充て職で務めていた社会福祉法人宇土市社会福祉協議会評議員の辞任届を2026年1月30日に提出しましたので、関連情報の記載があったページを更新しました。
月別アーカイブ: 2026年1月
6回目の戒厳令(修正更新)
秋政久裕様からのご教示により当初の記述から2点を修正更新します。
1.「4度目」ではなく「6度目」。大日本帝国時代の戒厳は、日清戦争時、日露戦争時に「臨戦地境戒厳」が出ており、「行政戒厳」と合わせて5回出ている。
2.戒厳司令官は「畑俊六」で「佐伯文郎」ではない。戒厳司令官となった第二総軍司令官の畑俊六元帥は、船舶司令部司令官の佐伯文郎中将を、警備担任司令官に任命した。戒厳司令官はあくまで畑俊六で、佐伯は畑から区処された警備担任司令官である。
(以下は修正前の記述)
AIくんが教えてくれるところでは、大日本帝国時代に「戒厳令」が発令されたのは、日比谷焼打事件(1905年)、関東大震災(1923年)、二・二六事件(1936年)の3回となっています。戒厳令の根拠法は太政官布告第36号(明治15年)であり、天皇が大日本帝国憲法第14条に基づき「戒厳の宣告」を行う仕組みでした。
しかし、アジア・太平洋戦争末期の1945年8月6日に原子爆弾で焦土と化した広島において、歴史的にはないとされている4回目の戒厳令が天皇の許しを得ず宣告されたと考えている研究者がいます。昨夜(1月17日)行われた「空襲・戦災を記録する会」が主催する「第45回空襲オンライン学習会」において、その研究を行っている広島城の元学芸員・秋政久裕さんの報告を受講する機会を得ましたが、その考察内容は十分納得できるものでした。
根拠として以下の点を秋政さんは指摘していました。
1.戒厳令宣告を決定した事情を知る4人の参謀の証言が確認できること。
・広島県『広島県史 近代2』(1981年刊)…岡崎清三郎元第二総軍参謀長の話を基に記述。
・篠原優『暁部隊始末記』(1964年刊)…篠原氏は陸軍船舶司令部の元高級参謀。
・読売新聞社『昭和史の天皇4』(1968年刊)…井本熊男高級参謀と橋本正勝作戦主任参謀の話を基に記述。
2.第二総軍司令官の畑元帥が、隷下にない佐伯船舶司令官へ命令できたのは、戒厳令が出ていたからこそ。
・被爆直後は広島-東京間との連絡は不通。畑俊六が戒厳令を決定し、戒厳司令官には佐伯文郎中将を任じた。
3.畑や佐伯が戒厳令について証言を残さなかったのは、天皇大権を越権した悔いがあったから。
・畑は侍従武官の経験があり、自決前の阿南陸相へ終身制の元帥返上を申し出たのも、越権に対する責任感から。
・太政官布告第36号の第7条では、戒厳宣告時の上申先は太政官(=陸軍大臣)となっていた。
・戒厳令解止も本来であれば天皇が行うが、それは敗戦の混乱でうやむやとなった。
ところで、この戒厳令宣告を決定した場所は、原爆で倒壊した第二総軍司令部建物の背後の二葉山に構築中の地下壕内でした。現在、入口の穴が数か所確認されていますが、いずれも戦争遺跡としての保存整備は手つかずのままとなっています。地権者は国ということですが、行政の動きはたいへん鈍いと聞きました。今回の報告を聞いてなんとか保存整備そして公開へ進まないかと思いました。
それと、この戒厳令により、「本土決戦」に備えて広島県呉の山中で地雷を抱えて戦車に突き進む訓練をしていた海軍の「陸戦隊」や水上特攻艇マルレの訓練をしていた陸軍の船舶部隊「暁部隊」の若者たちが、原爆投下直後の焦土の広島へ救援部隊として送り込まれ、いわゆる「入市被爆」をします。しかし、いずれも特攻要員の秘匿部隊所属であったため、軍歴記録に空白があるなどして被爆を裏付ける証明が難しく被爆者手帳を取得するまで相当な期間を要しました。中には手帳を申請できることを知らないまま亡くなった方も数多くいます。その史実については、昨年12月に集英社新書から刊行された中國新聞客員編集委員の佐田尾信作氏による『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』が参考になります。
なお、地下壕について取り上げたニュース動画が下記より視聴できます。
https://www.youtube.com/watch?v=7JIUqS6hgnE
イスラムの世界史
