14)年2月、日本海軍が中国の海南島を占領。1940(S15)年4月、日窒の久保田豊は海軍の要請で島の西南部の石碌を調査し、露天掘り可能な巨大鉄鉱床を確認した。その後、久保田が所長となり鉱山開発が行われた。石碌では3万人余の労働者が命を失い、海南の鉱山大虐殺として当地では今も語り継がれている。
・p.107-108参照。日窒水俣工場では、1941(S16)年には塩化ビニル樹脂の工業化に成功した。これは電線の被覆やパッキンとして軍に重宝された。アジア・太平洋戦争中、撃墜した米軍機を日本軍が調査した際、風防ガラスが飛散しない合わせガラスになっていることが判明。日窒はすぐに中間膜である樹脂(ポリビニルプチラール)の模倣生産を成功させ、日本の戦闘機の防弾ガラス(※)として供給した。
※日窒の上野次郎男が戦後の1947(S22)年創業した積水化学工業で、防弾ガラスに使われたポリビニルプチラールは、自動車フロントガラスとして市場を席巻した。上野は1960(S35)年には積水ハウスを設立した。
・p.111参照。1943(S18)年3月、日窒は社内に南方局を設置し、局長に久保田を据えた。スマトラ島におけるアルミニウム精錬計画を立てたが、制海権を米軍に奪われ工場は建設半ばで放棄された。野口は1944(S19)年1月に死去していたが、久保田がその訃報をジャワ島で受け取ったのは1年後である。
・p.115参照。1944(S19)年7月、海軍から日窒興南工場へロケット燃料製造の特命が下った。局地戦闘機の秋水はドイツから得た技術を使ったロケット機で、動力源は高濃度の過酸化水素(酸化剤)とヒドラジン(還元剤・燃料)を混合し化学反応させるものであった。同年10月末に濃原過酸化水素の製造に成功した。翌年から量産に入ったが、その矢先に終戦を迎え、製造された燃料が実際に使われることはなかった。
・p.116・p.217参照。1944(S19)年1月、日窒は軍需会社に指定された。1945(S20)年3~8月の間、7回にわたり水俣は空襲に遭った。化学工場としては昭和電工川崎工場に次ぐ規模の空爆だった。工場は壊滅的な被害を受けたが、工場長の橋本彦七がアセトアルデヒト製造の重要部品は取り外して山間部の竹藪などへ退避させていたため、工場の心臓部は無事だった。橋本は100万円を投じ、1945(S20)年3月、約4000人の全従業員を収容できる巨大な横穴式防空壕も完成させている。内部には事務本部さえ置かれた。その防空壕の追加工事中に直撃弾を受け、朝鮮人労働者20名を含む26名が空襲で死亡する悲劇も起きている。工場敷地内には慰霊碑が建立されている。
・p.117・p.131・p.144参照。1944(S19)年1月、昭和電工も軍需会社に指定(※)された。昭和電工の福島県の広田工場でも海軍からの要請でロケット燃料の生産を行っていた。1945(S20)年4月、昭和電工川崎工場(※)は川崎大空襲に遭い、その日に4割、終戦までに74%の設備が破壊された。しかし、幸運にもアンモニア合成の中枢部は無傷だった。
※軍需省は終戦から10日あまりで商工省(後に通商産業省)へ看板を変えた。おなじく終戦から半年後の1946(S21)年2月、昭和天皇が巡幸の第一歩として昭和電工川崎工場を選んだ。
■朝鮮戦争、高度成長
・p.148参照。1950(S25)年1月、日窒は新日本窒素肥料株式会社(新日窒)として再スタートを切った。同年6月、朝鮮戦争が勃発し、特需となり、新日窒は塩化ビニルの大増産となった。1951(S26)年7月、時の総理大臣の吉田茂の甥にあたる白石宗城が社長に就任した。1952(S27)年10月、塩化ビニルを柔らかく加工する可塑剤であるオクタノール合成に日本で初めて成功した。これは朝鮮の興南工場での航空機燃料(イソオクタン)製造技術を応用したものだった。高度成長に伴い塩化ビニル製品が普及し、新日窒が国内で独占供給するオクタノールのシェアは74.2%(1960(S35)年時点)、会社のドル箱となった。

