月別アーカイブ: 2025年7月

無言館

NHKのEテレで本日再放送された「木村多江の、いまさらですが… 学徒出陣~無言館 画学生が描いた青春~」を視聴しました。長野県上田市にある「戦没画学生慰霊美術館 無言館」については、まだ訪ねてみたことはない美術館ですが、同館には東京美術学校の油画科を出て熊本県立宇土中学校教諭となった佐久間修の作品(油彩画「静子像」、素描「裸婦」、妻と二児宛の絵入りの葉書)などが収蔵展示されていることもあって以前から気になる場所です。佐久間教諭は、1944年10月25日、生徒を引率した勤労動員先の長崎・大村の第二一海軍航空廠で、中国・成都から出撃した米軍爆撃機B29の直撃弾を受け29歳で亡くなっています(先日手元に届いた宇土高校同窓会報で私より1学年上の同窓会事務局長が校内の慰霊塔に関連してこのことを知らないと書いていてショックでした→すぐさま指摘しました)。
番組では、タイトルにある通り学徒出陣した戦没画学生の人となりや作品紹介が中心でしたので、佐久間作品の紹介はありませんでしたが、絵を描き続ける夢を若くして断たれてしまい、物が言えない戦没者であることには変わりありません。一方、番組では、同館の収蔵作品にはありませんが、戦意高揚に協力した藤田嗣治とその作品(アッツ島玉砕)を紹介していました。
美術というと、文字通り美しいものの追求に主眼があって、戦争とは対極にあるイメージが一般には強いと思いますが、近代日本においては陸軍士官学校で西洋画技法の教育が盛んであったように、意外と軍事とは密接な部分があります。現地偵察や地形図から写景(視図)をすぐ描けることは、将校や軍事スパイに必須の資質でした。将校の戦争回想でスケッチが添えられている例は多いように感じます。
話がすっかり逸れてしまいました。なかなか「無言館」へ行くのは、難しいので、このようにテレビで紹介してもらえるのはありがたいです。前の投稿で、東京国立近代美術館で開催中の「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」の展覧会を訪ねてみたいと書きました。これに加えて川崎市岡本太郎美術館で開催中の「戦後80年 《明日の神話》 次世代につなぐ 原爆×芸術」展も見どころが多い印象を受けます。こちらは、広島市の高校生たちと被爆者がペアになって描いた作品と現代作家9組および岡本太郎の作品が展示されています。ぜひ行ってみたいと思っています。
https://www.nhk.jp/p/ts/4J9V6VZY6M/
https://www.momat.go.jp/exhibitions/563
https://www.taromuseum.jp/event/%e3%80%8c%e6%88%a6%e5%be%8c80%e5%b9%b4-%e3%80%8a%e6%98%8e%e6%97%a5%e3%81%ae%e7%a5%9e%e8%a9%b1%e3%80%8b-%e6%ac%a1%e4%b8%96%e4%bb%a3%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%aa%e3%81%90-%e5%8e%9f%e7%88%86x%e8%8a%b8

記録をひらく 記憶をつむぐ

1976年生まれの台湾出身のアーティスト、チェン・チンヤオが自身の作品の下敷きにした、藤田嗣治や鶴田吾郎の戦争プロパガンダ画が展示されているとのこと。プロパガンダ美術の対極にある、熊本出身の浜田知明の作品(「初年兵哀歌」ほか)、さらには丸木位里・俊の「原爆の図」も合わせて展示されているので、会期中に訪ねてみたいと思います。
コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ
会期 2025.7.15 – 10.26 会場 東京国立近代美術館 1F企画展ギャラリー
https://www.momat.go.jp/exhibitions/563

カスハラ対策と自動通話録音装置導入

宇土市役所本庁舎における電話対応に、8月1日から自動通話録音装置が導入されると、市HPで25日周知されていました。
昨今、官民問わずあらゆる事業所でカスタマーハラスメントといわれる迷惑行為、犯罪行為の被害が問題になっています。
電話対応トラブルが職員の心身を傷つけ、有為な人材の離職につながっているとも言われます。
残念ながらそのような職場環境ですから、今回の運用は一市民として理解し、支持します。
https://www.city.uto.lg.jp/article/view/1126/13165.html

