月別アーカイブ: 2026年6月

『みんなこうして連帯してきた』読書メモ

ジェイク・ホール著の『みんなこうして連帯してきた 失敗のなかで社会は変わっていく』(柏書房、2400円+税、2026年)の内容を示すと、肌の色が異なるとか、身体の外見と性自認が異なるといったことが理由で、不当な扱いを受けている人がいれば、それは自分ひとりだけが闘うべき問題ではなく、同じ思いを持つ世界中の人と連帯して闘っていいんだという希望を持たせる書だと思います。著者自身がイギリスの労働者階級出身のクィアのジャーナリストです。クィアとは、既存の性的指向や性自認の枠に当てはまらない人々を指す総称です。かつては同性愛者に対する侮蔑語でしたが、ゲイ・アクティヴィズムが台頭するなか、当事者がこの言葉が内包する負の歴史を引き受けたうえでその意味を反転させ、みずからを名乗る言葉として使うようになったそうです。
本書で取り上げられる世界に散らばる団結の物語は、実に多彩です。表紙装丁にもその対象が以下のように列記されています。有色の人、障害のある人、肥満の人、ホームレス、先住民、気候変動活動家、労働組合員、移民、難民、セックスワーカー、フェミニスト、ゲイ、レスビアン、トランスジェンダー、ドラッグ・クイーン…。しかもそうした属性が複合し、連帯した闘いもしばしばあったことを明らかにしています。
たとえば、自分の身体の自己決定権は、人権の最たるものの一つですが、先進的な民主主義体制と見なされる国においても意外と尊重されていない例があることにも改めて気づかされます。
「権力者にとっては、悲しみによって動けなくなった世界、すなわち連帯や連帯の構築を無意味な努力とみなす社会のほうが扱いやすい。」(p.343)という指摘にもドキリとします。しかし、「最悪の状況にあるとき、希望が命綱になる。」(p.348)であり、「抵抗のなかには喜びがあるのだ。」(p.349)という言葉に救われます。
本書で取り上げられている当事者の境遇には当てはまらなくても、日々の生活において、たとえば企業や学校のなかで、悲しみによって声を上げられない人は少なくないのではないかと思います。企業や学校の内部にその声を受け止めてもらえる環境がないのなら、ぜひ外部へ発してほしいと思います。
行政組織における公益通報の窓口も内部だけでは忖度が働き機能しないものです。八代市が本日から外部窓口を開設するという報道がありました。他の自治体も見習うべきではないかと思いました。
https://kumanichi.com/articles/2008163

動画よりも紙面

辻田真佐憲氏が『文藝春秋』(2026年7月号)に連載中の「「戦後」の正体 第4回 エネルギー小国の光と影」の要約が動画で紹介されています。
動画では対談形式なので、相手からの話の振り方によって紙面では扱いがないエピソード(石牟礼道子の『苦界浄土』で記述される水俣の人の語りはノンフィクションか創作か。渡辺京二の解説をめぐって)へ飛ぶエンタメ性がある一方、文字数換算では圧倒的に紙面記事の情報量に劣るので、やはり原稿を読むべしと感じた次第です。
動画はある分野の知識を得るきっかけにはなりますが、知識事実を体系的に追い理解するには、やはり文字にはかないません。この動画の内容を別に過小評価しているわけではありません。内容的には水準が高いですし、動画の役割を認めた上で、読書が知の向上、ひいては社会の発展に寄与するという思いを強くしました。
https://youtu.be/7_oafo1eA7k?si=RG6ZAZAGTf3g8StX

2050年温室効果ガス排出量ネットゼロへ

「東大駒場リサーチキャンパス公開2026」のオープニングイベントに先日参加したおり、2年前に水俣病患者団体との懇談会のマイクオフ事件で一躍有名になった当時の環境大臣だった伊藤信太郎議員の姿が、会場にありました。なんでだろうと気になって同議員のプロフィールを眺めて見ると、一昨年、東京大学先端科学技術研究センターを訪問し、翌2025年から東大先端研エネルギーシステム分野アドバイザーに就いておられることを知りました。
その関係だと思われますが、上記イベントの2日前の衆議院経済産業委員会の質疑で、2050年温室効果ガス排出量ゼロ達成に向けた再生エネルギー(ペロブスカイト太陽光発電&蓄電池、グリーン水素)の活用を促す質問を、先端研の研究者の名前を挙げながら行っていました。選挙区が東日本大震災の被災地である宮城県ということもあって原発の活用は頭にないようでした。むしろ、大量生産・大量消費・廃棄社会、あるいは物質や金銭の量的拡大を重視する価値観からの転換を訴えていて、ユニークな人だと見直しました。この訴えを尊重していた経産大臣も結構懐が深いおもしろい質疑応答でした。一方、環境省の役人は、議員が求める2050年温室効果ガス排出量ネットゼロについて「野心的な目標」と揶揄する態度を示していて、つまらんなあと感じました。
政治家になるまでの経歴も変わっていて、若い頃は映画監督(マイクオフ事件後に相思社へ来水されたときに映画談義もあったそうです)を務めていたり、国際ニュース番組「CNNデイウォッチ」キャスター、大学教授であったり、多才です。ハーバード大学大学院修士課程修了(Master of Arts)であり、英語・フランス語・イタリア語・中国語に精通しているといいます。
対話力や発信力は並みの大臣よりもあった方だと思いますので、大臣を続けていれば今よりもずいぶんマシだったかもと思いました。
https://www.rcast.u-tokyo.ac.jp/ja/news/report/page_00339.html
https://ito-shintaro.jp/profile
https://youtu.be/hvfTdDTAkuI?si=tdIjHKmO3Ob5lP1V

