月別アーカイブ: 2025年6月

「熊本空襲を語り継ぐ集い」参加に際して

本日(6月29日)の熊本日日新聞社会面に、7月1日に熊本市中央公民館で開かれる「熊本空襲を語り継ぐ集い」について紹介した記事が載っていました。私も参加予定ですが、当日は以下のプログラム構成となっています。1つは、県内で初めての空襲とされる1944年11月21日の「柿原空襲」(柿原は熊本市西区花園町にあります)について当時9歳だった住民の証言。もう1つは、米軍が撮影した空襲のモノクロ写真を人工知能(AI)などでカラー化して記憶の継承へ取り組む、市民団体「くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」の高谷和生代表によるプロジェクト説明となっています。
ところで、「柿原空襲」を行ったのは、中国の国民党支配地域である成都から飛び立った米軍爆撃機B29の1機だったとされています。成都はいわばB29の前進基地で、第20爆撃機集団の本拠地は英領インド東部のカラグプール基地でした。このときの米軍司令官は、カーティス・E・ルメイ(1906~1990)です。ハヤカワ新書から上岡伸雄学習院大学教授が今年出版した『東京大空襲を指揮した男 カーティス・ルメイ』でも1945年3月10日の死者10万人を数える東京大空襲から80年ということで注目された人物です。ルメイは、航空自衛隊の創設と発展に貢献したという理由で1964年に勲一等旭日大綬章を授与されています。
成都からの日本本土への初空襲は、ルメイの前任者、ウォルフが司令官だった1944年6月。上記書p.107によれば、「92機がインドを出発し、1機がヒマラヤで墜落、12機がヒマラヤを越える前に引き返した。68機が成都で給油して出撃したが、1機が離陸直後に墜落、さらに4機が機械の不具合で引き返した。6機はやむなく途中で爆弾を投棄した。1機が日本に接近中に撃墜され、荒天のため、標的エリアに到達できたのは47機のみ。うち目標の八幡製鉄所を実際に視認できたのは15機で、作戦を完了するまでに7機と55人を失った。目標に命中した爆弾はたったの1発だった。」とあります。大戦中にヒマラヤ越えで墜落した米軍機は700機に上ったといいます。
司令官がルメイになってから、事故を減らすため、4機編成の夜間攻撃を止め、12機編隊による昼間攻撃に切り替えました。レーダーを使用し雲の上からの爆撃精度を上げさせました。満州周辺の気象情報の提供をソ連に求めましたが、これはソ連側からあっさり断られました。中国共産党支配地域への米兵不時着に備えて毛沢東へ要請した米兵保護は快諾されたので、医療品を共産党に提供し、毛沢東はルメイに日本軍からの戦利品である日本刀をルメイに返礼で贈ったともありました。
「柿原空襲」は、実は臨機目標であり、作戦本来の標的は長崎県の大村にある海軍航空廠でした。1944年11月21日の大村への攻撃では、109機のうち6機を失い、悪天候のせいもあって標的に爆弾を落とせたのは61機だったと、上記書p.111にあります。大村の海軍航空廠への爆撃はその前月25日にもあり、このとき初めて焼夷弾が使われましたし、その日の空襲では勤労動員で工場にいた熊本県立宇土中学校(旧制)の生徒や引率教師の犠牲者が出ています。同校内にはその慰霊塔がありますし、享年29歳の美術教師・佐久間修氏(現在の東京芸大卒)が妻を描いた「静子像」は長野県にある戦没画学生慰霊美術館「無言館」の代表的収蔵品となっています。
なお、高谷氏がAIでカラー化した元の写真が撮られた1945年8月10日の熊本空襲にあたった米軍機は沖縄から出撃したものです。その日は、宇土・不知火・松橋も空襲に遭い、当時子どもだった私の父母も身近に感じた惨事だったといいます。
https://kumanichi.com/articles/1814233
https://mugonkan.jp/collections/

