月別アーカイブ: 2025年5月

つえーげんぞー

7か月前となる昨年10月に金沢駅で見かけた(写真パネルですが…)大の里は、ちょうど今の草野とみたいにまだマゲが結えないザンバラ頭状態。このたびの横綱昇進が、いかにスピード出世だったということが実感できます。🧐
石川県を訪ねると、街中で出合う55や8がラッキーナンバーに思えます。これから無限大(8)にイケイケ(55)の活躍が期待できそうです。😊
なお、金沢ゴーゴーカレースタジアムがホームのJ3ツエーゲン金沢のクラブ名は、金沢の方言「つえーげんぞー(強いんだぞ)」に由来するんだそうです。マスコットの名前もゲンゾー。🙂
大の里より1つ若い草野のシコ名には何がふさわしいか、地元で大喜利でもやってみれば。😅

死者の声を聴く

#やなせたかし展 #梯久美子 #やなせたかしの生涯 #戦争ミュージアム #熊本マンガアーツ #原哲夫 #北斗の拳 #ラオウ #ケンシロウ
熊本市現代美術館で現在開催中の「やなせたかし展」記念講演会を本日聴講してきました。講師は、やなせたかし氏と『詩とメルヘン』の編集に共にあたられた経験をお持ちの梯久美子さん。今年文春文庫から『やなせたかしの生涯』を出版された著者だけに、わずか定員100人の会場へ入れるか心配して訪ねましたが、幸い前から2列目の中央の席が空いていて、座ることができました。そしたら、すぐ後ろの席に地元紙の元論説主幹の高峰武氏がおられました。お会いしたのが、今年2月の『増補・新装版 企業の責任』出版記念フォーラム以来で、私からは先月訪ねた菊池恵楓園歴史資料館の展示のことなどを、講演の前に話したりしました。講演中は、私のような図体の者が前に座って視界を遮ってしまったのではと気になりました。
さて、梯さんの講演内容のほとんどは、上記の『やなせたかしの生涯』のエッセンスでしたが、講師としては「アンパンマン」原作者としてだけでなく、詩人や絵本作家としてのやなせたかし氏を評価すべきと強調されていたのが印象的でした。それと、誰に対しても怒らず責めない、やなせたかし氏の人格に対する強い信頼感が、講師の言葉から伝わりました。そのような人生の師に恵まれたことで、今日の梯さんの活躍も生まれてきたように思います。
やなせたかし氏が大切にする究極の自己犠牲の考えは、自身の戦争体験と弟の戦死の影響が大きいと言えます。
梯さんが昨年岩波新書から出した『戦争ミュージアム』のあとがきで、「戦争ミュージアムは、死者と出会うことで過去を知る場所であると私は考えている。過去を知ることは、いま私たちが立っている土台を知ることであり、そこからしか未来を始めることしかできない。」(p.210)と書いておられます。この言葉は、やなせたかし氏が戦死した弟の声を聴き続けてきた行為と重なる思いがしました。今回の「やなせたかし展」もある種の戦争ミュージアムを感じる展示でした。
一口に戦争ミュージアムといっても中には遺品や武器を展示しただけの単なる国威発揚の施設もあります(誤解がないように書き添えますが、『戦争ミュージアム』が取り上げた施設はまとなところだけです)。どのような死者の声を伝えようとしているミュージアムなのか、それらはやはり聴く耳をもった施設運営者の哲学によるところが大きいと思います。いずれにしても、『やなせたかしの生涯』と『戦争ミュージアム』を読んでいただければ、戦争の愚かさを伝える施設と単なる国威発揚の施設の区別はつくようになると思います。講演会後にサイン会の時間が設けられましたので、持参した上記2冊にめでたくサインを頂戴しました。感激です。ありがとうございました。
ところで、梯さんの経歴を知ると、私と同学年。共に熊本県生まれで父親が自衛官。北海道居住経験があります。私が先に北海道に渡り、梯さんはその3年後ぐらい。梯さんが北海道に渡った1年後の夏に私は熊本へ転出しますので、1年間だけ共に道民だったということがわかりました。
以下は、余談ですが、講演会の前に通りの向かい側にある「熊本マンガアーツ」で「北斗の拳」や「花の慶次」の原作者・原哲夫さんの作品展示もきょう観てきました。原さんの経歴を確認すると、生年月が梯さんと同じ、これまた私と同学年になります。「北斗の拳」では兄・ラオウと弟・ケンシロウという義兄弟関係がストーリーに登場します。こちらは柳瀬嵩・千尋兄弟とは異なり、一子相伝の北斗神拳伝承という目標が同じ者同士の関係です。原さんの場合はどういうきっかけがあって、この法定相続関係が複雑な兄弟設定の物語を創作したのでしょうか。未だにどんな内容の話なのか、理解できていません。

