月別アーカイブ: 2025年4月

カレンダー誤表記問題という名称でいいのか

昨日の投稿で、菊池恵楓園歴史資料館の展示では「龍田寮事件」と表記されている事件名が、同園入所者自治会が発行する見学のしおり内では「黒髪小学校通学拒否事件」と表記されている点に着目したのを触れました。繰り返しますが、事件の実相を鑑みると、私は自治会側の事件呼称が相応しいと考えます。親が入所者であってもハンセン病患者ではない児童たちが居住していた龍田寮で差別があったのではなく、通学を拒否した小学校のPTAや校区住民の側に不当な差別、人権侵犯があったとしか考えられないからです。
先月明るみになった、水俣病を感染症とした「宇城市カレンダー誤表記問題」にしても、果たして問題の本質を突いた名称なのか、疑問です。当該啓発文章を起案したのは同市の人権啓発課であり、市内全世帯に配布されるまでの間、同課職員全員はもちろん他課職員の目に触れる機会はあったといいます。水俣病の原因については熊本県内の小学5年生全員が現地で学ぶ常識ですが、それすら身に着いていない軽薄さを露呈してしまった、救いようがない恥ずかしい事件ともいえます。
たとえばの話、「宇城市の人権啓発は形ばかりだった露呈事件」とするなど、市長自らが教訓を絶対に忘れず継承できる適切な名称を定めるよう動くべきではないかと思います。水俣病事件の歴史においても、原因企業のチッソを守り患者を弾圧していたチッソ労働者の一部が、患者支援へ立ち上がった際に出した「恥宣言」があります。うっかりミス問題に矮小化せず、その人間性全体が問われた事件だという出直しの覚悟が求められていると思います。
https://kumanichi.com/articles/1758474

菊池恵楓園歴史資料館見学記

ロアッソ熊本vs.ジェフユナイテッド千葉の観戦の前に、初めて菊池恵楓園歴史資料館を訪ねてみました。場所は、熊本電鉄御代志駅の近くにあり、特に電車旅が好きな私には意外と気軽に行ける場所にあると感じました。電車旅がなぜ好きかというと、本を集中して読めるからです。ましてや地方私鉄の休日の電車ですから混んではいません。楽々座って読めます。逆にマイカーの運転ほど読書のじゃまになる無益な時間はありません。
上熊本駅から北熊本駅で乗り換えて御代志駅へ行くのですが、北熊本駅ではわざと目黒行き表示の青ガエル電車を見ることができます。昔の東急や地下鉄銀座線を走っていた電車が現役で走っているのを見られるのも感動モノです。
それで、本日携行した本は、斎藤健一郎・西上治・堀澤明生編『図録 行政法』(弘文堂、2700円+税、2025年)。今秋に専修大学大学院で受講する行政救済法の予習代わりに買ってみた本です。国家賠償請求訴訟においては、それこそハンセン病の元患者やその家族が勝訴した熊本地裁平成13年5月11日判決、熊本地裁令和元年6月28日判決が代表例ですから、資料館見学の予習にもなりました。
さて、資料館の方ですが、HPから事前予約して行ったのですが、ほぼ貸切状態で見学できました。まず11分か13分のガイダンス映像を見てから常設展示コーナー、企画展コーナーと進みます。常設展示で衝撃を受けたのは、2003年の黒川温泉ホテル宿泊拒否事件のおりに入所者へ匿名で送り付けられた差別と偏見に満ちた手紙です。昨年5月1日の環境相と水俣病患者団体との懇談会のマイクオフ事件があった後に、やはり心ない愚か者たちが匿名で患者団体へ中傷の電話をかけてきたことを思い出して憤りを禁じ得ませんでした。
ひとつ気になったのは、資料館では「龍田寮事件」と称し、恵楓園入所者自治会では「黒髪小学校通学拒否事件」と称している1953~1955年に起きた事件の名称のことです。この事件を題材にした中山節夫監督の映画「あつい壁」(1970年公開)でご存知の方もいるかと思いますが、恵楓園入所者を親にもつだけの患者でもない児童たちが、当時黒髪小学校区にある龍田寮に居住していて、同寮から黒髪小へ通学することを同小PTA・住民からの反対に遭い、拒否されたというものです。
通学に賛成したPTA・住民もいましたが、この不当な差別の歴史を忘れずに伝えていくためには、自治会が称する事件名の方がふさわしいと思いました。なお、国立ハンセン病資料館や厚生省のサイトでは、「黒髪小学校事件」と表記したものもあります。
企画展「戦争と医学 虹波臨床試験の深層」についてですが、当時の所長の関与や他の療養施設や七三一部隊での臨床試験の実態についての掘り下げ方が足りないように感じました。
それと事前に申請すれば園内の一部も見学できました。隔離政策の痕跡を示すものと同時に皇室と園とのかかわりを示す部分もマップや展示にもっと盛り込んでみると深みが増すのにとも思いました。自治会がまとめた年表には皇族の来訪歴が逐次載っていてそのことへの感謝の念の強さ・高さを覚えました。

「働正がのこしたもの」を鑑賞しました

宇城市の不知火美術館の近くできょうの午後に用向きがあるので、同館のサイトをのぞいたところ「九州派」の美術家として知られた働正さん(はたらき・ただし 1934-1996)の活動を回顧する企画展「働正がのこしたもの 海にねむる龍」を開催中と知り、さっそく用向きの前に鑑賞してきました。
働正さんは、後半生を大牟田市で送られましたが、宇城市不知火町松合の出身ということもあってか、同じく宇城市松橋町出身の松浦豊敏さんが熊本市内で営んでいた喫茶「カリガリ」へ生前よく来店されていました。なので私もカリガリで何度かお姿を見かけしたことはありました。それと、松浦さん、石牟礼道子さん、渡辺京二さんが編集する同人誌『暗河』(くらごう)の表紙や原稿挿入カットで、やはり「九州派」の菊畑茂久馬さんと共に働さんの作品が掲載され、よく目にしていたので、なじみ深さも勝手に覚えていました。『暗河』は、創刊号から終刊号まで私は全巻所蔵していますが、本展では働さんの作品が載った同誌の一部が出品されていました(ですが、出品目録には同誌を「機関紙」と表記してあり、これは明らかにミス)。
働さんのことについてはこれまで絵画作品しか知らなかったのですが、美術教育運動を通じて子どもたちとのかかわりがあったことや舞踏家の田中泯さんとの交流など知らなかった面もたどれて鑑賞したかいがありました(それにしても齢80の田中泯さん以外、上記に名前を挙げた方々はすべて鬼籍に入られたわけで、自分も歳とったと感じます…)。
そして、数は少ないながらも本館で絵画を所蔵しているとのことですから、また何かの機会に展示してもらえればなあと期待しています。
先日、ミロ展を観てきたばかりで、ミロの星座シリーズを堪能してきました。今回展示の働作品にも「星摘みNo.1」「星摘み」(ともに1986年制作)と、星をモチーフにした絵があって、働さんは星に何を託したのだろうかと想像してワクワクしました。