住民訴訟と損害賠償責任の一部免責

2025年7月26日の熊本日日新聞社会面において、阿蘇市の住民訴訟控訴が福岡高裁で棄却され、市が前市長に対して損害賠償金8359万円を請求するよう命じた熊本地裁の一審判決が支持されたことから、その請求額や手法についての解説記事が載っていて、興味深く読みました。
同記事の中では、阿蘇市が2021年に制定した、市長等の損害賠償責任の一部免責に関する条例の存在についても触れてあります。そのような条例の制定が可能になったのは、2017年6月地方自治法改正の施行によります。これにより都道府県や市町村は予め条例で一定額以上の賠償について免責することが可能になりました(法243条の2)。ただし、条例であまり減免をしすぎることのないよう、政令で最低限支払わなければならない限度(賠償責任額)が決まっています。
記事によると、阿蘇市の市長の負担額について「重大な過失がないとき」は、年収の6倍を上限とするとありましたので、政令が定める最低限度額の通りのようでした。私が居住する宇土市においても同様の条例が1年前の2024年7月2日施行で制定されていて、いずれも基準給与年額の乗数は政令の最低ラインとなっていました。具体的には、市長…6、副市長、教育長・委員、選管、監査委員…4、公平、農業、固定資産評価委員…2、職員…1となっています。なお、減免される可能性があるのは、その執行が「善意でかつ重過失がないとき」に限られます。
住民の中には自治体の各種の委員に選任される機会があります。そうなったときは、当該の自治体の条例を事前に確認することを勧めます。個人賠償責任補償保険加入という手もあるかと思いますが、どの程度効果があるのかは正直分かりません。公金支出を巡る住民訴訟では、首長らに数十億円規模の賠償を命じる判決が出たこともあります。実際に賠償責任を果たせず首が飛んだり首が回らなくなったりした例もあるようです。
もっとも住民訴訟は地方公共団体の財務会計行為の適正化を目的として起こされるものです(ただし、監査請求前置。法242条)。前市長の財務会計行為に過失があったために、巨額の損害を市へ与えたのですから、納税者である住民はただ指をくわえて見過ごす必要はなく、正当な権利を行使するまでです(正確には住民訴訟の原告の要件は当該住民であるということだけで、住民税非課税の住民でも原告にはなれます。法242条の2 1項)。
https://kumanichi.com/articles/1842014

『兵士たちの戦場』読後メモ(3)

山田朗著『兵士たちの戦場 体験と記憶の歴史化』(岩波現代文庫)は、書名の通り主に個人としての選択もできずに死を強いられた兵士たちの回想を構成した記録ですが、戦争指導者やそれに近い立場の人物の言葉も掲載されています。
爆装した航空機による組織的体当たり攻撃、特攻作戦が始まったのは1944年10月からです。レイテ沖海戦に際して、日本海軍の水上部隊のレイテ湾突入を支援するため、米空母の飛行甲板の使用を不可能にし、艦上機の離発着を阻止することで米側航空戦力の活動を減殺しようとする、一時的な非常の策として始まったとされます。特攻隊の編成を命じたのは第一航空艦隊司令長官の大西瀧治郎中将でした。その大西から特攻に込めた「真意」を直接以下のように聞いたと、第一航空艦隊参謀長の小田原俊彦大佐が、部下のベテラン搭乗員・角田和男少尉へ話しています。「(特攻によるレイテ防衛)これは九分九厘成功の見込みはない。これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では、何故見込みのないのにこのような強行をするのか、信じてよいことが二つある。一つは……天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦さを止めさせられたという歴史の残る限り、……必ずや日本民族は再興するであろう、ということである」(p.168)。
この話を角田少尉から聞かされた角田とは予科練同期の搭乗員・浜田徳夫少尉は次のように反論しています。「今、特攻以外に勝つ手はないという。敗けると分かったならば潔く降伏すべきだ。そうして開戦責任者は全部腹を切って責任をとるべきだ。(角田は)特攻が有利な講和のために最後の手段というが、こんなことをしていれば講和の時期は延びるばかりで、犠牲はますます多くなる。貴様のような馬鹿がいるから搭乗員も志願するようになるのだ」(p.169)。
しかし、第一次の特攻出撃の翌日、戦果の上奏を受けた裕仁天皇は「そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった」(p.166)と及川古志郎軍令部総長に語ったとされています。大西の思惑通りにはならず、浜田の見込み通り戦争の犠牲者はさらに増加の一途をたどりました。翌年の東京大空襲、沖縄地上戦、広島と長崎における原爆だけでもそれぞれ10万人以上の人が殺される結果となりました。浜田は沖縄戦で戦死し、その後徹底抗戦に執念を燃やした大西は終戦翌日に自決しています。
そして、当時の統治構造に問題があったとしても天皇が絶対的権力者であったのは事実です。その戦争責任について考えなければ、いつまで経っても歴史を直視したことにはならないと言えます。

『兵士たちの戦場』読後メモ(2)