戦争、エネルギー、チッソ

歴史や社会の実相に対する目配りの鋭さをその発言から感じる若手の研究者の名を挙げるなら、私なら斎藤幸平氏と辻田真佐憲氏をまず思い浮かべます。2人には水俣病という公害事件を招いた歴史や社会構造にかなり注目している共通点があります。
その辻田氏が自身の動画チャンネル「辻田真佐憲の国威発揚ウォッチ」(2026年6月14日配信)の冒頭15分過ぎまでにおいて、『文藝春秋』(2026年7月号)に同氏が連載の「「戦後」の正体 第4回 エネルギー小国の光と影」や相思社職員として水俣にて現地ガイドの経験を有する葛西伸夫氏の著書『水俣病が描く近代日本の自画像 新興財閥チッソと昭和電工』(石風社、2026年)を取り上げていました。そこで、戦争、エネルギー、チッソの関わりを語っていました。水俣病という事件を患者被害者に対する人権蹂躙や環境汚染の問題としてだけでなく、それをもたらしたもっと国策的な背景についても学ぶべきではと感じます。その素材としてチッソの歴史からさまざまな視座を得られると思います。
https://bunshun.jp/bungeishunju/articles/h12222?ref=innerLink
https://sekifusha.com/13046
https://www.youtube.com/live/Zm7mLEoCQC4?si=OaCpqPDXYmzQWxQe

「生研・先端研」訪問メモ

6月5-6日に開かれた「東大駒場リサーチキャンパス公開」に初めて参加しました。これは同キャンパスにある生産技術研究所(生研)と先端科学技術研究センター(先端研)の研究者による講演会や、120以上の研究室の一般公開、関連企業・団体による産学連携研究の成果紹介など、最新の研究成果に触れられる年1回開催の貴重なイベントとなっています。会場内には一般人はもちろんですが、中高生の団体参加の姿が多数ありました。
オープニングイベントでは両研究所長のあいさつがありました。まず、生研の所長は、日本における博士課程学生数の減少を危惧され、その不人気な理由を仮定に上げ、一つずつ解決策を回答して、博士号の魅力を伝えていました。次いで、「異能の掛け算により時代が求める先端を創造し社会につなぐ研究所」を標榜する先端研の所長は、異分野をつなぐアート、「響創」の役割、その挑戦の場としてこのキャンパスがあることを語っていました。両所長にとって、この思いを受け止めてほしい存在とは、次の博士学生・大学教授・研究者となる中高生以下の世代だと感じます。2日間の公開イベントはその一環ですし、生研の「次世代育成オフィス」や先端研の「先端教育アウトリーチ」など、年間を通じて次世代向けのSTEAM教育が、実施されています。
「STEAM」とは、科学(Science)、技術(Technology)、工学(Engineering)、芸術等(Art)と数学(Mathematics)を総合的かつ横断的に学び、課題発見と解決能力を養う教育手法のこと指します。現代の課題のすべてが、科学だけでは答えることができないと言って差し支えないと思います。知識的な能力だけでなく社会的な能力も身につけて自分で考える力を持った人材の育成が求められますし、そうした後進の人材を育成できる教育人材が求められます。何もこれは子どもに限ったことではなく、生涯にわたって学び続けられる主体的な大人を育成することにつながります。それこそが国益、国民にとっての受益になります。
先端研については、熊本県も連携自治体として全国で2番目に協定締結しています。そのこともあって例年、「せんたん研究員」である「くまモン」がキャンパスに登場したり、特産品販売(マルシェ)への出店もあったりしています。ですが、せっかくなら熊本県内の中高生からも多数参加して視野を広げてもらう機会を増やしたらどうなんだいと思います。限られた時間で見どころがたくさんありすぎて逆に撮った写真は少なくなりました。それでも東京帝大航空研究所時代に建設された「3m風洞」の写真はしっかり撮りました。

工大の煉瓦門

戦後に開学した大学のキャンパスの敷地がもともとは軍用地だった歴史を持つ例をよく聞きます。熊本で言えば、熊本学園大学には陸軍歩兵第十三聯隊正門や食堂・酒保所跡(現・大学第二体育館)が現存しています。先日立ち寄った千葉工業大学津田沼キャンパスの通用門は、かつてその地にあった陸軍鉄道第二聯隊兵舎の表門として使用されていたものです。「工大の煉瓦門」として親しまれていますが、正真正銘の戦争遺産です。ちなみに同キャンパス3号館にある学食は外部の人も100円の食堂利用券を付加して食券を買えば利用できます。JR津田沼駅からほど近い場所にあります。