ブライトンつながり

先日の投稿で私の遠戚が米国コロラド州のブライトン(Brighton)に住んでいることを触れましたが、日本でブライトンと言えば、英国プレミアリーグに属するサッカークラブ、そう三苫薫選手がプレーしている「ブライトン・アンド・ホーヴ・アルビオンFC」を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。それで、地名の由来を下記にまとめてみました。
結論から言うと、コロラドのブライトンとイギリスのブライトンは、米国ニューヨークのブライトン・ビーチを間に挟んでつながっていました。
・コロラドの「ブライトン」
1881年、鉄道駅(鉄道の創始者ベラ・M・ヒューズにちなんでヒューズ駅)の開設に合わせて土地の分譲が行われました。名称は、測量技師D・F・カーマイケルの妻の故郷であるニューヨーク州ブライトン・ビーチに由来しています。駅ができたことで農作物の集積地となり、缶詰などの食品加工業が発達しました。
同地の日系人社会の歴史が下記のサイトに記されています。
https://history.weld.gov/County-150/People-of-Weld-County/Canning

・ニューヨークの「ブライトン・ビーチ」
1868年、ウィリアム・A・エンゲマンがこの地にリゾートを建設しました。1878年、ヘンリー・C・マーフィーと一団のビジネスマンが、イギリスのリゾート都市ブライトンを暗示してこのリゾートに「ブライトン・ビーチ」という名前を与えました。1970年代半ば、ソ連系移民、特にロシアとウクライナ出身のアシュケナージ系ユダヤ人にとって人気の居住地となりました。1991年のソ連崩壊後も旧ソ連出身の、主にロシア語を話す多くの移民が、居住地として選びました。これには、ジョージアやアゼルバイジャンなどのコーカサス地方からの移民の流入も含まれていました。2010年代初頭以降も、多くの中央アジア系移民も同地を定住地として選ぶようになりました。
・豪メルボルンの「ブライトン・ビーチ」 ※おまけ情報
健康に良いと信じられ、英国のブライトンで人気の海水浴文化を、1850年頃からメルボルンに流入した英国移民が広めたことに由来する説があります。メルボルンから11キロ南東にブライトン・ビーチがあります。

・イギリスの「ブライトン」
ブライトンは、イギリスのイングランド南東部に位置する都市です。行政上はイースト・サセックス州ブライトン・アンド・ホーヴに所属します。知名度・規模ともにイギリス有数の海浜リゾートです。LGBTコミュニティの多い街であり、しばしば「イギリスにおける同性愛者の首都」とも呼ばれています。ブライトンの語源は、古英語のBeorhthelmes tūn(ベオルテルムの農場)です。この名称は、Bristelmestune(1086年)、Brichtelmeston(1198年)、Brighthelmeston(1493年)、Brighthemston(1610年)、Brighthelmston(1816年)と変化しました。ブライトンという名称が一般的に使われるようになったのは19世紀初頭です。

パパイヤとイチジクの苗を定植

宇土市農業委員会の面々は、これまで地区持ち回りで休耕農地解消に取り組み、主にジャガイモの植え付け収穫をしていましたが、今年度からもっと長期的な耕作に挑戦することになりました。そこで選ばれた作物が、パパイヤとイチジクです。昨日はそれらの苗の定植作業に私も参加しました。イチジク生産の経験者の委員もいますので、作業自体はテキパキと短時間で済みました。周囲には獣害防止のための電気柵も張られました。今後はイチジクを覆うハウスも設置されます。

昨夏は多伎イチジクが特産の島根県の道の駅キララ多伎へも行きましたので、そのときの写真もアップします。生産者が増えれば、本市でも有望な品目になるかもしれません。

米国コロラド州ブライトンに宇城市出身の遠戚の名を冠した公園があります

『「世界の終わり」の地政学』(集英社)の著者のピーター・ゼイハン氏が、米国コロラド州から配信するビデオレターをよく視聴しています。同氏が語る世界の姿は参考になりますし、映像の背景に出てくる山間部の雪景色は美しいので、それにも魅了されます。そんなわけで、まだ訪ねたことはないコロラドには親近感を覚えます。

それともう一つ、私の母方の曽祖父の弟の子孫が、コロラド州アダムズ郡ブライトンにいます。アダムズ郡は州都デンバーに近い場所にあり2020年の人口は約52万人、郡庁はブライトンにあります。共に現在の宇城市不知火町小曽部出身の竹馬五太郎(=私の曽祖父の弟)・ヨシ夫婦は、長男が1912年(M45)の日本生まれ、次男が1917年(T6)・三男が1919年(T8)の米国生まれでしたので、1910年代半ばに米国に渡ったようです。竹馬五太郎・ヨシの息子・John M. Chikumaは、1925年(T14)1月13日にブライトン北部の農場で生まれ、2013年6月16日に亡くなりました。

Johnの生涯は次の通りです(出典:Published by Brighton Standard Blade from Jul. 3 to Aug. 1, 2013.)。1942年にフォート・ラプトン高校、1945年にコロラド大学、1949年にカンザスシティ大学を卒業し、歯科外科の博士号を取得しました。1949年、ニツケ・ビルに最初の歯科医院を開業しました。Johnはやはり日系2世のEmiと1950年2月4日に結婚しました。