『兵士たちの戦場 体験と記憶の歴史化』(岩波現代文庫)の著者・山田朗氏は、明治大学平和教育登戸研究所資料館の館長を務めています。資料館の名称に含まれる登戸研究所とは、戦前に旧日本陸軍によって開設された研究所です。秘密戦兵器・器材を研究・開発していて、正式名称は第九陸軍技術研究所ですが、研究・開発内容を決して他に知られてはいけなかったために、「登戸研究所」と秘匿名で呼ばれていました。同研究所は、アジア太平洋戦争終戦とともに閉鎖されました。その後、1950年代に研究所跡地の一部を明治大学が購入し、現在の明治大学生田キャンパスが開設されました。資料館は、そのキャンパスの一角に2010年設立されました。
というわけで、登戸研究所は秘密戦の中核を担った旧日本陸軍の組織だったわけですが、登戸研究所第三科が蔣介石政権下の法幣の偽造を研究し、印刷した偽札を中国戦線へ大量散布する謀略を1939年から始めたと、本書(p.40-43)は紹介しています。特に1941年12月25日に日本軍が香港を占領し、蔣介石政権の造幣所から法幣の印刷機・印刷用原版と紙幣用紙を入手した1942年以降、登戸研究所における偽札印刷は軌道に乗り、中国へ大量に送られました。実に45億元(日本円でほぼ45億円相当)の偽札が印刷され、そのうち30億元が使用されたとされます。大半は中国大陸における日本軍の物資収買のために使われました。なお、偽札印刷導入の当初の目的はインフレ促進を狙った経済謀略戦にありましたが、大戦末期には、中国でも軍事インフレによって、極端な貨幣価値の下落が起こり、蔣政権側が英米の支援で超高額紙幣を導入したため、低額面紙幣しかなかった日本側の偽造法幣は無価値になる結果となりました。
登戸研究所が印刷した偽造紙幣としては、米国関税局証票券(通称「関銀券」)もありました。本書(p.176-177)では、「関銀券」を利用した徴発についても描かれていましたが、それすらも使わない食糧略奪の有り様が記されています。例として挙げられていたのは大陸打通作戦に参加していた第三十七師団(主に熊本・宮崎・鹿児島出身者で編成)が通過した後の状況です。
侵攻作戦下の通過部隊の食糧調達(徴発)・強制買い上げ方式の実態については、第三十七師団戦記『夕日は赤しメナム河』p.260-261で触れられているので、関連情報として載せておきます。「住民が逃げて不在の地域では軍用徴発書(通称「買付証票」)が使用された。徴発に任じた主計将校が、軍用徴発書丙片に、徴発の年月日・物件の品目・数量・賠償金支払いの時間・場所などを記入捺印し、これを発見しやすい位置、家の入口の扉などに貼り付けて帰っていた。代金は、後で取りに来い、というわけであるが、作戦間、代金を取りに来る例は、ほとんどなかった。取りにきても、この代金は、華北では軍票の聯銀券、華中・華南では儲備券で支払われるのが常であり、時として作戦間に押収・鹵獲した中国の旧法幣などが使用された。聯銀券の通用する範囲の実情は日本軍の駐屯地域内や域外せいぜい4キロ四方程度の地域内だけで、山間部落では通用するはずはなかった。このため、徴発を受ける地域の住民にとっては、蝗(いなご)の大群の襲来を受けたほど、大変な被害を受けた。日本軍は現地では皇軍ならぬ蝗軍(こうぐん)と呼ばれた。」。同書p.420では、「事実上の掠奪」と記述されています。
『兵士たちの戦場』p.27によると、「満州国」をのぞく中国大陸に日本陸軍の将兵の数は1944年時点で約80万人だったといいます。第三十七師団戦記『夕日は赤しメナム河』p.259によれば、1個師団の人員約12000名・馬匹約4200頭・馬夫など約500名。戦時作戦中の1日に要する糧秣総量は人糧だけで小麦粉10440キロ(米・麦換算)・生肉類2520キロ・生野菜7200キロ。駄馬1頭の駄載量約80キロとして、小麦粉131頭分・生野菜約90頭分・牛約7頭分(豚約60頭分)になりました。これ以外に兵器・弾薬、書類を携行する行軍の負担も高く、常に糧秣不足に陥っていたのが実態でした。
大兵力になればなるほど戦時の食糧調達は困難を窮めます。同時に兵士だけでなく無辜の民間人も容易に飢餓状態を強いられることを戦争非体験者は知らな過ぎると思います。

『兵士たちの戦場』読後メモ(1)

