月別アーカイブ: 2025年9月

信用ならない手合い

2年後の夏の完成を目指し、熊本県護国神社内に東京の靖国神社遊就館の熊本版資料館建設の動きが進んでいます。9月25日の地元紙には、その建設費の寄付を募る広告が掲載されていました。その広告には60名弱の発起人の名前が載っていて興味深く見ました。顔ぶれから察するに、第一は当人がその信念から80年前の戦争を侵略戦争とは考えていない方々と、第二は県内の主要企業団体等のトップとかで付き合いで名前を出している方々と思われました。
前者は日頃から日本会議や元統一教会の活動歴でその名に覚えがある方々です。相も変わらずだなあと、思うだけです。始末に悪いのは、後者の方々です。日頃立派なことを言っていても、80年前の戦争で多大な苦痛を強いられた国・地域の記憶を逆なでする歴史観に立つと見なされることに思いが至らないのかなと、不思議でなりません。当人が思慮に欠けるのか、当人の取り巻きがそうなのか分かりませんが、これは信用ならない手合いだなと感じます。
9月30日の全国紙熊本版に県内の私大の理事長が、水俣病の教訓を講義したと好意的に書いてありました。しかし、この人物は、一方で戦争における兵士の行動を賛美し、国策の誤りを直視せずにひたすら愛国・国威発揚に邁進する資料館建設の音頭取りに名を連ねています。この両立がなぜ可能なのか、ちょっと理解するのが困難でした。

人新世は条件という認識はあるか

元環境大臣の経歴をもつ政治家が、今回の自民党総裁選挙の有力候補者として注目されているようですが、選挙中の発言を追ってみると目先の話ばかりで、たとえば気候変動対策についてどのような外交を展開していくのかという大きな政策ビジョンが聞こえてきません。その人物が現在所管する食料の安定生産についても実際のところは気候変動が大いに関係しています。現在米国大統領を務める老人の場合は、任期が残り3年もないので、地球に暮らす将来世代に禍根が残ろうとも関係ないのかもしれませんが、まだ数十年くらいは政治家を続ける可能性のある40歳代なら少しは頭を使えよと言いたくもなります。
アドリアン・エステーヴ著『環境地政学』(白水社文庫クセジュ、1400円+税、2025年)を最近読んでみました。経済成長至上主義、資源の収奪、植民地支配、自然の支配、男性中心の社会といった近現代の人間の活動が、気候変動をもたらした流れを理解できます。これはグローバルノースの国家に限らずグローバルサウスの国家にも共通する課題ですし、人新世そのものなのだと思います。本書では、さまざまな人物が警鐘を鳴らしてきた歴史、国際的に対応している動きについての情報も紹介しています。コンパクトな著作ながら、人新世の見取り図・現在地を掴むには適した本だと思いました。
これからの地球人にとって必要なことは、領土的枠組みにとらわれず人類共通という考えで、歴史と科学を学び、人新世は条件であるという認識に立つことが重要だと思います。その認識で国際的にリードできる人物の活躍を期待したいと考えます。