朝鮮戦争中、Johnは兵役に就き、歯科医院を閉鎖しました。1953年にガンター空軍基地で訓練を受け、その後、テキサス州サンアントニオのブルック空軍基地に駐留し、大尉として2年間、米国空軍医療部隊の現役任務に就きました。キューバを訪問した際には、マイアミ空軍基地にも駐留していました。Johnは兵役中にゴルフを習い、そのプレーを楽しみました。 1955年に除隊となり、1956年に歯科医院を再開しました。1993年に引退するまで、サウス4番街75番地で開業しました。彼は常にEmiの活動や趣味を支援していました。Emiと買い物に行くのが大好きで、「他にはない贈り物」を見つける才能がありました。マツタケ狩り、金鋳造、庭いじり(庭は彼の誇りであり喜びでした)、ボウリング、ゴルフ、社交ダンス、ブリッジを楽しみ、学校の休みには家族と旅行に出かけました。ブライトン日系人協会、ブライトン・オプティミスト・クラブ、ブライトン・ロータリー・クラブ、ブライトン商工会議所、BJAAボウリング協会、アダムズ郡男子ゴルフ協会、マイルハイ・ゴルフクラブ、日系アメリカ人市民連盟などに積極的に参加していました。

Johnはほとんどの物事に独自のやり方を持っており、常にその方法と理由を喜んで伝えていました。彼は細部にまで深い感謝の念を抱き、その精神は彼の人生のあらゆる面に浸透していました。彼は素晴らしい料理人で、感謝祭やクリスマスの七面鳥はジューシーで、プライムリブは最高でした。家族や友人と分かち合うために、常に最高に美味しい果物や野菜を選ぶことを誇りにしていました。これは彼の家族には到底及ばない特別な才能でした。彼は農場で過ごすのが大好きで、定期的に農場へ足を運ぶことが大きな喜びでした。

以上が、Johnの評伝ですが、彼の妻・Emi Chikumaの名前を冠した公園・レクリエーション施設「Emi Chikuma Plaza & Splash Pad」がブライトンにはあります。

Emiの生涯も以下に紹介します(出典:coloradocommunitymedia.com by Steve Smith April 1, 2013)。

Emiは、2013年3月20日、転倒事故による負傷のため87歳で亡くなりました。63年間の結婚生活の後、最愛の夫John M. Chikuma医師と死別しました。Emiには5人の子供がいました。キャロリン(ダグ)・マツイさんとその息子ロスとコートニー、ゲイリーさんとその継娘アシュリーとその家族スティーブ、ケイリン、ノーラン・ハイナーマン、ジョーン(デイブ)・ヌープさんと息子カイルさんとその妻テイラーさんと娘ステイシー、ブルースとジョイス(クリス)・レインズさんとその息子イサオとエリーゼ、妹のカラキ・フミ(ススム)さんとその家族です。両親のカタギリ・タネミさんとカタギリ・ミヨさん、妹のイトウ・マミ(トム)さんは、Emiさんに先立たれました。1943年にブライトン高校を卒業し、コロラド大学薬学部に進学しました。彼女は人生を通して多くの興味深いことを学ぶのが大好きで、特にバイオリン、ハーモニカ、バスドラム、ソフトボール、バスケットボール、バレーボール、陸上競技、スキー、ゴルフ、ダンス、ボーリング、ガーデニング、松茸狩り、油絵、陶芸、工芸、ブリッジ、料理、クリスマスオーナメント作り、そして家族と地域の歴史研究家としての才能に恵まれていました。彼女は多くの団体で積極的に活動し、献身的な地域リーダーでもありました。ブライトン公園・レクリエーション・プログラム、優秀市民に贈られるリバティベル賞、優秀で献身的なボランティア活動に対してブライトン市から贈られる感謝の日賞、日系アメリカ人コミュニティへのボランティア活動に対して贈られる感謝の日賞、ブライトン市賞、リバーデール女性ゴルフ協会から30年間のチャーターメンバー賞など、数々の賞を受賞し、ブライトンで第6回フェスティバル・オブ・ライツ・パレードの共同グランドマーシャルも務めました。

彼女の情熱は、見る人に幸せをもたらすクリスマスツリーでした。彼女はオーナメントを作り、集めていました。彼女の多くの友人や家族は、旅先からオーナメントを持ち帰ったり、彼女のために作ったオーナメントを飾ったりして、彼女のツリーを偲んでいました。ツリーは、彼女の人生、分かち合う精神、多くの友人や家族、そして彼女を取り巻く愛の美しさを象徴していました。

以上が、Emiの評伝となりますが、コロラド州といえば、州都デンバーから車で南東に約4時間ほどの小さな町グラナダに、第二次世界大戦中に日系アメリカ人を強制的に収容したアマチ収容所(正式名称Granada War Relocation Center 通称Camp Amache)があったことにも触れておきたいと思います。全米に10 箇所あったうちの1つで、同収容所には1942年から1945年までの間に 1 万人以上が収容され、その3分の2は米国市民であったとされます。なお、当時のコロラド州知事であったラルフ・ローレンス・カーが人種差別的要素を否定する知事であり、比較的人道的な対処が行われたとも伝わっていますが、John M. ChikumaやEmi Katagiriが当時どのような境遇だったのか、私は情報を持っていません。同収容所跡は、1994 年、国の歴史登録財(National Register of Historic Places)に登録され、2006年には国定歴史建造物等(National Historic Landmark)に指定されました。同収容所跡は従来地元自治体グラナダが所有しており、地元高校教員が設立した、生徒ボランティアからなるアマチ保存会が管理運営しています。2022年3月18日、バイデン(Joe Biden)大統領は、アマチ収容所跡を国立公園(National Park)に指定する「アマチ国定史跡法(Amache National Historic Site Act)」(P.L.117-106)に署名しています。

結局のところ「Emi Chikuma Plaza & Splash Pad」(写真3点添付)や「Camp Amache」を訪ねる機会が私にある可能性は低いでしょうが、もし宇城市の関係者が本投稿に目を留めてくれたらいいなと思います。人権啓発事業の一つの素材になるかもしれません。

https://www.brightonco.gov/facilities/facility/details/Emi-Chikuma-Plaza-Splash-Pad-44

https://digital.asahi.com/articles/ASPCS42CZPCHUHBI008.html

https://kumanichi.com/articles/1747597

今秋の研修受講が決定

日本行政書士会連合会中央研修所が専修大学大学院と連携して実施する研修へ参加できることが決まりました。今回の研修テーマは、「高リスク到来社会に対応する行政救済法の研究」となっています。
研修が実施される時期は、10月後半から11月にかけてとなります。例年この時期はスポーツ競技の大会が多い時期で、しかもここ2年ばかりは九州での全国大会開催が集中して、某競技審判に関係する私にとって研修参加機会がありませんでした。それもあってたいへん嬉しく思っています。
写真は先日訪ねた神保町で撮影した専修大学の校舎。そういえば、専大通りに向かう前に、知る人ぞ知る芳賀書店の目立つ看板が視界に入り、不滅だなあと、いたく感心しました。