明治大学平和教育登戸研究所資料館館長の山田朗著『兵士たちの戦場 体験と記憶の歴史化』(岩波現代文庫、1600円+税、2025年)によって、戦争の記憶の継承方法ならびに継承すべき記憶の再構成・歴史化についてまず考えさられました。これが出発点になるので、数回に分けてメモを残してみます。
著者によれば、〈戦争の記憶〉の継承は、以下の流れとなります。①私的継承→②〈集団的記憶〉→③公的継承→④〈歴史〉化。しかし、〈戦争の記憶〉には〈表の記憶〉と〈裏の記憶〉があり、①の私的継承において、戦争の〈栄光〉や〈被害〉の部分といった〈表の記憶〉は比較的語りつがれやすいのですが、戦争の〈秘匿〉すべき部分や〈加害〉の部分といった〈裏の記憶〉は断絶しやすいとしています。それだけに、戦争の〈裏の記憶〉の部分については、研究者や教育者が史実を掘り起こし、意識的に戦争の〈記憶〉の継承を図らないと、歴史の闇の中に消え去ってしまうと指摘しています。〈裏の記憶〉の継承がなければ、過去の歴史から十分な知識と教訓は得られないというわけです。
それと、〈戦争の記憶〉の継承が、ヒト(体験者)からヒト(非体験者)への時代が終わりつつあり、ヒト(非体験者)からヒト(非体験者)へ、モノ(書物・映像・遺跡・博物館など)からヒト(非体験者)へ移行してきています。したがって、モノを整理するコンセプトやモノを解説するヒトの役割が重要です。
本書自体は、兵士側からの〈記憶〉だけで再構成され、歴史叙述化を試みています。しかし、著者自身が被害者・犠牲者となった「他者」の側からの〈記憶〉が対置されなければならないと記しています。民間人の殺害や「慰安婦」を含む戦場での性暴力などの〈加害〉についての記述が相対的に手薄になったことは否めないと認めているところです。
何よりも、「死者は自身の口では何も語ることができない」(p.251)ところから〈記憶〉を捉える視点が必要だと考えます。
本書には触れてないことですが、それは「戦没者」をどう捉えるかということでもあると考えます。実は、ある衆議院議員が2025年3月5日付の質問主意書で「『戦没者』の定義について、いつからいつまでの戦争で亡くなられた方々を指すのか、亡くなられた方々の範囲には民間人や子どもも含まれるのか、『戦没者』を規定した法律は何か」と質したところ、3月14日付の答弁書で「『戦没者』について、現行法令上、確立された定義があるとは承知していない」と石破茂首相名で回答があっています。「戦没者」の法的な定義はないのです。この点、私が考える「戦没者」は戦争に関連して命を失った民間人を含めます。
たとえば、最近、熊本県護国神社の敷地内に戦死した兵士の遺品や遺書を展示、デジタルデータ化した遺影・遺品のデータベースを備えた施設建設の計画が開始されました。ここで叙述される歴史は、あくまでも戦死した兵士の〈栄光〉や〈被害〉の部分に留まり、兵士たちが〈秘匿〉してきた部分や〈加害〉の部分であるとか、民間人犠牲者の〈記憶〉はすっぽり抜け落ちることが予想されます。靖国神社にある遊就館同様の地方版軍事博物館では限られた〈戦争の記憶〉を継承したことにしかならず、そこで得られる教訓もいびつなものにしかならないと憂慮しています。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kumamoto/20250722/5000025803.html
〈裏の記憶〉の一例として、土屋芳雄憲兵少尉(1911年生まれ)自身が書き留めた記録の内容を示します。それによれば、「直接・間接に殺害に関係した中国人は328名、逮捕し、拷問(土屋は相手に水を大量に飲ませる「水責め」が得意だった)にかけ、投獄した中国人は実に1917名に及んだ」(p.241)とありました。郷里の山形にいた頃、虫一匹殺してもバチがあたると思うような男だったのが、軍隊生活の14年間で「(自分は)人間を捨てていた。鬼になっていた」(p.242)と省みています。

田川市初訪問メモ

福岡県田川市内の2つのミュージアムで共に「戦争」をタイトルに含んだ企画展を開催中なのでハシゴして観てきました。1つは田川市石炭・歴史博物館の「戦後80年特別企画展 戦争と、炭坑のマチ田川」、もう1つは田川市美術館の「開戦84年 戦争と美術 チェン・チンヤオ展」です。
田川市は「炭坑節発祥の地」と言われるほど、筑豊炭田の中心地であり、60年ほど前までは日本のエネルギーを下支えた活気あふれる場所でしたが、現在は日本発のユネスコ世界記憶遺産「山本作兵衛コレクション」(炭坑記録画の多くを田川市石炭・歴史博物館が所蔵)や竪坑櫓や煙突といった産業遺産によって記憶の継承が行われています。私もかつて『写真万葉録・筑豊』(葦書房・絶版)を通じてしか知らない場所で初めて訪問しました。
石炭と言えば、脱炭素社会の実現に逆行する化石燃料として現在ではネガティブなイメージが強いですが、私自身が幼少期に冬の寒さが厳しい北海道で暮らしていたため、当時の暖房は石炭ストーブでしたし、懐かしさを覚えます。
ところで、田川市石炭・歴史博物館の見学で企画展以外の拾い物としては、常設展示の「馬形埴輪」と「甲冑形埴輪」でした。田川市伊田の猫迫1号墳から1999年に出土したと紹介されていました。この古墳は5世紀前半頃に築造されたものと考えられていますが、これらの埴輪が意味するものは、現在の田川にも朝鮮半島から馬の文化や鉄製武具の技術が伝わっていたということになります。
1976年生まれの台湾出身のアーティスト、チェン・チンヤオの存在はこれまで知らなかったのですが、その作品を観ると、国民の戦意昂揚に協力して戦争記録画を描いた藤田嗣治の作品中の兵士の姿・表情を消費されるアイドル風の少女に置き換えられているのが特徴です。嬉々とした表情で行動する少女たちを操るのは、戦争指導者とは限らず芸能プロデューサーやはたまたカルト政党や宗教の親玉かもしれず、戦争に限らず若い世代を食い物にする社会の不気味さを読み取ることもできそうな印象を受けました。
その他メモ
宝来軒…田川市役所近くのラーメン店。あっさりした豚骨味。麺は固め。カレーラーメン、カレーちゃんぽんがどうやら看板メニューらしい。
田川伊田駅…駅舎がホテル併設で外観が新しい。
伊田商店街…アーケード街だがシャッター街と化していた。
麻生セメント田川工場…後藤寺線・船尾駅をはさんで巨大な工場設備があり、威容を呈していた。後藤寺線と日田彦山線は今回初めて利用した。
福岡県内各地のミュージアムで戦争展が開かれている。