『生まれたくなんかなかったのに』読書メモ

今年3月リニューアルオープンした三省堂書店神田神保町本店を6月に初めて訪ねたときに、小島和男著『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』(幻冬舎新書、960円+税、2026年)を買い求めました。著者は古代ギリシア哲学を専門としている学習院大学文学部哲学科教授。数年前から著者のXをフォローしていたので、なんとなく人柄について知った感じでいましたが、著書を読んでみたのは今回が初めてでした。
X投稿で得る断片的な情報だけで知った風なつもりでも、それでは著者の思想の核心を理解するのは困難です。1冊目に過ぎませんが、著書に接してみてやはり良かったと満足しています。
まずもって著者は、反出生主義者を自任しています。「生まれてこないほうが良かった」と考えるわけですから、「生きていたくない」とか「今から死んだほうがいい」と誤解されますが、そういう主張ではありません。「生まれてしまったものとして、どうやって生きていくかを考える思想」(p.4)だと言います。生きづらさの原因は「個人」ではなく「制度」にあるという視点を示し、「自己責任」の呪縛から読者を解放してくれます。本書を通じて人生に「続ける価値」を感じ取れる点において、特に若い読者は気持ちを楽に持てるのではないかと思いました。文体も読みやすいですし、文字を読むのが不得手なら電子書籍版で読み聞かせしてもらうのもいいのではないかと思います。
反出生主義の思想は、難民の認定と保護のあり方の考えに通じる思いをしました。というのは、生まれた側には、その出生の自己決定権はありません。同様に、たまたま人権が尊重されない国・地域に生まれて難民とならざるを得なかった側にも、生まれの偶然性があります。それがために、難民条約の前文では「難民保護を世界の国々が協力して責任分担する」と謳い、個人の問題として放置するのではなく、社会が制度として受容しようとします。生きづらさを強いられる難民が、それを覚えなくて済む場所で生きていくことができれば、受け入れた側の国益へ長い目で見てなることは歴史が証明しています。
本書でのテーマには難民問題は含まれてはいません。取り上げているのは、働くこと、結婚、親子関係、猫との暮らし、友人、楽しみ、病と老い、子どもを持つこと、人生の目標、経験の価値、安楽死、生きる理由、差別など、たいていの人が一度ぐらいは選択決定を伴うテーマばかりです。そのどれにも常識だと刷り込まされた呪縛があることを知ることができます。哲学者というと、ごく狭い分野の、しかも古典的な専門知を極めた人と思いきや意外に現実社会の構造や現象を追っているんだなと思いました。こういう先生に出会える学生たちは恵まれています。私が学生だったら講義を受けたいなと感じました。