「國學院大學博物館」訪問メモ

大学が運営するミュージアムの場合、入館料無料で日曜休館の施設が多いのですが、渋谷にある國學院大學博物館は月曜が休館なので、一般のミュージアムとハシゴ観覧しやすい施設です。ですが、日曜だとキャンパス内にある3カ所の学食がすべて休みなのでランチを楽しむことはできません。今回訪れたのは6月に入っての最初の日曜日にあたり、新卒採用シーズンでしたので休日にもかかわらずビジネススーツ姿の学生をかなり見かけました。同館へは渋谷駅からも恵比寿駅からも徒歩で迎えますが、それぞれの駅からバスも頻繁に出てますので、楽に行けました。
https://museum.kokugakuin.ac.jp/
博物館入口の前庭には同地周辺(東渋谷台地)の歴史の解説が表示されていて、朝鮮王族の李鍵公・李鍝公邸や朝鮮人女学生寮の鴻嬉寮などがあったとありました。(1945年8月6日、広島に置かれた第二総軍の教育参謀(陸軍中佐)であった李鍝公は、原子爆弾に被爆しています。同日、陸軍船舶部隊(暁部隊)の特攻兵器「マルレ」の訓練生たち(彼らも入市被爆します)によって救助されますが、翌日死去しています。広島の平和公園内に建つ韓国人原爆犠牲者慰霊碑の碑文にもその名が刻まれています。)
同館の常設展示は、考古・神道・校史の3つの部門からなっていました。大学の設立母体は皇典講究所ということでコレクションも皇族由来や神道関連が多くを占める印象を受けました。ただ、学問としてこの分野を研究するとなると、科学的検証も必要なわけで皇国史観とここではどう折り合いをつけているのか、モヤモヤ感も覚えました。
もっとも、今回の狙いは開催中の特別展「日本ベルギー修好160周年記念 美と知の交流の軌跡」でした。2002年日韓W杯の際に熊本をキャンプ地に選んだベルギーのサッカー代表チームの愛称が「赤い悪魔」なので、勝手に赤のイメージを強く持っていましたが、同国の漢字当て字は「白耳義」、そのため白と略されます。ちょっとしたことですが、情報一つでイメージがずいぶん変わるものだなと思いました。先入観なしにふらりと博物館を巡ってみるのもいいもので、大日本帝国憲法のモデルはプロイセン憲法とばかり思っていましたが、起草者である熊本出身の井上毅は、プロイセン憲法のモデルであるベルギー憲法にも学んでいたことも知りました。その展示資料は、國學院大學図書館が収蔵する、井上毅が所有していた文書・図書からなる「梧陰(ごいん)文庫」(「梧陰」は、井上毅の号)によるものでした。同文庫の成り立ちは、1957年に井上毅の継嗣・井上匡四郎氏(工学博士・第一次若槻礼次郎内閣の鉄道大臣)の篤志によって國學院大學に永久寄託され、その後、58年に寄贈へと切り替えられことにあるそうです。ベルギーと熊本の縁に寄せてその日はデザートに白熊を食べてみました。
https://www.kokugakuin.ac.jp/article/299808

「赤羽」訪問メモ

「URまちとくらしのミュージアム」の見学ツアー参加のため、先日、東京都北区の赤羽界隈も少し散策してみました。1980年代前半の時期、私は赤羽台で暮らした経験があるので、久々に見る風景は一変していましたが、かつては軍用地が広がっていた場所でもあり、その痕跡を確認することもできます。
以下は写真メモです。
・1番街…昔は赤羽駅東口から今は北口から出るとアクセスできる駅前商店街です。昔はさまざまな業態の店舗がありましたが、今はすっかり「せんべろ」の街となってしまいました。通りも広くずいぶんと小ぎれいになっていました。昔は通り入口の下ではよく歌手の営業があり、研ナオコを見たことがあります。親知らずの歯4本中3本を抜いてもらった腕のいい歯科医院が入口に面した通り沿いにありましたが、それもどこかに移ったのかもしれません。
https://www.1bangai.org/
・うつり坂…鉄道線から陸軍被服本廠へ通じる登り坂。
・遺構レンガ…旧赤羽台団地のスターハウス近くにある、被服本廠の建物のレンガ。
・東洋大学赤羽台キャンパス…赤羽駅の西側の赤羽台にあります。2023年完成ということで、私が暮らしていた頃には当然ありませんでした。https://www.toyo.ac.jp/nyushi/about/campus/akabanedai/
・前田建設のクレーン…赤羽台一帯では今も再開発が進んでいました。550戸の共同住宅を建設中です。八代市からの指名停止があってもビクともしない建設会社の姿がありました。
・赤羽台東小学校の門柱…今は廃校になってしまいましたが、この学校も赤羽台団地の敷地内です。現在は更地ですが、北区児童相談所が近く着工のようです。設計は隈研吾事務所とありました。むき出しの木を使うのか気になります。
・師団坂…旧陸軍の第一師団工兵大隊と近衛師団工兵大隊に向かう坂道。第一師団工兵大隊兵営跡は星美学園の敷地となっています。
・赤羽八幡神社…神社が丘の上にあるので見晴らしが良く、その敷地から東北新幹線、東北本線、埼京線などの通過車両を見ることができます。日露戦役紀念碑が建っています。陸軍被服本廠へ通じる貨物線路もかつてはあった場所です。
https://ak8mans.com/
・赤羽駅西口のケバブ店…一駅北は埼玉県川口市。赤羽でもケバブが食べられるんだなと思いました。いつか買い求めてみたいものです。総じて西口側の激変ぶりがすごかったです。大型店舗が立ち並んでいました。45年前に最初に西口に降り立ったときはパチンコ店のチンドン屋が練り歩いていたのですが、その面影は微塵もありません。