私は戦没者を顕彰しない

Facebookのタイムラインで「平和を願い戦没者を戦没者を慰霊顕彰する国会議員の会」(原文ママ)メンバー(以下、「本メンバー」と称す)が写った投稿を見かけました。戦没者を慰霊する気持ちは誰しもありますが、本メンバーと私とでは、認識の違いを感じる部分もありそうです。それについてメモを残してみます。
第一に、本メンバーと私とでは、「戦没者」の対象が異なるのだろうと思います。本メンバーが指す「戦没者」とは、靖国神社に祀られている日本の軍人・軍属の戦死者に限定されていると思われます(A級戦犯も合祀されていますが戦死者ではないのでここでは含めずに考察します)。私が考える「戦没者」とは、戦死・戦病死した軍人・軍属のみならず、戦争によって犠牲となった民間人を含みます(国籍や民族を問わず)。
第二に、本メンバーと私とでは、戦没者を「顕彰する」ことの是非について判断が異なるのだろうと思います。顕彰とは、特定の個人が成し遂げた功績や善行を世に広め、称賛する行為を指します。本メンバーは、戦闘に係ることやそれで命を落としたことを称賛に価すると考えているのでしょう。しかし、私は、いかなる理由があっても殺し・殺されることを称賛する気持ちになれません。繰り返しますが、死者を悼む気持ちはありますが、その死を称えたり、犠牲となられたことを感謝したりしようとは考えません。それよりも死者の無念を晴らすべく過ちに学び、それから得た知見を社会と共有したいと考えます。第一の「戦没者」の対象範囲が異なるので、便宜的に、本メンバーの考える「戦没者」を「(狭い意味での)戦没者」、私の考える「戦没者」を「(広い意味での)戦没者」として、以下のように違いを表してみました。
顕彰主体/対象 (狭い意味での)戦没者 (広い意味での)戦没者
本メンバー   顕彰する        ?
私       顕彰しない       顕彰しない
本メンバーの皆さんは、ひめゆり平和祈念資料館や徴用犠牲者慰霊碑を訪ねたことはあるのだろうかとも思います。