企業の新人研修テキストにこそ相応しい

4月16日の熊本日日新聞に、水俣病の原因企業チッソの事業子会社JNCの新入社員研修で、水俣病語り部の会会長の緒方正実さんが初めて講話を行ったとありました。これまでの同社の研修では、水俣市立水俣病資料館の見学はあっても、患者・被害者の講話を聴くことはなかったので、このこと自体は歓迎します。さらに言えばぜひとも水俣病研究会著『〈増補・新装版〉水俣病にたいする企業の責任−チッソの不法行為−』(石風社、3500円+税、2025年)を研修テキストに採用してもらいたいものだと思います。
同書は、水俣病第一次訴訟(提訴時の被告代表者は雅子さまの祖父・江頭豊、被告代理人弁護士は民事訴訟法の兼子一元東大教授の法律事務所所属)において患者・家族を勝訴に導いた新たな過失論「安全確保義務」の理論がどのようにして生まれたかを明らかにしています。これは、現在のさまざまな環境汚染に対する「予防原則」の考え方に連なる先駆をなすものです。今や企業の社会的な影響を考えれば、その事業活動に携わる社員が当然備えるべき教養ではないでしょうか。あえていえばJNCだけでなく、原発や半導体産業の社員にも読んでもらいたいと思います。
それと、なぜチッソが水俣病を引き起こしたのか、その企業体質にどのような問題があったのかを知るにも、本書は役に立ちます。当然のことながら被害を受けた住民は、企業の内部については知りません。チッソ創業者の野口遵が「労働者は牛馬と思え」と言ったのは有名ですが、労働災害が多発する工場で最多を記録した1951年ではほぼ2人に1人が被災するほど社内の安全性を無視して操業していたといいます。生産第一、利益第一で稼働させて安全教育も蔑ろにされていたことが本書で明らかにされています。社員を危険にさらしてもなんとも思わない幹部で占められていた企業だったからこそ、自社から海へ排水するメチル水銀が水俣病の原因と社内で気づいてからも秘密を通して危険を回避する対策をとりませんでした。じっさい水俣病の被害は社員も受けたわけです。社員を守れない企業は結果として企業自身へも不利益をもたらすことになります。
救いがあるとすれば、このチッソの関係者の中にも患者・家族に味方して裁判で証言した人やさまざまな資料を提供した人、理論構築の研究に参加した人がいたことです。本書を手に取って企業や行政に携わるなかでも人間性を失わない職業人生を送ってほしいと思います。
https://kumanichi.com/articles/1745646
https://sekifusha.com/11813

 

都内訪問記

2年ぶりの都内訪問、わずか1日半程度でしたが、充実した時間を過ごせましたのでメモしてみました。おかげでその間かなり歩きました。頭にも身体にもいい刺激を与えられましたので、認知症予防にも役立つ機会だったと思います。ちなみに4月15日は「遺言の日」なんだとか。
【上野編】
・国立科学博物館…特別展「古代DNA―日本人のきた道―」を見ました。ゲノムの分布状況を把握することでヒトのみならずイヌやイエネコの移動の歴史を知ることができるなんていうのは、私たち世代の学校教育にはなかったと、まず感慨深いです。渡来人がもたらした鉄器生産や馬の導入といった新技術なしには日本列島における政治の始まり国家形成もなかった。外国人ヘイトを繰り返すバカにホントは見てもらいたい展示です。
https://ancientdna2025.jp/
・東京都美術館…「ミロ展」を堪能してきました。ミロは、「芸術家とは、ほかの人々が沈黙するなかで何かを伝えるために声を上げる者であり、その声は無駄なものではなく、人々を助けるものであることを証明する義務を負う者である」と、述べています。ミロ作品のなかにはしばしば星が描かれています。どんな時代に生きる人の天空にも変わることのない星があり、その星はいつの時代に生きる人も見守っていて、人類が尊重しなければならない価値は超然として永遠に存在する象徴のように感じます。
https://miro2025.exhibit.jp/
【目白編】
・霞会館記念学習院ミュージアム…リニューアルオープン記念展「学習院コレクション 華族文化 美の玉手箱 芸術と伝統文化のパトロネージュ」を訪ねました。通常は日曜休館なのですが、当日は「オール学習院の集い」の開催日ということで開館していて幸いでした。せっかく独自のお宝コレクションが豊富にあるので、これからも惜しみなく公開して存在感を高めてほしいと期待しています。
https://www.gakushuin.ac.jp/univ/ua/
・馬術部厩舎…現在16頭の馬が学内で飼われています。生きものですから部員たち(みんな大学入学前は未経験者)の手によって毎日休まず餌やりが行われています。年間2000万円かかるということでした。たいへんさを感じました。
・法学部同窓会…初級・中級・上級で政治や法律にかかわる3択クイズが行われていました。全問正解者にはもれなく賞品が提供されていました。会場にはOBの岩田公雄氏がいました。
https://www.gakushuin-ouyukai.jp/?page_id=28155
https://www.gakushuin-ouyukai-branch.jp/hougakubu/archives/1803
・士業桜友会…士業会員による無料相談会が行われていました。学習院行政書士桜友会の唐沢博幸会長(東京会)にご挨拶してきました。
・福島桜友会…移動水族館の展示がありました。会津コシヒカリ2合のプレゼントがありました。
・剣道部…雨天ということで予定されていた野試合は中止となり、部員たちは武道場で稽古に励んでいました。
・大学新聞社同窓会(→これが都内訪問の用向き)…最年長は90歳超から現役学生まで集いました。いろいろ昔話が出てそれを聴くと、私も記憶がよみがえってくることがあって面白かったです。写真も暗室で現像していましたし、印刷も活版から写真植字への移行期でした。割り付けも手作業でしたが、卒業後、ある活動では役に立ちました。
https://www.gakushuin-ouyukai.jp/?page_id=28155
【新宿編】
・帰還者たちの記憶ミュージアム…企画展「おざわゆき『凍りの掌』原画展 シベリア抑留 記憶の底の青春」が開かれていました。新宿住友ビル33Fにあります。総務省委託の平和祈念展示資料館となっていて入館無料です。さきの大戦における、兵士、戦後強制抑留者および海外からの引揚者の労苦への理解を深める施設ということです。旧軍の加害性などについては一切触れていません。
https://www.heiwakinen.go.jp/
・スンガリー新宿三丁目店…ゼミでの同級生と食事をしました。同店はロシア料理が専門です。新宿東口本店へは大学生時代から何度か行ったことがありましたが、新宿三丁目店は初めてでした。私が注文した「スンガリーコース」は、以下の通り。マリノーブナヤ・ケタとブリヌイ(ロシア式フレッシュサーモンマリネのブリヌイクレープ包み)、グリヴィー・ヴ・スミターニェ(マッシュルームのつぼ焼きクリーム煮)、ボルシチ(赤かぶと肉野菜の旨みたっぷりスープ)、ゴルブッツィ(ウクライナ風ロールキャベツの煮込み焼き、トマトクリームソース仕立て)、フレープ(自家焼きライ麦パン)、チャイ(パラジャム、季節のジャムを添えたロシアンティー)。飲み物は、エストニア産の瓶ビール「ジュビリエイニス」にしました。ずいぶん久しぶりの味でしたが大満足でした。
http://www.sungari.jp/store_sanchome.php
https://www.ikemitsu.co.jp/product/jubiliejinis/
【神保町編】
・おどりば文庫…「BOOKTOWNじんぼう」のサイトで軍事カテゴリーの書店リストに載っている店舗が3つあり、それらを訪ねてみました。まず訪ねたのはこちらです。実際に訪ねてみたら「おどりば文庫」ではなく、「西秋書店」となっていて当日は営業していませんでした。
https://jimbou.info/bookstores/ab0202/
・軍学堂…訪ねた時間のときが開店前だったようで開いていませんでした。となりは三省堂書店があったところで新ビルを建設中でした。新しい三省堂は来年1月にオープン予定とありました。
https://jimbou.info/bookstores/ab0205/
https://www.gungakudo.com/
・文華堂書店…この日唯一開いていました。いずれも藤田豊著の第三十七師団戦記出版会(山中貞則会長)発行の『春訪れし大黄河』『夕日は赤しメナム河』を購入しました。ほかにも気になる古書がありましたので、また行ってみたいと考えています。
https://jimbou.info/bookstores/ab0140/
【有楽町編】
・+DA.YO.NE.GALLERY(プラスダヨネギャラリー)…中高大を通じての先輩である米原康正氏が運営するギャラリーの1つで阪急メンズ東京7Fにあります。さまざまなアーティストの作品が展示されています。当日は、夏目らんさんの作品を紹介していました。なお、米原氏が運営するギャラリーは原宿、表参道にもあります。機会があればそちらも訪ねてみるつもりです。
https://dayonegallery.com/
・まるごと高知…朝ドラの「あんぱん」の舞台・高知県のアンテナショップです。2Fがレストラン「TOSA DINING おきゃく」で、安芸市名物御膳を食してみました。ごはんとみそ汁はおかわりできるのでボリュームもありました。1Fは特産品ショップの「とさ市」、B1は土佐酒ショップの「とさ蔵」となっています。「とさ蔵」では、高知けいばのポストカードが無料でもらえました。
https://www.marugotokochi.com/