「URまちとくらしのミュージアム」訪問メモ

国立歴史民俗博物館の「第6展示室(現代)」の解説パンフレット表紙には、東京都北区の赤羽台団地を空撮した写真が載っています。同団地は、日本住宅公団(現・UR)によって1959年から建設が始められ、1962年から入居が開始されました。当時、東京23区内では最大規模の3373戸を擁する「マンモス団地」として呼ばれました。もともとは被服本廠があった軍用地だったのですが、その広大な跡地には団地のほかにも3つの小中学校や公園、消防署、商店街などが設置され、高度経済成長の時代を象徴する最先端の生活の場所となりました。つまり、戦後復興の光の部分を代表する風景として表紙写真に採用されたのだと思いますし、その関連展示パネルも室内にありました。
1980年代前半の時期、団地内ではありませんが、私はこの赤羽台に住んでいました。そのため、個人的にも思い出深い街です。現在同団地は再開発され一部の建造物が残されているとともに、URまちとくらしのミュージアムが2023年に開館して集合住宅の歴史を伝えています。旧赤羽台団地の「41号棟(板状階段室型)」と「42,43,44号棟(スターハウス)」の外観は無料でいつでも見学できますが、同潤会代官山アパートや日本住宅公団黎明期の蓮根団地や晴海高層アパート、多摩平団地テラスハウスといった復元住戸を含むミュージアム棟は、事前予約制の90分間ツアー形式での無料見学となっています。
https://akabanemuseum.ur-net.go.jp/
水・日・祝日が休館で、ツアーは1日3回組まれています。私が参加したときは、1組15人程度で年齢層は中高年が大部分でした。外国人観光客と思われる参加者もいました。1979年に欧米から日本の住宅の狭さを「ウサギ小屋」と揶揄されたのが、中高年層の頭の片隅には残っていると思いますが、実際に高度経済成長期の住宅のしつらえに接してみると、生活の温かさが感じられたり、将来への希望が持てた時代の明るさがよみがえってきたりします。
以下はツアーで得たマメ知識。ガイドは若い女性でしたが、解説はよどみなく、時間管理や見学者捌きもテキパキしていて仕事ができるなと感じました。
・同潤会代官山アパート時代の電気料金は使用量ではなく設置する電球数で決められていた。トイレには照明具を付けなかった。部屋番号は建物全体の通し番号で振っていた。たとえば148号室でも5階に所在。高い部屋の外壁には縄梯子を架けられるフックがあった。
・公団初期の蓮根団地の流し台は石製。一戸ごとに職人の手作りだった。風呂桶も木製。
・前川國男設計の晴海高層アパートにはエレベーターが設置されたが、着床する階が3階ごととなっており、階によってはアクセスが悪かった。各階廊下に共通電話があり着信を交換手が各戸へ知らせ受信をしらせるボタン設備が各戸にあった。流し台はステンレス製。トイレも洋式。
・昭和30年代の郊外の団地には専用庭のある長屋建てのテラスハウスと呼ばれる低層集合住宅が多く建設された。
※この赤羽周辺には戦跡や鉄道見物スポットもあるので、別に投稿します。

『継体天皇』読書メモ

河内春人著『継体天皇 六世紀に現れた世襲王権の「始祖王」』(中公新書、1000円+税、2026年)は、①継体天皇の即位が可能となった歴史的前提、②その治世をめぐる国際関係、③その死後の世襲王権の成立について論考された著作となっています。今日の皇位継承資格の論議にあたって大いに参考にしてみると面白い本だなと感じました。それと、私が在住する宇土とのゆかりもあります。
『国史大辞典』によれば、継体天皇とは、生没450-531年、在位507-531年、応神天皇の五世の孫と伝えられ越前(今の福井県)から迎えられた人物です。ただし、存命中は「オホト大王」だった、当人からすれば、「継体天皇って誰?」ということになります。「継体」とは8世紀半ばに淡海三船が歴代の天皇を漢字二文字で名付けた漢風諡号ですし、「天皇」も7世紀に成立した称号です。
なお、評価が定まらない天皇であるため、現行の歴史教科書で取り上げず教えない方向にもあるようです。確かに明治憲法の時代では、以下のようなことがありました。たとえば、喜田貞吉(1871-1939)は、「明治時代の終わりに文部省で国定教科書の編修に従事したが、1911年に南北朝正閏問題で責任を取って退官した。」(p.206)、「当時は古代史といえども天皇家の万世一系に異を唱える研究はタブーだった。1930年代になると皇国史観が世を覆い、天皇に関わる研究自体が低迷する。」(p.207)という具合です。したがって、研究や教育に対する時の権力の不当な介入(逆に受ける側の阿りにも)には敏感でありたいと考えます。
継体天皇ことオホト大王が王位継承する前世紀(5世紀)の倭王権は、中国王朝(宋)からの冊封体制にありました。古市集団(讃・珍)や百舌鳥集団(済・興・武)といった複数の王族集団のなかから適任者が大王即位後に宋へ遺使し倭国王に任命(唯一の例外が世子を名乗って要請した興)されていました。中国皇帝からの承認は即位した事実を補強するための手続きでした。また、新たな大王は他の豪族たちからの支持取り付けのため、豪族たちへの将軍号の授与を中国王朝に要請しました。
ところが、5世紀末に宋から南斉へ王朝が変わり、それが王朝簒奪した反乱に映った倭王権は外交関係を持つことを躊躇し479年を最後に中国への遺使を取りやめます。それまで大王を出したことがなかった王族である北陸集団から即位した継体天皇は、中国王朝という外部からの権威付けが得られないこともあって、仁徳天皇を出した古市集団の女性王族である手白香王女との婚姻によって即位の正当性を補強します。皇后の手白香王女は武烈天皇の妹とされますが、その武烈天皇については虚構と本書では見ています。たとえば、『日本書紀』は、それが完成した律令国家の時代に「かくあるべし」と設定した、きわめて作為的な編纂が行われていて、5世紀以前の記述は史実としてほぼ信用できないと著者は指摘しています。漢籍を下敷きにして武烈天皇の暴虐記事がありますし、血統よりは賢者であることを重く記した書物(北畠親房『神皇正統記』1343年)もあります。ちなみに、律令国家時代の「継嗣令」では皇位継承資格があるのは五世孫までとされていました。
在位中は朝鮮半島との外交失政や磐井の乱などが起きていますが、磐井の勢力基盤である八女集団も継体天皇の即位については支持していたと考えられています。その根拠の一つが現在の熊本県宇土市(当時は八女集団の勢力下)から産出する馬門ピンク石の存在です。この石は5世紀後半頃から畿内へ提供されていて、6世紀前半では最大の前方後円墳(墳丘の長さは190mに及ぶ)であり、継体天皇の真陵と推定される今城塚古墳(現在の大阪府高槻市に所在)の石棺の材質として用いられています。