やなせたかしの生涯読後メモ

#やなせたかしの生涯 #梯久美子 #朝ドラあんぱん
今度の土曜日に熊本市現代美術館で梯久美子さんを講師に迎えて開かれる、やなせたかし展・開催記念講演会「光のほうへ ぼくは歩く――アンパンマンが生まれるまで」の聴講を楽しみにしています。とはいえ、会場定員は100人。やなせたかし氏が編集長をつとめた雑誌『詩とメルヘン』の編集者として身近で働き、同氏の生涯をよく知る梯さんの講演だけに果たして聴講可能か心配です。それもあって、本年3月に書き下ろしで文春文庫から出た『やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく』を読んでみました。
同書を読むと、「困ったときのやなせさん」と呼ばれるほど多彩な仕事をこなした同氏の稀有な才能に驚かされます。一方で、理不尽な軍隊生活の初期に何も考えずに過ごした経験や身近な人の死で受けた影響には、戦争体験をもつ世代の誰にでもある共通性を感じました。
今年は戦後80年ということで、新聞紙上では、さまざまな戦没者慰霊の式典の報道が取り上げられます。その中で、しばしば遺族が「今の平和は戦没者の犠牲の上にある」と語りますが、それには強い違和感を覚えます。今日まで平和が保たれたのは戦争の過ちを学んだ者たちによる非戦に向けた不断の努力があったことに他ならないと考えます。戦没者たちは平和構築のため犠牲となったのではなくあくまでも戦争遂行に加担するか、巻き込まれて落命したのであって、戦争が起こらなければ犠牲にならずに済んだ者たちです。つまり犠牲者を出さずに済むする社会にするため、どのような政治の道を選択すべきだったかを考え行動することが、慰霊ではないかと思います。
きょう放送の朝ドラ「あんぱん」では、主人公・朝田のぶと商船の一等機関士・若松次郎とのお見合いシーンが出てきました。ドラマでモデルとされる小松暢さんは、やなせたかし氏との前にも結婚歴がありました。暢さんは、大阪の高等女学校卒業後、しばらく東京で働いた後、21歳のときに最初の結婚をします。その相手が6歳上で、高知県出身の小松總一郎氏。日本郵船に勤務していて、一等機関士として海軍に召集され、終戦直後に病死されています。ひとり残された暢さんは、自活の道を求めて高知新聞社に入社しました。
海軍に入り、戦死したのは、やなせたかし氏の弟・柳瀬千尋氏です。1943年9月に京都帝大法学部を半年繰り上げ卒業し、海軍予備学生兵科三期を経て、翌年5月に駆逐艦「呉竹」の水測室(米潜水艦の水中音を探知するため船底に近い位置にある)に配属されます。千尋氏が乗った同艦は、1944年12月30日、バシー海峡で米潜水艦「レザーバック」の雷撃を受けて沈没、同氏も22歳で戦死します。やなせたかし氏は、1946年1月に中国・上海港から佐世保港へ復員、高知へ帰る途中、原爆で街が消えた広島の風景を目にしています(私の父方の伯父も外地から終戦の翌年に復員したら実家が1945年8月10日の松橋空襲で焼失していたのを知りました)。
私の母方の祖父が小松總一郎氏と同じく日本郵船勤務の船員でしたし、1944年1月に乗り組んでいた輸送船がバシー海峡で米潜水艦の雷撃を受け、柳瀬千尋氏と同様、船と共に海へ沈み戦死しています。きょう放送の朝ドラ「あんぱん」の最後には、兵事係から戦死公報を受け取る留守宅のシーンがありました。私の母が、自身の父の戦死の知らせが届いた日のことを手記に残していますが、悲報を受けたときの留守家族(当時の居宅は同年7月の熊本大空襲で焼失)のさまが、本日の「あんぱん」の映像と重なって見えました。
国内外に膨大な犠牲者を出さなくてもよい道がきっとあったはずなのに、どこから過ちは始まったのか、それを止めることはできなかったのか、今を生きる人間が考えなければならないのはそこです。