『戦争と法』読後メモ

#戦争と法 #くまもと戦争遺産の旅
永井幸寿著『戦争と法 命と暮らしは守られるのか』(岩波新書、1060円+税、2025年)を参院選の間に読み終えました。本書は、避けることのできない自然災害に備えた災害救助法と避けることのできる人為災害として最悪である戦災に備えた国民保護法を比較しながら、サブタイトルにもある通り、戦争が起きたら国民の命と暮らしは守られるのかをまず解き明かしています。
戦争では原発事故やサイバー攻撃を始めいくらでも不測の事態の誘発が広範囲・長期間起こり得ます。法律にはもっともらしくご立派な文言が整然と書き込まれています。それにそって国民保護計画がこしらえられているのですが、有事に際してその通りに避難行動できる保証はまったくありませんし、生命・身体・財産に損失・損害があっても国の補償はきわめて限定的にしかありません(民間の損害保険も約款を見れば戦災は補償対象外のはず)。自然災害では自衛隊も救助や避難をやってくれますが、戦争では国(領土)を守るのが自衛隊の仕事であって避難は地方自治体の計画に沿い民間の交通機関等でやってくださいということになります(それこそ自衛隊の車両・艦船・航空機で避難すれば格好の攻撃対象となります)。戦争のリアルを考えれば考えるほど、国民保護法あるいはそれに基づく国民保護計画の空虚さが、本書によって理解できます。
戦争が起これば、いかに国民が守られないかということは、80年前の満州や沖縄であった悲劇の歴史を振り返っても明らかです。本書はそのことも教えてくれます。たとえば、1945年8月8日、ソ連が日本に宣戦布告した際に、満州にいた関東軍は、「8月10日ごろには、一般の日本人には知らせずに、避難の専用列車を確保して、関東軍の家族や南満州鉄道の社員の家族を乗せて避難をさせました。また11日には、官吏家族の避難を指示しました。(中略)関東軍が自分たちやその家族を守るために、住民より自分たちを優先して避難したのです」(p.192)とあります。
戦後、元関東軍作戦主任参謀だった草地貞吾は、「軍は作戦を最優先せねばならない。敵に気づかれず、ひそかに撤退するのも任務なのだ。居留民はそっとしておかねばならないこともある。多少の犠牲はやむをえない。それが、戦争なのだ」(p.193)と語り、図らずも戦争のリアルを示しています。
日本人とか外国人とかを選ばず権力から遠い弱者から先に殺されるのが戦争ですから、何よりも有事に至らしめないための不断の外交や国際交流が必要です。殺されてもそれは「多少の犠牲」の内としか感じない者たちに騙されてはならない、そう決意を固くさせられた良書でした。
「旅のよろこび」の主催旅行「第7回くまもと戦争遺産の旅」(第5回と第6回に私も参加しました)のリーフレット画像も掲載しておきます。

