日別アーカイブ: 2025年5月10日

大仏造立を可能にした資源開発と輸送

佐藤信くまもと文学・歴史館長による講演「大仏開眼―聖武天皇が夢見たもの」を本日聴講してきました。佐藤館長による講演受講は3月に行われた「藤原広嗣の乱」以来でしたが、今回も興味深い内容でたいへん満足しました。
聖武天皇(724年即位)が在位した天平の時代は、長屋王の変(729年)や天然痘の流行(737年藤原四兄弟病没)、天候不順による不作、藤原広嗣の乱(740年)、度重なる遷都といった、政界ばかりか民衆を含めて国家・社会が混乱した時代でした。その混乱を「国家仏教」によって国家の安定と社会の平和を図ろうとした聖武天皇が発したのが、大仏造立の詔(743年)です。そして大仏が9年後に完成し大仏開眼供養会(752年)に行われます。その際はインドや唐の僧も参加する総勢1万人余の国際的イベントだったことが正倉院に保管された参加者名簿の文書で明らかになっています。
聖武天皇の思いとして大仏造立という国家プロジェクトを通じて諸氏族や民衆の結集を図ることにあったのですが、結果としては諸国から富を集中させる集権的な律令国家の基盤が整えられたという見方ができます。
私が大仏造立の過程で興味をもったのは、当時の資源開発とその輸送の点でした。古今東西を問わず帝国と称されるような覇権国家の歴史をひも解くと、必ず資源獲得とその輸送ルートの安全確保(騎兵や海軍)が重要になります。それらを可能にする技術力も必要となります。アジア・太平洋戦争期に日本軍が進出した地域・海路もだいたい資源絡みです(鉄、石炭、小麦・米、塩、ゴム、石油、ボーキサイト…)。中国が海洋進出に熱心なのも海上の資源輸入ルートを塞がれる恐怖心から。米国がウクライナの鉱物資源権益に熱心なのも同様。
では、東大寺の大仏に使われた500トンもの銅はどこからもたらされたのかということですが、これは現在の山口県美祢市にある長門国長登銅山において採鉱・製錬されたということがわかっています。これが確定したのも化学分析のおかげでつい40年ほど前のことです。それと渡来系の土器や渡来氏族の名が入った荷札の木簡も発見されたことが決め手になっています。銅山は国直轄の管理となっていて、銅は陸上は馬に運ばせますが、大半は船で海上輸送させます。
もう一つ、大仏造立が始まった頃までは国内では金を産出しないとされていましたが、大仏完成の3年前の749年に、聖武天皇から信任を受けていた陸奥国の守の百済王敬福から金900両(13kg)が金メッキ用に献上されました。これは現在の宮城県湧谷町の黄金山産金遺跡から採掘されたものですが、百済系渡来人の技術があって可能になったといえます。この金産出を聖武天皇は破格に喜んだ詔書を出します。その時代に天皇を軍事面で支えたのは大伴氏ですが、当時越中守だった大伴家持は「陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌」を詠みます(万葉集所収)。その長歌の中に「海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍…」の歌詞が詠み込まれています。資源と軍事のかかわりをここにも覚えることができます。
佐藤館長の講演は来月以降の今年度内に4回あります。引き続き受講する予定に入れていて楽しみです。
https://www.c-able.ne.jp/~naganobo/douzanato.html
https://tenpyou.jp/
https://www2.library.pref.kumamoto.jp/bunreki