五輪より面白いねぇ

人間だれしも失敗はあるもので、6月27日の熊本日日新聞スポーツ面で三屋裕子氏のお名前をみたときに、40年前の失敗を思い出しました。当時学習院大学助手として着任された同氏を写真撮影したフィルムの現像を失敗した経験が私にはあります。失敗の原因は定着液の酢酸希釈量を間違って濃くしてしまったことにあるのですが、私の頭の中には40年来、「三屋裕子氏=現像失敗」という記憶だけが見事に焼き付いています。せっかくなのでその証拠画像「学習院大学新聞1985年4月16日発行号1面」を載せておきます。なお、文章は同級生の手によります。
ところで、冒頭の熊本日日新聞の記事は、JOC新会長選考を巡る構図についてでした。正直、五輪よりもはるかに白熱した戦いを解説した内容で、面白く読ませてもらいました。本記事によると、もともとは田嶋幸三氏がJOCの選考委員会で会長候補として有力とされていたのに、選考の権限がない元会長に過ぎない竹田恒和氏(=JOC独立志向)が、田嶋氏の裏には日本スポ協・JOC再統合志向の森喜朗元首相や遠藤利明元五輪相といった政治家がいると警戒し、橋本聖子新会長擁立に動いたということでした。
しかし、政治家介入というなら、橋本氏こそ森元首相を政治の父と仰ぐ政治家ですし、そもそも選考権限をもたないご老体がどちらの側でも現場に介入するのはどうかと思います。それと、橋本氏を後押しした竹田氏は、東京五輪招致疑惑でフランス司法当局の捜査対象になった経緯があります。それに乗っかった橋本氏も政治資金収支報告書不記載という裏金疑惑があり、政倫審では「一度は議員辞めることを心に決めた」と反省して見せながら、今では「一点の曇りがあれば立候補はしていません」と発言する始末です。
自ら頂点を極めようとか、キングメーカーを標榜する方々は、歳を重ねようが、スネに傷があろうが、そんなものはものともしない、超人的な能力があるんだなあと驚きました。一方、三屋氏だけが他薦候補だったという点は、次につながる気がしました。

「『続・水俣まんだら』の部屋」に載りました

2025年に緑風出版から刊行された『続・水俣まんだら―チッソ水俣病関西訴訟の患者たち』の著者のひとりである木野茂氏に、私が公開していた読後メモが見つかってしまいました。木野氏は、同著読者の感想を収録したサイト「『続・水俣まんだら』の部屋」を運営しておられています。このたび、拙文を紹介させてほしいという申し出を受けましたので、場賑わせぐらいの役に立つならと応じることにしました。
私としては、他の読者の感想がさらに多くの方の目に留まることを期待しています。
写真は、昨日(6月26日)相思社を訪ねたおりに不知火海方向を見て撮ったものです。

スラバヤつながり

「こうのとりのゆりかご」で知られる慈恵病院長の蓮田健氏の祖父である蓮田善明氏(1904年7月28日出生-1945年8月19日自決)といえば、学習院中等科在学当時の三島由紀夫(本名:平岡公威)の才能を見出した国文学者として著名な人物です。同氏の戦時下の足跡をたどると、1943年11月1日、第二次召集を受けて熊本で編成された第四十六師団隷下の歩兵第百二十三聯隊所属の陸軍中尉として門司港から現在のインドネシアのジャワ島にあるスラバヤへ派遣されています。同地には、翌年頭まで滞在していたようです。
私の祖父(1904年10月1日出生-1943年1月15日戦死)は、日本郵船の船員でしたが、軍属として、蓮田善明氏と同じく1943年の秋に日本からスラバヤへ向かいました。そして、1943年12月7日にスラバヤを出港し門司へ向かう海軍が徴傭した油槽船(この船は日本へ帰還できずフィリピン沖で米潜水艦の雷撃を受け沈没)に最後の乗務をしました。そのため、蓮田善明氏と私の祖父の所属は異なりますが、生年と出身県が同じふたりが、1943年12月初め頃、スラバヤで滞在を共にした時期があったということになります。
そのような祖父の共通点を知ると、孫の蓮田健氏(直接お会いしたことはありませんが…)の取り組みについても自然と関心が湧くので不思議なものです。
現在のスラバヤはインドネシアでは第二の人口規模(約300万人)を持つ都市です。古くから貿易港として発展した歴史があり、華人も多く住んでいるため漢語では泗水と称されています。
祖父の没後71年の2015年9月に当時高校3年生だった私の子(つまり曾孫世代)が、スラバヤ工科大学を訪問する機会を得ました。そのときの記録動画がまだ残っていましたので、リンクを貼っておきます。
https://youtu.be/8Q1nRuvdc-c?si=7mnx9ln0Ly8PHNM4