『曖昧な弱者の時代』読書メモ

経済的な貧困層や在日外国人などの文化的マイノリティといった、いわば社会的に公認された「明白な弱者」が救済されるのは「特別扱い」で不公平だとし、自分が救われていないと感じる「曖昧な弱者」の存在に、『曖昧な弱者の時代』(岩波新書、920円+税、2026年)の著者である伊藤昌亮氏は注目しています。「曖昧な弱者」は、「明白な弱者」に対して、憤懣を抱き、敵視し、攻撃します。彼らの反感の矛先は「明白な弱者」を救済しようとする政治家や知識人、マスメディアに及びます。もっとも彼らの反感を利用して支持を集めて伸長しようとする政治の動きもあります。社会の分断が進むだけで、なかなか厄介で醜悪な構造があることを、本書で理解することができます。
一方、本書で「曖昧な弱者」の特質を知ると、ある政党や政治家が自己啓発系の動画や競合相手の中傷動画を利用して一過性のブームを起こすことは、意外と簡単そうに思えました。もちろん、それが政治運動のやり方として考えられても、政策の担い手としての正当性を感じるかは別です。というわけで、本書を読んでも気が晴れるということはありませんでした。それどころか、ダメなところを論理的に批判しても伝わらない、皮相的な手合いの氏名が脳裏をよぎるだけでした。
先日、東大駒場リサーチキャンパスの公開イベントで政治学者の牧原出教授の話を聴く機会がありましたが、そこで高市早苗氏がかつて「政党は(政策の)道具」「発言の場が欲しい」と述べていた新聞記事を紹介し、他の党首になっていても不思議ではない人物像を語っていました。同氏は政策の中身・実現可能性よりも「やりたい」「やったる」という姿を見せることが重要なので、支持が落ちたらサバサバと辞めるのではとも見ていました。この話を聴くと、高市氏の支持層が、情報源をもっぱらSNSや動画に頼り、体系だった政治の知識に疎い情報弱者による「曖昧な支持」で成り立っているのが頷けます。まんざら悲観することもないなと後日感じました。

『紙に描いた「日の丸」』読書メモ

『紙に描いた「日の丸」——足下から見る朝鮮支配』(岩波書店、2500円+税、2021年)の著者である加藤圭木氏について知ったのは、つい1か月前のこと。安田菜津紀さんがMCを務めるラジオ番組のテーマが、「朝鮮と水俣」であり、その配信回のゲストとして出演されていたからでした。よって氏の肉声に接したのが最初の出会いとなりました。そこでぜひ著書も読みたいと手に取りましたが、当然のことながら番組では語り尽くされなかった情報に触れることができて貴重でした。
著者は同書を通じて、足下から歴史を考えるということと、他者にとっての足下を想像してみることを目指したと述べています。日本の朝鮮侵略と植民地支配の歴史を取り上げています。国家と国家の関係だけでなく、その中で朝鮮人がどのような状況に置かれたのか、そうした困難に直面する中で朝鮮人が足下からどのように行動したのかについて目を向けています。
以下は、私が印象に残った記述のメモです。不知の情報を多数得た学びとなりました。
・1928年11月の昭和天皇の即位の礼に際しては、日本側が警察を通じて圧力をかけ、朝鮮人に「国旗」(日の丸)を掲げさせようとし、掲揚戸数を徹底的に調べ上げた記録が残っている。
・水俣病の原因企業のチッソ水俣工場が立地する町名は創業者の野口遵に由来する「野口町」。そのことをもっても企業城下町であることが明らかだが、チッソ(当時の社名は日窒)が朝鮮へ進出するにあたっては朝鮮総督府の権力を背景に土地買収が進められ、多くの朝鮮人が立ち退きを迫られた。化学肥料工場用地となった地域は元々、雲田面と西湖面という2つの行政区画だったが、合わせて新しく興南面という地域がつくりだされ、1930年10月、野口遵は初代面長となった。1931年11月、興南面が興南邑に昇格したことに伴って、野口は同邑長となった。企業のトップが地方行政の長も兼ねた。(p.70)
・支配意識は水俣から興南へ移り住んだ日本人男性たちにもあった。1930年代にはチッソ興南工場周辺には性買売がおこなわれていた貸座敷や料理屋などが立ち並ぶようになった。日本人による民族差別と性差別があった。
・植民地期の朝鮮は農業社会であり、人口の大部分を農民が占めていた。そうした朝鮮農民の多くにとって、日本による植民地支配の時代とは、自らの生活基盤を脅かされ、絶対的な貧困を強制された時代だった。1920年代には日本人が食べるための米を、朝鮮人に増産させる「産米増殖計画」がおこなわれ、朝鮮人は自らつくった米を消費できない飢餓輸出状態となった。(p.133)
・1934年以降は朝鮮農村の貧困層に対する「人口調整」の意味から北部における土建労働者への「移動紹介事業」という棄民政策がおこなわれた。(p.125)
・植民地期の朝鮮における日本人の大地主としては、三菱財閥の創始者の岩崎弥太郎の長男である岩崎久彌や、大倉財閥を経営した大倉喜八郎、細川家の第16代当主であり大物政治家の細川護立などがいた。彼らは高額の小作料を課し、大きな利益をあげた。(p.133)