 

専門知を無視するバカに行政は任せられない

添付のグラフ画像は、TSMC量産開始前後のPFAS汚染の推移を示した熊本県の資料です。
一見してTSMC量産開始とPFAS濃度上昇との因果関係が疑われます。
このデータについて熊本県環境モニタリング委員会の専門家は「因果関係あり」との認識ですが、驚くことに熊本県(菊陽町も)の担当者は「因果関係不明」との説明を繰り返しています。
これほどあからさまに科学データを無視するのは致命的に無知であり、破廉恥だと思います。
つまり因果関係不明ということで、なんら水質汚染を防ぐ手立てをとらないと、熊本県は宣言しているのと同じです。はっきりいってこういうバカどもに行政を任せていて良いのでしょうか。
詳しくは、4月9日の朝日新聞熊本地域面で報じられています。
https://www.asahi.com/articles/AST484VSRT48TLVB003M.html

入学式参加雑感

4月9日、地元の小学校と中学校の入学式に、それぞれ午前と午後参加しました。入学式は卒業式と比べて式典時間が短いのが通常です。集中力がない小学1年の新入生ならなおさらのことで、卒業式の3分の1程度、30分余りで終了します。今回初めての経験として卒業式においては教育委員会告辞がペーパー配布でしたが、来賓祝辞もペーパー配布となり、さらに簡素化されました。これはたいへんいい試みだと歓迎しています。
一方、今回の小学校入学式では、先月の小学校卒業式と同様、市議(※1)が来賓紹介後に式途中で退席しました。全体で30分余りの式典において閉式まで残り10分もかからない時間帯にただひとりわざわざ退席するのです。そんなことなら最初から出て来るなと思いますし、忙しそうな政治家センセイとしての大物感を出したいと、ひょっとして本人はカン違いしているのではないかと思います。他の列席者からすれば、その行動に当該人物の小物ぶりが印象付けられます。まぁ、こちらとしては、地域内での人間観察のいい機会となる楽しみもあります。
中学校の入学式で目新しかったのは、今月から導入された市立中学校標準服を着用した新入生もかなりいたことでした。ブレザーにネクタイかリボン、女子はスカートではなしにスラックス着用も可能です。選択の幅が広がったのはいいことだと思います。従来の標準服(制服)は、51年前に入学した私の時代と同じ詰襟学生服(男子)・セーラー服(女子)のタイプです。式場内の在校生(2年生・3年生)で新標準服に身を包んだ生徒は見当たりませんでした。市の社会福祉協議会が不用な制服の寄付を募り安価で販売する「制服バンク」事業を行っています。こうした事業はたいへんいいことですが、もっと根本的なことをいえば、私服通学も可とする道もあっていいのではと思います。
式の運営については、先月の卒業式ではペーパー配布だった教育委員会告辞が登壇復活し、逆に卒業式では登壇だった来賓祝辞がペーパー配布となりました。小学校と同じくどちらも登壇なしで良さそうなものだがと思いました。特に教育長が何かあったら学校へ言ってくださいと述べていましたが、せっかく登壇するのであれば(学校に言っても埒あかないこともあるので)教育委員会へも言ってくださいと呼びかけてもいいのではと思いました。
最後に、ここでも全体で45分程度の式で残り10分足らずの時間帯にただひとり途中退席の市議(※2)がいました。この人物は先月の小学校卒業式でも上記の市議(※1)と連れ立って途中退席していました。ということで、最初から出てくんなという印象の悪い市議が(※1と※2の)2人います。
https://www.city.uto.lg.jp/article/view/1193/8595.html
http://www.utoshakyou.jp/business14.html