なお、蓮田善明氏が所属した歩兵第百二十三聯隊は、マレー半島のジョホールバルにおいて敗戦の日を迎えました。その際の中条豊馬聯隊長(大佐)の訓示の内容が、蓮田中隊長(中尉)にとっては、あまりの豹変と変節ぶりであったために、激昂します。訓示を受けた集会の直後に、蓮田中尉は崩れて膝を床に着き、直属の上官である秋岡隆穂大隊長(大尉)の足を抱いて哭泣したといいます。そして、4日後、蓮田中尉は中条大佐を拳銃で射殺し、自身も拳銃で命を絶っています。秋岡大尉は戦後、現在は宇城市となっている旧・松橋町の町長を務めた人物です。秋岡家所蔵文書の「沙弥法喜寄進状」(竹崎季長が書き記した書状)は1978年2月2日指定の県重要文化財で、昨年末から今年初めにかけて、宇城市不知火美術館で展示公開されていました。その子息の秋岡廣宣氏は現在、学校法人尚絅学園理事長として活躍されています。秋岡廣宣氏が地元民放のRKK在職中の1991年、インドネシアツアーで私もご一緒した縁もありました。写真はジャカルタの国立博物館。

生まれの偶然性を感じたい

昨年6月の改正出入国管理法施行直前に初回放送された番組ですが、今月21日に再放送されて視聴することができました。難民を支援する素晴らしい日本人に誇らしさを感じる一方で、難民の人権を損なうことにやっきの恥ずかしい日本人がいる情けなさも感じます。
この番組に関連して触れると、上記の改正入管法では、在留資格が無い難民認定申請者はほぼ誰でも、3回目どころか1回目の申請中でも送還の対象となり得る条文が入っていて、2024年に岩波新書から『なぜ難民を受け入れるのか――人道と国益の交差点』を刊行した橋本直子氏は、難民条約違反と言わざるを得ないと指摘しています。
UNHCRの「難民認定基準ハンドブック」には、「認定の故に難民となるのでなく、難民であるが故に難民と認定されるのである」とあるそうです。それは、「生まれの偶然性」ということでもあります。橋本直子氏は同著書のp.254-255で、「たまたま日本に生まれ、もし日本が「いい国」だと思っていらっしゃる方がいるとしたら、日本がいい国であるということを、たまたま「悪い国」に生まれた方々と分け合っていただけないでしょうか。それがまさに難民条約の前文に謳う、難民保護を世界の国々が協力して責任分担するということです」と記しています。
日本が難民に対する人権や人道に後ろ向きであるイメージを拡散することは、国益に反します。
https://plus.nhk.jp/watch/st/e1_2025062113740?t=9&playlist_id=44d224f6-9bfd-49c2-8657-50f9cdfd1184

共創の流域治水へ

これもちょうど1年前(2024年6月20日)のことになりますが、熊本県庁地下大会議室で開かれた「共創の場形成支援プログラム(COI-NEXT)拠点連携シンポジウム2024~豪雨から学ぶ気候変動時代の『地域気象データ活用』と『緑の流域治水』」を受講した際に、前の知事や現在の知事と副知事の場違いな言動に接する機会がありました。それについては、その翌日(2024年6月21日)、自分のブログに記録しています(下記リンク参照)。
そして、県民の中にも、川に水を集めない「共創の流域治水」の考えを進めようという動きがあります。一昨日(6月19日)の地元紙に、これを提唱する蔵治光一郎氏のインタビュー記事が掲載されていましたが、本日(6月21日)、水俣市で同氏を招いたシンポジウムが開かれるとのことです。私は出席できませんが、きっといい話が聴けると思います。
https://attempt.co.jp/?p=11226

落ちぶれた日本人

ちょうど1年前(2024年6月19日)の地元市議会の質疑・一般質問で、ワクチンの有効性について自らの根拠を示さずに「全くのでたらめ」「うそ」呼ばわりし、市の接種補助事業に反対した珍妙な議員がいたのを思い出しました。こういう議員はおそらく本記事も読んでないだろうし、読んだとしても理解できないかもしれません。
ついでに触れると、上記議員の同じ日の別の質問テーマでは、市議会が教育行政への不当な介入になりかねない、中学歴史教科書の採択を取り上げる不見識ぶりを披露していました。これもおそらく自国の憲法や教育基本法の中身を知らないからこそできる荒業で、呆れさせられます。古代史料に書かれていたからといってすべてが史実ではないのが、常識です。しかし、同議員の話しぶりからすると、神話・伝承と歴史の区別がついておらず、しきりに神話・伝承を歴史の授業で教えることを、当時の教育長へ求めていました。
もしも私が教育長なら丁寧に議員の資質の無さを浮き彫りにしてあげて、神話・伝承のたぐいしか自慢することがないほど日本人は落ちぶれたのかと言ってしまいそうです。
エセ科学やエセ歴史を信じ込むような人物に議席を与えていることに嫌気がさします。