イスラム地域研究の専門家である宮田律氏によるの最新著『50のストーリーでつながりがわかるイスラムの世界史』(中央公論新社、1950円+税、2025年)は、ふだん馴染みがないイスラム世界の歴史を理解するのに適した教科書としてお勧めではないかと思います。馴染みが薄いとはいえ、日本におけるイスラムに関する報道は、テロや戦争に関係するものがほとんどなので、イスラムに対するイメージが、何かしら物騒な得体のしれない怖さを秘めたものになっているのが、実情だと思います。しかし、本書を読むとイスラムは本来、テロや暴力を否定し、子どもや女性、高齢者などに対する保護を強調する宗教ですし、貧困者を救済するために喜捨の義務があり平等を求めます。信仰を強制せず信仰の自由を保障することから、歴史的に見ると、ユダヤ教徒やキリスト教徒との共存ができた時代がはるかに長かったことを知ることができます。
学問の発展についてもヨーロッパ・キリスト教世界で花開いたイメージが私たちには強くあると思いますが、これも歴史的に振り返ると、その基礎がイスラムの世界発ということが、医学や数学、天文学さまざまな分野で多くあります。算用数字をアラビア数字と称することを思い出してもらうと、納得されると思います。現在のアフガニスタンのタリバンからは想像できませんが、音楽・楽器もその源がけっこうイスラムの世界にはあります。
さらには、食文化においてもイスラム発祥のものが多いと知り、これがもっとも驚きでした。私がウィーンで飲んだコーヒーも、ローマで食べたパスタ、マドリードで食べたパエリアなど、いずれもイスラム世界からヨーロッパへもたらされたものです。
本書は、イスラエルとパレスチナとの関係など、現在の不幸な側面についての解説にもページを割いていますが、平和共存は絶対に不可能なのかを歴史から学ぶべきだと思います。現在の日本国内においてもクルド人に対する不当な差別も無知や誤情報思い込みゆえに起こっていることで、みっともなく思います。
カスハラ対策法10月1日施行
企業にカスタマーハラスメント防止の取り組みを義務付けるカスハラ対策法の施行日は、今年の10月1日。たまたまトラック業界の啓発動画を視聴してみましたが、なかなかよくできています。まずもって身体的・精神的苦痛を相手に与えるだけのハラスメント行為に無自覚な人物には、軽蔑の念を覚えます。問題は、いくらその方針や対策を文章にしても、社員の人権が侵害されていると気づいて受け止めて毅然とした対応がとれる経営者なり管理職がいるかどうか。それがないところでは、人材が離れたり育たなかったりするわけで、いろいろ考えさせられる動画でした。
私は、最初の仕事が求人情報誌の営業だったので、さまざまな業界の経営者と会う機会がありました。その後自分でもやってみましたが、会社を起こすのはある意味カンタンなことです。社長なんぞには誰でもなろうと思えばなれます。クズ比率も必然的に多くなるというのが実感です。
そして、人権意識が高い経営者や管理職がいる組織かどうかは話が別だなとも感じていました。そこが足りない組織はいずれ自然淘汰されます。
https://www.youtube.com/watch?v=9nycaSwQK1Y
ツカハラではなくてツカワラ
一昨日のNHKローカルニュースで、熊本市塚原歴史民俗資料館の「熊本市遺跡発掘速報展2025」の内覧会を紹介してしていました。割と近距離に位置する施設ですが、これまで訪ねたことがないのと、それまで「つかはら」だと思い込んでいた地名が、実は「つかわら」だったと知って、俄然興味が湧き観に行きました。地名の読みについては、熊本出身のアナウンサーもニュースでは最初私と同様に間違った読みで紹介していて番組の終わり方に訂正していたぐらいです。
それはともかく実際に観に行ってその展示には満足しました。出土品からうかがえる交流の広さを知ると、現代日本で蔓延る外国人排外主義の風潮がなんともみみっちく思えます。貝塚の位置からは当時の海岸線もうかがえますから、元は海だったところに住んでいる現代人が土地の権利でそんなに偉そうにするなよという気持ちにもなります。
近くにぜいたくな気分に浸れる施設があって得しました。
戦争の時間旅行者展
益城町交流情報センターで開催中の企画展「戦争の時間旅行者」を先日見てきました。小規模な展示でしたが、益城町に関連する戦争の記憶を、実に弥生時代から第二次世界大戦まで振り返る、時間軸が長いユニークな企画でした。たとえば、関ヶ原の戦いで東軍に組した加藤清正が、西軍の小西行長の居城・宇土を攻める際に拠点にしたのは、益城町の木山だったそうです。