予防原則の基本を守れ

熊本県においてはTSMC稼働後にこれまで未検出のPFASが下流河川から検出されるなど、水質汚染への対応が問題になっています。このことに県民の生命と財産を守る責務がある知事は「住民生活の不安をあおることをしてはいけない」などと4月4日の会見で述べ、いったいどっちの方向を見て仕事をしているのか、非常にフシギな方だと感じました。
そんななか、4月7日、NHKの国会中継の参院決算委員会で、半導体企業によるPFAS(有機フッ素化合物)汚染の実態調査と規制強化の必要が議論されているのを偶然視聴しました。質問議員の事務所ホームページにパネル1~4の有益な資料もアップされていましたので、画像も借用添付してみました。
議論のポイントとして、欧州連合(EU)ではすでに「安全性が確認されていない物質は規制する」という予防原則に立ち、PFASの規制を強化していることが挙げられます。しかし、日本では、ことに経産省が「危険性が明らかでないものは規制しない」という立場をとっていて、水俣病の被害拡大に加担した前身の通産省と同じ過ちを重ねようとしています。
いわば国民・県民を人体実験の危険にさらしているわけです。国にしても熊本県にしてもトップの無能ぶりには危険性を覚えました。トップの安全性が確認されるまでその任に留まるのは願い下げです。
なお、質問した参院議員のプロフィールを拝見すると、鳥取大学農学部1982年卒とありました。同じ大学学部を1990年に卒業した人権侵犯歴のある前衆院議員が某党から今夏の参院選に出るみたいですが、政党にも公認候補の選考にあたって予防原則を働かしたらどうだいと感じてしまいました。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik25/2025-04-08/2025040802_02_0.html

『核心・〈水俣病〉事件史』読書メモ

全219ページからなる富樫貞夫著『核心・〈水俣病〉事件史』(石風社、2500円+税、2025年)を、4月6日に行われたJ2第8節ロアッソ熊本vs.カターレ富山のゲーム観戦のため向かったスタジアムとの往復の時間に読了しました。富樫先生からはご著書刊行のおりにいつも頂戴しているので、文章を読みなれている点もあるかもしれませんが、論理明快、切れ味が爽快でいて人物描写も的確、つまりは読者が理解できやすい読みやすさを覚えます。実際、本書は帯にも謳っている通り「水俣病事件入門決定版」に値すると思いました。
富樫先生は、熊本大学で民事訴訟法を教授されていたのですが、私はその分野での接点はありません。専門は他にあったとしても、水俣病事件の通史を書かせれば、先生の右に出る人を私は知りません。そして、今回本書を読んで、先生を法律家という狭い枠に捉われて見るのは間違いで、実は政治学者あるいは社会思想家に近い視座を評価すべきではと思うようになりました。
本書内の記述からそれを感じる箇所を下記に引用してみます。
p.75「本来、水俣病の原因を究明し、被害の拡大を防止すべき第一次的責任が、原因者であるチッソにあることはいうまでもない。しかし、通常、疑いをかけられた原因企業が自分の責任で原因を究明することは、まず期待できない。チッソの行動が示しているように、加害企業は、例外なく、判決などで断罪されるまで原因者であることを否認し、その間、廃棄物を出しながら操業をつづける。これは、近代日本の公害の原点といわれる足尾鉱毒事件以来一貫して変わらぬ企業の行動様式である。そうだとすれば、被害の拡大防止にあたって行政に課せられた責任は大きいといわなければならない。」
p.235「長い水俣病の歴史を通じて、チッソの責任とともに問われているのは、行政の責任である。水俣病の発生や拡大を防止するために、国はいったいその責務を果たしたといえるのかという問題だ。」
p.237「水俣病の歴史を通じて問われてきたのは、日本という国家のあり方の問題であり、人民に対する国家の責務は何かという次元の問題だからだ。」
p.244「水俣病事件は、日本の近代化が生み出したものであり、今日の経済大国日本のもうひとつの顔である。私たちは、この巨大公害事件の歴史をたどることによって、どのような犠牲のうえに現在の日本が存在し得ているかを垣間見ることができるはずだ。」
本書には学生時代に富樫先生の研究室に入り浸って「門前の小僧」を自任する朝日新聞水俣支局長の今村建二さんによるインタビューも載っていて、民事訴訟法を専攻する研究者の道へ進んだいきさつを初めて知りました。それによると、大学卒業に際して最初は企業の採用試験に臨んでいたそうですが、面接で重役にいつもかみついてしまうため企業への就職は断念し、親しい刑事訴訟法の先生に相談したそうです。しかし、相談を受けたその先生が「刑事訴訟法では飯が食えない」からと、民事訴訟法の先生を紹介されてそこの助手に雇ってもらったということでした。

『ルポ軍事優先社会』読書メモ

吉田敏浩著『ルポ軍事優先社会――暮らしの中の「戦争準備」』(岩波新書、960円+税、2025年)は、いかに我が国の安全保障政策が見当違いのであるかを理解する上で有益な情報が満載です。もっと言えば、米国に日本の主権と巨額の公金を献上し、自国民に対する棄民政策が進行しているのを知らずにいて、あまりにもおめでたいよねという警告の書だと思います。
国民一人ひとりもそうなのですが、対等である国の暴走を止めるよう地方自治体にもしっかりしろと言いたい気持ちにさせられます。
本書の内容の一部は、2024年4月~7月号の雑誌『世界』に掲載されていたので、すでに読んではいたのですが、改めてまとめて読んで良かったと思いました。つべこべ言わずに多くの方に読んでほしいと思います。
添付画像は、私が住む宇土市の広報2025年4月号p.12に掲載の「自衛隊に提供する対象者情報の除外届受付」のお知らせ。もともと自治体には自衛隊への個人情報提供の義務はないのですが、多くの自治体が本人の同意なく提供しています。この除外届すら同市では2年前からようやく制度化されました。詳しくは、本書「第2章 徴兵制はよみがえるのか 自治体が自衛隊に若者名簿を提供」を参照してみるといいです。
「第5章 対米従属の象徴・オスプレイ 危険な「欠陥機」を受け入れる唯一の国」では、有明海の海苔養殖への悪影響もさることながら、飛行の際に発生する低周波音も相当なものだと知りました。本書とは別の話になりますが、現在水俣の山間部で陸上型風力発電設置の計画があると聞いていましたので、これは考えものだなという印象を持ちました。風力発電機はせめて海上型でしか認めない方向であるべきではと思います。低周波音による被害については以下を参照ください。
https://www.soumu.go.jp/kouchoi/knowledge/faq/main2.q14.f_qanda_16.html