上野三碑と渡来人

2025年度くまもと文学・歴史館館長佐藤信連続講演会「地域と交流の古代史」の1回目「上野三碑と渡来人」を6月14日、受講しました。上野三碑とは、2017年にユネスコ「世界の記憶」に登録された、特別史跡の山上碑(681年)および古墳、多胡碑(711年)、金井沢碑(726年)からなり、いずれも群馬県高崎市に位置しています。
今回の講演を聴いて現在の群馬県にあたる上野(読みは「こうずけ」)地域が、7-8世紀の時代に異国人を排除することなく迎え入れた渡来人と密接な関係があり、仏教・漢字文化や建築・繊維その他の先端技術を受容して東アジアと交流してきた開明的な社会であったことを学べ、大いに刺激を受けました。高崎市では無料巡回バス「上野三碑めぐりバス」を運行しているとのことですから、機会があればぜひ訪ねてみたいと思います。
上野三碑の存在については私も不勉強でしたが、その価値が日本で再発見されたのは、明治時代になってからなのだそうです。近世に、朝鮮通信使が多胡碑拓本を持ち帰って中国清に伝え、清の書家により楷書の手本として評価されていました。それが、明治時代になってから、清の外交官より日本の書家へ多胡碑の存在が教示されて、日本側で注目されるようになったということでした。
講師の佐藤館長は文化庁勤務歴もあるため、文化財保護行政についても詳しく、史跡がある自治体へは1件あたり240万円の交付金があると明かしていました。交付の趣旨は史跡保存のためということですが、地方財政にとっては歓迎なので、1991年から2003年まで群馬県知事を務めた小寺知事の時代は、本人が文化財を大切にする人物だったので、県民の協力も得て史跡を増やすことに奔走した逸話を紹介していました。
さらに、この講演を聴いて次のことも思い浮かべました。高崎市といえば県立公園「群馬の森」があり、2025年1月29日に朝鮮人追悼碑を行政代執行で撤去した知事がいます。このような人物だと、戦争遺跡を史跡として保存しようという意識は到底望めないだろうなと思いました。知事次第で歴史的価値評価や財政の目の付け所に差が出てくるものだなと感じます。
ところで最近は中国関連の情報に関心を持ちます(写真画像の書籍は近頃読んだものです)。中国のことは中国発の情報ではなかなかうかがい知れなくなっていると感じます。そうなってくると、時代を越えて見たり、関係先を通じて見たりすることが必要になります。中国の国土は広大ですが、国民の多くが住むのは沿岸部であり、食料やエネルギー、物流は近隣に多くを頼っています。より遠隔地との海上ルートが封鎖されれば、たちまち行き詰まってしまうのは目に見えています。したがって、いたずらに脅威論を唱えるのは現実的ではないし、崩壊の危機に怯えているのは中国自身かもしれません。

第三十七師団戦記読書メモ

4月に神田古書店街の文華堂書店で手に入れた、いずれも藤田豊著の第三十七師団戦記出版会(山中貞則会長)発行の『春訪れし大黄河』(以下、上巻と称す)『夕日は赤しメナム河』(以下、下巻と称す)は、旧日本陸軍の実相を知るうえで貴重な史料だと思います(熊本県立図書館にもあります)。著者自身が1939-1943年の間、師団の戦列に加わっていた体験者でしたし、戦後、防衛研修所戦史部勤務の環境にあったため、師団が記録した各作戦の戦闘詳報に接することが容易でした。この詳報は戦後の1946年1月9日、進駐米軍に、他の陸軍史料とともに一括押収されて米本国へ渡り、ワシントンの国立公文書館に眠っていましたが、1958年4月10日、日本へ返還され未整理のまま、戦史部史料庫に収納されていたものです(下巻p.290)。加えて、出版した時期は戦後30年頃、生還者の回想証言も収集可能でした。史料と記憶証言が比較的充実したなかで出版されたのは幸いでした。
以下に本書で知った興味深い情報のメモを記します。