「明治大学博物館」訪問メモ

大学が運営するミュージアムは日祝日休館の所が多いですが、一般に無料見学できることも多く、何よりも解説が充実していて結構見応えがあるものです。昨年10月には川崎市の生田にある明治大学平和教育登戸研究所資料館を訪ねて同館が考察対象とする「第九陸軍技術研究所」(秘匿名「登戸研究所」)が研究・開発していた秘密戦兵器・器材の記憶をじっくり受け止めてきました。とりわけ戦争の歴史については、被害や戦功は表の記憶としてまだしも語りつがれやすいのですが、加害の部分に加えて秘匿すべきとされた裏の記憶はどうしても消されやすいので、それを継承する意義は大きいと言えます。
さて、今回は神田駿河台にある明治大学が運営するミュージアム「明治大学史資料センター大学史展示室」「明治大学博物館」「明治大学阿久悠記念館」「明治大学米沢嘉博記念図書館・現代マンガ図書館」の4施設を初めて訪ねてみました。
以下は各展示の一口メモです。
・大学史展示室…卒業生の紹介コーナーなどがあります。しおりの表紙にはNHK朝ドラ「虎に翼」の主人公モデルで日本初の女性弁護士となった三淵嘉子さんが載っていて今も力が入っているなと思いました。総理大臣経験者の三木武夫氏については在学中の弁論写真も展示されていましたが、昨年亡くなった村山富市氏の紹介がないのは少し残念に思いました。1936年のベルリン五輪の金メダリスト・孫基禎氏に関連して日章旗抹消事件は承知していましたが、同氏が翌年明治大学に進学したことや卒業生だったことはここの展示で初めて知りました。
https://www.meiji.ac.jp/museum/university/daigaku.html
・明治大学博物館…商品部門、刑事部門、考古部門の3つの展示コーナーに区分されています。商品部門では午年にちなみ、ことわざの「瓢箪から駒」を表した縁起物のコレクションが特集展示されていました。「瓢箪から駒」の語源は、驢馬に乗って移動していた中国の仙人が、乗らないときは瓢箪の中に驢馬をしまっていたいたという昔話だと言われているそうです。「現実には起こりえない、ありえないこと」あるいは「思いがけない出来事が実際に起こること」の例えとして用いられ、転じて「思いがけない幸運に恵まれる」という縁起物が生まれたというわけです。刑事部門では拷問具や死刑罰具のゾッとする展示が目を引きました。考古部門の特集展示では中国鏡のコレクションが見られました。常設展示では関東地域から出土した収蔵品が多い印象を受けました。
https://www.meiji.ac.jp/museum/
・阿久悠記念館…5000曲以上の作詞を手掛けた稀代のヒットメーカーのメモリアル施設です。受賞トロフィーや年表を眺めると1970年代は阿久悠氏の30-40歳代の働き盛りであり、人の出来不出来はだいたいこの年齢で決まるよなと感じました。特に注目した展示は、氏が執筆には「ぺんてる社」のサインペンを愛用していたということと、作品を納品する際の原稿用紙には絶対に推敲修正の跡を残さないということと必ずタイトルをデザインした表紙を付けていたという仕事の完璧さです。父親は淡路島内を転勤する警察官で、元々は宮崎県の出身だったそうです。そのため一時期は宮崎県での教員を目指したそうですが、大学卒業後は広告会社に就職しています。また、戦争では兄が19歳で戦死しています。
https://www.meiji.ac.jp/akuyou/
・米沢嘉博記念図書館・現代マンガ図書館…明治大学博物館や阿久悠記念館が入るビル「アカデミーコモン」の裏手には明治大学が所有する「山の上ホテル」があり、改装工事中でした。そこから近いところに当館はあります。ここは火・水・木が休館なので、明治大学博物館とハシゴして訪問したいと場合は注意が必要です。それに開館時間も午後以降と遅めです。展示室は無料ですが、図書閲覧室利用は有料です。訪問したときは「コミケ50周年展」が開かれていて、入館者数は明治大学博物館よりも多かったです。館名にその名を冠する米沢嘉博氏は1953年、熊本市に生まれ、明治大学理工学部を卒業しています。1980年から亡くなる2006年までコミックマーケット準備会代表を務めました。コミックマーケット(略称:コミケ)とは、世界最大の同人誌即売会です。直近(2025年12月、東京ビッグサイト開催)の「C107」の2日間の入場者数は30万人、海外からの参加者は少なくとも75カ国といいますから、相当なものです。普段は縁遠い世界ですが、これがこれからも続けられることを切に望みます。
https://www.meiji.ac.jp/manga/yonezawa_lib/
※番外:今年3月にリニューアルオープンした三省堂書店神田神保町本店ものぞいてみました。オープン記念のノベルティグッズ欲しさに、小島和男著『生まれたくなんかなかったのに それでも生きるための哲学』(幻冬舎新書、960円+税、2026年)を買い求めました。
https://jinbocho.books-sanseido.co.jp/
https://www.gentosha.co.jp/book/detail/9784344988057/

「港区立郷土歴史館」訪問メモ

「港区立郷土歴史館」の開館は2018年のこと。開館して10年も経っていない比較的新しい施設であるため、今回初めて訪問しました。同館が入居する建物自体は、1938年竣工の歴史的建造物である「旧公衆衛生院」です。展示室は有料ですが、無料で建物見学できるエリアもあります。建物は東大キャンパスの時計台をすべてデザインした内田祥三の仕事だけに、権威オーラをたっぷり放つ存在感は圧が強いです。この建物の6階には「白金台学童クラブ」が入っていて、いったいどんな子どもらが利用しているのだろうと、下世話な興味をかき立てられます。さすが1人あたりの納税額日本一の自治体である港区だなと感じさせられました。「旧公衆衛生院」の隣りには同じく内田がデザインした「東大医科学研究所」の建物があり、そちらも対で見る価値があります。
さて、その港区の歴史ですが、6000年前は温暖化により海面が上昇しており、海岸線は現代よりも内陸にありました。そのため、港区内には縄文時代の貝塚が8カ所あるそうです。江戸時代になると、伊皿山貝塚の上には寺があり、同時代のネコの墓石が出土しています。ほかに地方の各藩の屋敷が数多くありました。熊本の細川藩の中屋敷もその中にありました。明治以降は広大な藩屋敷の跡地が軍用地として使われました。戦後の1962年に漁業権が放棄されるまでは漁業も盛んでした。その後も自主漁業がおこなわれていましたが、PCB汚染問題が出てからは自主規制となりました。
企画展では、「おもちゃ絵」が開催中でした。展示されている絵を眺めると、明治というと近代化の時代と考えがちですが、人々の暮らしや風俗について言えば、江戸時代と大きな違いを感じさせないものがありました。
特別区の歴史館とはいえ資料が充実しコンパクトに見やすい展示が施されていて堪能できました。『常設展示図録』(1冊1000円)もいい作りなので買い求めました。
この日は、東大医科学研究所、日東坂を通って恵比寿の東京都写真美術館まで歩き、「W.ユージン・スミスとニューヨークロフトの時代」を鑑賞しました。さらにその後、渋谷へ向かい、國學院大學博物館で開催中の特別展「日本ベルギー修好160周年記念 美と知の交流の軌跡」とハシゴしました。これについては別稿をアップします。