チャンゴから黙鼓子まで

先日水俣の相思社を訪ねた際、掲載写真のチャンゴという朝鮮半島由来の太鼓があるのを知りました。砂時計の形に桐の木をくり抜いた両面締めの楽器で、右面(馬の薄い革)を細い竹の棒で叩いて高音を出させ、左面(牛の厚い革)を左手か先端に丸いものが付いたバチで叩いて低音を出させます。宮廷音楽から、民衆の音楽である風物(プンムル)・農楽まで幅広く使われる伝統楽器だそうですが、左右それぞれの面を打って奏でるため、認知症予防に相当役立ちそうだなとは思いました。
一方、スペイン語で同音の「chango」というと、うるさいという意味があるくらい、確かに賑やかな音を出します。これは太鼓だから仕方がありません。私の地元では雷神のカミナリ太鼓に負けじと打ち鳴らす雨乞い太鼓というのがあって、これまた祭りの時期近くの夜になると練習の音が騒々しいものです。また鼓舞するという言葉があるくらい戦場と太鼓は密接な関係があります。地元のJリーグチームの胸スポが「陣太鼓」ということがありました。そういえば、「chango」と語感が近い英語の「chant」(チャント)とは、サッカーのゲーム中にサポーターが発する応援歌・応援コールのことを指しますが、一定のリズムと節を持った、祈りを捧げる様式を意味する古フランス語に由来する言葉だそうです。
そんなわけで、太鼓に何を私は連想するかというと、宗教的な祈りであったり、戦いや運動会・応援団的なものであったりします。そして私は総じてそれらを苦手に感じています。もっとも、これはあくまでも個人的な感覚ですから他人に共感を求めるものではありません。
もう一つ、太鼓と言えば、ドイツ人作家のギュンター・グラスの文学作品『ブリキの太鼓』を思い浮かべます。同作品を読んだのは、やがて半世紀前近くの中2時代の頃だったと思いますが、ナチス台頭により戦争へ向かう時代に少年期を迎えたグラスの半ば自伝的な小説です。永遠の3歳として成長を拒否して生きていく主人公・オスカルが大切にする、ブリキの太鼓がなんとも不気味な隠喩となっています。グラスと同じノーベル文学賞受賞者の大江健三郎の作風と勝手に重なりを覚えます。
さて、以下はロビン・ダンバーの『宗教の起源 私たちにはなぜ〈神〉が必要だったのか』(白揚社)がネタ本ですが、歴史的に見ても宗教や戦争が成立するには、共同体意識が生まれることが必要になります。ヒトの脳にエンドルフィンが出やすい、いわばトランス状態をもたらすことが重要になります。その前提条件としては、言語や出身地、学歴、趣味と興味、世界観、音楽の好み、ユーモアのセンスといった面で共通点が多いメンバー構成にすると、信頼感が強固になるものです。さらに、その効果を増させる儀式が重要となります。儀式の例としては、歌や踊り、抱擁、リズミカルなお辞儀、感情に訴える語り、会食が挙げられます。儀式に参加することでメンバー間がより向社会的に接したくなるように仕向けます。政治運動やビジネス活動にも同じことが言えるかと思います。
あと必要なことは、カリスマ指導者の存在です。これも歴史的に見ると、親を早くに亡くしていたり、恵まれない境遇で育ったりした人物がなる傾向があります。そうした人物には、人生の早い段階から多くを学び、逆境に立ち向かい嘲笑をはねのける精神的な強靭さが身についています。極端な例としては、精神的疾患を抱えたシャーマン的人物がその立場に就くこともあり、それがトランス状態に入りやすい素因になります。周囲からは狂人扱いされますが、案外人々はそうした人物を信じます。なぜかといえば、その他大勢に埋没しない、突出した存在を頼みにしたいと思う気持ちが人々にはあるからです。
チャンゴをきっかけにしてあれこれ思い付いて見ましたが、結局、太鼓持ちは自分に向かないということなのだろうと思います。つくづく熊本でいう偏屈な黙鼓子(もっこす)気質が染みついている気がします。ところで黙鼓子とは、「もくこし」と呼ばれる、仏教の儀式で使用される楽器のこと。特に、禅寺などでよく見られるそうですが、仏教の修行や礼拝において、心が静まり、法に集中するために用いられるとか。また、黙鼓を叩くことで、煩悩や欲望を浄化し、心の平静を得る効果があるとも言われているようです。これを当て字に使い始めた熊本の人も相当アイロニー豊かなモッコスさんだったのではないでしょうか。