・日中戦争(支那事変)の発端となった蘆溝橋事件の発生は1937年7月7日。この当時の中国軍の兵力は184師・約130万名、極東ソ連軍は28個師団・約56万名いた。日本軍兵士の約90%近くは予・後備役兵であり、現役兵力が枯渇していた。そのため1939年、新たに10個師団、15個旅団等、約22万名の兵力が臨時編成された。そのひとつが第三十七師団。1939年2月に久留米で編成され、同年5月に山西省晉南(しんなん)に進駐した。当初は山地戦に不向きな編成だったため、1940年8月までに逐次改編された。輓馬→駄馬。野砲→山砲。

・第三十七師団の「七」は「しち」と読む。同師団の兵団文字符は「冬」。「作戦」とは、通常、戦略単位(師団)以上の兵団の某期間にわたる対敵行動の総称。

・一号作戦構想時の支那派遣軍の兵力は、25個師団、12個旅団、戦車1個師団、飛行1個師団、1香港防衛隊で、人員約64万4000名・馬匹約13万頭。このうちの約79%にあたる14個師団、6個旅団、戦車1個師団、飛行1個師団等、合わせて人員約51万名・馬匹約13万頭・戦車装甲車794両・火砲1551門・航空機154機・自動車1万5550両を、同作戦兵力とした。一号作戦の役割は、あくまでも太平洋戦域の主作戦の、背後を固める大陸での支作戦、対米持久戦の一環だった。一号作戦から第三十七師団の秘匿符号は「光」となった。

・軍馬の入隊は騸(せん)を標準とし、やむを得ないときに限り、牝(ひん)で代用していた。騸とは明け三歳の牡(ぼ)の去勢したもの(上巻p.174)。まれに去勢の時点で陰睾のため睾丸の片方が腹腔内に隠れて切除を免れた馬力絶倫の軍馬がいた。片睾の武こと武久号。

・蒋介石が率いる中国軍には日本軍の捕虜や兵器を捕獲した場合に懸賞金を与える定め「修正俘虜及戦利品処理弁法」があり、品目によっては中国軍将兵の給与(例:師団長180元)よりも高かった。暗号電報符号簿5万元、官兵の番号認識票1個500元。

・南進前に第三十七師団が駐屯していた山西省運城の警察署長は関鉄忱という元騎兵大佐で、漢代の英雄、関羽五十九代の後裔と伝えられていた(上巻p.268)。当時発行されていた中国聯合準備銀行券の十円札に印刷されていた関羽像と風貌が似ていた。

・華北の鉄・石炭・綿花・塩・小麦を日本国内へ還送するのが日本軍の任務だったが、広大な土地と中国人民の大海の中では、面ではなく点を占拠することしかできなかった。華南ではタングステンが垂涎の軍需資源だった。

・中国軍(蒋介石軍事委員長)による日本軍に対する観察と対策(1940年)。
【日本軍の長所】 → 【中国軍の対策】
快:軍用巧妙、動けば脱兎の如し。 → 穏:沈着固守で当れ。
硬:戦闘力と精神が堅強なり。 → 靭:持続性堅忍性ある戦闘で当れ。
鋭:錐の如く突進し勇猛果敢なり。 → 伏:伏兵をもって、不意を突くべし。
【日本軍の短所】 → 【中国軍の対策】
小:兵力寡小、部隊大ならず。 → 衆:要点に兵力を集中する「専」。
短:速戦即決にあり。 → 久:消耗持久戦。
浅:敢て深入りせず300キロ以内。 → 深:縦深配備をもって迎えよ。
虚:後方に空虚多し。 → 実:虚隙を奇襲せよ。

・戦時糧秣の加給品。清酒1人1回の定量は0.4L(約2合2勺)=飯盒のフタ約1杯分。駄馬1頭当たりの駄載重量80キログラム。

・上巻p.468に偵察機から師団戦闘司令所へ落とされた通信筒についての記載がある。筆者らが斥候任務にあたっていた際に、地上から友軍の偵察機へ敵軍の集結状況を知らせるために、通信紙や枯れ草を燃やしてみたものの煙が細いために、斥候の騎兵分隊員の褌を外させて燃やし白煙を上げさせた逸話も載っている。