「属人的でない制度」と「世論の力」

7月19日の朝日新聞オピニオン面「交論」のテーマは、「冤罪救う 再審法改正の道」。本欄に載っている発言では、以下の箇所に注目したので、引用メモを残しておきます。
まずは、袴田事件の再審請求審を担当した経験のある元裁判官の村山浩昭さん。「検察が証拠を出すか出さないかは、属人的なものに左右されます。熱心な弁護人に恵まれ、証拠開示に前向きな裁判官や、開示に寛容、あるいは断りきれず応じる検察官と出会う――こうした偶然が重ならないと冤罪が救済されない現行制度は、もはや制度の名に値しないのです」と語っています。
続いて刑事法研究者の後藤昭さんは、再審手続きを含めた刑事訴訟法の改革について問われて、「この改革はつまるところ、検察官優位の刑事手続きの構造を変えるところにあります。それを乗り越えるのは、専門家でない、世論の力です。専門家同士で議論すると見解が対立し、最終的に法務官僚のコントロール下におさまってしまう。取り調べへの弁護人の立ち会いが認められないのも同じ構図です」と答えています。
司法の手続きであれ、行政の手続きであれ、公権力を行使する担当者の「良心」次第で取り扱いが変わるようでは、公正さを保てません。
市民のための法律専門家といっても、その多くは経済的利益が高く得られる私人間の事件の代理人業務には率先してあたりますが、公権力を相手に人権の回復を目的とする事件の代理人に就く方は手間がかかる割に実入りが少ないので稀少だと日頃感じています。ビジネスだから当然の選択と言ってしまえばそれまでですが…。専門家だからといってお上に楯突いてカネにならない話に口出しする方は多くないので、普通の市民が物申すことは非常に大事だと思います。
さて、7月18日、39年前の福井・女子中学生殺害事件の再審で無罪判決が出ました。その中で、裁判長は、検察側に不利益な事実を隠そうとする不公正な意図があったと指摘しました。証人の1人が事件当日に犯人とされた前川さん(現在60歳)を見た根拠として挙げたテレビ番組の内容が実際は事件から1週間後のものだったことが明らかになっています。証人が述べた「アン・ルイスと吉川晃司がいやらしい踊りをする場面」は、事件当日の番組にはなかったのです。吉川晃司さんも来月60歳を迎えますが、彼の踊りが証人の記憶に爪痕を残してくれたおかげで、検察の不公正が明らかになり、同い歳の前川さんの冤罪が救済されたのです。吉川晃司さんは、もちろんそのことを知るよしもなかったことですが、こうしたことがあったのも事実です。吉川さんを顕彰したい出来事でした。
写真は、7月19日、水俣から見た鹿児島県の長島。