GWは陶器市を楽しみました

先日初めて「波佐見陶器まつり」と「有田陶器市」へ行ってみました。イベント期間が同一ですし、臨時列車の有田陶器市号や有田駅~波佐見やきもの公園間のシャトルバスが出ているため、十分ハシゴして楽しめました。これがマイカーで行くとなると、会場周辺での駐車時間待ちに見舞われるので、そうはいかなかったと思います。私はもともと鑑賞オンリーですから帰りに荷物が増えることもありませんでしたが、もしも陶磁器を買い込むなら現地から発送する手があるので、断然公共交通機関を利用するのがお勧めだと感じました。
まず長崎県波佐見町(ここは長崎県で唯一海に面していない自治体)の波佐見焼に関心をもったのは、朝日新聞経済面の「けいざいプラス」欄で2023年12月に「波佐見焼 小さな町の奇跡」というタイトルの5回シリーズの記事によります。隣の有田のような高級品ではなく大衆向けのデザインで勝負する製品づくりや問屋を通さない流通への移行などを行い、この十数年でブランド化に成功したと言われます。作り手も客層も若い感じがします。「波佐見陶器まつり」期間中は、やきもの公園に窯元がまとまってテント出店しているため、目当ての焼き物を探しやすい形態となっています。それと、私は立ち寄りませんでしたが、高速の波佐見IC近くにも第2会場が設けられていました。
対する「有田陶器市」は今回が第121回を数えるだけあって伝統を誇っていますが、逆に波佐見焼を意識したデザインの店も見受けられました。こちらは1カ所集中方式ではなく、既存の店舗が通り沿いに軒を連ねているので、有田駅~上有田駅間だけでも約3kmを歩くこととなります。すべて見て回るとなると、時間と体力が要求されます。この通りに面した有田焼で最も名高いのは今右衛門窯だと思います。今右衛門陳列館は無料で入館できて当代の作品を堪能できます。今右衛門古陶磁美術館は入館料500円ですが、ここは製造工程や先代・先々代との作風比較が理解できます。別格です。
一方、期間中のグルメ出店は、波佐見も有田も共通していて、九州内のみならずさまざまな飲食が楽しめるようになっていました。私は、有田の通りに出店していた村岡総本舗の小城羊羹を買い求め、上有田駅内のカフェで佐賀牛しぐれ煮弁当を食べてみました。
ともかくどちらも町単独で地産経済を回しているわけですから大したものです。豊かさを感じてきました。

日本が潤うという理解のされ方もあるのでは

「増える中国人の“日本移住” なぜ日本が選ばれる?」と題した、昨夜放送のNHK「クローズアップ現代」をついつい視聴しました。番組では、受験競争が厳しい中国の教育環境を避けて子どもに日本の教育を受けさせたいと願う中国の富裕層が、「経営・管理」の在留資格を得て来日移住する傾向を重点的に取り上げていました。中国における大学入試は確かに過酷で難関大学の学費も日本のそれより高いですし、中国では認められない不動産の私的所有も可能で低コストの住みよい現状からすれば、そうした選択へ走る(run)のは納得できます。
この番組では取り上げられていませんでしたが、ちょうど1年前あたりから、中国から日本へ経営や高度人材職就労の在留資格を得て移住する「潤」という言葉に触れた報道を見かけるようになりました。「潤」の中国語の発音のローマ字表記は「run」であり、これは「(生活が)潤う」とともに「(国外に)逃げる」という意味に重なるといいます。
こうした「潤」と呼ばれる行動をとる人の中には、権威主義体制下の人権抑圧から逃れたいという思いをもった知識人もいます。
このあたりの事情を幅広く取材した舛友雄大著の『潤日(ルンリィー) 日本へ大脱出する中国人富裕層を追う』という書籍が今年、東洋経済新報社から出ていて、私も先日読んでみましたが、中国国内の体制に疑問を持つ富裕層や知識人の考え方や文化習慣を理解する助けになり有益です。生活自立した中国の中間層の移住は、同書のタイトルにもある通り、日本の国益になる効果が高く、日本が潤うことになる面が確実にあります。当然のことながら納税・保険料納付への貢献もあります。移住する側、受け入れる側双方にとってプラスの道を模索するべきだと思います。
特にこれから高齢となる就職氷河期世代の日本人は、このままでは先細りする現役世代に食わせてもらう立場ですから、なおのこと潤日歓迎であるべきではないかと思います。
https://www.nhk.jp/p/gendai/ts/R7Y6NGLJ6G/episode/te/B3LRKVJ872/
https://toyokeizai.net/list/video/WCgKzSDwhas