・上巻p.489においては、陸軍上層部の治安戦略の欠如を指摘している。筆者は「以漢治漢」でなかったこと、吃飯(チイファン)対策が疎かで民心収攬に実効が上がらなかったとしている。

・アルカリ土壌である山西省は馬の飼料牧草として栄養価が高い「ルーサン」(和名「苜蓿うまごやし」)が特産だった(上巻p.504)。蹄鉄を装着するために使用する蹄釘(ていちょう)は、スウェーデン製が硬くて粘りがあり良質であり落鉄することがなかったが、日中戦争開戦後は輸入できなくなった(上巻p.55)。スウェーデンでは制作方法は極秘とされ工場見学できなかったが、1935年ごろから陸軍で良質の蹄鉄を国産化(大阪・狭山と立川)できるようになった。

・1943年6月に捕虜となった当時7歳の中国人男児。師団将兵と南下作戦に随行し、タイで終戦を迎えた。面倒を見ていた加地正隆軍医中尉が熊本へ連れ帰り養育し、1969年「光 俊明」として帰化した。

・1944年4月22日に起きた第二十七師団の一大凍傷事故について下巻p.110で触れられていた。第二十七師団の徴募区は東京付近で、当時は一号作戦に組み込まれていた。この事故は、後年一橋大学教授となる藤原彰氏の著書でも触れられている。大黄河甲橋に向かい、約100キロの道中を行軍中に豪雨に遭い、膝を没する泥濘(ぬかるみ)の中で、立ち往生し、数十名の兵が凍死し、多くの軍馬が斃れている。約2000名の将兵が凍傷にかかった。

・第二十七師団の凍死者を出した記述は下巻p.306にもあり、166名とある。期日は1944年5月14日夜とある。驢(ろば)や牛は多く死んだが、馬だけは死ななかった。馬を捨てて逃げられない山砲隊・歩兵砲隊・大行李の馭(ぎょ)兵の損害が多かった。

・師団司令部の戦時作戦用の携行品について下巻p.125で触れられている。すべての装備を自動貨車で携行するには約20両を要した。機密書類と戦時公用行李について抜粋すると以下の通りとなる。
機密書類 戦時諸法規・野戦諸勤務令等一式で102冊のほか、下記を保有。前述の藤原彰氏は戦死比率が最も高い陸士55期卒だが、以前は履修科目であった戦時諸法規を学ぶ将校養成教育を受けなかったと、著書で記していた。
参謀部 作戦計画・同命令・編制表・兵器表・情報・人馬弾薬の補充計画運用・地図・秘密保全・通信計画運用・機密作戦日誌等。
副官部 司令部関係の戦時名簿・師団の人馬現員表・同死傷表・功績・将兵の人事・人馬補充事務・司令部物件補給・俘虜戦利品・陣中日誌・事務用品等。
各部 師団全般に関する各部主管業務の計画・補給・運用等書類。
戦時公用行李 乙 機密書類用で、規格は、高さ23.5cm×幅32cm×長さ66cmの防錆鍍金の錠つき金属製。参謀部11・副官部5・兵器部6・経理部17・軍医部5・獣医部5・師団司令部合計49個。 甲 金櫃(きんき)用で、規格は乙と同じであるが、錠は、内外各2個つき、物資調達用の聯銀券(華北)・儲備(ちょび)券(華中・華南)・金銭糧秣被服関係の証票書類を収納。経理部20個。

・行軍について下巻p.155で触れられている。敵との接触が多い場合を戦備行軍といい、日々の行程が多く休憩が少なく昼夜連続となる行軍を強行軍、短時間に目的地へ到着するために速度を増し休憩を減らす行軍を急行軍と言う。敵との接触が少ない場合を旅次行軍と言う。10~15分休憩を含む標準の行軍速度は歩兵中隊で時速4キロとされた。1日の行程は諸兵連合の大部隊で約24キロとされた。敵軍の航空機(米軍P-51ムスタング)からの攻撃や夏季炎熱を避けるため夜行軍を行うことが多かった。

・馬匹の負担量について下巻p.234で触れられている。乗馬の場合は馬体重の約4分の1以内、駄馬の場合は約3分の1以内を適当とし、輓曳(ばんえい)量は約4分の3以内を限度とされた。日本馬の馬体重平均は約470キロ、大陸馬は平均約270キロ以下だった。強行軍による過労や栄養不良、馬蹄の摩耗欠損などが多発し、使役不能となる馬匹も多かった。

