#長嶋茂雄 #立教大学 #長嶋一茂 #景浦将
昨日からの長嶋茂雄さん死去の報道に接していろんな思い出に浸った昭和世代は多いことと思います。小学生のときに、巨人ファンだった父のお伴で記録映画「燃える男 長嶋茂雄 栄光の背番号3」を熊本市新市街にあった東宝で見た記憶があります。大学生時代には長嶋茂雄さんの母校・立教大学へよく通っていましたので、さまざまな伝説を見聞していました。たとえば、東京六大学野球でホームランを打ったら大学から単位をもらえたとか、英作文の試験で「私は東京へ行った」を「I went to Tokyo.」ではなく「I go to Edo.」と書いたとか…。江戸時代の東京へ行くことをもって過去形とする人並み外れたその思考力は、むしろ天才の領域です。
そうした数々の伝説は、何かの出版物で読んだ覚えがあったので、書架にあった『St.Paul’sCampus』(立教大学の現役学生が編集出版していた雑誌)を久しぶりに手に取ってみました。残念ながら長嶋茂雄伝説の記述は同誌にはなく、代わりに野球関連の記事では、菊池桃子推しだった長嶋一茂くん(当時在学中)や立教大学から大阪タイガースに進んだ景浦将(1943年戦死)がプロ野球50周年記念切手になった話題を見つけました。それと、当時の雰囲気を伝える広告や学生のスタイルを懐かしく振り返ることができました。スタジャン、ソアラ…。
そうこう思うと、長嶋茂雄さんのおかげで昨日からけさにかけて多くの昭和世代が、しばし高度経済成長期やバブル期の日本へ行ってみたのだなと思いました。