「漱石山房記念館」訪問メモ

夏目漱石(1867-1916)が亡くなるまでの9年間を過ごした旧居は「漱石山房」と呼ばれ、1945年5月25日の空襲で焼失するまで早稲田南町の地にありました。2017年、その地に「新宿区立漱石山房記念館」が開館しました。一度ぜひ訪ねてみたいと思っていましたが、最近初めて観に行きました。館内の展示は有料ですが、図書室やブックカフェだけの利用も可能ですし、建物の周囲の植栽や裏手の「猫の墓」(猫の名前は「福猫」)がある漱石公園、あるいは早稲田駅からそこへ至る「漱石通り」、夏目坂、生誕の地碑など、見どころがたくさんあり、楽しめること請け合いです。近くには予約制になりますが、草間彌生美術館もあります。
https://soseki-museum.jp/
さて、訪ねたときには企画展「夏目先生 漱石の教師時代」が開催中でした。漱石の孫にあたる夏目房之介氏が2008~2021年、学習院大学教授を務めていましたが、漱石自身も学習院へ英語講師としての就職を希望し、一高時代の同輩で先に学習院教授を務めていた立花銃三郎(三池藩家老の三男)宛に送った書簡が展示されていました。ですが、残念ながら不採用になってしまいます。このときのいきさつは下記の論考が参考になります。
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/12070/p001.pdf
熊本の五高教師時代にやはり立花銃三郎へ出した書簡も展示されていました。ここでは、腸チフスにかかり学費も払えずに退学処分となった漱石の教え子を、学習院へ転入学させてほしいという内容でした。かなり教え子思いだった漱石の人柄がうかがえました。
漱石は五高勤務、英国留学を経て東京帝大と一高の英語教師に転じますが、一高での教え子に後に学習院長を務める安倍能成がいます。夏目坂通りに「夏目漱石誕生之地」の石碑が建っていますが、これを揮毫したのが安倍能成です。「遺弟子安倍能成書」と刻まれています。このように漱石と学習院の縁を感じました。

「国立歴史民俗博物館」訪問記

千葉県佐倉市にある佐倉城址の一角に建つ「国立歴史民俗博物館」が開館したのは1983年のこと。都内に在住していたその時分に一度行ったきりで、以来足が遠のいていましたので、先ごろ40年以上の時を経て2度目の訪問を行いました。沿革で振り返ると、前回訪問時の展示規模は現況の半分以下でしたし、リニューアルもあって、今回訪ねてみると、まったくの別モノ、初めての施設といった印象を持ちました。それと、急に思い立って向かったので、着いたのが閉館まで残り1時間という状況でした。第1展示室(先史・古代)だけで気付いて見ると30分を費やしてしまい、続く第2(中世)・第3(近世)・第4(民俗)・第5(近代)・第6(現代)の展示室については相当駆け足の見学となってしまいました。本来朝から夕方まで終日通しで観に行くつもりで予定を立てるべき施設だったと思いました。
さらに、同地は、佐倉城址であるとともに、先の大戦まで旧日本陸軍の歩兵第五十七聯隊(1944年、フィリピン戦で壊滅)の兵営があった戦跡の場所でもあります。近現代史のオープンミュージアムの地でもあることを踏まえると、第6展示室だけでももっと丁寧に観たかったと悔やみました。熊本関連ではチッソと水俣病の展示がありました。
https://www.rekihaku.ac.jp/

『地域と人口減少の経済学』読書メモ

先月刊行されたばかりの『地域と人口減少の経済学 スマート・シュリンクという選択肢』(中公新書、900円+税、2026年)の著者・小峰隆夫氏は、2001年に国土交通省の国土計画局局長(現在は国土政策局)を務めた元官僚の人物。国土行政、地域政策に携わった経験をもつ方が、今までのような国が魅力的なスローガンを打ち出せないばかりか、スローガンを見いだせる時代ではなくなったと認めていることがまず新鮮でした。
ところが、未だに国土強靭化の夢物語が語られていたり、かなり特異な地域の劇場型成功事例をもてはやそうとしたりしています。人口データには出生と死亡による自然増減と国内外の移住による社会増減があります。それらのデータは冷徹な将来予測を示します。人口という視点では、個人が見えませんが、進学・就職・結婚・出産など、いずれも個人の選択を伴いますので、人の増減や移動は自発的・自然なものであり、特定の場所に人口が集積してその場所にしか集積の利益が生まれないのは当然です。よって、それぞれの自治体の首長や議員、職員には、それらの現実を見極めてなおかつ将来世代のためを考えて政策を立案実行しなければならない能力・器量が求められます。
そこで、著者はスマート・シュリンク(賢く縮む戦略)を提唱しています。これまでの地域政策といえば、いきおい出生率の上昇を目指したり、定住人口を増やしたりすることに重点が置かれ、ばら撒き型の短期的には受けの良い政策が行われがちです。しかし、人口減少は必然ですので、将来維持管理のツケが大きくなる社会資本を増やし続けるのがはたして賢明であるかは議論があるかと思います。
自治体による面白いメッセージの伝え方の例として損失回避バイアスを利用した八王子市の大腸がん受診率向上策を示しておきます。それによると、「今年度がん検診を受診された方には、来年度検査キットをご自宅にお送りします」では受診率22.7%だったのに対し、「今年度受診されないと、来年度、ご自宅に検査キットをお送りしません」としたメッセージの受診率は29.9%だったといいます。つまり、利得を強調するよりも損失を強調した方が、効果が大きくなるというものです。モノは言いようとも取れますが、国任せでなく、住民も頭使って暮らす自治体を選べよというのが、本書から学べたことかなと思いました。