対応の中身を言わないとはだらしねえ

昨日(4月5日)の地元紙面に載っていた、TSMC工場量産開始後のPFAS上昇についての熊本県知事の定例記者会見での発言が、ずいぶんとのんきなものではっきり言って残念でした。口では、「専門家の意見を踏まえて対応する」と述べていますが、その中身が判然としません。
この知事の会見より前の3月26日に開かれた、熊本県環境モニタリング委員会において委員長は「(PFASを)少しでも減らす努力をすることが大事だ」「十分すぎるぐらい下げるのが良い」「何らかの企業努力を促すよう行政が求めていくべき」などと述べたとされます。
ところが、会見での知事は、委員会で出た「(PFBSやPFBAは)毒性が低い」「諸外国の飲料水目標値と比較しても低い」という見解だけをつまみ食いする形で、これが「専門家」の評価の大勢という印象操作を行い、TSMCへ物申すという姿勢はまったく見せていないようです。
PFASによる健康被害は、日本人だろうが台湾人だろうがTSMC関係者だろうがそうでなかろうが人を選びません。今回これまで未検出だった物質も出てきたわけで、TSMC操業開始との因果関係は濃厚だと思います。第3工場進出までは音沙汰なしというのではあまりにもだらしないと思います。コチョウラン回収で見せたような素早いフットワークを期待しています。

あんぱんで目を洗う

銀座木村家によると、昨日4月4日は「あんぱんの日」なのだそうです。今から150年前の1875年(明治8年)4月4日に創業者木村安兵衛が明治天皇へ「桜あんぱん」を献上したことを記念したからだと、そのサイトに由来が記してありました。NHK朝ドラの「あんぱん」が今週放送スタートしたこともあって、パンが人々へもたらす幸せ感に心が癒されます。
しかし、日本の近代化と製パン業・製菓業などの大企業の発展過程を見てみると、軍部との結びつきが強固だったことが意外と知られていません。平賀緑著『食べものから学ぶ現代社会 私たちを動かす資本主義のカラクリ』(岩波ジュニア新書)を読むと、日本では1885年ごろから機械製粉の小麦粉輸入が急増し、その主要商品は軍用パンやビスケットだったとされています。現在まで続く製パン業・製菓業の大企業の多くが帝国日本の海外進出に伴って誕生しています。具体的には、明治製糖(1906年)、森永商店(1910年)、味の素(1907年 創業時は鈴木製薬所)、日清豆粕製造(1907年 現・日清オイリオグループ)など。
しかも、日本の製粉業や製糖業、製油業(植物油)のみならず、原料を輸入する商社は、財閥系大企業による寡占でしたし、近代化を急ぐ政府はこれら新旧財閥を保護してきました。戦後の食料システムも基本的に同じです。現在の世界人口のカロリー摂取の半分以上は、小麦、コメ、トウモロコシという、たった3種類の作物で占められていますが、巨大企業と取引のマネーゲーム化の下で生産加工流通されているのが実情です。
それはともかく、朝ドラの「あんぱん」は、花粉症の時期ということもありますが、格好の洗眼剤となっています。主人公の朝田のぶちゃんが、長期の海外出張に赴く商社マンの父を駅まで見送って、その父が帰郷の最中に亡くなったという知らせが届く展開は、戦時中の私の母が体験した父親(私にとっては祖父)との思い出と重なり切なく思いました。
私の母の両親(私の母方の祖父母)は1930年に結婚、神戸港に近い西宮市甲風園に居を構え暮らしていましたが、開戦後、商船会社勤務の祖父は日本と南方を結ぶ軍の輸送傭船に乗務することもあって、家族は熊本市国府に留守宅を移すこととなりました。母と生前の祖父との別れは1943年の秋でした。1週間ほどの休暇を留守宅で家族と過ごしたのち、幼い子どもたち(私の母たち)だけで戦地に戻る父親を国府電停で見送ったといいます。祖父は1944年1月15日にフィリピン・マニラから台湾・基隆への途上バシー海峡で最期を迎えたので遺骨も家族の元へは帰ってきませんでした。
当時、国府の自宅は現在の宇土内科胃腸科医院の付近にありました。電車通り沿いに宇土屋旅館とその旅館の貸家数軒が並んでおり、その貸家の一軒で母たちは暮らしていました。1945年7月1日の熊本大空襲で一帯は焼失、多くの犠牲者が出ます。母たちは、その半月前に同地から祖父の実家がある不知火町へ移ったために、その難は逃れましたが、続く同月27日の松橋空襲を間近で体験しています。命を失う危険は当時だれにでもあったのです。
写真は現在の国府電停(2025年3月21日撮影)と基隆港(2018年7月28日撮影)。