人権なき世界の体験記

今月12~15日に鶴屋百貨店で「古書籍販売会」が開かれているということで、13日に会場を訪ねてみて、写真の4点(出展していたのはいずれも「古書汽水社」)を購入しました。どちらも日中戦争当時、大陸打通作戦に参戦した熊本編成の第五十八師団所属の従軍兵士の記録です。
『零の進軍』(2015年刊)の著者である吉岡義一氏は、1943年、国民学校の代用教員であった21歳の時に徴兵され、文字通り一兵卒(二等兵)から軍隊経験を積みます。終戦時の階級は伍長ですが、末端の下級兵士の体験は苛酷な戦闘にとどまらず、行軍の辛さや軍隊内における古兵による陰湿ないじめ、中国の民家への食料調達を目的とした盗賊行為などが強烈な記憶としてあり、これは繰り返し描かれています。一方において朝ドラ「あんぱん」に登場する八木上等兵のようないつも初年兵を気遣ってくれる人物(本書では谷口兵長。共に復員)の存在や終戦後の捕虜生活で出合った中国の民衆との交流体験についても触れられていて、救われる部分もあります。
『生と死の狭間をゆく』(第一部2004年刊、第二部2006年刊)の著者のである城武信氏の場合は、1941年の大晦日に九州帝大を繰り上げ卒業となり、翌年予備士官学校を経由して24歳にして第一線の小隊長として部下の指揮をとる立場になります。食事の調達や重い装備を着装しての行軍といった兵卒ならではの負担はないにしても、戦闘以前に体力・気力消耗を強いる上級幹部の能力のなさ、軍隊組織そのものが抱える欠陥といった点に批判的な目を向けています。ですが、こちらも直属の上司にあたる中隊長(本書では東大在学中に野球部で活躍した山脇中隊長。1945年7月23日戦死。著者はそれ以前に重傷を負い戦場を離れていたため終戦後に知る)が、部下からの信頼を集める優秀な人格者であったため、その点は恵まれていたとたびたび記述していました。
階級が異なるために体験に差がある点もありますが、共通するのは自分が置かれた戦場以外の情報とは隔絶されていたため、国策の方向に疑問を薄々感じていても全体がまったく見えていなかったことが挙げられます。それに抗して声を上げるとか考えが及ばないくらい、自分の人権は護られるべきであるという教育を、当時は一切受けられずにいたのだなと改めて感じさせられました。

ハリボテかどうかを見極める

弁護士による遺言書をめぐる講演を含む「認知症フォーラム」が、本日午前に地元市役所で開かれたので受講してみました。例年だと市の担当課による高齢者支援の福祉施策の説明や今回のフォーラムでもあった介護事業所による現場の話が中心でしたが、今年は法律の専門家を招いての催しとあって受講者も少し多いようでした。
それで、弁護士の講演内容についてですが、資料や説明で正確さを欠く点がありました。質問時間は設けられず、また受講者の前で公然と指摘するのも野暮だと考え、アンケートで指摘記入しておきました。
たとえば、資料には「小説『塩狩峠』 著者 三浦綾子、昭和41(1968)年に発表された小説」とありました。まずここで昭和41年なら西暦で1966年なので、おやおやと思いました。事実に即して表記するならば、「昭和41(1966)年から昭和43(1968)年にかけて雑誌『信徒の友』に連載発表され、昭和43(1968)年に単行本出版された小説」とあるべきでした。要件事実の「いつ」をここまでいい加減に表記しておかしいと気付けないとは驚きでした。
自筆証書遺言書保管制度の説明では、保管できる法務局は本局だけで支局ではできないというものもありましたが、これは誤りです。遺言者の住所地、本籍地、所有不動産のいずれかを担当(管轄)する法務局が保管所となりますから、支局でも保管してくれます。実際、私は地元支局の保管第1号の遺言者です。ほかにも資料や説明で正確さを欠いた点がありましたが、改めて資格称号だけで話を信用してはならないなと思いました。ファクトチェックされていない情報に接するときはなおさらです。
書籍の場合は、著者の専門性に加えて出版社側の目も入りますから、信頼度は高くなります。法律分野とは異なりますが、最近読んだ本では、藤井一至著『土と生命の46億年史』(講談社ブルーバックス、1200円+税、2024年)や高田貫太著『渡来人とは誰か』(ちくま新書、1200+税、2025年)が面白かったので、紹介しておきます。こうした本に親しんでおくと、ヘンな宗教やら政党に目覚めた連中の主張に騙されないどころか、容易に綻び=知の欠如を衝けるのでニヤニヤできて楽しいと思います。
そういえば、市役所入口にはハリボテ作品が飾ってありました。目の前の専門家が「つくりモン」かどうか見極めてみるべきです。