東京大空襲から80年

本日読了。
本書p.134-135に、ルメイが指揮した東京大空襲に加わった爆撃機搭乗員による次の回想が載っています。「上昇気流は気持ちの悪くなるにおいを一緒にもたらした。鼻について離れないにおいだった――焼かれた人間の肉のにおいだ。あとになって、乗組員たちのなかにはこのにおいのために息を詰まらせたり、吐いたりした者がいたという話を聴いた。気絶した者もいたらしい」。
ルメイ自身はいかに合理的に作戦を進めるかの一点に徹底し、下界で生きたまま火あぶりにされる人間を想像することはなかったようです。味方の損失をできるだけ少なくし、いかに敵を効率的に破壊するかだけを究めて、軍人の頂点に立つ人生を送りました。こういう軍人を重宝する面が軍隊の性分としてあることを忘れてはならないと思います。

メモ:初版p.262の11行目 (誤)陸相→(正)陸将

https://www.hayakawabooks.com/n/naa07a0c95200?sub_rt=share_pw&fbclid=IwY2xjawKOpEtleHRuA2FlbQIxMQBicmlkETFwY2hjT1VEU3VXVHNFRlVBAR7shPHJNUvD3Ch_2lRQHLZvRws9ABmVOVUG1Byt_TNgHxPkC5OeWL986HjhPA_aem_2Ppw5ny4rdUPQ7XXNU9nmw

政治家と政党の落ちぶれ方が凄い

某党の参院議員が、現在も過去の展示説明にもない自身の妄想を根拠にした発言を行いました。ある史実に基づいてさまざまな歴史観を抱くのは自由ですが、根拠自体がありもしないことで発言するのを厭わないとなれば、当人の認知能力つまり公人たる政治家の資質そのものが欠如していると思います。当該議員は、発言6日後の記者会見の場においてもなお発言の根拠とした展示説明を過去に見たとの主張は変えておらず、そのダメさ加減は相当に重症なようです。潔く政界から身を退いてもらいたいものです。
さらに言えば、こうした資質に欠ける人物しか抱え込めない政党の側にも問題があります。複数の法務局から自身の行為が人権侵犯と認定された事実をその後も否定し続けている破廉恥な前衆院議員がいましたが、その人物にも冒頭の参院議員同様、認知能力に問題ありと感じています。ところが、夏の参院選比例代表の党公認候補に据えられているということですから、この政党の落ちぶれ方も相当重症です。こうしたポンコツを集めてはたして内外の政治課題の解決に対処できるのか、私は大いに疑問です。
もっとも、わが地元にもポンコツもどきが市議なんぞにいて、3月に人権侵犯認定の前衆院議員を呼んで講演会やら宴席を設けているのですから、やれやれと嘆息するばかりです。
https://kumanichi.com/articles/1767951