それから277年後の西南戦争のおりには、熊本城包囲戦から撤退した薩軍が、本営を熊本市の二本木から木山に移したとありました。加藤清正も西郷隆盛も同地を本陣とする重要性を認めていたということでしょうか。益城町の飯野地区では、官軍と薩軍との戦闘(今でも弾丸が出土するそうです)があり、地元の有力者たち依頼でその激闘の模様が絵馬として描かれ、砥川阿蘇神社に奉納され現在も残っていることを知りました(会場では写真を展示)。西南戦争でいえば、当時の細川護久知事の娘3人が薩軍から逃れるため益城町内の有力者宅に避難していたそうで、そのときに使用された駕篭の展示もありました。
あと珍しいものとしては、一〇式艦上戦闘機(1922年=T11に英国の技術供与で日本が最初に建造した空母「鳳翔」の複葉の艦載機。試作が1921年=T10であることから一〇式。ちなみに鳳翔は戦後復員船として供用された)木製プロペラを津森神宮で所蔵しているということで、これは実物が展示されていました。
会場の近くにはワンピースの「サンジ」像があり、それ目当ての人が多い場所ではありますが、ぜひこちらへも立ち寄る人が増えてほしいと感じました。アンケートに答えるともれなくクリアファイルがもらえます。
https://kumanichi.com/articles/1940113
第二総軍地下壕と入市被爆
空襲・戦災を記録する会が主催する第45回空襲オンライン学習会が近くあるので参加予定ですが、今回のテーマは「昭和20年8月6日 第二総軍原爆記 ―空襲と戒厳令―」で報告者は秋政久裕さんということでした。
https://kushusensai.net/joz4ywci4-9/#_9
ここに出てくる「第二総軍」とは、1945年4月、本土決戦で国内が戦場となることを想定した陸軍が日本列島を二分して置いた西日本の部隊の総称です(東日本側が「第一総軍」)。「第二総軍」の司令部は、広島市の騎兵第五聯隊の兵営跡に置かれました。同年8月6日の広島原爆被爆当時は、地上三階建ての建物であり、450人余りの要員が原爆で倒壊した建物の下敷きになったといいます。2017年にICANがノーベル平和賞を受賞したときの講演で知られるサーロー節子さんは、当時広島女学院高等女学校の生徒であり、司令部暗号班に動員されていたため、やはり下敷きになりましたが、必死で這い出た数少ない生存者の一人です。
同時期、司令部は朝鮮人労務者100人ほどを使い、二葉山の山中に横穴式の地下壕を掘削する工事を進めていました。洞窟司令部としては7割方完成していたそうです。原爆被爆後は実際にその地下壕を司令部として利用したそうですが、現在その遺構は保存されていません。
報告者の秋政久裕さんは、中国軍管区司令部があった広島城の元学芸員ですが、二葉山南麓の斜面に横穴4か所、立坑1か所を確認しているそうです(2025年1月の広島の地方紙・中國新聞に記事掲載)。第二総軍の二葉山地下壕について秋政さんは、焦土と化した広島の復旧のため一時的に「軍政(戒厳状態)」を敷くと決めたことに係る重要な場所だと考えています。
実は、これら第二総軍地下壕や報告者のお名前は、先月集英社新書から出たばかりの佐田尾信作著の『陸戦隊と暁部隊 ヒロシマの秘史を追う』のp.99-108に出てきます。同書は、陸戦隊の元水兵を父に持つ中國新聞記者による著作です。取材対象は、1945年夏に「本土決戦」に備えて広島県呉の山中で地雷を抱えて戦車に突き進む訓練をしていた海軍の「陸戦隊」や水上特攻艇マルレの訓練をしていた陸軍の船舶部隊「暁部隊」の若者たち。彼らは原爆投下直後の焦土の広島へ救援部隊として送り込まれ、いわゆる「入市被爆」をします。しかし、いずれも特攻要員の秘匿部隊所属であったため、軍歴記録に空白があるなどして被爆を裏付ける証明が難しく被爆者手帳を取得するまで相当な期間を要しました。中には手帳を申請できることを知らないまま亡くなった方も数多くいます。
81年前にただただ命を差し出すことを求められた若者たちがいて、生きながらえても重い傷を負い続けなければならなかったのです。これほど罪深いことを強いた人間が確実にいたということ、これからもそんな人間が出てしまいかねないということを絶対に忘れてはならないと思います。