『世界』2025年8月号読後メモ

『世界』2025年8月号の中から印象に残った言葉をメモしてみました。日本人よりも税金・保険料の納付率が高く、犯罪率が低いにもかかわらず、政治に参加する権利が制限されている外国人を、ことさら貶めたり排除したりすることでしか自尊心を満たせない、みっともない日本人たちが目立つ社会を感じます。同じ時代の同じ国内に住んでいながら、ファクトチェックが確かな情報空間にアクセスするか、それとも言った者勝ちフェイク混ぜこぜの情報空間にアクセスするかで、人間としての資質に大きな違いが生まれてきているように感じてもいます。以下の引用文には、メモ者による原文意を損なわない補正が含まれています。
・三牧聖子×中西久枝「12日の代償 米イラン攻撃は何をもたらすか」
三牧「(トランプ氏のイランの核開発問題は交渉より軍事力で解決という方向転換は)きわめて機会主義的判断だった」「そもそもギャバード国家情報長官は3月時点で、イランは核兵器を製造していない、と言っており」「アメリカ・ファーストは、融通無碍の発想」「イスラエルはイランへの攻撃を存亡の危機を打開するための先制攻撃としていますが、国際法上、許されない予防攻撃と位置付けるべき」「トランプ政権誕生後、ヤルタ2.0という未来予想」「トランプ流の世界観とは、よいディールができて、アメリカに利益をもたらす国は尊重すべきだが、アメリカに損をさせるような国は尊重する必要はないというもの」
中西「もしもアメリカとイスラエルが本当に体制転換を目標に考えるのなら、イスラーム法学者が標的にされてもおかしくない。おそらく、イランの現体制がすみやかかつ完全に崩壊してしまった場合、悪魔化する相手がいなくなる。それは望んでいないのではないでしょうか」
・望月優大「連載アジアとアメリカのあいだ第8回銃口を内側に向けた国の戦後」
「1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約で巨大な領土割譲がなされるまで、カリフォルニアはメキシコの一部だった。それより前、1821年のメキシコ独立まではスペインの領土だった。さらには、スペインによる支配が始まるずっと前から、様々な先住民たちがそこで暮らしていた。トランプは、ロサンゼルスで『外国の旗』を掲げる抗議者たちを『動物』と呼んだ。だが、19世紀の半ばまでは、アメリカのほうこそが『外国』だったのだ。元々の住民は自分の意思で越境したわけではない」 ※トランプの祖父はドイツからの移民。
・最上敏樹「もはや時間はない アウシュヴィッツ解放80周年に」
「ユダヤ人の血統が純血を保ち、その集団がまとまって『流浪』したというシオニスト世界での通説も史実とかけ離れていることをシュロモー・サンドの『ユダヤ人の起源――歴史はどのように創作されたのか』は詳細に論証する。古代から別の場所に『移住』するユダヤ人は多く、エジプトにもローマ帝国にも住んだ。移住先で人々をユダヤ教に改宗させ、改宗による『ユダヤ人』を増やした。かつてユダの国と呼ばれたパレスチナは、7世紀にイスラム教徒軍に征服されたが、そこでユダヤ人が根絶やしにされたわけでもない。そのユダヤ人の末裔が今に残るパレスチナの農民である可能性すらあるのだ」「ホローコストを生き延びたユダヤ人の大部分は東欧出身である、主として現在のウクライナ東部にあたる地域で権勢をふるったハザール王国の出自を持ち、したがって現存するユダヤ人の祖先は、遺伝的にはフン族やウイグル族やマジャール人と深いつながりがある」「ジュディス・バトラーの『分かれ道』はイスラエルの行為を入植型植民地主義と呼んで、いまもヨルダン川西岸で続く『入植地』かくだいが、まさしく『植民地主義』であることを疑問の余地ない認識としている」「1975年の国連総会決議3379は『シオニズムは人種差別主義である』と述べた。アメリカが猛烈に反発したせいもあり、1991年の総会決議46/86により、それは撤回される。撤回は、その決議が誤りだったことを証明するものではない。いつの日かこの決議を再生すべき余地があるだろう。国際法によって動く国際社会を作らなければならない」
・奈倉有里「原始化される社会 ロシア内政学者が解説する教育・徴兵・法制度の現在」
「5月下旬、ロシア連邦国家統計局は、ついに出生率および死亡率に関する人口動態統計を、地域別も連邦全体も含めてすべて非公開とした」「このデータの非公開化の直接のきっかけとなったのは、2025年4月の死亡率が前年比で15%も増加し、それが国民の注目を浴びたためとみられている」
・宇野重規×国谷裕子「〈対談〉メディアは公共性を取り戻せるか」
宇野「情報空間A、情報空間Bという言い方をするなら、かつては多くの人が新聞や雑誌などの印刷メディアやテレビという情報空間Aを通じてものを考えていたのが、いまはSNSを中心とする情報空間Bへと人口がごそっと移動して、問題提起や論争の多くもそちらで展開されている。そとにいる人には内実はよくわからず――投票結果をみて初めて、実際に起きていることに驚かされたのです」「いま雑誌を最初から最後まで真面目に読み通す人はほとんどいないでしょう。実際、玉石混淆であり、通して読む必然性に乏しい。ただし、間違いなく面白い、大切な記事があります。漫然と読むとその他の記事に埋もれてしまいかねないし、単独ではその記事の意味がなかなかわからないかもしれない。それでも、心に留まった点を結んでいくと、間違いなくこの時代を切るようなコンテクストが見つけられるのです」
国谷「国民の知る権利の行使が難しくなってきていることに対して、執行権の肥大化をストップするための仕組みを積極的につくらなければならないのではないでしょうか」「日本政府は国連から繰り返し政府から独立した人権機関をつくるよう勧告されています。こうした機関も執行権を抑制するものとして機能する可能性があります」
・山本昭宏「『失敗』という本質 民主主義は幻滅から立て直せる」
「現代日本の政治的無関心は、以下の3つに分かれる。『1-①:新自由主義時代の個人主義』『1-②:代表制への不信』『1-③:過去の否認』」「2つの幻滅もある。『2-①:SNS時代の言論・運動への幻滅』『2-②:愚民論的幻滅』」「3つの『政治的無関心』を潜り抜け、さらに2つの『幻滅』をも突き破った新規参入の『目覚めた』有権者が『SNS炎上』を恐れない政治的な『インフルエンサー』を受け入れている。ときとして『動員させられた群衆』に見えてしまう新規参入者たちの『民主主義』の挑戦を、既存の政党・メディア・知識人は受けている」「私たちは敗戦以来80年間ずっと、『民主主義』を『失敗』し続けている。しかし、当然ながら、『民主主義』はつねに誰かの『失敗』を内包しているものだ。むしろ『失敗』にこそ民主主義の本質がある」「理想は嗤われていよいよ、理想になる。失敗したから理想論が言える。成功した者が言うと説教になる」
・有光健「戦争被害 放置されてきた軍民・内外差別」
『戦没者』には、例えば米軍の空襲で亡くなった民間人は含まれないのだろうか? 2025年3月5日付の質問主意書で上村英明衆議院議員が[『戦没者』の定義について、いつからいつまでの戦争で亡くなられた方々を指すのか、亡くなられた方々の範囲には民間人や子どもも含まれるのか、『戦没者』を規定した法律は何か]と質したところ、3月14日付の答弁書で[『戦没者』について、現行法令上、確立された定義があるとは承知していない]と石破茂首相名で回答している。そもそも『戦没者』の法的な定義はないのである」