・糧秣不足について下巻p.259で触れられている。糧食の1日基本定量は次のとおり。人糧 1人…精米660グラム・精麦210グラム・生肉類210グラム・生野菜600グラム・食塩5グラム・粉醤油30グラム・梅干45グラムなど。 馬糧 1頭…大麦5250グラム・乾草4000グラム・食塩40グラム。 中国人馬夫・俘虜 穀粉600グラム・肉類40グラム・生野菜300グラム・豆類20グラム・食塩20グラム。 師団(人員約12000名・馬匹約4200頭・馬夫など約500名)1日の糧秣総量 人糧 小麦粉10440キロ(米・麦換算)・生肉類2520キロ・生野菜7200キロ。駄馬1頭の駄載量約80キロとして、小麦粉131頭分・生野菜約90頭分・牛約7頭分(豚約60頭分)。

・徴発、いわゆる強制買い上げ方式について下巻p.260-261で触れられている。住民が逃げて不在の地域では軍用徴発書(通称「買付証票」)が使用された。徴発に任じた主計将校が、軍用徴発書丙片に、徴発の年月日・物件の品目・数量・賠償金支払いの時間・場所などを記入捺印し、これを発見しやすい位置、家の入口の扉などに貼り付けて帰っていた。代金は、後で取りに来い、というわけであるが、作戦間、代金を取りに来る例は、ほとんどなかった。取りにきても、この代金は、華北では軍票の聯銀券、華中・華南では儲備券で支払われるのが常であり、時として作戦間に押収・鹵獲した中国の旧法幣などが使用された。聯銀券の通用する範囲の実情は日本軍の駐屯地域内や域外せいぜい4キロ四方程度の地域内だけで、山間部落では通用するはずはなかった。このため、徴発を受ける地域の住民にとっては、蝗(いなご)の大群の襲来を受けたほど、大変な被害を受けた。日本軍は現地では皇軍ならぬ蝗軍(こうぐん)と呼ばれた。藤原彰氏の後を継いだ一橋大学教授だった吉田裕氏の著書にも同様の記述がある。下巻p.420では、事実上の掠奪と記述している。

・下巻p.292によると、在中米軍(第一二航空隊)による対日本土爆撃の第一次は1944年6月16日である。成都から発進したB-29・B-24重爆撃機47機によって九州八幡製鉄所が空襲を受けた。1944年5月末ごろの航空兵力は在中米空軍556機・重慶(国民政府)空軍111機合計667機に対して、在中の第五航空軍は217機であり、戦力比は3:1だった。第五航空軍の実働は約150機程度あり、戦力比の実際は5:1だった。

・1944年6月25日に重慶軍事委員会が発令した桂林防守軍の編成の中に桂林城北部に配置された第一三一師がある。その師長は関維雍少将。1944年11月10日、桂林城内の風洞山・中山公園独秀峰が包囲され力尽き、風洞山の洞窟内で拳銃自殺を遂げたと、下巻p.411にある。

・要塞・堡塁・砲台の区分について下巻p.489に記されている。要塞とは、一定の要域を防護する目的をもって、永久築城を施した複数の陣地である。堡塁とは、永久(半永久・臨時を含む)築城を施し、重火器・火砲を混合配備した独立拠点式陣地である。砲台とは、永久(半永久・臨時を含む)築城の火砲陣地である。2個以上の砲台で構成した陣地が堡塁であり、2個以上の堡塁を含めたものが要塞となる。

・1945年3月11日のランソン捕虜虐殺事件について下巻p.541で触れられている。フランス領インドシナ(現在のベトナム)のランソン要塞を歩兵第二二五聯隊(主に熊本県出身者の兵で編成)が陥落させた際にフランス人の300名余の投降兵を収容したが、鎮目武治聯隊長(大佐)は小寺治郎平第一大隊長(少佐)と福田義夫第七中隊長(大尉)に対し、投降兵の処断を命じた。戦後、フランス軍軍法会議で約20名が戦犯容疑となりサイゴンチーホア刑務所に収容された。小寺少佐は1946年10月30日に同所内で自決。伊牟田義敏第四中隊長(大尉)は1948年11月21日にジュラル病院で病死。鎮目大佐・福田大尉・早川揮一大尉(歩二二五通信中隊長)・坂本順次大尉(歩二二七第八中隊長)は1951年3月19日に法務死についた。ほかにも投降兵射殺事件による戦犯法務死の記載がある。