『日露戦争』に登場する熊本ゆかりの人びと

本書では、日露戦争時の著名人たちがどのような言動をとったのかを振り返っています。熊本にゆかりのある人物のそれを紹介してみます。

夏目漱石…「開戦当初は他の文学者同様、講談調で月並みな新体詩「従軍行」を発表した。しかし、当初の興奮が冷めると戦争を賛美して軍人や国民を鼓舞する軽率さに気づき、たとえ世間の関心や社会問題と遊離しようとも、自分自身にとって切実な問題だけを書こうと決心した。それが『吾輩は猫である』である。(中略)漱石は、国民的な流行語になった「大和魂」を徹底的に茶化しているのである。」(p.132)

矢島楫子…「キリスト教界の大多数は戦争に協力する態度を示した。(中略)全国各地の教会では戦勝祈禱会が開かれ、祈りや献金が捧げられる。日本基督教婦人矯風会の会頭矢島楫子も戦争支援体制を取り、同会は慰問袋の送付や出征兵士宅の訪問や生活援助、出征・帰還兵の送迎など、幅広い活動を展開した。」(p.112)

徳富蘇峰…「新聞社の中でも桂内閣寄りの『国民新聞』のオーナー徳富蘇峰は醒めていた。「国民の熱心」は、実は日清戦争当時の半分もないと断言する。しかし、その冷めた意識は国民が大いに責任を感じるがゆえであって、その方がよい。逆に、現在「突飛の議論」を行う者こそ、「畢竟二、三の飛び上り者流」にほかならないという。すなわち、蘇峰は浮ついた国民意識を警戒していたのである。奉天会戦後の1905年6月時点でも蘇峰は、日本は表面上強がっているが、実際は今回の戦争で「総ての力は殆んと出し尽し」たという。戦費は外債でまかなうことはできても、取り替えのきかない兵力量の問題はどうしようもない。よって、蘇峰は「完全の戦争」よりも「不完全な平和」を喜ぶと断言した。」(p.121-122)

鳥居素川…「従軍記者たちは、ジャーナリストとしてニュースを追うことより、戦争を素材に名文・美文を書くことを競いあった。朝日新聞の鳥居素川・半井桃水、毎日新聞の大庭柯公などが渡航、田山花袋が博文館から、志賀重昂が毎日新聞から派遣され、名文を競った。また、さまざまに文体を工夫した観戦記の通俗読み物が数多く登場、読者を魅了した。こうした従軍記者の書く記事は、日露戦争の戦場を悲壮美の世界として描くものであり、実際の戦場とはかけ離れたものであった。」(p.124)

『日露戦争』読書メモ

千葉功著『日露戦争』(吉川弘文館、3000円+税、2026年)を手に取ったきっかけは、4月4日の朝日新聞読書面に載っていた吉田裕氏による書評でした。同書評の言葉を借りれば、日露戦争の全体像を解明した意欲作で、政治史・外交史の分野での通説批判が鮮やかとありました。本書の目配りは多岐にわたり、アイヌや沖縄出身を含む兵士の立ち位置から浮き彫りにした戦場の記憶、教育や文化を通じた戦争観の変遷などに触れてあります。それこそ大半の国民が「坂の上の雲」のイメージに留まっている歴史観を洗い流す、研究者の視点の広がりを存分に感じる著書でした。本書は吉川弘文館の「日本歴史叢書(新装版)」シリーズの一角ですが、巻末に当時の日本歴史学会の代表者・児玉幸多氏による同シリーズ刊行時の辞が載っています。著者の千葉氏は学習院大学教授なのですが、児玉氏はかつて学習院大学の学長を務めておられたのを思い出しました。
それはさておき、「日露戦争は日清戦争と違って、日本が西洋の帝国主義列強と本格的に戦った最初の事例」(p.4)です。だからこそ、「日本が戦争を遂行するにあたり、どのような軍事・政治・経済的施策が取られたのか」「どのような戦時国民動員が行われて、それが社会にどのような影響を与えたのか」「日本の帝国化ないし一種の大規模な異文化接触がどのような現象として表れたのか」(p.5)を知る意味は大きいと思います。
戦争のリアルさという点では、かなり無謀な戦争であったということが改めて理解できた思いがしました。とりわけ陸軍の戦死者・戦傷病者といった損耗率は高いものがありましたし、戦費の調達のため国内経済にも多大な負担を与えました。一方で、メディアの戦意高揚ぶりや兵士の日記・手紙に見られる戦地での朝鮮人や中国人に対する蔑視記述など、現代にも共通して懸念される武力重視の対外強硬思想や外国人差別感情といった醜悪な国民統合の土壌を見る思いがしました。
81年前の敗戦だけでなく120年前の戦争の実相からも学ぶべき点が多々あるのを感じます。