大仏造立を可能にした資源開発と輸送

佐藤信くまもと文学・歴史館長による講演「大仏開眼―聖武天皇が夢見たもの」を本日聴講してきました。佐藤館長による講演受講は3月に行われた「藤原広嗣の乱」以来でしたが、今回も興味深い内容でたいへん満足しました。
聖武天皇(724年即位)が在位した天平の時代は、長屋王の変(729年)や天然痘の流行(737年藤原四兄弟病没)、天候不順による不作、藤原広嗣の乱(740年)、度重なる遷都といった、政界ばかりか民衆を含めて国家・社会が混乱した時代でした。その混乱を「国家仏教」によって国家の安定と社会の平和を図ろうとした聖武天皇が発したのが、大仏造立の詔(743年)です。そして大仏が9年後に完成し大仏開眼供養会(752年)に行われます。その際はインドや唐の僧も参加する総勢1万人余の国際的イベントだったことが正倉院に保管された参加者名簿の文書で明らかになっています。
聖武天皇の思いとして大仏造立という国家プロジェクトを通じて諸氏族や民衆の結集を図ることにあったのですが、結果としては諸国から富を集中させる集権的な律令国家の基盤が整えられたという見方ができます。
私が大仏造立の過程で興味をもったのは、当時の資源開発とその輸送の点でした。古今東西を問わず帝国と称されるような覇権国家の歴史をひも解くと、必ず資源獲得とその輸送ルートの安全確保(騎兵や海軍)が重要になります。それらを可能にする技術力も必要となります。アジア・太平洋戦争期に日本軍が進出した地域・海路もだいたい資源絡みです(鉄、石炭、小麦・米、塩、ゴム、石油、ボーキサイト…)。中国が海洋進出に熱心なのも海上の資源輸入ルートを塞がれる恐怖心から。米国がウクライナの鉱物資源権益に熱心なのも同様。
では、東大寺の大仏に使われた500トンもの銅はどこからもたらされたのかということですが、これは現在の山口県美祢市にある長門国長登銅山において採鉱・製錬されたということがわかっています。これが確定したのも化学分析のおかげでつい40年ほど前のことです。それと渡来系の土器や渡来氏族の名が入った荷札の木簡も発見されたことが決め手になっています。銅山は国直轄の管理となっていて、銅は陸上は馬に運ばせますが、大半は船で海上輸送させます。
もう一つ、大仏造立が始まった頃までは国内では金を産出しないとされていましたが、大仏完成の3年前の749年に、聖武天皇から信任を受けていた陸奥国の守の百済王敬福から金900両(13kg)が金メッキ用に献上されました。これは現在の宮城県湧谷町の黄金山産金遺跡から採掘されたものですが、百済系渡来人の技術があって可能になったといえます。この金産出を聖武天皇は破格に喜んだ詔書を出します。その時代に天皇を軍事面で支えたのは大伴氏ですが、当時越中守だった大伴家持は「陸奥国より金を出せる詔書を賀く歌」を詠みます(万葉集所収)。その長歌の中に「海行かば 水浸く屍 山行かば 草生す屍…」の歌詞が詠み込まれています。資源と軍事のかかわりをここにも覚えることができます。
佐藤館長の講演は来月以降の今年度内に4回あります。引き続き受講する予定に入れていて楽しみです。
https://www.c-able.ne.jp/~naganobo/douzanato.html
https://tenpyou.jp/
https://www2.library.pref.kumamoto.jp/bunreki

「大学生以下」発言の背景を知らないと危険な報道では?

なにやら姜尚中氏に問題がありそうな書きぶりの報道なので、実際に学校法人のホームページで公開されている一連の関係情報を読んでみました。
姜氏から「大学生以下」「失格だ」とパワハラ的(?)に言われた前監事は、監事就任にあたり、それまで務めていた当該学校法人の顧問弁護士を辞任することなく引き受けていたということがまず気になりました。法人の機関運営に詳しい方であれば、イロハのイにあたることですが、顧問の職務と監事の職務を同時に受けるということは、利益相反になります。つまり法律家の業務上の倫理に反する立場になります。
発端は、法人側からの前監事の顧問契約解除にありそうです。実際、その直後の決算年度の監査報告書で姜氏を標的とした攻撃が行われています。しかも、それ以前の監査ではまったく指摘してこなかった事項も取り上げています。時系列でみると、監事の立場を利用した個人的な不満の仕返しという印象を受けました。
報道にある第三者委員会の報告書が記述する姜氏の発言はその通りですが、そのネガティブな点を大きく取り上げるあまり、本来問題にしなければならない背景事情がこれでは読者が理解できないことになります。わざわざ興味を覚えて原資料にあたる私のような物好きな人はいないと思います。誤ったイメージを持たれかねない危なさを感じる記事だなと思いました。