・下巻p.621-629には付録第六として1944年6月30日調べの第三十七師団小隊長以上職員表が掲載されている。戦後、熊本で医師としてある程度知られた人物の名を見つけることができる。一人は光俊明氏を養育した加地正隆。師団司令部の防疫担当の軍医部員だった。階級は中尉。熊本市水道町交差点に面した加地ビルを覚えるいる向きもあると思うが、健康マラソン(天草パールマラソン大会を始めた)で長寿を目指して「遅いあなたが主役です」のキャッチフレーズで記憶に残る「熊本走ろう会」の会長を永年務めた。第5代の熊本県ラグビー協会長も務めた。もう一人は、三島功。患者収容隊本部の衛生部見習士官として名が確認できる。水俣市民病院や明水園に勤務したし、水俣病認定審査会の会長も務めた。水俣病患者認定には厳しい姿勢で臨んでいたために患者・支援者からの評価は低い人物だった。

士官主導と初年兵主導との戦記の違い
第三十七師団歩兵第二二五聯隊歩兵砲中隊初年兵戦友会が私家本として編集出版した『地獄の戦場参千粁』や同師団の山砲兵第三十七聯隊の初年兵だった松浦豊敏氏が書いた『越南ルート』と藤田豊著の『春訪れし大黄河』『夕日は赤しメナム河』とでは、同じ師団の戦記とはいえ、視点が大いに異なります。『地獄の戦場参千粁』や『越南ルート』では、行軍のつらさや隊内での人間関係に焦点が多く当てられています。糧秣不足と過労、厳しい気象環境で、戦病死が多い戦場でした。中には戦死扱いにされた例もあります。初年兵に理由もなく暴力をふるう古兵についてが敵軍よりも憎しみを込めて描かれています。将官を近くで見ていた若い士官だった藤田本では、将官に対して厳しい評価を下した記述が意外とありました。たとえば、行軍途中で師団長と参謀長だけのために毎日司令部付きの工兵が防空壕を掘らされたことなども明らかにしています。士官たちが残した記録は文字だけではなくスケッチが多いのが特長です。士官に求められる資質に西洋画技法があり、じっさい士官学校ではその教育がありましたので、戦地からスケッチを持ち帰られなかった場合でも当時の記憶から描き起こすことも可能だったかと思われます。

I go to Edo.

#長嶋茂雄 #立教大学 #長嶋一茂 #景浦将

昨日からの長嶋茂雄さん死去の報道に接していろんな思い出に浸った昭和世代は多いことと思います。小学生のときに、巨人ファンだった父のお伴で記録映画「燃える男 長嶋茂雄 栄光の背番号3」を熊本市新市街にあった東宝で見た記憶があります。大学生時代には長嶋茂雄さんの母校・立教大学へよく通っていましたので、さまざまな伝説を見聞していました。たとえば、東京六大学野球でホームランを打ったら大学から単位をもらえたとか、英作文の試験で「私は東京へ行った」を「I went to Tokyo.」ではなく「I go to Edo.」と書いたとか…。江戸時代の東京へ行くことをもって過去形とする人並み外れたその思考力は、むしろ天才の領域です。

そうした数々の伝説は、何かの出版物で読んだ覚えがあったので、書架にあった『St.Paul’sCampus』(立教大学の現役学生が編集出版していた雑誌)を久しぶりに手に取ってみました。残念ながら長嶋茂雄伝説の記述は同誌にはなく、代わりに野球関連の記事では、菊池桃子推しだった長嶋一茂くん(当時在学中)や立教大学から大阪タイガースに進んだ景浦将(1943年戦死)がプロ野球50周年記念切手になった話題を見つけました。それと、当時の雰囲気を伝える広告や学生のスタイルを懐かしく振り返ることができました。スタジャン、ソアラ…。

そうこう思うと、長嶋茂雄さんのおかげで昨日からけさにかけて多くの昭和世代が、しばし高度経済成長期やバブル期の日本へ行ってみたのだなと思いました。

https://www.rikkyo.ac.jp/news/2025/06/mknpps00000388fa.html