2026.7.16追記
著者が語る動画がありました。
https://youtu.be/8AU_i3MOksw?si=PPXPcYRO_s0G_n27

人権デューデリジェンス

日刊新聞発行もビジネスですから、これは提灯記事だなと読める紙面があります。ですが、7月4日の熊本日日新聞1面コラム「新生面」は、村上春樹さんの新刊小説『夏帆』を取り上げ、その直下に同本の広告が掲載されてました。それを見たら、さすがに興ざめしてしまいました。これだと、タイアップ広告記事そのものです。前日の朝日新聞東京本社版の文化面(26面)には、やはり『夏帆』刊行に際しての村上春樹さんへのインタビュー記事が載っていましたが、さすがにその書籍広告は総合面(2面)の記事下に載せ、一定の配慮はされていました。
「ハルキスト」と称される岩盤読者層に支えられる人気作家とあって、『夏帆』の初版はなんと25万部発行と言います。版元の新潮社からすれば確実に売れる絶対に手放せない作家なんだろうなと思います。
ところで、新潮社と言えば、1年ほど前、『週刊新潮』において外国にルーツを持つ作家に対して差別的な言及がなされたコラムが掲載され、それに傷ついた作家が同社との出版契約を解除・終了する事件がありました。その後の同社の対応をフォローしてないので、この事件を村上春樹さんはどう受け止め、今回の同社からの出版にわだかまりはないのか、知りたいと思いました。しかし、7月3日の朝日と同日の熊日(おそらく共同の配信)のインタビュー記事ではそのことに触れられていません。
それで、新潮社のホームページで関連の情報を探してみたら、「人権デューデリジェンスの新たな取り組みについて──週刊新潮コラム問題をふまえて」という2025年12月25日発表のページを見つけたので読んでみました。これによると、事件を踏まえて2025年10月1日、社内に「人権デューデリジェンス推進室」を設置し、①社内研修体制の強化、②校閲作業の重層化、③社内相談窓口の確立、④ケーススタディの活用、⑤知見のアップデートに取り組み、再び過ちを繰り返さないことが謳われていました。「人権デューデリジェンス(Human Rights Due Diligence)」という用語には、このページで初めて接したのですが、「企業が自社における人権リスクを調査・特定し、これを防止・軽減するための一連の取り組み。」を指すとのことです。おそらく、村上春樹さんも同社のこの姿勢を了として『夏帆』出版(もともと2024年6月号から2026年3月号まで文芸誌『新潮』に4回にわけて掲載されてました…)となったのではないかと思います。
https://www.shinchosha.co.jp/news/article/3351/
実は村上作品に対してはあまり関心がありません。35年前に『ノルウェイの森』を読んだのが最後だったかと記憶しています。宮本輝さんの作品は割と読んだ方で、最近やはり新潮社から『湾』が出たので手に取ろうかどうしようかと思案していましたので、少し安堵しました。それでも版元や新聞社の姿勢はたえず見定めたいと思います。

2026.7.11追記
「ビジネスと人権」に関する行動計画(改定版)
https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100956579.pdf

88年前の伝単

昨日参加した「第18回熊本空襲を語り継ぐ集い」のおりに講話した高谷和生さんが、1938年5月20日に熊本県水俣から日本に侵入、球磨川を遡行し、宮崎県の延岡上空で反転、再び球磨川沿いに海に出て、姿を消した中国空軍2機による伝単20万枚の撒布について触れていました。これを、日本側では初空襲と捉えましたが、その作戦の実行を命じた蔣介石は、当時の中国国内での戦争の実態を何も知らない内地の日本国民を感化し、連帯を期待していたため、「人道飛行」と名付けています。撒布された伝単の内容は、4種類の反戦ビラ(「日本農民大衆に告ぐ」「日本労働者諸君に告ぐ」「日本小商工業者諸君に告ぐ」「日本政党人士各位に告ぐ」)と1種類の反戦パンフレット(「日本人民に告ぐ」)となっています。内容が内容だけに、伝単は官憲によって回収されたため、現存されているものはほとんどないとされてきました。
ところが、今年3月19日の熊本日日新聞によると、水上村で農業を営みながら、ロシアの文豪トルストイの翻訳を手がけた湯前町出身の故北御門二郎氏(1913~2004年)の遺品から、「日本人民に告ぐ」の伝単が発見され、遺族から熊本県立図書館へ寄贈されたという報道がありました。
https://kumanichi.com/articles/1970572
トルストイの研究家である北御門二郎氏は、良心的兵役拒否を貫いた人としても知られています。人道飛行があった1938年は、国家総動員法が公布(4/1)・施行(5/5)された年でもあり、北御門氏が徴兵拒否の意思を固めたきっかけにもなっています。東京帝国大学文学部英吉利文学科に在学中の同氏は、徴兵検査を受けるべき同年4月21日の前日に失踪し、父が警察で訊問を受けたり、消防団による山狩りが行われたりしています。翌日に、形の上では、出頭を催促されて母とともに出向いた徴兵検査の場で、北御門が徴兵忌避の申し立てを言い切るよりも先に、精神を病む者と「判定」されて、検査をまぬかれたことになっているようです。ともかく、検査を受けて結果的に兵役免除となりました。同年に大学を中退、球磨郡水上村で就農します。日本初空襲=人道飛行があった1938年5月20日には熊本へ帰っていたとすれば、本人が自ら伝単を手に入れ秘匿していた可能性があると思われます。
北御門二郎氏の名前を最初に知ったのは約50年前の高校時代のときでした。高1時の担任である美術教師の坂田燦先生が同氏と交流があり、トルストイの翻訳作品に版画を併載した版画集(『二老人』1978年。その後も『火の不始末は大火のもと』1980年、『愛ある所に神有り』1981年、『人には沢山の土地がいるか』1982年、『作男エメリヤンと空太鼓』1992年と続く)の共同出版をされていました。
熊本県立美術館でも要職に就かれていた坂田燦先生は、現在89歳。今も年賀状でいただく版画作品が楽しみです。写真は2026年のもの。