1938年の人道飛行

家近亮子著『蔣介石 「中華の復興」を実現した男』(ちくま新書、1400円+税、2025年)のp.302-306にかけて1938年5月20日に中国空軍2機によって「熊本県水俣から日本に侵入、球磨川を遡行し、宮崎県の延岡上空で反転、再び球磨川沿いに海に出て、姿を消し」た反戦ビラ20万枚の撒布について記されていました。この前年に盧溝橋事件が起こり、日中戦争が勃発し、国民政府は首都を南京から重慶に移します。南京事件も1937年から1938年にありましたが、日本の大手新聞が南京事件の実態を初めて報道したのは、戦後の1945年12月8日の『読売報知』だったと言います(p.298)。
つまり、1938年当時の中国国内での戦争の実態を何も知らない内地の日本国民を感化し、連帯を期待する目的で蔣介石が実行したのが「人道飛行」と名付けた反戦ビラ撒布だったというわけです。しかし、当時の日本人たちはビラを拾うと直ちに警察に届けたため、翌日の『九州日日新聞』や『宮崎新聞』では号外でビラ撒布の事件を報じましたが、ビラそのものはすべて回収され現存しているものはほとんどないとされています。なお、熊本県内では「日本農民大衆に告ぐ」が集中的に撒かれたようです。
ビラの内容は、日本の兵士が中国でたくさん戦死し、悲惨な最期をとげているという現状を伝えるもので、蔣介石が1938年7月7日の抗戦一周年記念に発表した「日本国民に告げる書」と一致するところが多いため、蔣介石の関与の深いと考えられています。
この人道飛行については、「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」が2025年8月に発刊したリーフレットでも触れられています。
※家近本とくまもと戦跡ネットとの相違点
(家)人道飛行 ― (く)人道爆撃
(家)徐煥昇 ― (く)徐煥升
(家)馬丁式重轟炸機マーチンB-10重爆撃機 ― (く)馬丁式重轟炸機マーチン重爆撃機B-10、B-10マーチン重爆撃機
(家)撒布されたのは4種類のビラ(「日本農民大衆に告ぐ」「日本労働者諸君に告ぐ」「日本小商工業者諸君に告ぐ」「日本政党人士各位に告ぐ」)と1種類のパンフレット(「日本人民に告ぐ」) ― (く)「日本人民に告ぐ」「日本農民大衆に告ぐ」「日本労働者諸君に告ぐ」「日本工商業者に告ぐ」「日本各政党人士に告ぐ」の5種類のいずれも冊子形式
(家)20万枚 ― (く)10万枚

書く行為の根源

「世の中が万事円満であれば、生涯かけて誰が俳句など作ろうか」と、本日の地元紙連載に俳人の長谷川櫂さんが記していて、書く行為の根源には、誰しも熱さや執念、恨みつらみがあり、それがあるこそ他人にも作者の思いが伝わるのだなと思いました。
きょうの長谷川さんの文章では、30年以上前に当時小学2年生の長男が、同じ市内に住む大学生運転の車にはねられ、重傷を負った経験を明かされています。その加害者の大学生からおわびの一言もなく、その後どのような刑罰を受けたのかさえ、検察から知らされることもなかったとありました。その腹立たしさは今も忘れることができず、加害者の学生の名前を自分の死後に「墓の中まで持ってゆくつもり」とまで、心情を吐露されていました。
いつになく私的な憤激が込められた文章に驚きも覚えつつも、長谷川櫂という人物の生身の人間性を最も強く感じた回でした。

『世界』2025年10月号メモ

今号では、以下の2本が注目でした。

短時間正社員──労働力不足時代の働き方アップデート
田中洋子(筑波大学名誉教授)
…働く時間を選べる正社員という選択肢があれば、働く人にとっても雇用者にとってもメリットが大きいと感じます。日本よりも人口が少ないにもかかわらずGDPでは上位のドイツには、非正規パートは存在せず、短時間正社員、時短正社員という働き方が普及しています。フルタイムもパートタイムも全員が同じ一つの給与表にしたがって実際に働いた時間の割合で計算して支払われるそうです。そのためドイツでは自分の働き方をパーセントで話すことが一般的であり、一つの管理職ポストを2人でシェアリングしながらキャリア形成することも普通だといいます。論考では、日本でも導入している例としてイケア・ジャパンと広島電鉄を紹介していました。優秀な人材に定着してほしいと願う組織では取り入れてみると採用面でも効果的だと思いました。