九州の国宝とビアズリーをハシゴ観覧

酷暑の平日なら来場者も少ないのではと、「きゅーはくのたから」と「ビアズリー展」を7月9日、ハシゴして観てきました。九州国立博物館の「九州の国宝きゅーはくのたから」は、九州・沖縄にゆかりのある国宝の展示が目玉となっています。着いたのが午前10時過ぎということもあり、狙い通り一般入館者はそれほどでもなかったですが、小学生の校外学習と思われる団体の入館者の多さが目立ちました。
九博での展示品では、熊本県の江田船山古墳出土品(東京国立博物館所蔵)と宮崎県の西都原古墳群出土品(東京・五島美術館所蔵)が、特に興味を引きました。前者は5-6世紀の朝鮮半島・加耶・百済、後者は6世紀の朝鮮半島・新羅との交流がうかがえる金工技術が施されています。福岡市博物館所蔵の国宝の金印は展示期間外にあたっていて、今回は観覧していません。会場内では東京・永青文庫所蔵の国宝「太刀 銘豊後国行平作」を間近に観覧できるコーナーで入場制限がされていました。おかげで、展示品から離れた位置から遠目に見ただけでした。ですが、これは2年前に永青文庫で見たのでまあいいかと。
ところで、九博へは西鉄の太宰府駅から太宰府天満宮参道を通っての往復になります。駅へ戻る参道で、「三の鳥居の前の門柱」と「二の鳥居」の寄進者が、白蓮事件で有名な炭鉱王の伊藤伝右衛門であることに、今回初めて気づきました。これもいくらか通常より人通りが空いていたために、彫られたその名が視界に入ったのだと思います。なお、伝右衛門が寄進したのは柳原白蓮と結婚した翌年の1911年(M45)、事件はそれから10年後の1921年(T10)に起きています。経済的には富裕でも無学で文字が読めなかった男が、歌人としての教養豊かな女性と結婚し、天満宮の鳥居をなぜ寄進するに至ったのか、ご利益はなんかあったのかなと、いろいろ思いを巡らせてしまいました。
続いて、久留米市美術館で開催中の「異端の奇才 ビアズリー展」を訪ねました。オーブリー・ビアズリーは、1872年に英国ブライトンに生まれ、1898年に25歳で早逝した人物です。画業に専念できた期間はたいへん短いのですが、一時代を築いた作品を数多く残しました。ロンドンにあるヴィクトリア&アルバート美術館(1993年に訪ねたことがあります)が所蔵する作品を中心に展示されていました。ブライトンといえば、米国コロラド州ブライトン(地名の由来は米ニューヨーク経由でまさに英国のそれ)に遠縁の人たち暮らしていることもあって親しみを覚えますし、同じく夭折の画家であるエゴン・シーレ(1890-1918、28歳没)に通じる眼差しをその作風に感じて好みに入ります。
展覧会にはもちろん大満足でしたが、さらに堪能したいと図録を即座に買い求めてしまいました。暑い中歩き回って多少疲れましたが、図録入手により楽しみも持ち帰ることができました。

戦争観が問われている

アジア太平洋戦争期の熊本県内を標的とする大規模な空爆として知られる1945年7月1日の熊本大空襲(※写真は大甲橋近くの慰霊碑)から80年の昨日(7月1日)、平和憲法を活かす熊本県民の会主催による「第17回熊本空襲を語り継ぐ集い」に参加しました。今回の集いでは、熊本への初めての空爆となる1944年11月21日の「柿原(かきばる)空襲」の体験者の証言を聴く機会を得ました。証言者自身は米俵の下に避難して爆撃から1時間後に救出されたそうですが、自宅で祖母と当時5歳のいとこが命を奪われたということでした。
「熊本空襲を語り継ぐ集い」についてのNHK熊本放送局の報道。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kumamoto/20250701/5000025627.html
「熊本空襲を語り継ぐ集い」についてのTKUの報道。
https://www.tku.co.jp/news/?news_id=20250701-00000007
実は熊本市西区花園の柿原地区は臨機目標であり、爆撃の主目標は、長崎県大村にあった海軍航空廠(航空機製作工場)でした。最初に大村が空襲に遭ったのは、1944年10月25日です。このときは、多くの勤労学徒が犠牲となりました。熊本県立宇土中学校4年生の生徒2名と引率の美術教師1名が亡くなっています。このときの証言(初出は『宇土高校創立70周年記念誌』※写真)は、平和憲法を活かす熊本県民の会が戦後65年の2010年に出版した冊子に収録されています。
このように戦争で命を落とすのは、戦闘員だけとは限りません。東京・沖縄・広島・長崎は言うに及ばずここ熊本においても戦争の実相を少しひも解いてみれば、武器を手に取らなかった民間人の死者が多数いたことを忘れてはならないと思います。
しかし、「命をささげた人々」(=戦没兵)だけを取り上げて、それで戦争の歴史を継承するとか、平和を祈念するという動き(※県護国神社)もあります。戦争は兵士も民間人も命を奪いますし、それらの死者に対して「命をささげた」とすることに強い違和感を覚えます。
これでは、戦争が起きたら国民は戦争に協力しろ、命を奪われたらそれは受忍しろということにしかならないと考えます。
2004年制定の国民保護法や同法に基づく居住地の県や市が定めている国民保護計画を読んでみると、損失補償や損害補償が認められる範囲・条件は驚くほど狭いなと感じます。国や地方公共団体からの要請に応じて協力し、土地が収用されたとか、救助にあたって死傷した場合の損失や損害なら補償してやってもいいぐらいなもので、これのどこが「保護」なのかと思います。
たとえば、80年あまり前の空襲に遭い孤児となった国民に対しても補償は何もありませんでした。受忍論が今もまかり通っていることがわかる記事リンクを貼っておきます。
https://www.asahi.com/articles/AST6W2FFZT6WOIPE00KM.html