『ルポ国威発揚』読書メモ

辻田真佐憲著の『ルポ国威発揚 「再プロパガンダ化」する世界を歩く』(中央公論新社、2400円+税、2024年)を読むと、国内外の約35カ所もの愛国スポットが紹介されています。私はそのいずれの地も訪ねたことがなかっただけに、新しい世界があるものだと視野が広がりました。なかにはサブカルチャー要素を取り入れた萌えミニタリー的な珍妙な場所もあり、それははたして戦没者慰霊として相応しいのかと疑問に思いましたが、管理関係者の声は、いたって大真面目であり、これはこれで愛国岩盤層の信念の逞しさを感じました。
著者によれば、国威発揚には「偉大さをつくる」「われわれをつくる」「敵をつくる」「永遠をつくる」「自発性をつくる」という5つの要素が存在するといいます。本書を読んで私なら実際に取材地を訪ねてみたいかというと、そこまでは思いませんでしたが、何ものかを伝えたいという熱意は感じました。この使命感的な部分は、確かな歴史研究の上に成り立つ戦争ミュージアムにも重要なことだと考えます。
せっかくですから、本書の取材地で熊本県と縁のあるところを列記します。
・台湾高雄市鳳山区「紅毛港保安堂」…日本海軍の第三八哨戒艇(旧駆逐艦「蓬」よもぎ)の熊本出身の艇長・高田又男海軍大尉以下145名の戦没乗組員を祀る廟であり、高田艇長は神(海府大元帥)とされている。この廟には安倍晋三元首相像や安倍氏揮毫の石碑もあり、安倍支持者の聖地ともなっている。
・岐阜護国神社内「青年日本の歌史料館」…「青年日本の歌」とは、1932年に五・一五事件を引き起こした海軍青年将校のひとり、三上卓が事件の2年前に作詞した右翼民族派にとって自らの気概を示す歌(そのため「昭和維新の歌」とも呼ばれる)なのだそうだ。史料館は三上の遺品を保存する修養施設「大夢舘」(岐阜市)と護国神社が共同で設立した一般財団法人「昭和維新顕彰財団」によって運営されており2023年にオープンした。大夢舘の現舘主である鈴木田遵澄氏(取材時35歳)は熊本県在住。20歳のときに現役自衛官ながら国会議事堂で割腹自殺をはかり逮捕された過去を持つ。そのときに決起文に「青年日本の歌」の一節を引用していたとされる。
・人吉市桃李温泉いわくらの杜内「高木惣吉記念館」…アジア・太平洋戦争末期に米内光政海軍大臣をサポートして終戦工作に奔走した人吉市出身の高木惣吉海軍少将の遺品や資料を収めた記念館で2010年にオープンした。同館がある温泉旅館は高木の親族が経営している。さらに記念館は上記の紅毛港保安堂と連携している。
・球磨郡湯前町里宮神社内「軽巡洋艦球磨記念館」…日本海軍には艦名にゆかりのある神社より守護神を迎える伝統があり、軽巡洋艦球磨の艦内神社には市房山神宮の祭神が祀られていた。そのことが2015年に明らかになり、市房山神宮の里宮である地に2018年記念館は建った。展示内容は球磨に関するものより海軍全体に関するものあるいは「艦これ」関連のものがあり、カオス的らしい。本書では触れてないが、昨年7月に「艦これグッズ盗難事件があり一時閉鎖されたことがあった(その後盗品は戻り再開)。

頑固なのか単なる惰性か

わが人生のなかで7割方を占めて続けている習慣について2つばかり披露してみたいと思います。いずれもスタート日が後記の通り確定日付となっていまして、それらの習慣が続くというのは、頑固さによるものなのか、単なる惰性によるものなのか、これは自分でも定まっていません。他人からはきっちりしていると誤解されますが、自分ではけっこう怠け者だと思っています。手を抜ける部分は極力手を抜いて楽な暮らしをしたいと日々過ごしています。
さて、習慣の一つ目は、読書カードの作成です。きっかけは、1981年6月21日に読み終えた梅棹忠夫著の『知的生産の技術』(岩波新書)による影響です。同書で紹介されている「京大カード」(情報カードとも称される)に読んだ本の著者名・書名・発行年月日・出版社名・ページ数・入手先名・販売正価・入手価格・読了日・処分先・処分価格を記入してファイリングしています。カードは本1冊につき1枚作成します。法律専門書などは何回か読み直すことがありますが、カードを作成するのは1回限りです。したがって、ここ44年間については年間何冊の本を読んだのかも正確に把握できています。
問題は、B6サイズ横の「京大カード」やそれをファイリングできるバインダーの製品が割と大きな老舗の文房具店へ行かないと手に入らないことです。カードはネット上の情報によると、百均店で売っているともありますが、近隣店舗の売り場では見かけません。実際、読書メモを残したいときは、すべてデジタル情報で保管していますので、上記の製品が手に入らなくなったら、それはそれでしょうがないかなと思います。
梅棹忠夫さん(1920-2010年)についての思い出も言及すると、その姿を一度だけ拝見したことがあります。1990年8月に国立民族学博物館を訪問したときに当時館長の梅棹さんが側近を伴って館内に入られたシーンでした。その感激も習慣の継続に寄与しているのかもしれません。
そして、長く続いている習慣の二つ目は、バナナを食べないことです。このきっかけは、1983年11月5日に社会学者の鶴見和子さん(1918-2006年)の講演を聴いたあとの懇談会で、和子さんが父方の従弟・鶴見良行さん(1926-1994年)の『バナナと日本人』(岩波新書)を読んでからバナナを食べないと決めたと話されたことに触発されたからです。同書は、フィリピン産バナナの栽培から日本への流通を通じて多国籍企業によって開発途上国の人々が受ける苦しみを描いています。バナナ栽培に危険な農薬が大量に使用されていることも明らかにされました。
鶴見和子さんは、色川大吉さんを団長とする不知火海総合学術調査団の一員として『水俣の啓示』(筑摩書房)の執筆にかかわられていることもあり、水俣病患者が受けた苦しみをフィリピンのバナナ農園労働者のそれと重ねられて、バナナを食べないと決意されたと記憶しています。
私は、『バナナと日本人』を北区赤羽図書館から借りて1983年1月26日に読了してはいましたが、そこまで考えが及ぶまでは至っていませんでした。鶴見和子さんの講演を聴こうと思ったのは、『水俣の啓示』(上巻:芳林堂書店池袋西口店で購入し1983年8月19日読了、下巻:福岡金文堂本店で購入し1983年8月20日読了)を読んでお名前を承知していたので会ってみたいと思ったからでした。しかし、同書を読んで講演会に参加したことを懇談会で和子さんに話したら、たいへん喜んでいただいた面映ゆさがあって、それで私も調子に乗って以来バナナを食べない暮らしを始めました。
ちなみに、『バナナと日本人』の著者の鶴見良行さん自身は、1995年に「(自分は)バナナを買って食べる。現場を歩いてものを書く調査マンは、そのモノにつきあうのが職務上の義理だからであり、また、自分は上に立って人に指令を与えるような形の(社会)運動はあまり好きではない。自分の提供した情報によって読者が判断すべきであり、それはある種の民主主義の問題だ」と別の著作『東南アジアを知る─私の方法』(岩波新書、未読)で書いておられるようです。つまりは、読者それぞれが自分の頭で考えろというワケです。
おかげでたまに胃がん検診でバナナ味のバリウムを飲み込むたびにこの習慣の始まりを思い出します。