「天皇陵」と民主主義──世界遺産登録と大山古墳立入り観察から
高木博志(京都大学名誉教授)
…2019年に百舌鳥・古市古墳群が世界遺産に登録された際に、大山古墳は「仁徳天皇陵古墳」、誉田御廟山古墳は「応神天皇陵古墳」の名称で構成遺産となったそうです。しかしこれは選ばれた一部の学者によって、学会や市民に諮ることもなく決められたがために、国際社会にのみならず、国内の市民や教育現場にも、記紀系譜や神話世界を鵜呑みにさせる影響をもたらしたと筆者は批判しています。陵墓の墳丘の上まで登ることができる宮内庁の2023年度の陵墓管理委員会委員としては、敬称略で河上邦彦、石上英一、和田晴吾、佐藤信、本中眞、堺秀弥、田村毅、福永伸哉といった学者が名を連ねています。これらの研究者は、「皇室の先祖の墓」と見なした上で、立ち入りが可能なのですが、中にはかつて陵墓公開運動に携わった学者も含まれていることから問題だと筆者は感じているようでした。ちょうど今月13日に熊本県立図書館において佐藤信氏の講演を聴く機会があるのですが、本稿をどう受け止めているかも聞いてみたい気もします。ちなみに21世紀の歴史学では、大山古墳や誉田御廟山古墳が築造された5世紀には、いまだ「天皇号」は成立せず、おそらく倭の五王の墓のどれかに過ぎず、それが7世紀後半に始まる律令制下の天皇や、まして現在の天皇家と直結するわけでもない、というのが寄稿者の見解です。

なんとかなるって旧軍じゃあるまいし

山口智美氏がX投稿で紹介していた、某県の「ウェルビーイング」資料が確かにすごい。
こんな目くらましの話で県民が幸福になって感謝されると考えたのだとしたら、ホントおめでたい行政機関ですね。
これで「なんとかなる」だろうってのは、とても施策と呼べる仕事ではないと感じました。
自称「成長戦略室」というのも、厚顔無恥の極みだねぇ。地元のいいクスリを飲んで目を覚ましたらと思いました。