番外:日本で初めて伝単が登場したのは、九州で起きた藤原広嗣の乱(740年)
官軍が広嗣を「逆人」と指摘する情報ビラ(伝単)を使用して心理戦を仕掛けたのが始まりと考えられています。

熊本空襲を語り継ぐ集い

平和憲法を活かす熊本県民の会が主催する「第18回熊本空襲を語り継ぐ集い」に今年も参加しました。1945年7月1日の第1回熊本大空襲の際に本荘国民学校(現・本荘小学校)3年、8歳の少年だった寺本さんの証言を、いつも子どもたち向けに語るときに使っているという紙芝居仕立てで聴いてきました。その内容については取材に来ていた地元民放TV局のキー局サイトに載っていましたので、紹介します。
https://news.ntv.co.jp/category/society/kkc1f05e115a344c56a713d0e2855eeb34
この証言の前に、集いの代表幹事である高谷和生さんから、熊本大空襲に先んじて1945年の3月・5月から陸軍健軍飛行場と爆撃機「飛龍」を生産していた三菱重工業熊本航空機製作所へ空襲があったのは、米軍側が出撃基地と兵器工場を叩くことを優先していたからと解説がありました。同年7月の熊本大空襲の米軍の攻撃目標は健軍へ送られる部品工場がある南熊本周辺でしたが、実際の攻撃では東側にずれたと見立てていました。
三菱重工業熊本航空機製作所があった場所は、現在陸自の健軍駐屯地であり、今年長射程ミサイル部隊が配備されています。先の大戦当時も現代も有事となれば、直接の脅威をもたらす敵の出撃基地を相手側がまず無力化しようというのは当然です。それがために、指揮所や装備・弾薬がある健軍駐屯地の地下施設化が進められようとしています。一方、駐屯地が狙われるということは、周辺の住民・民間施設も危険に晒されます。まさに81年前のような被災に遭わないと断言はできないと考えます。
ところで、昨年12月にはFIFAの会長が、トランプ氏に「FIFA平和賞」なるものを贈ったことがありました。その後、イラン攻撃で多くの無辜の子どもたちが殺されたのですが、W杯に浮かれる人たちからFIFAへ平和賞を取り消せという声は聞こえてきません。そんなこともあって今回のW杯放送はまったく見る気になれませんでした。
この集いに参加する前には、2つの美術展会場を訪ねて心穏やかな時間を過ごせました。
6/15-7/31「フェルメール蘇る全37リ・クリエイト作品展」(肥後の里山ギャラリー)…元勤務先の前社長が熊大薬学部へ寄贈したリ・クリエイト絵画展。
6/23-7/4「大和淳子」(画廊喫茶オアシス)…中高時代の同級生の初個展。