『草の根のファシズム』読後メモ

2022年8月に岩波現代文庫から文庫化出版された吉見義明著の『草の根のファシズム 日本民衆の戦争体験』は、もともと1987年7月にシリーズ「新しい世界史」の一冊として東京大学出版会より刊行されています。1946年生まれの著者は、もともと日本の社会運動に関する歴史を研究対象としていましたが、日本ファシズムと戦争の問題に関心を持つようになり、次第に視線を低くし、ファシズムや戦争に対する普通の人々の反応や意識の問題をさぐることに、強い興味を感じるようになったと、本書あとがきで明らかにしています。同時に1970年代に入ってから膨大な量の戦争体験記類(その多くは日記または敗戦直後にまとめられた記録、現役を退いてからまとめられた回想記)が、私家版などの形で刊行された時期にあたったこともそれを後押しすることとなりました。こうした記録はそれまでの現代史学で対象とならなかったのですが、当時30代の若手研究者であった著者は、それら生存記録者や故人記録者の関係者に対する追加取材(インタビュー証言・書簡交換など)を加えて本書を完成させるに至りました。
ですが、史料はそれだけに留まりません。軍部を批判した政党政治家の斎藤隆夫のもとに人々が寄せた激励や感謝の書簡、国民の手紙を検閲から得た司法省刑事局の分析報告、戦後のアメリカ戦略爆撃調査団戦意部の日本国民に対する聴取データもあります。
さらに、登場する民衆も内地人に限られません。沖縄県人、アイヌ、ウィルタとチャモロ人、朝鮮人、台湾人にも目を向けています。在外邦人についても滞在した土地や立場(兵士か商人など)で体験は異なりますから、それについても広く目を向けられています。
その中でも熊本県出身の新美彰(にいみ・あや)さんの体験についての記述は、印象に強く残りました。タイプと速記の技能があった彼女は、1943年5月にマニラ日本人会の職員募集に応じて単身フィリピンへ渡りました。同年9月、マニラに進出していた日本企業に勤める同郷の男性と結婚し、翌年7月には長女を出産します。しかし、1944年9月に米軍によるマニラ初空襲があり、同年10月には夫が現地召集されます。母子は帰国することもできず、ルソン島の山野を避難放浪することになります。生きるためにフィリピン住民の家から食料を盗んだり、逆に日本軍兵士から食料を盗まれたりすることもありました。厳しい食料事情の中、長女は1945年8月上旬、1歳あまりで命を失い、亡骸を山中に埋める悲惨な体験をします。敗戦は米軍機のまくビラで知り、その後、米軍の捕虜収容所を経て帰国できたのは11月、翌年に夫の戦死公報を受け取ります。熊本帰還後の1946年、栄養失調の療養中、石鹸の行商や線路に落ちている石炭拾いの間に手記をまとめ、1976年に私家版として『わたしのフィリッピンものがたり』を出版しています。
なお、新美彰さんの体験については、今年8月に放送された「NHKスペシャル 新・ドキュメント太平洋戦争 1945 終戦」「NHKスペシャル 新・ドキュメント太平洋戦争 最終回 忘れられた悲しみ」でも取り上げられています。戦後は、たびたびフィリピンへ通い、亡き家族の慰霊を続けるとともに、同じく家族を亡くしたフィリピンの人々とも交流しました。
https://gendai.media/articles/-/156213?page=2
戦争体験の継承としては、新美彰さんと吉見義明氏との共著である『フィリピン戦逃避行』(岩波ブックレット、1993年)もあります。戦争の悲惨を繰り返さないことと、長女の鎮魂を願って、紙芝居をつくり、若者たちに語り続ける活動をしていることが書かれています。
https://www.iwanami.co.jp/book/b253846.html
『草の根のファシズム』に取り上げられた記録を読むと、戦中・戦後を通じて意識・態度が変化した人もいれば、戦争を体験しながら「聖戦」観が残存したままの人や戦争協力に対する反省が中断したままの人、主体的な戦争責任の点検・検証が欠如したままの人、アジアに対する「帝国」意識が持続したままの人も登場します。戦争を体験したことのない現代人においてもそうした人がいるのを感じます。
戦争という過ちは、歴史上たびたび繰り返されているわけですが、歴史が過ちを繰り返しているわけではありません。歴史から学べない人が戦争という最大の過ちを繰り返しているわけです。
そうした過ちを繰り返さないためには、一人ひとりが常日頃からファクトチェックされた情報を進んで摂取して自ら考えを書き、集合知として共有していくことが有効だと考えています。肌の色や国籍・居住地その他が異なる人にとって共通の価値とならない主張はだいたいどこか間違っているものです。切り取り動画にたやすく騙される思慮のない人に成り下がらないようになりたいものです。
きのう読み書き習慣と読解力・思考力との関係についての興味深い考察が発表されていましたので、それも紹介しておきます。
https://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/news/topics/20250901140000.html

同級生の近況映像に接しました

NHKプラスで、北海道スペシャル「極北ラジオ 樺太・豊原放送局」を視聴していたら、学習院大学在学時に同級生だった兎内君が出てました。ネットで近況写真を見たことはありましたが、映像でお目にかかるのは実に卒業以来初めてです。番組では、終戦直前からのソ連侵攻により南樺太に残された日本人の処遇について、日本政府が「現地定着方針」を終戦後示したねらいを解説していました。
彼は、大学時代、馬術部に属し史学科に学びました。当時の史学科に日露関係が専門の教授がいた覚えはないのですが、後年同じく学習院大学史学科を出ている麻田雅文氏(岩手大学准教授)が『日ソ戦争』(中公新書、2024年)の著者として活躍しているように、ユニークな研究者を輩出しているところでもあります。
麻田氏の『日ソ戦争』も遅ればせながら近く読んでみます。
なお、ロシア政治が専門の中村逸郎筑波大学名誉教授も学習院大学を出てますが、政治学科に学んでいて、私が属した河合秀和ゼミの先輩です。